最終話
夢や希望なんて馬鹿馬鹿しい。でもそれを見続けてしまうのが人間であって。それが悲しくもあり、美しくもあるんだって事を俺は知ってる。
――『藤原基央』
誕生の大地――アフリカ。
地中海を挟んでヨーロッパの南に位置する南北双方に渡って広い面積を有する赤道を挟む唯一の大陸。
地域毎によって多種多様な気候領域があり、そこで暮らす約十億人は今なお貧困に耐え忍びながらも日々を一生懸命生きている。
一方、金や鉱石、石油といった資源が多く輩出している場所でもあって、多くの外国勢が一攫千金を狙ってこの大陸へと進出してもいる。
だが、その利益は飽くまで会社を興した側の物であってアフリカの物として還元される事はほとんどなく、銀行を通して本国へと持ち帰ってしまうのが大半。
ましてや、治外法権であればそれを良い事に現地の人々が自分達が何を扱っているのか詳しく教えもせずに安い賃金で働かせる悪徳企業までも出てくる始末だ。
しかし、このような現状など日常のヒトコマでしかなく、人間の稚業に等しい。
『かつてない残虐さ』と言わしめる内戦が今なおアフリカの一部の国々で勃発しており、殺戮と絶望の嵐が吹き荒れ、血で血を洗う悲惨な世界が広がっている。
人々の心は荒み、治安もすこぶる悪く、殺人、強盗、窃盗、恐喝、暴行、性犯罪、麻薬・人身売買が横行する事実こそがそこの人々にとっての『日常』と化している。
人死の数…需要と供給のバランスは人材という制限までも取り払い、倫理も道徳も捨て去った所業が簡単に認められてしまう。年齢も問わず、幼子さえも使える物なら何でも使うと言わんばかりの勢いで…。
――暗黒大陸。
ヨーロッパ人が嘗て未開の地であったアフリカを比喩して言った名称。
飽食と平和を享受する多くの世界各国を皮肉るように、比べ物にならない程の醜悪な意味合いを今や帯びてしまっていた。
「悪いが、お前達の要求には従えない。あれが無ければ我々の戦いに支障が生じる」
中央アフリカの某所。
周りが木々を生い茂り、芝をなだらかにして作られた広間に張られる簡易テント群。
そこでピリピリとした空気を漂わせながら話し合いに挑む黒人の武装集団。その一方として腰をしっかりと下ろして座り込む東洋人と傍で冷や汗を垂らしながら見守る白人の二人がいた。
「でしたら半分だけでもいい。あれは元々私達『CURE』が本部から取り次いで送ってもらった救援物資。配送中のトラックを強襲し、強奪されて「はいどうぞ」と簡単に諦める訳にはいかないんです」
「ならば、ここでお前達を見せしめに始末してその死体を送り返し、意見を押し通しても構わないのだぞ?」
そう言ってリーダー格の男が首を軽く振ると、取り囲んでいた武装集団がさっそく肩に担いでいた自動小銃の銃口をこちらへと向け始めた。
総勢二十口もの銃口が今にも火を吹かんとばかりに力を込められていた。
「これは困ったね…」
「困りましたね、じゃないですよ! やっぱり無理だったんですよ! 奪われた救援物資取り戻すため武装民族の本拠地へと交渉に行くなんて!!」
「でもねぇネムさん、これで取り返せないと向こう二ヶ月は情勢の都合上、本部へ物資を融資して欲しいって申請しても届けられない可能性が大きすぎるんだよ。もう少しで僕が伝授して身を結んだ畑の栽培物の収穫が出来るんだけど、やっぱり動物性たんぱく質や薬品はそんなのじゃ代用できないから惜しい事この上ないんだよなぁ…。皆、よく我慢して畑作ってくれたし、そろそろ報われて貰わないと教えた側としては悲しいんだ」
「悲しい以前に命亡くしたらお終いじゃないですかやだーっ!?」
「おい、さっきからべらべらとうるせえぞ! やっぱりここで撃ち殺しましょうよボス!」
「ひぃっ!? すんません! 許して! だから殺さないでくださいっ!!」
付き添いらしき白人――ネム――は無茶な交渉へと赴く事を決めた相棒である東洋人を怨みがましい目で見ながら文句を叫んでいたが、それが煩わしかったのか黒人の怒りに触れて命の時間を縮め掛けていた。
情けない姿を晒すネムの一方、東洋人は何気なく胸ポケットへと手をやる。
「動くな! 手を胸元から下ろせ!」
「怪しい物じゃありません。安心してください」
胸元に手を伸ばすというのは銃を持つ相手にとっては危険な行為だ。同じように銃を取り出すと認識されても仕方がないからだ。
東洋人はゆっくりと二本指で挟むように取り出したのは煙草とライター。
「もし最悪の結末を迎えたとしても、最後の一服ぐらいは楽しませてくれませんか?」
「…いいだろう」
慣れた手つきで箱から出した煙草を一本加え、ライターで火を付ける。
ゆっくりと息を吸うにつれて煙草の先端に形成された燃えカスは微かな風に揺られて地面に零れた。
口から煙草を摘んで離した後、彼の口からは紫煙が揺らめいた。
「レギネさん、でしたら救援物質を奪うよりも得になって面白い話をしてみませんか?」
「何…?」
「たとえば、この内戦の始まりはそちら側の民族にいた一家族を突如として侵入してきた敵対民族により男は撃ち殺され、あげく女子供を強姦されるという惨たらしい仕打ちをしたという話。実はその一連の出来事がアフリカで事業を広げる予定の某国の兵器産業が民族紛争で扱われるであろう武器での軍需利益を上げるために仕組んだ工作だとしたら…どうしますか?」
「なんだとっ!?」
突発的な事実に武装集団全員からざわめきの声が聞こえてきた。
「御丁寧にアフリカにいる南米系麻薬カルテル通して民族とは関係ない現地の人間を雇って襲わせる…武器共々麻薬売るルートを作り上げる…埃を叩けば相当出てくるんじゃないですかねぇ…」
「我々の戦いが…」
「利用されて、いたのか…」
「抜かりないですよ奴さん。貴方方の敵対民族側にも巧妙な工作してるそうです。まぁ、あちらさんの場合は宗教関連に基づいた火種付けですけどね。併発して行うには最もな理由になり得るでしょうね」
再びの一服。紫煙と共に東洋人は言葉を吐いた。
「あなた方は正義に基づいた戦いを所望のようだ。ならば私もまた『武器』を売らせて頂きましょう」
そう言うと、東洋人は傍に置いてあった黒塗りのアタッシュケースを前へと運び出す。
「アフリカにおいて某企業が活動の際に作り上げた裏帳簿と不自然な金の流れを記載した書類の数々。丁寧にコンゴ語で訳してあるのであなた方にも読みやすいように作り直してあります」
「こ、これは――っ!?」
「何て凄まじい内容なんだ…」
「ボス、下手するといくつかの主要国が混乱を引き起こしかねませんよ…」
書類を早々と目を通していく幹部格の黒人達は内容を確認するや、驚愕の表情で満たされていく。
「…貴様、こんな物をどこで手に入れた」
鋭い目付きでリーダー格の黒人――レギスは東洋人を睨め付けた。
だが、それに対して東洋人は微笑を浮かべるだけでおくびにも出さなかった。
「…まぁいい、この事が真実ならば、小さな紛争にかまけている場合ではない、が――」
小さくため息を吐いたかと思えば、レギスは素早く腰のホルスターにかけていた拳銃を取り出して東洋人へと向けた。
「真実は知れた。だが我々とクロザ族は現時点では今だ敵対状態だ。余計な情報を漏らす程の余裕さえもない。我々の本拠地の地理を知ってしまったお前達をこのまま無事に帰す訳にはいかないのだ」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ!? それじゃあこの情報は――」
渡せない! とネムは言おうとした。
「無論、有効活用させてもらう。お前達の存在を礎にすると共にな」
「そんな横暴な!? そんな事がまかり通るなんて――」
「これは元より我々の戦いだ! 発端がねつ造でなんであれ、その逝く末を決めるのは我々なのだ! 巻き込まれたのは気の毒だが、このまま外の国の者によるお膳立てで終わらせたとなると我らルド族の誇りに傷が付く! これまで母なるアフリカの大地に還った同士達の闘争に意味がなかったと帰結する訳にはいかんのだ」
観点が違うからこその結論。優先すべき物が何かによって変わる納得の材料。
一触即発。この状況を表すならば相応しい言葉だが、東洋人は飽くまで冷徹にこの状況を見通していた。
ギラつく太陽の光が目を保護するサングラスに反射する様は鋭い眼光を表しているようで、東洋人自身の表情を読み取りづらくしている。
「私の身を脅かそうというなら覚悟を決めておいてください」
「何の話だ?」
「ここから南東二十四キロメートル先、総勢六十九人、その中で赤羽の飾り付けが屋根に飾られている家。そこに住むのは三人で大人は白と黄色のチテンゲを着ており、子供二人は男二人で灰色のトップスに色あせた褐色のジーンズ…こちらは昔の輸入品がバザーで販売されたのを買ったものでしょうかね?」
「――――っ!?」
ふと呟かれた情報。それを聞いた途端、レギスは動揺を露わにした。
「き、さ…ま……っ!?」
「この集団にも少年兵はいるようですが、飽くまで志願した者であって非戦闘員である女子供はちゃんとここよりかはマシな地域に避難させている。内戦の活動家の中で貴方はどうやら比較的まともな部類に入っているのはこの情報を通して確認させていただきました」
「ぐ、ぐぅっ…!!」
「可愛らしいお子さんと美人な奥さんじゃないですか。素敵なご家族を戦いの空気に晒したくないのは分かりますが、もう少し注意を払った方がよくありませんか? これではうっかり居場所の情報が漏れてしまって敵に人質として捉えられてしまいます。そうなるとどんな惨たらしい扱いをされるやら…想像するだけでも恐ろしいです」
覚悟しておいたほうがいいというのはつまり…。
「レギネさん、私は国連NGO団体『CURE』に所属する一団員でありますが、今回は私個人として交渉に赴いている節もあります。鉄火を以て武力で制し、敗者を従わせる。まさに弱肉強食の摂理に則った常套手段ではありますが、世の中には存在そのものが爆弾のような人間もいる。何もしなければただの置物に等しくとも、一度刺激すれば後の事は保証できない。私はそういう人間だとご理解していただきたいのです」
東洋人はおもむろに立ち上がり、ズボンに付いた土を“パンパン!”と払い落とした。
「ですから、何事もなく、お互いの利益になる判断をしようではありませんか」
そう言ってサングラスに指をかけ、額にずらした。
すると先ほどの冷徹な雰囲気が取り払われ、代わりに温和な物腰をした雰囲気が前に出された。
優しそうな眼差し。だが、左目の目尻に刻まれている古いナイフ傷によってどこか威圧感を孕んだ視線。
「ね、簡単でしょ?」
東洋人はニッコリと笑った。
レギスだけではない。周りにいた彼の仲間達もまた、目の前の東洋人に底知れぬ恐怖を覚え始めていた。
「いやー半分だけじゃなく全部返してくれるとは気前良かったな。ネムさんもそう思いませんか?」
救援物資を積み込んだ大型トラック。前部座席には例の二人が乗っていた。
助手席には大立ち回りを演じた東洋人。運転席には白人のネム。
「もう嫌だ。これ以上この人といたら絶対死ぬ…ははは、神は何でこの人を仕事仲間として選んだんだ……」
「あ、もしかしてやばい感じ?」
ぶつぶつと独り言を呟きながらトラックを運転するネムの姿は心身喪失していた。
よほど怖いものを見てきたに違いない。見せた当の本人は勝手に納得した。
「これで何件目ですかぁ…前回はギャングが蔓延る事で有名なスラムに行って日本式農業を取り組んだ畑作りの仕事を人材教育の目的で斡旋しに行ったり、前々回は小村が生活するため仕方なく栽培していたコカイン畑を強引な手で村を支配していたシンジケートから所有権半ば強奪して知り合いの外国企業によって医療用鎮痛剤として作り変えて販売するルートを形成したり、やる事なす事全部が無茶苦茶だ!」
「でも、最終的には双方納得の上感謝されてるし、余計な蟠りは残っていないんだけどなぁ…。」
「その過程が問題なんですよ! いくらご自身が留学時にて広い交友関係を持ってるとはいえ、ほとんど裸一貫で問題に立ち向かおうと無茶をして危険な目に合われかけたのはこれで何度目だと思っているんですかっ!!」
ハンドルを“ダンッ!”と乱暴に叩くネムは相当苛立った様子だった。
「そんな心配する程度じゃないと思うんだけどなぁ…。今回は今までの中では六番目の危険度に入る部類だったよ。少なくともあの場で撃ち殺されるという選択は出てなかった。初めに銃口を向けられた時ですぐさま察したもん。「あぁ、これは交渉の余地はまだあるな」って――」
「いやいやいや、勘でそう簡単に決めるのはリスクが高すぎですって!」
「勘じゃないですよネムさん。理由は銃口を向けた相手側の配置にその答えがちゃんと出てました。ここで質問です――三百六十度の四方八方から中心を狙うとはいえ、人は銃をぶっ放せると思いますか?」
「え、うーんと…そんな事したら――あっ……」
軍隊では良く知られている知識。セミオート系もしくはその類の銃は撃ってる内に反動で知らずと銃口が上へ上へと向きを変える事が多い。
銃を撃つ時は例外を除いていかなる状況であれ、必ず射線上に味方がいない限り、発砲許可の意志が下されないよう訓練されているのだ。
そう…『同士撃ち』になるのを防ぐために――。
「それが分かったら後は相手の思想を突き崩す要因が揃えばクリアって訳ですよ。相手が話をすれば得になって、断れば損をするに値する人物だと認識させれば…麻薬中毒者じゃないかぎり必ず喰い付いてくれます」
「で、ですけどよくもまぁ、あんな情報手に入れましたね? 一企業の闇の証拠を掴むなんて――」
「あぁ、それってちょっとした仕掛けがあるんです」
「へっ?」
「カーディナル・インダストリーって名前…知ってますか?」
「カーディナル・インダストリーっていえば、数ヶ月前に海外の部品を輸入してそれを使ったスーパーコピー銃を純国産と偽装して販売してた事で裁判が起こされた防衛・軍事産業の会社ですよね? その時は私も家に久しぶりに帰って来ていたから良く覚えてますけど…そこがどうかしたんですか?」
「その裏で南米系麻薬カルテル相手に羽振りのよい武器商売もしていたって報道されていたよねー?」
「確か、そんな話も…って……」
だんだんとネムの顔色が真っ青に染まっていく。とんでもない事実に気が付き始めたからだ。
「企業側はアフリカを中心に商売してた訳じゃないんですよ。むしろ付随としての価値観だったんだろうね。だけどカルテル側が調子に乗り過ぎてアフリカにまで勢力伸ばしてきて、一方でどの国かははっきりと分からない企業拡大のかけ橋とするべく、仲介料的な贈賄をしていたくらいにしか関係はないよ。僕が彼らに渡した書類の真の正体はアフリカにいるそんなカルテル構成員が残したカーディナル・インダストリー自身もどこに銃が転売されていたかほとんど知らない『販売記録』の一部だったって訳」
「という事は…カーディナル・インダストリーが軍需利益を上げるためにアフリカで工作したとか、武器共々麻薬売り付けていたとかは……」
「カルテル達の行動の成り行きに基づいた『結果論』だったりして…」
「まんま詐欺じゃないですかっ!?」
「詐欺じゃないよ。カーディナル・インダストリーがアフリカに企業を広めようとしていた予定があったのは飽くまで本当だったし、スーパーコピー銃の販売を通して仲介料という名の不正な金を受け取っていたのも事実だ。あの証拠を以て国際裁判所へ赴けばスーパーコピー銃の立件掘り返しとはいえ、正式に国として訴訟を起こす事が可能さ。裁判で既に疲弊している企業側にとっては『泣きっ面に蜂』、『寝耳に水』な嫌がらせそのものだけどね。まぁ、世の中には『連帯責任』という物もあるんだし、きっちりその分は責任を果たしてもらわないと」
なんという連鎖反応! なんというとばっちり!
ネムはアフリカから近い未来、多額の賠償やら色々と請求されるであろうカーディナル・インダストリーの事を不憫に思った。
でも、彼らの作った銃のせいで民族紛争に勢いを付ける要因となったのも一つの事実ともあって正直複雑な気持ちになった。
「留学先の大学で親が国際弁護士をしている友達がいてね、ちょっとお願いをして使用済みの資料をコピーして分けてもらったんですよ。いやーパソコンの発展って素晴らしいね、今ではメールどころか資料の共有保存アプリソフトなんて物が開発されてるから世界中どこでも引き出せるって訳だよ」
――たかが『お願い』の部類で譲り受けられる代物じゃあ…。
自分の常識が次第に正しいのか疑わしくなってくるネムであった。
「今回の件で僕自身は一銭の利益も受け取らぬよう訴訟側の関係者として絶対に名乗りは挙げない、飽くまで彼ら民族が第三者の手による不当な活動により被害を被った事への正当な怒りを唱えるための大事な『権利』として処理すべき問題にする。向こうもそういう方向で証拠を利用すると納得してくれてますし、アフリカという国にしても外国勢に対して有利に立つ事が出来るおいしい話にもなり得るからね」
「…これまでもそうでしたけど、あらためて実感が湧きましたよ」
ネムはごくりと唾を飲み込み、意を決して言葉を吐いた。
「アカイ、貴方は相当の『悪党』だ」
これに対し、東洋人――丹は笑い返した。
「――よく言われるよ」
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僕の運命を決めたあの日から既に『九年』の歳月が流れた。
あの日、意識を取り戻した僕の目に映ったのは座席に座りつつ、掛け布団ごと僕の傍に上半身が覆い被さった状態で寝ている絵梨菜の姿だった。
後から医師に聞いた所、僕は一週間も眠っていたらしい。その間、集中治療室から一般病棟へと移されてからは時間が空く限り、一日も欠かさず絵梨菜は僕の看病をしてくれていたそうだ。
あの時とは逆の立場になっちゃったね…。
それからは大変だった。まずは両親が入って来るなり、母さんに軽く拳骨を頂いた。
今まで僕の前で泣いた顔を見せた事がなかった母さんが涙を流しながらだ。唖然としていた僕達を余所に「この子はどこまでも心配をかけてっ!!」と咽び泣く姿に僕は「ごめん…」とそう一言しか言えなかった。
怒りと悲しみには近い物があるらしい。抑えきれない感情は時として突発的な行動に奔らせる。
母さんがしたのはそんな原理に基づいた行動だったんだろう。
次に来たのは絵梨菜の御両親。病室に入ってくるなり、絵梨菜の父親は土下座をしながら絵梨菜を守ってくれた事に感謝を述べ始めた。
社会的地位を考えると雲泥の差がある父さんはしどろもどろに狼狽しながら「あ、頭を上げてください桃山さん!?」と、土下座を続ける絵梨菜の父親の反応に困ってどうにかしようと必死にしてたっけ。
その横で杏奈さんが「私からもお礼を…」と、やや膨らんだお腹の姿でありながらも深々と御辞儀をしていたりもあったな。
「もう! お父さんとお母さんにそんな事されると大抵の人はただ困るだけなんだからむしろ控えてよ! はい、仕切り直し!」
最後は絵梨菜の一言で元の姿勢に戻したんだっけ? だけど代わりに見舞い品として一般家庭では一生お目にかかれそうにない代物を贈品されそうになってますます事態は泥沼化していったけどね…。
あれって今どうしてるかな? 別に今となっちゃどうでもいいか。
このまま続けて更に次から次へと来たのは僕達の知り合い一同。
心配からの気遣いから雑多なくだらない話までと十人十色の会話を楽しんだ。
そこで何気なく僕が撃たれるという事態に陥る前に絵梨菜と何をしていたのかと聞かれた時、その答えが『デートをしていた』という結論を彼らの中で出されてしまい、からかわれ始めてしまった。
いつもなら冷やかす奴をとっちめるんだけど、生憎胸に穴が開くという事後もあって痛くてままならずにそいつの素行を許さざるを得ない方向になってしまったんだ。畜生…。
「もういっその事、本当の恋人になっちゃいなさいよ!」
雛菊からニヤニヤとそう言われ、圭を筆頭とした男友達から「ヒューヒュー!」と囃したてるという状況。
その内一名――瑠璃恵だけが「ずぇーったいに認めませんわ~っ!!」とぎゃんぎゃん叫んでいたが、浅翠により「はーい瑠璃恵様はちょっとこっちで待っていましょうねー?」と空気を読もうと言わんばかりに騒ぐ瑠璃恵を病室の外へと引っ張り上げながら一緒に退出していったっけ…。
瑠璃恵と浅翠の関係って主従関係だよね? 主を従者がそんな扱いして大丈夫なの…?
――まぁ、それは一先ず置いておくとしようか。
このまま甘い雰囲気へと洒落込もうと周りは期待していたそうだけど、物事は楽観視していられる状況には至ってなかった。
なんせ銃創だ。警察用語特だけど医学的には射創ともいう僕が今回受けた傷。
打撲や骨折とかいう生易しい手続き扱いが出来る代物じゃないんだ。
なので、ここで警察の御登場だ。スーツを着た警察官が三名僕の居る病室にやってきたんだ。
彼らは恐喝や薬物、賭け事などの暴力団による犯罪捜査や総合対策を行ったりする捜査大四課所属の警察官であり、今回の事件『3Dプリンタ銃製造違反および密売』における事情聴取が僕に対する目的だった。
傷の具合を心配してくれると共に事件の概要を警察官は関係者以外を退出させてから語っていった。
被疑者――虹音百合が発砲したのは巷で有名になっている3D銃という物であり、これはとある暴力団関係から流出した物との見解だ。
百合は家出してから首都圏にあるバーで住み込みをしながら雑用として働いていたらしい。
けど、そこのオーナーは未成年売春を斡旋し、脱法ハーブやLSDといった麻薬を客に密売するという橋渡しを担う事で警察からもマークされていた札付きの不良として有名な男だったそうだ。
言葉巧みに百合は騙され、強引に売春グループによって客を取らされ、挙句の果てには反抗心を失わせる目的で覚醒剤漬けにされる始末。
後は堕ちるだけ堕ちていった。男共によって嬲り者にされ続け、監禁されていた場所では生きるためには奴隷同然の扱いに甘んじていたらしい。
だけど、薬物が切れた事による『オーバードーズ』が原因かは分からないけど、突飛なきっかけで百合は「このままではいつか捨てられる」という恐怖が浮かび、この状況に甘んじる漫然な心を押しのけた。おかげで隙を見て逃げ出そうと決めたんだって…護身用として暴力団所有の建物にあった商品の棚卸途中であり、密売のために梱包してあった『3D銃』を段ボール箱から掠め取ってから……。
「今回、君に使われたのがそれだ」
「被疑者は警察病院にて隔離病棟から三日後に一般閉鎖病棟へと移されましたが、それ以来ずっと上の空な状態です。稀に話が出来ても現実と空想の区別がつかない発言を繰り返すばかりなんです」
「それに、時折いきなり取り乱したりする等といったパニック障害や強迫性障害といった精神障害・精神的疾患によって被疑者はもはやボロボロでした…」
次々と語られる百合の悲劇。
僕の隣で絵梨菜は唖然としたまま聞き続けていた。
自分を殺そうとした相手とはいえ、百合が受けた壮絶な仕打ちは同じ女性として到底認められないものばかりな筈だ。いや、男性にしても唾棄すべき事実に違いない。
たとえきっかけを作る事となった『黒幕』だとしてもだ…。
当然、警察官は百合との関係性も僕達に質問してきた。
百合が絵梨菜にした事が警察にとうとう知られてしまったからだった。
当然だろう。ここまで大事にしてしまった以上、学園や企業でさえ防げない事は多くある。
ましてや本人が喋ってしまったんだ。薬物による精神的依存と離脱症状で発作や癲癇といった苦しみを味わい続けている百合が「全部あいつのせいだ!」と狂乱した姿で喚いていたそうだ。
でも僕の事はまったく話してないらしい。なるほど、彼女にとって僕は最後の最後までモブとして扱われていた訳か…。眼中にないという意味だね。
だから、絵梨菜に今回の事件に関わる成り立ちを聴取するのが主だった。
ここで向けてくる警察官の目は嫌な物だったよ…相手は仕事柄誰に対しても区別なくそういう意識構えで聴取を行っているのかもしれないけど、向けられる側にとっては不快感極まりないね。
僕に向けるんだったら納得できる。だけど何で絵梨菜に『それ』をするんだ!
そんな中、密かに憤る僕を察してくれたのか、絵梨菜は「大丈夫」と一言言った。
彼女は怯む事なく警察の聴取に対して悠然と立ち向かっていったんだ。
逆に警察官が確証のない内容を質問をしている事に指摘と非難をしてしまうくらいだった。最後には気まずい顔して帰って行ったっけ…。
元よりアリバイしかない身である絵梨菜だ。しかも弁が立つともあっては適う筈もない。
相手が悪かったとしか言いようがないね。
でも警察を邪険にするつもりはない。むしろ彼らの存在のおかげで僕が撃たれた後に絵梨菜を救ってくれた所もあった。
3D銃を振り回す百合を無力化したのは偶々現場近くにいた一人の刑事だと絵梨菜から直接聞いた。救急車を手配してくれたのもその人らしい。
絵梨菜が言うには今度お礼を申し上げたいが、この忙しい状況ではその人に会うのは難しいとの事。
…だけど、この事件における騒動はあっけない程すぐに鎮静化していった。
百合の『計画・場当たり的を経て薬物使用による犯行』として最後は処理されていった。
恐らく、またしても学園や企業の裏取引――。
こういった事に詳しそうな絵梨菜の父親から丁寧に話を伺った所、百合の取り巻きだったあの四人の親族や、百合が転校前にいた学校における被害者達が揃いに揃って百合へと起訴を起こし始めているそうだ。
取り巻き達は詐欺やら教唆やらときっと全てを擦り付けるつもりだろう。使える物は全て使おうって魂胆って訳か…。
とは言っても、本人達が出しゃばっている様子は見られないとされている。大人の背中に隠れて傍観の立場を取る事の表しかな。
あの四人もいじめに協力したのは間違いないけど、上手くやれば情状酌量が認められるだろう。
ちょっと気に食わないけどね…呑み込まないといけないのは心のどこかでは僕も分かっている。それに僕としては彼らに対しての蟠りはきっぱり消し去る事にしている。
彼らが僕を糾弾する時が来れば自由にさせてやる。だけど彼らの未来を案じる事まではするつもりはない。
結局他人事なのさ…。どうでも良いと思うものは徹底して見方を変えずに貫くよ。
AOIの企業が今後の経済でどんな制約を受けるかは流石に機密保持で知れない所は多かったけど、学園の方は一部特権を放棄・譲与して経営権が別の誰かに移り変わるかもしれないという話は聞いている。
世の中という膨大な力の奔流が何かを削り取り、蓄積していく。
僕の罪--『負け』を完全に認めるその日が来るまで来る者は拒まず迎え入れ、戦い続ける覚悟を決めていたけど、この程度、ちっぽけな事象だという風に僕への影響はあまりにも小さかった。
運が良いだけでは片づけられない結末。虚ろな思考のまま何事もなく過ごして僕は元の生活へと戻っていった。
後、絵梨菜との関係も徐々に変わっていった。
それを周りの人達に隠しているのは相変わらずだったけど、友達としての範疇に収まる類ではなくなったのは確かだった。
これまで色んな理由を態々付けて絵梨菜との距離を取っていた。でも、もう止める事にした。
――それに『あんな事』をストレートに聞かされちゃあなぁ…。
盗み聞きに等しい形で絵梨菜の僕に対する恋慕の情を聞いたのも大きいけど、何より奇しくも退院日と重なった『あの日』にこの話を被せてくるとは流石の僕にも予想が付かなかったからね。
――10月15日――
この日は何の日か? 実は――僕の誕生日なんだ…。
今年――言うなれば近状はごたごたが多すぎてそんな事をゆっくり味わっている暇はないと考えていたんだ「けど、病院から自宅へ帰ってきた当日、ふと絵梨菜が約四年ぶりに僕の家を訪れて来たんだ。
いきなりの来訪だったけど、両親は歓呼して迎える程に絵梨菜の事を気に入ってたくらいだ。たちまち家の中がお祭り騒ぎみたいに喧しくなった。
こちとら怪我上がりだっていうのに…まぁ、リハビリ頑張ったから調子はすこぶる回復した後だったし、別に良かったけどね。
一通りお祭り騒ぎが終わった後、僕と絵梨菜は寒気が吹き出しつつある初冬の庭でたむろしていた。
「ここに来るのも懐かしいね。あ! あの時の枇杷の木! まだあったんだ…」
本当に懐かしそうにして僕の家の庭を眺める絵梨菜に対し、僕は何故今日に限って家に来てみようと思ったのかを聞いてみた。
ここで今日は自分の誕生日だって絵梨菜に伝えられて「あっ」と小さく声を漏らしたっけ…。
僕を含めて家族全員、退院の手続きやら何やらと他のやるべき事が多かったせいで、誕生日の話題なんて出さないまま今日を終わる所だった。
そういや昨年、同じ日で絵梨菜から何か貰った様な…。
如何せん、この頃はこういった出来事にほとんど無関心だったから記憶に残せていない…本人に聞かれたら怒られる事間違いない失態だね。
でも、それなら態々家に来なくてもいいんじゃないか? って逆に聞いた。昨年みたいに学園でこういう事はしてくれるだけで十分だって伝えたんだ。
「誕生日だからじゃない。私も良く分からないの…けど、会いたくなったの。丹君に、会いたいって…」
…いきなりそんな風に言われると背中がこそばゆくなるよ。悪い意味じゃなく良い意味で。
「私、本当は我儘な人間だと思ってる。欲しい物があれば沢山努力してその代わりに手に入れてきたくらいだから。でも一番欲しいと考える物にはずっと手を出せなかった。私が手にするには勿体ないって考えてて…ううん、そんなんじゃないわ」
いつもの僕ならここで冗談の一つや二つでも出すんだけど、絵梨菜の顔を見てしまうと出来なくなった。
笑顔を絶やさないのが常な絵梨菜が緊張を顔に出している。
それがいかに珍しい事か。彼女を知っている者ならば気付く異常。
「怖かったんだと思う。これだけは挑戦してみて、もし失敗して何かが変わってしまうのが見たくなかったんだわ」
凛とした仕草は抜けていた。そこにいるのは唯一人の少女。
「でも、もう平気…覚悟したから、どんな事になってもちゃんと受け止めるって決めたから……」
そう言って、絵梨菜はその場で大きく深呼吸をした。
「…私、丹君が――」
「――好きです……!」
言葉を受け入れるにはこの時の僕にはしばらく時間が必要だった。
言葉は理解していた。でもそれを聞いてどうすればいいか次が思い浮かばず、その場で立ち尽くしたんだっけ。
これを絵梨菜は僕が困っていると思ったらしく、「なーんてね! ちょっと言ってみたくなっただけだから気にしないで!」と誤魔化すようにその場から直ぐに立ち去ろうとした。
けど僕だって男だ。絵梨菜みたいな極上の相手にそう言われて嬉しくない訳がない。
――何もかも受け入れる。
何かを言い訳にして諦める事はもう止めた。だからこそ、自分が何をしてきたのか、正体が何なのかは関係無しで想いに応える『覚悟』を決めた。
たとえそれが恥知らず、卑怯者とも罵られる結果になろうとも…。
帰ろうとする絵梨菜の腕を掴んで引き止めた後、慣れない事をする際に湧き上がる緊張を引き連れたまま、しっかりと絵梨菜を僕の前に向き合わせてから僕は言った。
「僕は…」
子供として、大人として、どちらに合わせるかを考えず、思った事をただひたすらに返していった。
「僕は君が思っているような人間じゃないと思う。でも、もしも…それでよければ……」
その次だったんだよ…。
「えーっと、それでよければ…その……」
言葉が、思い浮かばないんだ!
告白なんて全人生(合計約四十年)の中で一度もした事ないんだよ!
悪いか! もう何言ってるのか分かんないけど、僕は草食系男子なんだよ!
「傍に…いや、やっぱりそうじゃなくて……」
傍目から見ても、この時の僕はウジウジしていて情けない事この上ない存在だっただろう。
だから、ちょっと怒っちゃったんだろうねぇ…。
「あのねぇ…」
いつの間にか呆れた顔になっていた絵梨菜は若干不機嫌な顔をしながら溜め息を吐いた後――。
「君を――ほがっ!?」
――片手で僕の襟元を掴みながら顔を近づけて来たんだ。
何をするんだ? と聞く前に苛立った声で絵梨菜が叫んだ。
「前置きは良いから! この場合、言うべき言葉を十文字以内にまとめて伝えればいいのよ! さぁ、早く!」
「っ!! --きです…」
「え、何!? もっとはっきり言ってくれなきゃ聞こえないよ!?」
「僕は君が好きですっ!!!!!」
最高で最悪の告白だったよ。僕にとっては…。
ガラスに張りつくようにして僕と絵梨菜の告白をニヤニヤと見守っていた両親の姿を見たらますます感情が抑えきれなくなったね。しばらく家の中で暴れたよ。
夜とはいえ、住宅街の真っ只中で全力の声による告白なんて今時のドラマやアニメだってやらないよ。
古臭いとしか言いようがないよ…。
そう、古臭いんだ…それなのに……。
僕が恥ずかしい思いでいっぱいな中、絵梨菜は『泣きながら笑って喜んでる』んだもんなぁ…。
まぁ、そんなこんなで僕と絵梨菜の交際が始まったって訳だ。
とはいえ、最初に述べたとおり、学園に在籍している間は極力知り合いの目に触れないように秘密にしながら隠れての交際だったけどね。
それでも知られる人にはしっかりと広まっていった。一番喧しかったのは瑠璃恵だったね!
あいつめ、絵梨菜の親衛隊に僕と交際している事をバラして嗾けようと計画企てていたんだよ!?
『あの事』については嘘を言って利用しようとした事をちゃんと謝って秘密裏に和解したんだけど、それとこれとは別との事で全力で排除しにかかってきた時はさすがの僕も死ぬかと思ったよ!
でも、絵梨菜が本気で決めた事、更には彼女の両親までもが僕の援護に回ってくれるという意外な味方が出来たおかげで撃退に成功したんだ。
僕と絵梨菜の関係に手出しできない事が分かって最後に瑠璃恵は「きぃ~~~っ!!」とハンカチを全力で噛みながら涙目で悔しがって睨んでたっけ…。
ハンカチ噛みながら「きぃ~!」って声出す人初めて見たよ。世の中って本当に広いね…。
僕にとっても、絵梨菜にとっても幸せな日々を過ごしていた。
だけど、僕の中に潜む黒い濁りはそんな幸せな現状に疼きを発していた。
――こうあるべきではない。
割り切った筈だった。でも、その拒絶反応は僕の奥底で声を発していた。
『幸せ過ぎた』からこそ、引っ張られていく。その幸せを失う事への不安が募り出すばかりだった。
「そういえば、今まではっきり聞いた事がなかったわ。丹君はさ、将来はどんな仕事に就きたいと思っているの? 私は教師だっていうのは話した通りだけど…」
そんな時、絵梨菜がふと僕に聞いた。
思えば、夢なんて物をゆっくりと考える暇もなかったこの頃。実際、僕は何を目指しているのか自分自身ですら分かってもいなかった。
日々を平凡に生きていく――。
そんな生き方が生きているって言えるのか? 本当に満足できるのか?
考えれば考えるほど疑問は浮かぶばかりだ。
自分に出来る事は何かをずっと考えて、ようやくたどり着いた答えがあった。
「僕は…植物を育てるのが一番得意なんだ」
僕が趣味として取り組んできた物。そこに答えを見出した。
「だから、この特技を必要としてくれる人のために頑張ってみたい」
チープな夢だと大抵の人はそう評価するかもしれない。でも僕にはとてつもなく大きな夢であり、叶えるべき目標だった。
それから行動は早かった。
志望校として選んでいた大学を押し退け、農学と工学に特化した国立の『農工大学』への志望を決めたんだ。
どうせだったらその分野で一番になるつもりで挑んだっけなぁ…。
こうして迎えた発表日。元より成績は良かったし、偏差値も問題なかったから見事合格できた。
一方として絵梨菜は夢に向かって『教育学部・教員養成学科』として有名な大学への進学を選び、難なく合格した。まぁ、当然だよね…あの『絵梨菜』だし……。
僕はともかく、絵梨菜の進学における方向性を学園の皆は聞いて意外な顔をしていたけど、最終的にはこぞって応援してくれるようになっていたよ。
それに僕と絵梨菜の両親共々、僕達の決断には異を唱えなかった。
特に絵梨菜の両親の方は意外だと感じたよ。多少なりともごねる気がしたんだけど、杏奈さん共々父親は絵梨菜に対して激励の言葉を送ってくれていたらしい。
その傍で僕はまた別で絵梨菜の父親から――
「大学を卒業したら…頼んだぞ……」
――と肩に手を置かれて期待の眼差しで頷きながらそう言われた時はどう返すべきか本気で迷った。
(頼むって何!? 予想出来そうで敢えて言わないし聞きもしないけど、頼むって一体何を…っ!?)
…とまぁ、若干の気まずいやり取りを残したのもつかの間、僕は大学で知識を深め、農工の技術を磨いていったんだけど…再び人生の分岐点に出くわした。
三年目の春学期、講座の告知表で次の授業を確認し終え、この場から立ち去ろうとした時、ふと横目で気になるものを掲示板で発見した。
それは一通のチラシ。
――青年海外協力隊、応募求む!――
デカデカと載る文字に僕は目を釘付けにされた。
場所は南アフリカのとある小さな国。分野を問わず技術・知識や経験を開発途上国の人々のために活かしたいという強い意欲を持つ者が好ましいとの事。
この当時、アフリカという国がどんな国であるかは僕は少なからず知っていた。
純粋に自分の能力を役立てたいという考えからだったんだ。昔みたいに『贖罪』目的で行うための活動を求めたんじゃなく、ただ純粋に…。
日本ではこの能力を生かす場は有り触れている現状だ。だからこそ、本当に必要としてくれる場所で使いたいという挑戦欲と探究欲が僕の中で渦巻き始めたんだ。
でもこの時、僕は何も分かっていなかったんだ。
――凡人は人から与えられた物を当たり前のように享受し、それが正当であると簡単に判断する。
僕が忌み嫌う人間のタイプであるけど、所詮僕もまたその一人でしかないと思い知らされた。
贖罪のため、将来は中東での支援活動をしようと無謀な挑戦に囚われていた頃とは違い、ちゃんとした計画と安全の元、家族全員で今度は話し合いに挑んだ。
罪の意識に囚われる事は出来るだけ控える事にした。既に中東での活動は止めると伝えていたけど、再びの僕から伝えられた海外での活動願望に両親はやはり戸惑った。
でも、危険性はない。よほどの事をしない限り、身の安全は保障されるという利点が今回はあった。
激しく反対はしなかったものの、許可を出してもらうにはやはりじっくりと時間をかけた。
「危なくなったら必ず帰ってきなさい」
最終的にはこれを条件に青年海外協力隊への応募を許可してもらえた。
絵梨菜にもこの事を報告した時、僕の身を案じる事はあったけど、理解を示してくれたおかげで「頑張って!」と激励を頂いた。
こうして、狭い門を潜って運よく青年海外協力隊のメンバーに選ばれた僕は南アフリカで活動を始めた。
日本の四季とは正反対となるこの地域は晴天の日が多く、世界で最も日照時間が長いため空気が常に乾燥している。
けど十km単位の移動で直ぐに気候が変わり、逆に雨の多い地域へと早変わりするのも珍しくない。
にも関わらず、ここでは水は貴重品だ。たとえ泥水であろうとも、この国の人々は一家総出で守ろうとするくらいにだ。
僕が担当する事になったのはそんな小さな村だった。
色々な所から僕と同じく志を共にしてやってきたメンバーと共に村の支援を行っていった。
畑作りは基本だ。井戸掘りもやったし、簡単な家作りもやった。
ここに来て驚いた事。それは子供が多い事だった。
アフリカでは子供は貴重な労働力として見られている。それにこの国では子供一人における養育費は意外にも非常に安いんだ。
日本みたいに『余計な物事』が少ない以上、育てるのにかけたコスト以上のメリットが期待されているんだ。
何だか経済成長における自国の弊害を思い知らされてしまった気がしたよ。
でも、この国にとって子供が多いのはそんな『旨味』を大事にしている訳じゃない。
残酷――無慈悲でむごたらしく、まともに直視できないような様。
僕達はこの言葉をいかに安っぽく利用していたか思い知らされる出来事がこの国には多く存在していた。
ある日、僕は自分の国に伝わる遊びや玩具を作ったり教えたりして村の子供達と遊んでいたんだ。
実を言うとね、青年海外協力隊って上からの指示に厳しいんだ。指示をされない限り、活動をしてはいけないという、なんとも機械的な方針によって手持ち無沙汰になる者が多発していた。
特に僕のような若い人員はね…。ベテランが優先されるのはどこでも同じって訳さ。
そんな制限ギリギリな身でありながら、村の子供達との接触が多かった僕は一人の少女からあるお願いを受けた。
「遠くの村に住んでいるお友達に玩具をプレゼントしたいの!」
自分だけじゃなく、楽しみを他にも分けてあげたいという思い。少女の純粋な思いに報いてやりたいと感じた。
本来なら別の村――活動指定外の場所には勝手に赴いてはいけない決まりだった。でも、車で小一時間かけて向かえば辿りつける場所にその村はあった。
ルールを破るのは禁止されている。だけど、僕の膨れ上がった情は『たかが決まり事』という認識を生み出し、親切心のブレーキを解除してしまった。
食糧と水を街へ買い出しに向かう係がちょうど回っていたその日、相方のメンバーを上手く言い包めて「ただ頼まれた玩具を渡しにいくだけだから!」と強く言い出せないのを良い事に僕は車で向かったんだ。
無事に村へとたどり着き、事情を村の人達に説明してからお目当ての子供に頼まれた玩具をプレゼントしていざ帰ろうとした。その時だった…。
――『地獄の悪鬼共』がやってきたんだ。
その正体は『反政府武装勢力』。今、この国を収める強硬派の大統領による政情不安を理由として、自分らの代表を代わりにその椅子へと立てるのを目的として勢力を拡大しつつある集団。
この村は国境ギリギリでその国に所属している村だったんだ。
突然だった。本当に突然の出来事だった…。
銃弾で頭がはじけ飛ぶ男――。
銃剣で滅多刺しにされる老人――。
マチューテ(大鉈)で手足を切断される女――。
泣き叫びながら肩に背負われ拉致されていく子供――。
正直言って、今となってはこれ以上言い表したくない…。
偶然にもその場に出くわした僕達二人はこの目で地獄を見た。
そして、死ぬ気で…『逃げた』。
そう、『逃げたんだ』…僕は……。
虐殺で哭き喚き、懇願し、絶望を味わい続ける村の人々を置き去りにして…僕は……。
――ぼ、く…は……っ!!!
どう逃げたのかも覚えていない。相方が唖然とする僕を無理やり車に乗せて全速力で元の村に逃げ帰ったというのは覚えている。
あの光景が夢じゃなかったって事は車に残る幾つもの銃痕が物語っていた。
勝手に別の村へ向かった事を怒られた。だけど、激しいショックが僕の感覚を麻痺させていた。
何て言われて怒られたのか聞かれても、答える事は出来ないだろう。
こうして、どうこうしている内に、僕を含めたメンバーは自国からの帰還命令が下され、問答無用に帰国を余儀なくされた。
近い内に『危険に晒されるかもしれないこの村』を残して…。
「ここから先はこの国の政府と国連の出番だ。私達には何も出来やしない」
代表から告げられた言葉は何とも無責任であり、どこまでも現実的な事実を帯びた重い物だった。
誘導に従うがまま、僕は日本へと帰って来た。
迎えてくれたのは両親と絵梨菜だった。
僕がした事、体験した事…全て彼らは政府を通して知らされていた。
けど、何も言わなかった。ただ普通に父と母と恋人として温かく迎えてくれたんだ。
その夜、久しぶりに泣いた。何ヶ月ぶりの自分のベッドの中で誰にも知られまいと必死に声を抑えながら…。
あの時の弱さを知られるのが嫌だったのかもしれない。
やがて、僕の中にはあの時の自分自身とあの理不尽な出来事に対する怒りが込み上げて来ていた。
人に対する慈愛や情を追い越して、元々持っていた何かを破壊する代わりに…。
無理だと言われても、無茶だと言われても、無謀だと言われても――。
もう、僕は逃げないと決めた。ハッキリ言って狂喜の沙汰としか言いようがない。
狂わなければ付き進めない事だってある。そう信じた。
再びアフリカへ赴くべく、僕は『あの計画』を呼び覚ます事に決めた。行き先は中東からアフリカに変えてね。
今からでも遅くない。海外大学編入留学を有無を言わさず勝手に決め、NGOへの入団条件を満たすべく計画を立てていった。
誰にも僕を止められない。
そう思っていたけど、簡単に心の隙間に入り込まれたんだな、これが…。
またしても絵梨菜の御登場という訳さ。
彼女は僕が自分の命を犠牲にしてまで成し遂げようとしている事をあっさりと見破ったんだ。
でも絵梨菜は「止めて」とは言わなかった。
「このままたった一人で戦うつもりなの?」
むしろ目標を貫くため、冷静に判断していく事を説いた。
痛みを伴わず、平和的に解決する策を模索する事こそが目指すべき道だと静かに諭してくれた。
絵梨菜は確実に『先生』の道を突き進んでいるのを実感できた瞬間だった。
「それと、絶対に死んでたまるか! って思えるような物を私に残して。そうしたら、丹君が目指す事を応援する人が私だけになっても支え続けてあげる。だから――」
残すべき物――。
絵梨菜に提示された物を聞いて、僕は初めは戸惑ったよ。
軽々しく口にすべき物ではないのは確かな事。
「――何も言わないで…」
僕の胸に寄りかかる絵梨菜。シャツ越しに伝わる体温。
そして、小刻みに伝わる震え…。
本当に言いたい事を我慢して、僕を見送ろうとする彼女の姿が苦しかった。
同時に、酷く愛おしく感じられて仕方がなかった。
絵梨菜の頬に優しくキスをしてから唇にもそっと触れる。
「嬉しい…」
柔く花咲く笑顔。このままずっと眺めていたいけど、刺激された本能に対する我慢に歯止めが効かなくなっていた。
互いの吐息が溶けそうなほど熱い口付けを交わしていった。
始めは逃げるように、けれど次第に応えてくる絵梨菜の舌をたっぷりと堪能しながら僕は彼女の服に指をかけていった。
――やがて・ ・ ・。
編入留学してからは只管がむしゃらに学んだ。役に立つかもしれないと目を付けた物は片っ端から必死で吸収した。
語学、医学、薬学、法律学、経済学、心理学、平和学、環境学…etc……。
一つの道を究める事は出来なくとも、それを人生の手段・道具としてこの身に肉付けた。本来なら交わる筈のない物事でさえ、形のまま『組み立てる』という方向性を以て判断を下す。
他人からの評価など気にはせず、ただ『再びあの地に挑む』という一つの目標のために…。
大学四年生での編入から大学院の在期を終えた三年目、僕はあの地で活動するに相応しい立場として選んだ職場。
それこそが国連NGO団体『CURE』だ。
普通のNGO団体とは違い、国連の諸機関と公式な関係をもつNGO。
非政府性,国際性,非営利性などの登録基準を元に様々な支援活動を行う新規団体。
ここに入るまでには途方もない苦労話があったけど、長くなるから敢えて省略させてもらおう。
色々と留学先や日本の交友関係を使って推薦を貰ったって事ぐらいかな?
僕は大学の専攻の関係から日本式農業を現地の人々に教える人員として今現在、活動を続けている。
けどそれだけでは留まっていない。
ここまで来た以上、僕は全ての力を以てしてこの大地に挑み続けている。
善悪問わず、使える物は全て使うスタンスだ。
万人が『ヤバい』と思える物だとしてもね。
――――――――――――――――――――
僕達が乗る大型トラックが辿り着いたのは辺り一面に木々を挟みながらテントが張られた難民キャンプ。
白い布地がずらりと並ぶ印象的な光景は見る者が見れば一つの芸術だろう。
そんなテントの中から一斉に人々が出てくる。老若男女問わずトラックへと集まって来た。
「やぁ、ただいま皆」
人々の中心として振る舞うかのように、僕は助手席から顔を出して彼らに手を振った。
「アッカーだ! アッカーが帰って来た!」
「大丈夫だったんですかアッカーさん!? まさか、撃たれたりしたんじゃ…」
「おい、ドクター呼んで来い!」
その途端、ざわめき出す人々。
そうそう、ここでは僕は言葉の都合上として「アッカー」って呼ばれているんだ。
丹という日本語の読み方だと最後まで読めず詰まってしまうため、「アッカー」という発音になって呼ばれたのがきっかけさ。
ここでのあだ名みたいな物さ。普通にアカイと呼んでくれる人もちゃんといるよ。
そうしている内に誰が読んだのか、白シャツと青ジーンズの服装をした金髪の女性がやってきた。
「嘘でしょ…本当に取り返してきたの? あなた…」
「あ、キュリア先生。只今戻りました。これで当分はここも大丈夫でしょう」
「今度こそあなたの死体を検死する日がやってきたかと覚悟していたのよ、これでも…」
「残念ですが、ゴキブリ並にしぶとく意地汚く生き残るのが得意技なんですよ」
「どんな特技よ!? まぁ、でも…本当にありがとう! これで薬品や糸を希釈したり代用したりせずにちゃんとした治療が続けられるわ! さぁ皆、はやく運んで! とりあえず至急消炎剤が入用な患者がいるから急ぎなさい!」
『CURE』所属の医師団であり、彼らの代表であるキュリア・アップルトンさん。
アメリカ人であり、オックスフォード大学のメディカルスクールを卒業した経歴を持つ優秀な医師だ。
栄養失調や感染症で苦しむアフリカの現地人達を今まで多く救ってきた大ベテラン。誰もが紛うことなき尊敬に値する人だ。
「それとアカイ、さっそく団長が呼んでるからすぐに向かった方がいいわよ?」
「やれやれ、またお小言を頂きに行くとするか」
「…私は無関係ですから。唯の運転手として付き添っただけですので」
「あ、ネム。あなたの方は副団長が呼んでるわよ?」
「神は死んだ!?」
副団長おっかないもんな~。元SAS(イギリス陸軍特殊部隊)隊員という異例の経歴とあってか怒る時はどっかの軍曹並に罵声を浴びせてくる事で有名だし。
頑張ってねネムさん。いつもは頼りなさそうに見えるあなたですけど、13ヶ国の言葉を話せるバイリンガルとして有用な人材なんですから。
数多く並ぶテントの中、一つだけ『CURE』のシンボルマークが描かれた団旗が飾られているテント。
そこがここ『CURE』の本部テントだ。職員が会議や情報といった有用の際に集まる。
「アーロン団長、丹です。ただいま戻りました」
「入りなさい」
断りを入れてから僕はテント幕を上げて中に入った。
そこには多くの資料に囲まれ、簡易テーブルで書類作業を続けるメガネをかけた白髪の男性がいた。
彼こそが『CURE』を纏め上げる団長――アーロン・ウィルキンソンその人だ。
僕は形式的な礼をとってから報告を始めた。
綺麗に簡略化した過程状況を分かりやすいように伝えていく。
「――以上が事の顛末となります」
「なるほど、救援物資の件は君の伝手を以て平和的に解決――と、それでいいかな?」
「えぇ、交換条件として渡した情報や書類には保険を付けてます。約束を取り違えるような真似をしようものなら逆に牙を向く事になるでしょう。」
「…今まで君の活動報告を聞いてきた身ではあるんだが、本当に末恐ろしいな、君は」
「恐縮です」
「いや、今回の場合は本部に報告しやすいケースなんだが、君はその…時々やり過ぎるからな」
「おや、何の話でしょうか?」
まぁ、色々やってきましたから。
「例えば二週間前、北と中央の国境に位置する山岳地帯には反政府軍が村一帯を強奪して作り上げたアジトがあったそうだな。奴らには国も頭を悩ませていたらしく、自然の要塞と化したあのアジトを中々陥落出来ず、近隣地域では身勝手な略奪を起こされる始末だった」
「あーそんな事もありましたね」
「だが突如として山の山腹を流れていた川が崖崩れによって氾濫を起こし、反政府軍ごとアジトを波濤が襲ったそうだ。これによって混乱している反政府軍を余所に政府軍の進攻によってたちまち一夜にして制圧を完了したらしい」
「おかげで芋づる式に政府側に潜んでいた反政府軍の幹部達も捕縛されていき、他国に来ていた避難民達もしだいに帰郷出来るようになってるとも聞いてます」
元々あの国は政治態勢がしっかりしていたしね。
余計な過激派の暴走で起きたテロリズムは害悪以外の何物でもなかったよ。
「アカイ、その時期は君、近くの土地に派遣されていたよな? 偶然にも…」
「そうなんですよ。いやー民間軍事派遣会社からの警備員がいるとはいえ、いつ反政府軍が流れてくるかと内心ドキドキしてましたね。満足に夜眠れずにいたんですよ?」
僕はその時の光景をニコニコと笑みを絶やさず語った。
「そうかそうか、実はこっちもバオから妙な報告を受け取っていてな…」
これに対してアーロン団長も微笑んでいた。
「つい最近、バオがこの近くにある地雷原から掘り起こして撤去する中に『爆薬』がすっからかんになっている地雷がいくつか見つかるという不発弾にしてもありえないのが出てきたって驚いていたぞ」
「おや、間抜けな工作兵が戦争時ではいたんですね」
ちなみに、バオさんというのはベトナム出身の地雷・不発弾処理班として『CURE』で活動している人の事だ。
「それに、アカイ…派遣先の地域から支給物を要請していたな。肥料やら野菜の種やらと君の活動内容としては何のおかしい事はない。だが、『オレンジ』が異様に多かったのは何でだ?」
「あれ、知りませんでした? 僕って意外とオレンジが好きなんですよ? それに向こうで仲良くなった人達にもおすそ分けしたかったですし」
「おまけに今使っているのが故障したから本部に残っている『旧式の携帯電話』を送って欲しいと言ったな?」
「あぁそうそう、実はまた壊しちゃったんですよ。ここに帰ってから再び携帯電話を配給してもらったの知ってますよね?」
「あと、つい最近補充した筈なのに車の『ガソリン』の減りが早かったなんて話が出てきていたな」
「ガソリンは貴重ですからね。ここでは移動手段がなくなるとたちまち野垂れ死になる確率が跳ね上がる事で有名ですし」
「極めつけは、備蓄庫から『薬品類』と『洗剤』が微妙に足りなくなっていると報告も出て来たんだが…」
「それはいけませんね。薬はここでは一番有用となる代物です。チェックを怠らない方が良さそうですね」
延々と語られていくここ最近で起きた不思議現象。
アーロン団長はもはや無意味だと悟ったのか、ハッキリと言った。
「君は一体何をしているんだ。もしこの事が公になろうものなら『CURE』は――」
「無くなりませんよ。だって、貴方がいるじゃないですか? 別に僕が独断でやったと告発してもいいですよ。そうですね、カバーストーリーとしては国連の備品を抵抗軍に横流ししていたとか何か…」
「そういう問題じゃない」
「でも捕まったら色々聞かれるんだよなぁ。日本と違って黙秘を押し通せないのが大きいんですよね、外国の司法っていうのは…。うっかり誰かさんの秘密までも漏らしてしまうかもしれませんし…」
「…………」
「ですよね? 奥さんの難病の治療費のため、支援金をいくらか『不正利用』した団長さん? いやー愛する人のために敢えて手を黒く染めるってのは正義感の強い貴方には当時決断力の要る辛い選択でしたでしょうに…」
情報とは最強の武器だと僕は考えている。
国が違くとも、その理論は万国共通だとはっきり言える。
「別に貴方を脅して不正を強制するつもりはありませんよ? 貴方はただ傍観者であって頂きたいだけなのが僕の望みですから。ただ僕をどうするかを決めるのは貴方の自由だ。それを邪魔するつもりは僕には毛頭ありません。けど、僕の意志とは関係なしに選択という物には大きなリスクが沢山あるって事を忘れないで頂きたいって意味ですよ」
言葉に毒を潜ませ、心に入り込んだそれは心の内で蛇の如く這いずり回り、不安を駆り立てていく。
「勘違いしてもらっては困る。私は別に今の地位を失ったり汚名を被る事を恐れているんじゃない。それに、私がした事は誰が何と言おうと後悔する気もない。ただ、君を含めた『CURE』は今、このアフリカに住む人々の命綱となっている」
でも、例外ってのはふとした所に存在したりもする。
「私がどのように去っても『CURE』の灯は消えはしない。英士達の手によって志は明日へと必ず繋げていく事を信じている。だが君は違う、君がしてきた表裏の活躍は諸刃の剣だ。まだ大きな影響はないとはいえ、いつかは自分に返ってくる日が必ず来るだろう」
一直線に伸びる芯の強い心。こいつは僕にとって天敵だろう。
「私は団長として『CURE』を、団員である君をただ案じているのだよ。聞けば御家族への連絡もせず、何年もこの地に留まっているそうじゃないか」
「えぇ、もう三年になりますね…」
「一度くらい帰国したらどうだね? ちょっとした羽休めも重要だ。少しくらいはゆっくりとご家族と過ごす日も悪くなかろう」
「いえ、『特殊な事情』により、彼らに危険が及ばぬよう、少しでも自分の素姓が割れる迂闊な行動を取る訳にも参りませんので…」
「むぅ…」
お互い静寂の時間が流れた。
先に動いたのは僕。ポケットから煙草を取り出してアーロン団長に差し出した。
「吸います?」
「おぉ、頂こう。ここでは町で煙草を買っても中身が半分麻薬だったという奇怪な買い物をしてしまう事があるからな。迂闊に手が出せんのだよ」
咥えてもらった所でライターの火を付けてあげた。
僕もまた、同じように煙草を咥えて火を付けた。
僕が煙草を吸うのは単に口が寂しいからでも、ニコチン中毒だからでもない。
――本音を抑え付け、心の奥底へと隠すためだ。
「…それと、東の国で起きている王族の離婚騒動も君の差し金じゃないのか?」
「御想像にお任せします」
「…まぁ、あそこの王は暗君として有名だったからな。国との繋がりを目的として諸国から嫁いできた三人の王妃によってそれぞれの自国――三ヶ国から圧力をかけられ続けていて、前みたいな税金を湯水の如く使い放題な生活は出来やしないだろう。法律も王族主体ないい加減としか言いようがない部分が多かったしな」
これに関して唯一つ言える事といえば――女の嫉妬は恐ろしい。これに尽きるね。
「けど、三ヶ国の横槍のおかげで逆に前と比べて治安がすこぶる良くなったなんて結果が出ているのも事実だ」
「元々、アフリカの中で石油が輩出するという点ぐらいしか取り柄がなかったようなもんですしね」
だから外交という弱点を突かれたから脆く崩れ去ったって事だ。せっかく優位に立てる要素を持っているんだから利権争いぐらいちゃんと対策しておけって忠告してやりたい程に。
「…こういう風に、手段問わず君の関わった事は良い方向へと導かれているというのが恐ろしい所だ。だからこそ、私は君の扱いに困っているんだがね。しかも証拠は必要以上に残していないというのも怖い所だ。君を糾弾しようにも私の手では手に余るのが正直な話になる」
「こちらこそ、貴方が私服をただ肥やすために不正を働くような輩だったら私の目的のため、潰す事を厭わなかったでしょうね。貴方にはまだまだ『CURE』の団長として働いてもらうのが望ましいと考えてます」
「それは君にとって使い勝手の良い存在としてかな?」
「いえいえ、そんな無粋な扱いをするのは流石に罪悪感が浮かびます。ここでの貴方の存在と意思は好意に値する部類です。良く言えば尊敬に値すると申しましょうか」
ここでニッコリと微笑んだ。
なんの意味でかはハッキリさせずにね。
「やはり君は相当の『悪党』だな。人を救うと同時に、人を惑わす天才だ」
「それは褒め言葉として受け取らせて頂きますよ」
「だが、決して悪意だけで決断しないのも君の良い所とも言えるな。二週間前の事だってちゃんとした理由があってこそ、あのような大胆な真似をしたんじゃないか?」
「そんな大した事はありませんよ」
「いいじゃないか、ほら、話したまえ。これは団長命令だ」
「都合の良い時だけそんな風に権利を使わないでくださいよ」
呆れつつも、仕方なく話し始めた。そうしないと後でちょっと嫌がらせ的な雑務を押し付けられるからね。
「…あの村から避難してきた人の中に、重い心臓の病を患っていて自分の足では立って動けないような妙齢の女性がいたんです。ちょうど、僕の母親と同じくらいの歳の人でした」
その人は早くに夫や子供達を亡くし、親戚のお孫さんに甲斐甲斐しく世話をしてもらいながらも慎ましく暮らしていた。
色んなお話が大好きだった。ベッドから離れられずとも、このアフリカに伝わる昔話や民謡を話して誰かを楽しませてあげるのが得意だった。
「けど、ついに身体が耐え切れず、とうとう天に召されました。僕もその人から色んな面白い話を聞かせてもらったものです。最後の瞬間にも特別立ち会わせてもらった事もありました。彼女は人気者でしたから、大勢の人達が見守ってくれてたんですよ?」
「ほぅ、そんな事が…」
「ですがね…あの人は最後、こう言ったんですよ。「夫と息子達が眠るあの村に帰りたい、帰りたいよぉ…」って泣きながら弱々しい声でね……」
僕とアーロン団長は何も言わない。お互い背を向けて火のついた煙草を手にしながら…。
「君は、その願いを叶える為に…」
「感謝されるような事をしていません。むしろ恨まれた方がマシな気がします。時間をかけずに取り戻すため、強引に何もかも全て流し尽くしてしまったんですよ。彼らの思い出ごとね…。残っているのは泥水の沁みた建物の残骸が残る村の『名残』としか言いようがない物ばかりです」
「だが、元村人達は元気な顔をして村の復興に励んでいると聞いている。どんな形であれ、故郷の地を再び踏めた事は何よりも価値がある事だと村人の一人から言葉を頂いているよ。それに、復興のために使われるであろうアフリカ難民緊急支援として最近募った寄付金の元手は君の伝手によって――」
「単なる自作自演ですよ、それ以外の何物でもありません。本当に感謝を述べるのはイギリスにいる僕の友達の方です。敢えて何も言わずに経営している会社から金を支援してくれた彼こそが褒め称えるべき人間でしょう」
僕はそのままでいい。功労者として讃えられる人間にはならない。
日陰者は日陰者らしく、裏でこそこそとやるのが性分に合っている。
自分の裏の行動に誇りはない。だけど意義はあると信じてはいる。
何とも醜く、身勝手な偽善者。そう、そんな人間で評価されても構わない。
「あ、そういえば君は朝の会議に出席してなかったから聞いてはいなかったな」
「なんですか?」
アーロン団長は思い出したと言わんばかりの素振りで僕へと顔を向けた。
「実は、本部から新しく人員を加入しろとの連絡を受けてね。もう来てもいいくらいなんだが…」
「ねぇねぇ! サイの角って本当は髭が固まって出来たって本当なの?」
「ふふ、本当よ。それにナマケモノの緑っぽい毛って実は藻が張り付いているからなのも知ってた?」
「すげー! じゃあさじゃあさ、東にあるスワジランドって王妃様を決めるお祭りがあるって本当?」
「お、どうやら来たようだな。アカイ、紹介しよう、彼女が…ん、どうしたんだアカイ?」
僕の危険信号が激しく警告を鳴らし続けている。
この場からすぐにでも動き出したいけど、指一本動かすことが出来ない。
冷や汗がドクドクと顔から流れてきているのが感じる。きっとびっしょりだ。
「じゃーねー! また来たら面白い事教えてね!」
「えぇ、約束よ」
声がどんどん近くなってくる。その度に足が震え始める。
恐怖! この僕が恐怖を感じるなんて!?
「おぉ、よくぞ日本からはるばると参られました。初めまして――あれ、ミス? どちらへ…」
足音が近くなってきた。
遂には、止まった…。
僕の真後ろで…。
「イギリスに留学していた頃は時折日本に帰ってきて会ってくれてたけど、国連に就職してから音沙汰無しになるってどういう訳かしら? しかもこの三年間一度も…」
それは色々と不利益を被る側にとっては恨まれるような事をやってきたのが理由だ。
極力、家族や親友の身に危険が及ばぬよう、情報に関しては守秘義務を徹底してきた。
今持っている唯一の情報源であるスマートフォンも『CURE』仕様として設定された代物だし、安易に家族や親友へ電話する手段がここにはほとんどない。
いや、それを作ろうと努力しなかった時点で言い訳にはならないね。
「随分と探したわよー? 本部までわざわざ伺ったり、家の会社絡みでの社交界から情報を必死に聞きまわったり、誰かさんが教えてくれないお蔭で余計な労力がかかっちゃったのよねー?」
直立したまま、金縛りにかかったように動かない僕。
冷や汗は流れっぱなしだ。
「とりあえず…」
“すとんっ!”とスキップしながら僕の真ん前に彼女は回り込んできた。
三年ぶりに見た彼女の姿はとても綺麗だった。
少女らしさはすっかり抜け落ち、大人の女性の魅力が最後にあった頃とは比較にならない程に浮き出ていた。
ワイドに広がるラインが魅力の白いプリーツワンピース――。
優しい青で染められたほっそりとしたデニム――。
幅の広いラフィア帽子――。
服装はここアフリカで動くための機能美を重視した物だ。
それに髪型も昔のようなロングヘアーから打って変わって、肩までのセミロングに整えられたタイトなシルエットと外はねカールで、ナチュラルでクールな印象を引き立たせていた。
一層綺麗になった僕の恋人――絵梨菜に再会した次の瞬間、僕は――。
「一発殴らせなさい」
「えっ?」
――黄金の右ストレートをもろ顔面に頂いたのだった。
「あぶろばっ?!」
脳が揺れて平衡感覚が滅茶苦茶なまま吹き飛ばされ、そのままテントの幕を突き破って外へと出された。
――無茶苦茶痛ぇっ!?
潰れたであろう顔を抑え、必死に痛みに耐え続ける僕を他所に、絵梨菜は態々こちらへやってきた。
そのまま僕の耳を摘み上げ、無理矢理顔を上げさせれた。
「あだだだだっ!?」
「私、約束したよね? 心配をかけないためにも必ず年に数度は連絡を寄越してって…。だけどアフリカの事は私も知っていたから一年くらいは目を瞑ってあげたわ。一生懸命仕事に専念出来るよう便宜を図ってあげたつもりよ」
絵梨菜はにっこりと微笑んでいる。でも目は確実に笑っていない。
完璧怒っている。それも今まで以上に…!?
僕の耳が引き千切れそうになるくらい力を入れている彼女の手を引き離そうとしているんだけど、これがビクともしない。いや、ちょっと本気でやばいから!?
「二年目になって流石に居ても立っても居られなくなったからお父さんの知り合いに頼んで様子を見てもらえるよう、態々依頼しても全然見つからない。そりゃあ私も教師の仕事で色々と活動して忙しかったから直接関われなかったのも仕方がないけど、家族や知り合いにまで情報が流れぬようガードが固すぎるにも程があるのよ!」
――死ぬ! 死ぬ! ギブ! ギブだからっ!?
「お蔭で今年で二十七歳よ! 分かる? アラサーよアラサー! つい最近、社交界で友達に『嫁ぎ遅れ』って冷やかされたのよ!? 私自身、過去の事があるとはいえ、周りは二十歳以内に結婚してるのがほとんどだっていうのに…」
「き、君なら相手に困らない気がするなぁ、なんて…」
「えぇ、そりゃあ貴方なんかより断然素敵な男性から交際や婚約の申し出が出されてきたわよ! でも受けなかった! この意味が分かる!? 貴方みたいな自分の恋人を三年間ほったらかしにするような男なんかに今でも操を捧げているからよ!」
「あ、あはは…それは僕としても冥利に尽きるかなぁ……ぐべぇっ!?」
「これ以上ふざけた事抜かすんだったら奥歯がたがた言わせて焼却炉へゴートゥーヘルよ、オーケー?」
怖えぇっ!! これがあの絵梨菜なのかい!?
堕天してやがる! 長すぎたんだ!
「…今なんか失礼な事考えなかった?」
「いえ、全然っ!」
読心術でも習得してるんですか、絵梨菜さん!?
そ、そういえば、本格的にアフリカへ活動する三年前に絵梨菜の現状を最後に聞いた時、なんか学校の不祥事暴いて別の学校へ転勤する事になったって聞いた事がある。
その学校が進学校とはいえ、なんだか良い噂を聞かない事で有名な高校だって事も…。
…待てよ? そういえばいきなりの事ばかりでさっきから聞いてなかったけど…。
「え、絵梨菜。君って教師の仕事は…?」
「あら、聞いてないの? 今日から私、ここで特別教育アドバイザーとして一緒に活動する事になったから」
「はあぁぁぁっ!? 日本での教師の仕事はどうしたの!?」
「一年前、受け持っていた学生達の卒業と同時に、碌に働かないくせしてふざけた事ばかり抜かして私の仕事を邪魔しくさったジジババ集団な教育委員会の爆弾ネタをマスコミにバラしてから辞めてやったわ。それから出国してヨーロッパで色々と家庭教師や施設の専任教師として教師の活動を続けていたの」
え、なにそれ怖い。自分の故郷が今どうなっているのか激しく気になるんですがそれは…。
でも、それが国連という巨大組織に関われる理由にはならないんだけど。そこはどういう事なの?
この疑問にはいつの間にか近くに来ていたアーロン団長がぽつりと説明してくれた。
「彼女のお蔭で年々減少傾向にあるスポンサーが多く名乗り上げてくれた事により、支援金不足の問題が解決した功績が大きいな。しかも、彼女の加入に至ってはある『御方』の直筆による推薦状まで送られてくる始末だ。これで断ろうものなら逆に反感を買う羽目になる。それを抜きにしても、ミス・エリナは母国で最高峰の大学であるトーキョーユニバーシティーへの進学を五人も底辺校から輩出したという経歴もあり、教師としての実績も申し分ないとの本部の判断だ」
「あら、ヴィッキーったら別にそこまでしなくてもよかったのに…。ほんの少しの間だけ息子さんの家庭教師を受け持ったくらいなのにね」
後に、アーロン団長から絵梨菜がポツリと漏らした『ヴィッキー』とやらの正体を確認したところ、とんでもない大物である事が分かるのは別の話…。
「とにかく! この国に真に必要なのは教育だって判断したからこその判断よ! 言っちゃなんだけど、貴方の捜索はついでよ、つ、い、で!」
「さ、さいですか…」
“ビシッ!”と指を指して今だ地面に倒れこんでいる僕を見下ろす絵梨菜。
「だいたい――っ!」
唐突だった。“ピリリリッ!!”と電話音が鳴り出したのは…。
聞き慣れた音でないため、誰の物かは僕とアーロン団長もすぐに分かった筈だ。
それをよそ目に絵梨菜はポケットからスマートフォンを取り出した。
あ、古い機種ばっかしか使ってなかったから新機種見たのは久しぶりだ。
そんなどうでも良い事を考えつつ、誰かと話している絵梨菜を見つめた。
「え? 代わって? うん、いいけど…」
話が付いたのか、絵梨菜は先ほどまで使っていたスマートフォンを僕に差し出してきた。
何も言わず「早く取りなさい」と暗に言う風に首を振る絵梨菜。
僕はスマートフォンを手にしてから恐る恐ると耳に押し当てた。
「…もしもし?」
「あらーお久しぶりね白水さん! 元気にしていらした?」
この声は…。
「杏奈さん?」
「あらやだ、遠慮せずにお義母さんと呼んでもいいのですよ? むしろ呼んでくださった方が喜ばしいわ」
声の主は絵梨菜の母親――杏奈さんだった。
声を聞くのは絵梨菜と同じくらい久しぶりな存在だ。
それよりも、お義母さんって…。
「あの、ちなみにどういったご用件で?」
敢えて僕は杏奈さんの要望をスルーし、主旨を伺う事にした。
「そろそろ絵梨菜が貴方の元に着いて早々に何かを仕出かすかと…」
「大当たりです」
読心術の次は予知能力ですか。この家族、実は超能力者なんじゃないの?
「でも、こればかりは貴方が全面的に悪いとしか言いようがありませんね」
「…返す言葉もございません」
「健気に貴方の事を待ち続ける娘の姿は母として本当に心苦しい想いでした。にも関わらず、貴方からの連絡は一向に訪れない。私としても貴方の無事を祈った日々は貴方の御両親と同じくらい連ねている程にです」
「…父と母は、どうしてますか?」
「御病気もなく健全な姿でいらっしゃいますわ。ただ、少しばかり元気がない様子もあって、貴方の行方に関して私達が調査した結果を聞いて頂くべく、屋敷に招いて養生を兼ねた接待をさせて頂いた事も幾度か…」
「…御厚意に感謝致します」
そうか、何事もないか。僕の事以外は…。
親不孝者だよなぁ。僕って本当に…。
「白水さん、貴方の事情はあらかた理解しておりますわ。何故連絡を取れないのか、帰国をしなくなったのか…」
「…………」
「ですけど、それを理由に放ったらかしにされるのはあの子には納得出来ないのですよ」
「ですが…」
「危険だというのは十分承知しております。親としても本音は止めたい気持ちでいっぱいです。それでも、あの子にとって貴方は替えの利かない存在。命を賭ける理由が十分な程に…」
そうは言っても、こっちは遊びでやっている訳じゃない。
漫画や小説みたいに都合の良い展開など早々訪れはしない。
愛だの恋だのという生半可な感情でやっていける場所じゃないんだ。
僕だってここでずっと上手くいってた訳じゃない。幾度も失敗してきた。理不尽に打ちひしがれてきたんだ。
言っちゃ悪いけど、足手まといになるなら容赦なく切り捨てるくらいに冷酷な部分も持ち合わせているんだよ。
「…ですけどあの子が怒ってるのは本当は別の事なんでしょうけどね」
「んっ?」
「白水さん、貴方…」
「イギリスで何人の女性と関係を持ってらっしゃるのかしら?」
「え、ちょっ、待っ!?」
何の話!? 全く身に覚えがないんだけど!?
「あの子が言うには、行方を捜す際に立ち寄った貴方の留学先の大学では、交友があった人間の中に何やら『オトした』女性が沢山いたって話を聞いてらっしゃるの」
「いやいやいや! 全くもって身に覚えがございません! たとえそうだとして、至極健全な関係だと存じます! それにそういう関係は絵梨菜だけで――」
「あら、やはりもう済ましてらっしゃったのね。ちなみに初めてはいつ頃でして? ぜひ聞かして頂きたい所ですわ」
「あ、いけねっ!?」
なんつー事を話しているんだ僕は!? それに杏奈さんもそんな女子トークみたいにワクワクした声で聞かないでくださいよ!
確かに、男女構わず相談事に乗って解決してあげた事は沢山あったよ。
でも、この頃は裏表関係無しに気分の赴くがままに行動したのが多かった気がするよ。
偶にゲイバーで何故かバイトする事になったり、酒に酔った女の先輩に逆レイプ紛いな事されそうになったとか、特殊な出来事以外は本当に何もないんだ。
あと、本場王様ゲームで無茶な要求をされてやむを得ずやった事とか…あれ、もしかすると僕って結構アウト?
それに、イギリスでは友達とはハグの後に頬にキスする挨拶が主流だった。ひょっとして長く過ごす内に認識が変化していっちゃったとか?
「もちろん、貴方の事ですからそんな事はないと信じてますけど、もし事実でしたらあの子は果たしてどのような行動に奔るやら…」
「ち、ちなみに…絵梨菜の身近にいた貴方が考えるとしたらどんな事を?」
「そうですね。過去に受け持っていた絵梨菜の生徒の中には父方が碌に働かない分際で家庭内暴力に奔り、挙句の果てには母方がお子様のために身を粉にして稼いだなけなしの学費と生活費をふんだくっていくような鬼畜でしたので、絵梨菜ったらその父方と『丁寧』に話し合って私のおじい様の伝手を借りてロシアのベーリング海でカニ漁の仕事場を紹介してあげたと聞いておりますわ」
ロシアのベーリング海のカニ漁って確か、毎年何十人もの船員が命を落とす事で有名な超極寒の漁種目じゃなかったっけ…。
それに『丁寧』って…うわぁ、聞きたくねえ! 絵梨菜が本気で怒ると怖いのは昔から知ってるんだ。
絶対に碌でもない方法に違いない!
「とにかく、何事もないのならば安心して娘を任せられますわ。貴方は夫と私が認めた男ですもの。ここだけの話ですが、あの子だって本当は貴方にようやく会えると分かった日は昔の頃のように大はしゃぎしてましたよ? きっと今は素直になれないだけなんですよ」
「え、任せるってこのまま彼女をですか!? ちょっと待ってください! こういうのはそう簡単に決められるものじゃ――」
「それと、絵梨菜は結構寂しがり屋ですから、しっかりと構ってあげてくださいね。『良い御報告』をお待ちしておりますわ」
「いや、あ、杏奈さん!? まだ話が――っ!?」
こうして、電話は一方的に切られた。
“ツーツー…”と不通音が無慈悲に残った。
「どうやら、話は終わったようね」
後ろから「待ってました」と言わんばかりに僕の肩に手を置いた絵梨菜。
「さてと、積もる話も色々あるから今日はこの設備の紹介も兼ねて話しに付き合ってもらうわよ?」
「ちなみに、拒否権は?」
「あると思う?」
「ですよねー」
――残念、私の冒険はここで終わってしまった!
一瞬、頭にそんなテロップが過ったのは気のせいではあるまい。
「ちなみに、「君を危険な目に合わせたくない」と言って無理矢理にでも日本に帰そうとしても無駄だから。もしそんな事しようものなら…」
ゴクリと唾を呑んだ。
「社交界で知り合った人達にこの私を相手に『ヤリ逃げした男』と言いふらして二度とアフリカ以外の土を踏めない身にしてあげるから」
「鬼かい君は!?」
「ちなみに、私を上手くどうにかしても、保険として瑠璃恵さんにその役目を代わりに担ってもらうようお願いしてあるから。私から解除の指示を出さない限りはずっとそのままよ」
「マジですか!?」
見える、見えるぞぉー!
瑠璃恵が怪しい笑みを浮かべて「ステンバーイ、ステンバーイですわぁ~!」と今にも情報配信しようとパソコンの前で座っている姿が!
最悪だ! 逃げ場なんてどこにもないじゃないか!? それになんつー人間にそんな役目を負わせてるんだよ!
そんなの、空腹のライオンの目の前に極上肉を置いて「待て」と命令してるような物じゃないか!
「それじゃあ、今後もよろしく。お互い頑張りましょうね、丹君!」
――悪女だ…。
悪役令嬢なんか目じゃないホンマもんの『悪女』がここに居よる!
僕の首に首輪を嵌めて、繋いだ鎖を手綱にしてニコニコと微笑んでいるような様子が浮かんで仕方がない。
追加で『大魔王からは逃げられない!』のテロップも頭を過りそうだよ。
あぁ、何でこうなっちゃったんだろう。
うん、間違いなく自分のせいだよね。分かってたよこんちくしょう。
――本気で責任を取るしかないね。
多くの人の笑顔のために自分が出来る事をしてきた。
だけどこれからは『本当に見たい笑顔』のために頑張ってみるとしよう。
そんな人生を送ってみるのも悪くない。
――いや、違う…。
こうして考える事が出来るのも、一つの『幸福』なのかもしれない。
果てしなく続く青空の下、一人の男が人生という真理にたどり着いたのだった。
これで『乙女ゲームのMobには毒がある』は完結です。
いやー完全な形で最終話まで書き終えたのは実をいうとこれが初めてです。一応これでエタ筆者の称号は取り外せる…よね……?
とりあえず、本編はこれで完結になりますが、おまけ的な話を時間が出来れば投稿するかもしれませんので、偶に読みに来てくだされば嬉しい限りです。
それでは(・ω・)ノシ




