駆け足の冬
……何か変?
レオナルドの冬の移動に付いて行くとは言ったが、今年の移動は少し早い気がする。
昨年も私が付いて行く予定で旅程を組んでいたのだが、グルノールの街を発つのはもう少し遅かったはずだ。
それなのに、今年は冬が来た途端に移動を開始している。
例年は神王祭の少し前に出立し、冬の終わりにグルノールの街へと帰ってきていたのだが、今年は先に他の砦を回って神王祭をマンデーズで過ごしたあと、冬の中頃にはグルノールの街へ戻ってくる予定なのだろうか。
私を連れての移動にしては、雪の中を随分動く予定のようだ。
特に、今はまだチラホラと雪が降る日がある程度だったが、神王祭の終わったあとともなれば一面雪景色になっているはずだ。
そんな季節に私の移動を善しとするなど、これまででは考えられないことだった。
馬車での移動は慣れている。
今回の移動はレオナルドに付いて行く、ということで、王都へ行った時のような大きな馬車ではない。
初めてマンデーズの街へ行った後、ラガレットの街を通ってグルノールの街へと帰って来た時に乗っていた大きさの馬車だ。
私とレオナルドが寛いで過ごせる広さに、女中であるサリーサが控えている小部屋がある。
子守妖精が自分の移動用に用意したエノメナの鉢は、薪ストーブの近くに鎮座している。
暖めすぎもまずいとは思うが、エノメナは基本的に春の花だ。
寒さで枯らしてしまう方が怖いのでしかたがない。
その子守妖精はというと、サリーサの作ったコートを着込んで相変わらず私の肩に座っている。
鉢を持って来たおかげが、グルノールの街から離れても平気なようだ。
いつかカリーサが作ってくれたのと同じように、時々サリーサが薪ストーブでクッキーを焼いてくれるのだが、子守妖精は近頃これがお気に入りらしい。
たまに私の肩から姿を消したかと思うと、どこかからフライパンと小麦粉を持って来てサリーサにクッキーの催促をしているのを見た。
馬車の中での過ごし方は、いつもと変わらない。
翻訳作業をしたり、刺繍の続きをしたり、と本当に普段どおりだ。
馬車の護衛としてパールとジャン=ジャックが混ざっているが、今回の移動は長いということでアーロンも来ている。
視力の弱っているアーロンだったが、他の馬のあとを追うぐらいはできると言って、時々レオナルドと交代で馬に乗っていた。
護衛といえば、ランヴァルドの見張りとして付いている二人の白銀の騎士は、本来私の護衛としてグルノールの街に送られてきたらしい。
いつもランヴァルドにくっ付いているので、私の護衛だなんて思ったことはほとんどなかった。
さすがにランヴァルドを見張りもつけずに野放しにするのは不安だ、ということで、片割れが私の護衛として今回のマンデーズ行きに同行している。
なんだかんだと護衛の多いお姫様待遇だ。
マンデーズの街へは順調な旅程で到着した。
今年はマンデーズ砦で神王祭の祭祀を行うはずなのだが、神王祭まで時間的余裕がありすぎだ。
これはやはりおかしい、と探りを入れるつもりで「早くつきすぎましたね」と言うと、レオナルドは他に予定があるので、今年は早めに来たのだと教えてくれた。
「他の予定とは、聞いてもよろしいですか?」
「聞かせられない内容ではないが……あとでな」
先に荷を降ろし、まずは一休みをしよう、とエスコートの手が伸びてきたので、それに自分の手を重ねる。
そのまま館の中へ入るのかと思えば、レオナルドは一度だけ足を止めて背後を振り返った。
「ジャン=ジャックはそのまま出ていいぞ。ジゼルの実家へは早く報せを入れた方がいいだろう」
「へーい」
……うん? ジャン=ジャック?
なんだ、ジャン=ジャックに用事か、と釣られて振り返るとジャン=ジャックが馬上から礼をしている。
元々この予定だったのか、ジャン=ジャックの馬には一人で旅が出来るだけの荷物が括りつけられていた。
「んじゃ、ひとっ走り嫁っこの親に挨拶でもしてくンで、ティナっこはいい子で館に引き篭もってろよ」
「ジャン=ジャックに言われなくても、わたくしは引き篭もりですよ。ジゼルのご両親に会うのでしたら、わたくしの手紙も届けてください」
ジゼルの両親へはマンデーズの街についたらペルセワシ教会を使って手紙を出そうと思っていたのだ。
ジャン=ジャックが王都に向かうというのなら、丁度いい。
馬車の中で書いていた手紙を、サリーサが荷物の中から抜き出してジャン=ジャックへと手渡す。
旅の無事を簡単に祈ってジャン=ジャックを送り出し、今度こそ館の中へと足を踏み入れた。
マンデーズ館の私の部屋は、暖色に整えられた冬の滞在に嬉しい部屋だ。
早速運び込まれる私の荷解きを手伝おうとしたら、サリーサにきっぱりとお断りされてしまった。
荷解きぐらい自分で出来るので、先にパールをアリーサたちに紹介してきては、と言ってみたのだが、効果はなしだ。
むしろ、自分の仕事を投げ出して先にパールの紹介などしようものなら、パールの心象が悪くなるだろう、というのがサリーサの主張だ。
そもそも使用人の婚姻関係に纏わる話なので、二人にパールを紹介するにしても、主人である私やレオナルドが就寝してからの勤務時間外に行う話だったようだ。
気を回さなくても良い、とやんわり窘められてしまった。
「うわぁお。……相変わらずですね」
せめて脱いだばかりのコートぐらい片付けよう、とクローゼットを開けたのだが、中にはみっちりと冬物の服が詰まっていた。
子供服が詰まっている、というのなら何とか理解できるのだが、恐ろしいことに全て現在の私サイズの服たちだ。
間違いなく、この冬の滞在のために用意された服だろう。
冬服はグルノールからも何着か持って来ているのだが、充分すぎる数の服だ。
……や、でもサリーサとカリーサがいなかっただけ前回よりは一応数が少ないですよね。
前回は三姉妹とイリダルとで私の服を作ったと聞いているが、カリーサはグルノールに眠り、サリーサは私とグルノールの館にいた。
マンデーズの街で私の服を作る人間は、イリダルとアリーサしかいなかったはずなので、そこは少しだけ枚数が少ないと安心するところかもしれない。
クローゼットの中については見なかったことにして、エノメナの鉢を窓辺に置く。
玄関に入ってすぐイリダルへと子守妖精を紹介したのだが、イリダルとアリーサには子守妖精が見えないようだった。
少しだけ残念そうな顔をしていたイリダルが妙に気になる。
無表情が多いイリダルだが、妖精の姿は見たかったのかもしれない。
もしくは、カリーサと名付けたことから、自分が育てたカリーサと重ねていたのだろう。
そう考えると少しどころではなく私の方が残念だ。
……この鉢に名前を付ける、とか?
どうやら子守妖精はこの鉢を媒体か何かにしているようなのだが、子守妖精が生まれた鉢はグルノールの館にある。
この鉢の芽とは違う芽なので、名前をつけたらもう一人妖精が生まれるのではないかと、そんな怖いことを少しだけ考えてもいた。
……レオナルドさんには名前は付けないように、って言われてるし、今度こそ守るつもりだけどね。
試してみたいという好奇心はあるが、レオナルドは精霊との付き合い方を神王から教わったらしいのだ。
専門家である神王が精霊に名前をつけてはいけないというのなら、守った方がいい。
「……神王祭まではまだ日数があるからな。俺は先にメール城砦に行ってくる」
荷解きをサリーサに任せて居間へ移動すると、レオナルドも部屋から追い出されたようだ。
珈琲を飲みながら長椅子で寛いでいたので、その隣に座って私も珈琲をいただく。
無理にレオナルドに付き合う気はないので、私の珈琲は相変わらずお砂糖とミルク入りだ。
「それは……えっと、お仕事の前倒しですか? わたくしも同行できるのでしょうか?」
「いや、例年の冬の仕事を先に済ませてくるだけだから、ティ……クリスティーナはマンデーズでお留守番だ」
「その説明だと少しおかしい気がしますね。……例年より出発が明らかに早かったですし、マンデーズにわたくしを置いてレオナルド様が他の砦へ行く理由にはならないと思います」
始めから私をマンデーズ館で待たせる予定で来たのか、と隣のレオナルドを見上げる。
何かおかしいということは判っているぞ、正直に言え、と見上げついでにレオナルドの黒い瞳を軽く睨んでやった。
例年とはレオナルドの行動が違いすぎて、何かを隠していることはすぐに判る。
「……クリスティーナにはあとで話す、と言ってあったからな」
そんな前置きのあとに続いたのは、思わず眉を顰めるような内容だ。
発端は、ジャン=ジャックがズーガリー帝国から持ち帰ってきた話になる。
簡潔に纏めるのなら、ジャン=ジャックが隣国であるズーガリー帝国で何かを企まれているようだという話を持ち帰ってきたらしい。
帝国内の微妙な雰囲気をジャン=ジャックがレオナルドへと伝え、レオナルドはズーガリー帝国の様子を探るためにメール城砦に詰めたいのだとか。
ジャン=ジャックが王都へと一人で向かったのは、何もジゼルの両親へ挨拶をするためだけではなかったらしい。
私をマンデーズの街へと早めに連れて来たのも、私を国境に近いグルノールの街から離したかったのだろう。
「……納得しました。わたくしを国境から下げたかったのですね」
そういう事情なら仕方がない、と頷く。
国境近いグルノールの街からあっという間につれ攫われ、二年間も誘拐されていたのだ。
国境になんらかの異変があるというのなら、少しでも私を国境から離したいと考えるだろう。
「納得ついでにもう一つ納得してほしい。この冬が終わったら、クリスティーナには王都へ移ってほしいと思っている」
「……それはレオナルド様も一緒ですか?」
「いや、俺は……王都まで送りはするが、すぐにメール城砦へ向かう」
数年前にサエナード王国と戦になった時と同じだ、と言われてしまえば、内心はどうあれ納得するしかない。
十二歳の私がレオナルドの不在中に王都へと預けられて我慢できたのだ。
十七歳の私がレオナルドと離れるのは嫌だなんてわがままは言えない。
「いつまで待っていればいいのですか?」
「できれは帝国がおとなしくなるまで、かな」
「冬は戻って来てくれるのですよね?」
「それは……なんとも言いがたい。帝国はイヴィジア王国より寒いからな。イヴィジア王国の冬の寒さと帝都の夏の寒さを思えば、場合によっては冬でも開戦はありえる」
「なんですか、それは。サエナード王国より性質が悪いではありませんか」
いっそズーガリー帝国など滅ぼしてください、と口を滑らせると、さすがにやんわりと怒られた。
気持ちはわかるが、そこに住む罪のない国民がいる以上、簡単に滅ぼすことはできない、と。
「冬も帰ってこない、いつ戻るかも判らない、それでも王都に引っ込んでいろ、とおっしゃるのですね?」
「……そうだ」
むっと睨んでみてもレオナルドの意思が変わることはない。
不満はあるが、レオナルドが私の身の安全を考えて提案していることだ。
私にこれを拒否することはできない。
「どうせ刺繍絵画が完成すればベルトラン様……お祖父様へ送るのです。自分の手で直接手渡せるようになった、と前向きに考えておきます」
不承不承と判りやすい顔を作ってレオナルドの提案を受け入れる。
私が王都に移動することでレオナルドが安心して仕事ができるというのなら、それが一番だ。
少しどころではなく淋しいし、面白くはないが、いつまでも子どもではないのだから、このぐらいは私だって我慢できる。
今度は人形のように大人しくは待っていないので、早く迎えに来てください、とできるはずのない約束を取り付ける。
話を聞いただけでも、ズーガリー帝国がおとなしくならない限りは、レオナルドの意思だけで戻ってこれるものでもない。
翌日にはメール城砦へと旅立って行ったレオナルドを見送り、マンデーズ館でのんびりとこの冬を過ごす。
基本的な生活はグルノールと変わらないのだが、イリダルが館の采配を握っているため、地味に私にも予定というものが入れられた。
とはいえ、その予定というのは仕立屋を呼んで春物の服を注文したり、私好みの生地を買ったりと言う、所謂淑女のお買い物だ。
これまではイリダルとアリーサの好みで私の服を作っていたが、今は私がマンデーズにいるということで、私の好みを知ってくれるつもりらしい。
王都に持っていけるように、と春物の服を注文し終わった頃、レオナルドがメール城砦か戻った。
まだそれほど雪が深くないこともあり、本当に早い帰還だ。
神王祭の祭祀を予定通りマンデーズ砦で行い、しばらくはマンデーズ砦で書類仕事をして過ごす。
夜は館に帰ってくるので、グルノールの館と同じように出迎えて一緒に夕食をとった。
レオナルドは一週間ほどマンデーズで過ごすと、今度はルグミラマ砦へと旅立って行く。
その二日後に王都へ行っていたジャン=ジャックが戻って来たので、ほとんど入れ替わりだ。
「……あれ? ジャン=ジャックは制服の色が代わりましたか? 黒騎士は黒い制服のはずでしたが」
「知らなかったのか? 俺様は三年前から白銀の騎士だぞ」
ついでに言えば、ジャン=ジャックは私の護衛としてグルノールの街へと派遣されていたらしい。
初めて聞く話過ぎて、頭の中がツッコミでいっぱいだ。
とりあえず、護衛対象を放ってズーガリー帝国で一年ふらふらとジゼルを口説いていたジャン=ジャックには、なんらかの罰が必要だろう。
「……では、わたくしの護衛であるジャン=ジャックに命じます。グルノールの館まで、わたくしの忘れ物を取りに行ってきてください」
「護衛を遠ざけてどうすンだよ、ティナっこ」
「仕方ありませんよ。わたくしはこのあと王都へ預けられるだなんて聞いていなかったのですから」
翻訳の終わった聖人ユウタ・ヒラガの研究資料が、グルノールの館には置いてある。
もしかしたら年単位で王都に滞在するかもしれないのだ。
翻訳した研究資料を持ち込んで、翻訳が処方箋としてしっかり機能するかを確認できた方が良い。
翻訳が処方箋として機能すれば、復活する秘術があるのだ。
秘術が復活するということは、薬で治せる病気が増えるということだった。
「……ついでに、そろそろ生まれているはずのジゼルの赤ちゃんの顔でも見てきてください」
「そーいうことなら、行ってきてやるよ、使いっぱしり」
仕方ない、ご主人様の命令だから仕方がない、と何度も文句を言いながら出立するジャン=ジャックを見送る。
せめて一晩体を休めてから出立しろ、と言ってみたのだが、「ご主人様の忘れ物を取りに行くんだから、すぐに向かいますヨ」と非常に恩着せがましく、声音だけは本当に気だるそうに出立した。
ジャン=ジャックの物言いには少しイラッとしたが、顔はだらしなくにやけていたので、黙って見送る。
あんなジャン=ジャックでも、やはりジゼルと生まれた我が子の顔をいち早く見たいと思っているのだろう。
「クリスティーナ様、グルノールでしたら私がすぐに行って来れますが」
「それは言わないお約束というものですよ、サリーサ」
サリーサと同意見なのか、肩の上で子守妖精もコクコクと頷いていた。
一瞬の長距離移動はこの子守妖精の十八番だ。
私が望んでも簡単には運んでくれないが、サリーサの言うことは聞くので、本当に一瞬で翻訳した処方箋を持って帰ってこれるだろう。
……まあ、それはジャン=ジャックがうっかりジゼルと赤ちゃんの顔だけみて帰ってきたら、ですね。
ジャン=ジャックが処方箋を忘れたらお願いします、と言って肩の子守妖精へと賄賂として飴玉を渡した。
レオナルドがルグミラマ砦から戻ってくると、ジャン=ジャックもグルノールから戻って来た。
ジャン=ジャックの報告によると、ジゼルは無事に女の子を出産したとのことだ。
「……そういえば、聞くのを忘れていましたが、ジゼルのご両親の様子はどうでしたか?」
知らないうちに娘が恋人を作り、その子どもまで身ごもっていたのだ。
両親はさぞかし驚いたことだろう。
しかし両親に挨拶もなしに結婚はできない、ということで送り出したジャン=ジャックは、意外なことに歓迎されたらしい。
「俺も一発ぐらいは殴られるかと覚悟してたンだけどなぁ……?」
ジャン=ジャックの話を信じるのなら、順番が入れ替わったことについては注意されたが、それ以外はなんの問題もなかったようだ。
というよりも、事前にアルフがアルフレッドへと報せを送っていたようで、全部アルフレッドがいいように整えておいてくれたらしい。
なんでも、ジゼルとジャン=ジャックの婚姻を証明する書類はちゃんと法と秩序を司るソプデジャニア教会に提出されていたが、二人の婚姻は隣国で行われており、その書類がイヴィジア王国にあるソプデジャニア教会へと届くまでに不幸な事故が起こり、書類は一時行方不明となった。
そのため、婚姻と妊娠の順番が入れ替わってしまったかのように見える状況になってしまっただけなのだ、と。
「法と秩序を司っているのに、いいのですかね? そのあたりの偽造というか、なんというのか……」
「まあ、できてから結婚ってのも、珍しいことじゃねーからな」
貴族は一応気にするが、平民の間ではよくあることらしい。
ソプデジャニア教会としても、生まれてくる子どものために両親が婚姻関係にあることは歓迎すべきことだ、とこのあたりの融通は利かせてくれるのだとか。
「ジゼルの名誉が守られたのなら、それでいいです」
「しばらく嫁さんは動かせそうにないっつっといたら、自分たちの方から会いに行く、とか言ってたな」
どうやら本当にジゼルの家は丸く治まったようだ。
未婚のうちに孕むようなふしだらな娘は勘当だ、とか騒ぎになるのではないかと、少し気になっていたのでホッとする。
これで護衛から外されて王都に戻ることになっても、ジゼルには帰ることのできる家があるのだ。
冬の終わりが近づくと、王都に向けて再び馬車で出立だ。
馬車のサイズが以前アルフレッドに迎えに来られた時のものより小さいので通れる道が多く、またすでにマンデーズの街にいるため、王都までの旅程はひと月もかからなかった。
あっという間ではないが、長旅とも言えない。
丁度春華祭の一週間前に王都へと到着する。
外町を抜けて城門にたどり着き、内街を抜けて王城の門を抜けた。
アルフレッドと来た時のような立派な馬車ではないため、途中何度か検問に馬車が止められることがあったが、白銀の騎士が何人も護衛している馬車だ。
すぐに確認が終わって王城の中へと通されている。
「おかえりなさいませ、クリスティーナ様」
離宮の門をくぐり、馬車が玄関へ停まると、いつの間に報せがいっていたのか、懐かしいナディーンや侍女が出迎えてくれた。
離宮に来てしまうと、グルノールの館以上に私にはやることがない。
全ての采配はナディーンが振るってくれるので、私はそれに任せていればいいのだ。
春の部屋に案内されて、これだけはとエノメナの鉢を私の手で窓辺へと飾る。
改めて室内を見渡すと、ベッドの上にカリーサの作った大きな黒い犬のぬいぐるみが鎮座していた。
……そういえば、長旅のあとでも寝込まなかったような?
グルノールからマンデーズへ移動した時も、マンデーズから王都へ移動した今も、寝込む気配がない。
以前は長旅のあとは必ず体調を崩して寝込んでいたのだが、これも踏み台昇降運動で体力をつけたおかげだろうか。
数日ゆっくり休んだあと、レオナルドと二人で色んなところへと挨拶に出かける。
以前はアルフレッドが三日とあけずに顔を出してくれていたのだが、次期国王となることが内定してしまったアルフレッドは、以前のように身軽には動けない立場になってしまったようだ。
貴族街にあるアルフレッドの屋敷に顔を出したところ、少し疲労の見える顔をしていた。
春華祭は、レオナルドとのんびり過ごす。
いつ用意する時間があったのか、レオナルドは今年もエノメナの花をくれた。
私からは例年通りシャツを送る。
有り余る時間をひたすら刺繍につぎ込んだ結果、私の裁縫の腕はメキメキと上がった。
そのため、今年の刺繍も無駄に凝っている。
シャツに刺繍しているため上着に隠れて見えなくなってしまうのだが、肩から腕にかけて装飾的な文字で『獅子名流土』と刺繍しておいた。
レオナルドの名前はイヴィジア王国でも隣国でも知れ渡っているそうなので、『獅子名流土』だ。
レオナルドの名前が流れまくって大地に定着してしまえばいい。
そんな悪戯を込めて『獅子名流土』と当て字している。
「それにしても……みなさまどこから情報を仕入れてきたのでしょうか? わたくしだって王都に来るだなんて、マンデーズの街に行くまで聞かされていませんでしたのに」
王都に到着したのは一週間前だというのに、離宮の玄関ホールには私宛の贈り物が積まれていた。
送り主たちはいったいどこで私の王都入りを知ったのだろうか、と首を傾げていると、ジャン=ジャックを使いに出したからだろう、とレオナルドが教えてくれる。
ジゼルの両親に挨拶をさせるためにジャン=ジャックを先に王都へと送っていたが、その時に離宮へも私の滞在を報せていたようだ。
あとは離宮から情報が漏れて、私の滞在が知られることとなったらしい。
完成した刺繍絵画を届けるため、ベルトランへと手紙を書いていると、ウルリーカが私に来客である、と呼びに来た。
誰かと会う約束などしていなかったはずだが、と玄関ホールへ移動すると、懐かしい猫頭の被り物をした少年が立っている。
彼は私よりも一つ年上の十八歳なので、そろそろ青年と呼ぶべきなのかもしれない。
「……まさか、まだ猫の被り物をしているとは思いませんでした」
『……落ち着くんだよ、これ』
ぷいっと顔を背ける仕草を可愛く感じるのは、被り物の効果だろう。
中にある麗しい顔については、もう何年も見ていないのでどう変わっているのかは想像もつかない。
「お久しぶりですね、ディートフリート様……?」
『ん』
気を取り直して挨拶をしおう。
そう淑女の笑みを貼り付けた目の前へと小さな花束が差し出される。
ディートフリートからは以前求婚に近い言葉を貰っているため、さすがにこれが私への恋の仲立人依頼でないことはわかった。
「さすがに婚約者のいる方からの花を受け取るのはどうかと思います」
この花は受け取れません、と今日は真っ直ぐに猫頭の中にあるはずのディートフリートを見て答える。
以前は茶化して流してしまったが、こうしてまた求愛に近いことをして来たのだ。
私もしっかりディートフリートと向き合って答えなければならない。
「以前は素敵な言葉をありがとうございました。わたくしも、近頃ようやく恋心というものが芽生えてきたような気がします。……わたくしには恋する人がいますから、ディートフリート様のお気持ちには応えられません」
「……そうか。残念だ。だが、いい。ようやくきちんとした答えが聞けたからな」
前回は茶化してしまってごめんなさい、と謝ると、ディートフリートは緩く頭を振る。
どうやら私の暴挙を許してくれるらしい。
猫頭の被り物を脱ぐと、ディートフリートは清々しい笑みを浮かべた。
求愛は改めて断ったのだが、それでディートフリートは落ち着いたらしい。
てっきり卒業したのだとばかり思った猫頭の被り物を再び被り、身軽に動けなくなったアルフレッドの代わりに連絡役として頻繁に離宮へと顔を見せるようになった。
以前との違いといえば、このぐらいだ。
離宮での暮らしは概ね平和で、時折ディートフリートがクリストフや后たちからの招待状を持ってやってくる。
お茶会や夕食会に呼ばれるようになると、レオナルドは私が王都に落ち着いたと判断したようで、メール城砦へと出立すると言いはじめた。
出発の日は淑女の笑みを顔に貼り付けて「早く迎えに来てください」と送り出したのだが、やはり三日程塞ぎこんだ。
早く迎えに来て、と言っても、レオナルドの答えは「こればかりは帝国次第だ」という素っ気無いものだったことも影響していると思う。
……今度はレオナルドさんが嫌になるぐらいお手紙でも書いてやりましょうかね。
淋しいながらも落ち着くと、グルノールと変わらないのんびりとした生活を過ごす。
引き篭もりすぎて時折外へと引っ張り出されることもあるが、概ね好きにやらせてもらっている。
翻訳作業を進めつつ、刺繍やボビンレースを作って、時々セドヴァラ教会のバルバラと連絡を取って、翻訳した処方箋の実用性の検証も行う。
気分転換にボビンレースの指南書の中級編を作ってみたり、ベルトランへ刺繍絵画を届けたり、アルフレッドやフェリシアの子どもを見せてもらってのんびりしつつも様々なことがあり忙しい。
いつまでもレオナルドがいなくて淋しい淋しい、と塞ぎこんで閉じこもっている暇などないぐらいだ。
……帝国が動いたっぽいね?
まったりしつつも忙しく日々を過ごしていると、ウルリーカがこんな情報を拾ってきた。
ズーガリー帝国が、イヴィジア王国へではなく、大陸全土へと宣戦布告を発したらしい、と。
……さすがにこれは……言っちゃ悪いけど、馬鹿じゃない?
あまりにもお粗末なズーガリー帝国の宣言に、呆れを通り越して心配になってくる。
しかし、いつレオナルドが帰ってくるか判らない、と言う状況だけは緩和されたようで、不謹慎ながら安心もした。
レオナルドはズーガリー帝国が妙な動きをしている、ということで私を王都へ預け、メール城砦へと向かったのだ。
ズーガリー帝国が一人でこけてくれれば、またレオナルドと一緒に暮らせる。
――などと、のん気に構えていられたのはここまでだ。
私が慌てても仕方がない。
私は王都からレオナルドの無事を祈るだけだ、と開き直りつつもウルリーカたちを使って情報を集める。
私は離宮から出ない方が良いと思われているが、離宮や館に篭っていようとも淑女たちは様々な噂や事情に通じていた。
私も離宮から動かないながら、他者を使って情報を集めることぐらいはできるはずである。
まずは招待状でも作って淑女たちを集めたお茶会でも開こうか。
そんな計画を立てつつ窓辺に置いたエノメナの鉢へと視線を移す。
子守妖精は鉢の影でうとうととまどろんでいたのだが、突然パチッと目を覚まして立ち上がった。
「……え!?」
子守妖精が何か異変を感じたらしい。
そう気が付いた瞬間のことだ。
突然突き上げるような大きな縦揺れに襲われる。
文字通り、激震というものだ。
キリのいいところまで……と頑張った。
涼しくなって、介護のある生活も少し慣れてきたので、10月中には終わるかもしれません。
誤字脱字はまた後日。
タイトルがどう見ても作者視点なので、そのうち直します。




