乱入少女バシリア
ディートが反省をしたのは、やはり一瞬だけだったようだ。
一日三回までなら、と了承したリバーシだったが、一階のサンルームへと場所を移して遊んだところ、今日もストレートで私が勝った。
そこまでは良かったのだが、案の定と言うのか、なんと言うのか、ディートはもう一勝負、と言って聞かない。
「男の子の友だちでもみつけて、その子と遊んでください」
「同じ階に泊まれるぐらいの者でなければダメだと、スケベイとマルが言っていたぞ」
「……スケベイとマルって、何ですか?」
マルはともかくとして、スケベイはどうしても『助平』に聞こえる。
人名としてはあんまりだろう。
「なんだ、ティナはニクベンキを知らぬのか? おじいさまが大好きな物語だ」
「ニクベンキ……?」
およそ子どもの口から出てくるに相応しくない単語が出てきた。
あまり聞きたくはないのだが、親切にもディートが聞かせてくれた内容によると、ニクベンキとはメンヒシュミ教会で販売されている、異世界の物語の一つらしい。
隠居をした前国王が腕の立つお供を連れて諸領を回り、世直しの旅をする娯楽小説だとか。
……つまり、水戸のご隠居様のお話ですね。
説明されれば、なんとなくどこからおかしくなって肉便器になったのかが判る気がする。
水戸がミートになって、肉になったのだろう。
黄門が便器になった経緯は謎だが、黄門が肛門に変換されるのは小学生あるあるだ。
そこから好意的に考えるのなら、肛門がさらに変化して便器になったのだろう。
……原氏物語も真っ青な誤訳っぷりだね。
転生者が書いたという異世界の物語は、一度目を通しておいた方がよさそうだ。
まずはこの世界で当たり前に存在している寓話や神話から読んでいこう、と異世界の物語に分類される本は後回しにしていたため、何がどうおかしくなっているのかを私は知らない。
何かの折にその話題が出た時に、この世界に広がっている誤訳と私の知識がすれ違うのはまずい気がした。
……源氏物語も、光源氏そっちのけのガールズラブになってるらしいし。
改めて紹介されたスケベイとマルは、ディートの護衛二人だった。
二回もカリーサに一撃で沈められている二人だ。
ちなみに、昨日招待状を持ってきた使者はキュウベェだったらしい。
もちろん全員偽名だ。
微妙に名前が違うのは、ニクベンキを書いた転生者の仕業だった。
転生者が異世界の物語として登場人物の名前をスケベイやマルとしたため、この世界ではスケベイやマルが正しい、ということになっている。
……なんだかなぁ。
間違いが広がりすぎ、今さら正すことは難しいので間違ったものも正しいとする、といった前世でもみられた現象が起こっていた。
……それにしても。
ディートが私に拘るのは、スケベイとマルの差し金だったらしい。
同じ三階に泊まれるぐらいの者、ということは、身分を隠しているというのも、ただの自己満足のポーズでしかない。
経済力で付き合う相手を選んでいるということだ。
……まあ、私だって、ミルシェちゃんと対等に付き合う、っていうのは難しいけどね。
完全に対等な付き合いは難しいが、それでも友だちでいることはできるはずだ。
ディートの場合は、圧倒的なまでに本人の努力が足りない。
「同じぐらいの男児を期待していたのだが、年下の女が来てがっかりだ」
なんでおまえは女なんだ、と理不尽な文句が出てきたので、両手でリバーシのコマを集める。
私が本気でコマを片付け始めたと解ったのだろう。
ディートは先を争うように私の手からコマを奪い、片付けさせまいと自分の懐へと掻き寄せ始めた。
「男の子が良かったら、男の子を捉まえて遊んだらいいですよ」
「年下の女が寂しそうに一人で兄の帰りを待っていると聞いたからな! 仕方がないから遊んでやっているのだ」
「兄の帰りを待っているのは事実ですが、寂しくないです。無理に遊んでくれなくていいですよ」
コマを半分近く片付けたのだが、残りはディートの手元にあって片付けることができない。
さてどうしたものかと考えているうちに、ディートは次のゲームをしようと盤面に白と黒のコマを二つずつ並べた。
あくまで、まだリバーシをするつもりらしい。
……一日三回まで、はもう終わりましたよ。
いっそ盤面でもひっくり返して席を離れようか。
そんなことを考えていたら、背後に控えていたはずのカリーサが不意に動いた。
「え?」
一瞬暗くなった。
そう思ったのは、カリーサの影が私にかかったからだ。
直後にパシャリと水音がして、リバーシ盤に水滴がかかる。
……なに?
いったい何事が起こったのか、と瞬いていると、甲高い女の子の声がカリーサの体のむこうから聞こえてきた。
「なんで邪魔をしますのっ!? 女中風情が、生意気ですわっ!」
「……こそ、うちのティナお嬢様に、何をする気ですか」
普段より低い声音のカリーサに、彼女の怒りが伝わってくる。
カリーサが間に立っているので相手の顔は見えないが、何が起こったのかはなんとなくわかった。
この甲高い声の女の子が、私に水をかけようとして、カリーサが咄嗟に間に入ってくれたのだ。
それをこの女の子は「邪魔をした」と言っているのだろう。
……え? つまり、攻撃を受けているのは私?
身に覚えがなさすぎて、そうであろうと考えることはできても、いまいちピンとこない。
そもそもラガレットの街へは初めて来たのだ。
知人の女児など、いるわけもなかった。
とりあえず相手の顔を確認してみよう、と椅子から滑り降りてカリーサの背後から顔を出す。
カリーサと睨む合う女児の顔には、まったくといってよい程に見覚えがなかった。
「えっと……誰?」
「バシリアですわ、この泥棒猫っ!」
……泥棒猫とか、リアルに初めて言われた。
バシリアと名乗った女児はビシッと私を指差すのだが、カリーサがその手を払う。
軽い仕草に見えたのだが、バシリアは相当痛かったのだろう。
払われた手を胸元に寄せて擦り始めた。
……気の強そうな子だね。
突然攻撃してきたことから判るように、相当気の強い性格をしているのだろう。
きりりと吊りあがった眉と、きつそうな顔つきの女児だ。
服装は質の良い布をふんだんに使ったワンピースを着ていた。
いかにもレオナルドが好みそうなフリフリで、ヒラヒラのレースもたっぷり使われた少女趣味全開の衣装である。
しかし茶色い癖毛は服装の好みと正反対に短く、少年のようだった。
言ってはなんだが、美少女顔のディートと服を取り替えたほうが似合う気がする。
……間違いなく、初対面だよねぇ?
誰かの面影があるだとか、どこかであった、という記憶のない顔だ。
それでも突然水をかけてやろう、というぐらいバシリアは腹を立てているのだから、私が何かをしたのだろう。
……ダメだ。全然思い浮かばない。
そもそも見覚えもない女児が言っていることだ。
もしかしなくとも勘違いか、人違いをしているのだろう。
「泥棒猫って、わたしが何を泥棒したんですか?」
たしかに猫耳は付けているので、猫は猫かもしれないが。
泥棒猫と呼ばれるように、バシリアから物を盗んだ覚えはない。
「ディートフリート様はわたくしの婚約者ですのよ! 馴れ馴れしく纏わりつくのはおやめなさいっ!」
キッと眉を吊り上げて、バシリアが再び私を指差す――のだが、ビシッと指差した瞬間にカリーサに横へと払われた。
狙ってやっているのかは判らないが、手ではなく指を払っているので、かなり痛いのではないだろうか。
「なんなんですの、この女中はっ!? 邪魔ですわ、お退きなさいっ!! わたくしはその泥棒猫と話をしているのですっ!」
カリーサに退け、とバシリアが命令しはじめたのだが、カリーサの主は私だ。
バシリアの命令でカリーサが動く理由がない。
結果として微動だにしないカリーサにイラついたバシリアが、金切り声をあげて騒ぎ始めた。
……うるさい。
両手で耳を塞いで、ようやく声が聞き取れる音域に下がる感じだ。
ディートフリート様、ディートフリート様、と叫ぶバシリアに、名指しで呼ばれているディートへと視線を向ければ、ディートも同じように耳を塞いで顔を顰めていた。
「婚約者なんでしょ? なんとかしてよ」
「こんな奴知らないし、婚約者でもなんでもない」
ディートにこの場の責任を取らせようとしたのだが、どうやら婚約者というのはバシリアの自称らしい。
ディートの言葉を信じるのなら、だったが。
……とりあえず理解した。
このバシリアと名乗る女児は、顔と身分のどちらにコロッといったかは判らないが、ディートを気に入り、ディートと盤上遊戯で遊ぶ私が気に入らないのだろう。
実に子どもらしい、理不尽で筋の通らない八つ当たりである。
……ディートはどうでもいいけど。
むしろディートの遊び相手を代わってくれるのなら、私としては大歓迎したいところだったが。
やり方がおかしい。
第一声が「一緒に遊ぼう」や「私も混ぜて」であれば何の問題もなかったと思うのだが、バシリアはそれをしなかった。
突然水をかけようだなんて、避けようのない暴挙に出たのだ。
カリーサが間に入ってくれなければ、私は今頃びしょ濡れになっていたのだろう。
そして彼女は笑っていたはずだ。
いいざまだ、と。
顔も名前も知らない人間に水を被せられた私の心情や従業員の後始末など、まるで考えもしないで。
……こういう考え無しの女児って、大嫌い。
頭の中で、変なスイッチが入った気がする。
気分が高揚するというのか、怒りとはまた違った感情だ。
ただ目の前の女児に対してふつふつと、自分が何をしたのかを理解させ、理解させ、もう一度理解させた上で、己の行動を反省させたくなった。
「はじめまして、バシリアちゃん。わたしはティナです。猫の耳は付けてるけど、泥棒猫じゃありませんよ」
カリーサの後ろから顔を出し、にっこりと笑顔を浮かべてバシリアに挨拶をする。
キャンキャンと吠えていたバシリアは、私に笑顔を向けられるとは思っていなかったのか、一瞬きょとんっと瞬いた。
「……き、気安く『バシリアちゃん』だなんて呼ばないで! この泥棒猫!」
「ティナです」
「なに言って……? わたくしが、あなたのような泥棒猫相手に……」
「ティナです」
「だから、わたくしの話を……?」
「ティナです」
とりあえず興奮しているようなので、無理矢理冷静になっていただくことにした。
何を言われても笑みを顔に貼り付けて、まずは『泥棒猫』という呼称を『ティナ』に直させることから始める。
笑顔でゴリ押し、とも言うかもしれない。
……うん、ごめん。ちょっとやりすぎた!
言ったことは正論だと思っているので反省する必要はないが、追い詰めすぎた感はあった。
前世の経験ではあるが、女の子が泣くのには少なくとも二段階がある。
泣いている私可哀想でしょ? と周囲へアピールし、第三者を自分の味方に引き入れるための綺麗な泣き方と、打算も何もかも吹き飛んだ男児がするのと同じマジ泣きだ。
そして現在バシリアがしているのは、後者の泣き方である。
わんわんと泣きながら私への謝罪を口にし、周囲にいる大人たちで一番近い位置に立っていたカリーサに隠れるように抱きついていた。
……カリーサ怒ってるから! 無表情だけど怒ってるからっ!!
何故カリーサに抱きつこうだなどと思えるのかが不思議だ。
私への攻撃としてカリーサに水をかけたことを忘れているのかもしれない。
「おまえ、恐ろしいヤツだな」
「ディートも泣かされたいですか?」
泣きじゃくるバシリアについ同情的な視線を向けるデュートに、笑顔で向き直る。
やりすぎたというのは自分でも感じているが、困ったことに私は間違ったことは言っていないし、そもそも喧嘩を売ってきたのはバシリアの方だ。
手も足も出さずにやり込めたことを褒められるのならわかるが、恐ろしいヤツだなどと不名誉な称号をいただくのは納得がいかない。
……まあ、正論が通じるのは、考える頭のある子だけだけどね。
バシリアは行動こそ考えなしではあったが、仕立ての良い服を着ていることから判るようにある程度躾けられた子どもだ。
自分で考える力がそれなりに育っているため、正論で責められたら自分に非があると理解できてしまい、そのために次の攻撃が封じられてしまう。
私の口撃方法は、理性のある相手にしか通じないのだ。
……私、考えなしは嫌いだけど、ちゃんと反省できる子は嫌いじゃないよ。
そう頭を切り替えて、バシリアに手を差し出す。
ちゃんと自分の非を理解し、謝ってくれたのだから、これ以上泣かせておくことはできない。
「バシリアちゃん、一緒に遊ぼう」
「……え?」
黒い目を丸く見開いて、バシリアが一瞬だけ固まる。
恐々と私の手と顔とを見比べている顔は、先ほどまでの険が取れて可愛らしい女の子に見えた。
「バシリアちゃんはディートと一緒に遊びたいんだよね? 違った?」
確かそんな考えが今回の暴挙にでた原因だったと思うのだが、違うのだろうか。
そう首を傾げて待っていると、バシリアの手がおずおずと私の手に重ねられた。
「ディート、エスコートしてください」
どうぞ、とバシリアの手を差し出すと、泣きじゃくるバシリアに困惑していただけのディートも私の意図を汲み取ってくれたようだ。
自然な動作でバシリアの手を取ると、私が先ほどまで座っていた椅子へとバシリアをエスコートした。
……さすがはヘルミーネ先生の躾。ちゃんとエスコートとかは身に付いているんだね。
どうにも我儘暴君という印象の方が強いが、最低限の猫を被れるだけの躾けは終わっているようだ。
音を立てずに椅子を引いて女性を座らせるなど、そんな扱いを私は一度もディートから受けたことがない。
……まあ、いいけどね。
ディートと友だちとして長く付き合っていく予定はないし、女性として扱われる予定もない。
宣言したように、ラガレットの街を出ればもう二度と会うこともないのだ。
「バシリアちゃんはリバーシって知ってますか?」
「……知りませんわ」
「じゃあ、ディートに教えてもらってください」
リバーシで遊びたがっているのはディートなので、丁度良い遊び相手が出来たと考えていいだろう。
初心者になるバシリア相手であれば、さすがのディートも勝てるはずだ。
……ディートを押し付ける丁度良い相手が来た、とか思ってないよ。
ほんのりと頬を染めたバシリアは可愛らしいが、ディートはムッと唇を尖らせた。
私が離席する気まんまんだと気が付いたのだろう。
「まだぼくとの勝負がついていないぞ」
「一日三回まで、というお約束です」
それに勝負ならすでについている。
三回とも私の勝ちだ。
なおも引き止めようとするディートに、カリーサへと視線を向けるように促す。
私を庇ってバシリアに水をかけられたカリーサは、スカート部分がびしょ濡れになっている。
メイド服はかなり布面積があるのだが、瞬間的にばらまかれた水をすべて吸い取るほどの吸水性はない。
そのため、カリーサの足元には小さな水溜りができていた。
「……下がってよい」
「はい。では失礼します」
カリーサの惨状に、私への退室許可が下りる。
主である私が引き止められている間は、カリーサが着替えることができないのだ。
一度大きな水溜りを作った経験のあるディートには、カリーサにも着替えが必要であると理解しやすかったのかもしれない。
ディートから無事退室許可をもぎ取った私は、ヘルミーネから教わったように礼儀正しく退室の礼をとり、カリーサを伴ってサンルームをあとにした。
攻撃の意図をもったティナの正論責めは書いてみて気が滅入ってきたので省略しました。
誤字脱字はまた後日……。
誤字脱字、見つけたところは修正しました。




