我がまま暴君ディート 2
三階の吹き抜けから吊るされるという経験は、ディートにとってとても心に残るものになったようだった。
数時間ぶりに床へと足を付けることを許された彼は安心したのか、安堵の涙と共に大きな水溜りを作りあげる。
……吊るされている時にやらなくて良かったね。
私はそう前向きに受け止めたのだが、周囲の大人たちはみな真っ青な顔をしていた。
もちろんカリーサ以外が、だ。
水溜りの片付けを宿泊施設の従業員に任せ、ディートを部屋まで送っていく。
ディートは私より一つ年上らしいので、十歳だ。
十歳にもなってお漏らしなんて、とさすがに本人もこたえているようだった。
ぎゅっと唇を噛み締めたまま、手を引かれるままに歩いている。
「……だろ」
「はい? 何か言いましたか?」
横から小さな声が聞こえた気がして、足を止める。
振り返ると耳まで真っ赤に染めたディートが、今にも泣き出しそうな顔をあげた。
「どうせ言いふらすんだろ!? 十歳にもなってお漏らしをしたって!」
笑いたければ笑え、と大声で叫んだあと、ディートはぷいっと顔をそらす。
なぜか突然怒鳴られることになった私はというと、わけが解らなくてしばらく考え込んでしまった。
「……とりあえず、今お漏らしのことを言いふらしてるのはディートだけど?」
そこのとこ解ってる? と指摘すると、ディートは慌てて自分の口を塞いだ。
そんなことをしても一度口から出してしまった言葉は戻らないのだが、幸いなことに自分たちがいるのは三階だ。
三階は最大でも二組の宿泊客までしか受け入れず、その二組が私と老紳士に当たる。
そのため、誰かに聞かれたとしても口止めは容易であったし、そもそも人が少ない。
多少の失言であれば、指摘してくる者はいないだろう。
「わたしは言いふらしませんよ。自分がされたら嫌ですからね」
「嘘だ! 絶対に言いふらしてぼくをからかうんだっ!」
「……そもそも、そういう発想すらなかったのですが」
お漏らしなど、子どもの失敗だ。
それをわざわざ言いふらすような趣味など、私にはない。
「逆に考えると、わたしがお漏らしをしたらディートは言いふらすってことですか?」
「そ、そんなことはしないぞっ! ぼくは……っ!」
「そうですか?」
普段から自分でやらないような行動であれば、そもそも思いつきすらしない。
思いつかないから、やりようがないのだ。
けれど、ディートは思いついてしまった。
ということは、ディートには自分が言うようにお漏らしをした子どもに対して「言いふらし」「からかう」という下地があるという証拠だ。
「ぼくは、絶対にそんなことはしない」
「はいはい。そうだといいですね」
「信じていないだろっ!」
……この年頃の男児なんて、信用できませんよ。
これまで見てきた性格的にも、ディートの言葉は信用できない。
逆の立場だったら、今頃手を叩いて大喜びで私をからかっていただろう。
今はただ、自分が弱みを握られた状態である、という自覚から下手に出ているだけなのだ。
……下手、なのかな? これ。
どちらにせよ、面倒くさいことこの上ない。
「今回はたまたま……緊急事態? でトイレに間に合わなかっただけですよ」
だから気にすることはないよ、と慰めているつもりなのだが、ディートはムッと唇を尖らせた。
どうやら少しだけ元気が出てきたようではある。
「おまえのせいだ!」
「なんでわたしのせいなんですか。知りませんよ」
「おまえのトコの女中がぼくをあんなところに吊るしたんだぞ! 主であるおまえのせいじゃないかっ!」
怒鳴っていたら勢いが出てきたのか、ディートは偉そうに胸を張って私を指差す。
どうも格好付けているようなのだが、ズボンの染みが気になるせいでなんとも滑稽な姿をしていた。
「吊るされるようなことをしたディートが悪いんですよ。女の子の部屋に許可なく二度も乱入したんですから」
昨日はその件で謝罪も受けたはずだが、と指摘すると、ディートは口をつぐむ。
どうやら怒鳴って私を萎縮させ、問題をすり替えようとしたようだ。
お漏らしをしたのはディートのせいではなく、私のせいである、と。
「十歳なのに他者の注意も聞けず、同じ失敗を繰り返した罰に吊るされて、お漏らしをしちゃったディートに、素敵な言葉を教えてあげます」
旅の恥は掻き捨てって言葉を知っていますか? と言うと、ディートは不思議そうに瞬いた。
まあ、そうであろう。
私にしたって、前世で聞いた言葉だ。
「わたしとディートはラガレットの街を出たら、どうせその後は一生会わない人間です」
王子の子どもということは、ディートも一応は王子様と数えるのだろう。
生まれは貴族らしいが、平民として一生過ごす予定の私には、不意の遭遇でもなければまず一生お近づきになる機会などなかったはずだ。
今はたまたま同じ宿の隣の部屋ということで交流を持ったが、宿を出て、このラガレットの街から離れれば、おそらくはもう一生逢うこともない。
その程度の相手にお漏らしをした、と知られているだけだ。
実のところ、ディートがそれほど気にするようなことはない。
「わたしがグルノールの街に戻ってから、誰かに「旅先で出会った男の子がカリーサを怒らせてお漏らしした」なんて言いふらしたって、誰もお城に住んでる王子様がお漏らししただなんて思いませんよ」
「……そうか。うん、……そうだな」
ん? と一瞬だけ持ち直しかけたディートが眉を寄せる。
わざと強調して言ったので、気が付いたのだろう。
王子様が漏らした、と私が理解していることに。
ザッと青ざめたディートの手を取り、再び歩き始める。
廊下で長話をするよりも、ディートは早く染みのついたズボンを着替えた方がいい。
「エセル様が初対面のわたしに愛称を名乗った理由はわかりましたか?」
単純に考えれば、身分を隠しての旅行なのだろうと思うが。
自覚はないようだが王子という身分にいるディートが、王子ではなくディート個人としてのびのびと振舞える場を用意してくれたのだ。
それは身分というものの付きまとう親元では、簡単には体験できないものだっただろう。
……まあ、ディート本人がせっかくの気遣いもぶち壊してたけどね。
エセル老人が止める間もなくディートは自分の本名を私に名乗ってしまった。
それだけなら私も気づきはしなかったのだが、さすがに前国王である老紳士の名前はまずかった。
前国王の名前は、秋に通ったメンヒシュミ教会の授業で少しだが聞いている。
あちらが惚けているので、こちらもありがたくそ知らぬ顔をさせていただくつもりだが、本来の身分を名乗られたらとてもではないが同じ階になど泊まってはいられない。
「わたしとはラガレットの街を出たらもう会わないだろうからいいけど、まだどこかの街へ行くんだったら、今度は失敗しないようにね」
身分を忘れてただの子どもになれる機会など、ディートには本来ないはずだ。
それをエセルが旅行に連れ出すことで、身分を明かさないことで用意してくれている。
「……おまえは、ぼくの友だちか?」
「わたしはわたしのことを『おまえ』だなんて呼ぶ人を、お友だちだなんて思いません」
我ながら可愛げがないとは思うが、思ってもいないことはあまり言いたくはない。
変に懐かれて、ラガレット滞在中ずっと付き纏われるのも嫌だ。
私は暖かい部屋でのんびり刺繍でもしてレオナルドが戻るのを待ちたい。
「……ティ、ティナとぼくは昨日一緒に遊んだだろ」
「無理矢理付き合わされただけですよ」
突然名前で呼び始めたディートに、内心で驚く。
素直に呼び方を改めてきたということは、ディートは私と友だちになりたいのだろうか。
……結構冷たくあしらってると思うんだけど、ディートってマゾなの?
それとも余程同年代の友人に餓えているのだろうか。
とはいえ、ディートが私にこだわる必要はない。
本名を名乗らず外へ遊びに出れば、それだけで遊び相手ぐらい捕まえられるだろう。
「友だちになってやってもいいんだぞ!」
「お断りします」
なんだか面倒そうなので嫌です、とのびのびと答えると、さすがにディートが泣きそうな顔をした。
天使のように愛らしい顔で、青い目にいっぱい涙を溜めてうるうると私を見つめてくる。
中身の暴君っぷりを知らなければ、つい気の毒になって何でもお願いを聞いてあげたくなるような美少年っぷりだ。
……まあ、私には情けない顔にしか見えないんだけどね。
さすがに少しだけ可哀想になってきたので、ラガレットに滞在する間、一日に三回までならリバーシで遊んでもいい、と譲歩した。
明確に友だちになってしまったら、ディートなら毎日でもこちらの都合も考えずに押しかけてきそうな気がするので、明言だけは避ける。
たまに友だちと遊ぶぐらいならいいが、一日中、それも毎日振り回されるのは嫌だ。
ディートを部屋まで送ったあとは、実に穏やかな時間が過ごせている。
昼食はレストランから部屋へと運んでもらったので、ディートにもエセルにも会うことはなかった。
食後は暖炉の前に陣取って、のんびりとオレリアに送る予定の刺繍を再開する。
チクチクとひたすら図案を縫い取る作業は地味で忍耐が必要になるのだが、私にとっては楽しい時間だ。
まったりとした幸せを感じつつ、そろそろ休憩をしようかな? と顔をあげると、傍に控えていたカリーサが動く。
無言で控えの間へと続く扉へと消えたカリーサに、まさかまたディートが来たのだろうか、と頬が引きつった。
……や、まさかね? さすがにもうないよね?
二度あることは三度あると昔からいうが、あれだけ言い聞かせてもまだ同じ過ちを犯すようだったら救いようがない。
本当に言っても無駄な子だ。
「……です、ティナお嬢様」
「お客様?」
耳を澄ませていたが、ディートの走る足音も、その護衛がカリーサに沈められる物音も聞こえなかった。
とはいえ、私に客というのも変な話だ、と首を捻る。
私を訪ねてくるような知人など、このラガレットの街にはいないはずだ。
不思議に思いながらカリーサの背後を見ると、何故かディートが立っていた。
「……お客様って、ディートがですか?」
なぜ今回はカリーサが侵入者と判断せず、ディートをここまで案内してきたのだろうか。
それが判らなくて瞬いていると、カリーサも不思議そうに私の顔を見つめ返してきた。
「さきほど、ティナお嬢様が、一日に三回まで、遊んでやる、と……?」
言っていましたよね? と不安そうにカリーサが眉を寄せる。
一日三回は相手をしてやる。
確かに、先ほど私はそう言った。
今にも泣き出しそうな顔をしたディートに、ついうっかり同情してしまい、このぐらいならいいか、と譲歩した。
カリーサはそれを聞いていたので、今回のディートの訪問を客として受け入れたのだろう。
確かに、今日はまだ「一日三回、リバーシの相手をしてやる」と言ってしまったうち一回も遊んでいない。
……譲歩なんて、するんじゃなかった。
短い平和だったな、と暖かい暖炉と刺繍道具に別れを告げる。
それから深く息を吐いて、気持ちを切り替えることにした。
とにかく、ようやくディートが玄関先で案内されるのを待つ、という行動を覚えたのだ。
制止も聞かずに乱入してこなくなっただけでもよく出来ました、と誉めてやらねばなるまい。
……や、本当なら誉めて伸ばすのは保護者の仕事だと思うんだけどね?
短めですが、キリがいい気がするのでこの辺で一旦きります。
誤字脱字はまた後日。
誤字脱字、見つけた所は修正しました。




