後編10
私の今までの生涯には 晴れた日も曇った日もあった。けれども すべては自分のためになったのである
――『アンデルセン』
身体が重い。酷く頭が痛くて起き上がれない。耳にツンとくる音が意識を覚醒させようとけたたましい。
染みついた習慣が僕の腕をゆっくりと動かし、音源に叩きつけるよう掌を落とした。
覆い被さった布団から芋虫が這うが如く抜け出した僕はひと際大きな欠伸をした。
まだ定まっていない視界を頼りにのそりのそりと薄暗い部屋の中を歩きだし、僕は当たり前のように箪笥の取っ手へと手をかけた。
「うーさむ…」
本格的に冬の季節へと移り変わりつつあるこの頃、起き始めの低い体温では厳しい寒さは身に応える。
パジャマを脱ぎ棄て、室温によって若干冷えた服を我慢しながら袖を通して一日の下準備を早々に終わらせた。
お次は外出用の荷物を慣れた手つきでポイポイとバックに放り込みつつ、壁にかけてあったカレンダーに目を通した。
「…あと一ヶ月か」
卒論は出した。これに付随する論文発表も無事やり終えた。
志望していた会社への内定も獲得した今の僕には心配する事は何もない。
いや、自分自身はそうだけど、心配する相手なら全然いる。しかも僕の部屋の隣に…。
「あいつ絶対夜更かししてサボってただろうな…」
困ったものだ、もうすぐ大学受験を控えている身だというのに…。偏差値としては問題ない力を持っているとはいえ、サボり癖の多い『あいつ』の事だ。
僕は予想されるであろう状況を頭に浮かべつつ、自分の部屋から廊下に出たらさっそく件の人物がいる部屋の前へとやって来た。
「おい、起きてるか?」
一応ノックはしておく。とはいっても、返ってくるのは本当に稀なんだけどね。
よし、ノックはした。『立ち入り禁止』の意思表明をドアにも何もしていない以上、許可を取り次ぐ必要はなし!
ドアノブのバネによる力を手に感じながらゆっくりと捻って僕は部屋へと侵入…ごほん、進入した。
部屋の中は僕のと違って漫画やポスターといった娯楽系の私物が多い。しかも一丁前に自室用テレビも置いてある。
「この野郎、また付けっぱなしで眠りやがって…」
僕は「はぁ…」と小さくため息を吐き、枕元に電源付けっぱなしなパソコンを起き、布団を押しのけてはだけたままアホ面晒したまま眠りこける――
「いつまで寝てんだ馬鹿女! さっさと起きて片づけろ!」
「へぶっ!?」
――妹に枕を顔面投下して強引に目を覚まさせた。
「いったぁーい! 何すんのよこの糞兄貴!?」
「それはこっちのセリフだボケ! お前昨日言ったよな? 「今日はちゃんと勉強して寝るから何も言わないで!」ってちゃんとな」
「う、嘘じゃないわよ! パソコン付いてるのは分からない所を調べながらやってただけであって――」
「ほぉ~じゃあこれはどう説明するつもりだ?」
ベッドの傍には山積みに積まれた参考書。いくつかは開かれていて勉強の途中だったという様子が見られる。素人目にはね…。
僕はその内、開かれたまま重なったように置かれている参考書だけを剥がすように移動させていく。
その際、妹は「あ、やばっ!」と表情をして気まずそうに僕を見ていた。
数冊ほど分厚い参考書を退かして見つけたのは…ゲーム機。しかも最新型でご丁寧にスリープ状態なんて機能がついている。
「これはなんだ?」
「あ、あはは…も、モチベーション向上機、とか……?」
「ここの青いランプは何だろうねぇ~?」
「あ…ぅ……」
「…とりあえず電源消すか」
「駄目えぇぇぇっ!! せっかく三周目でお目当てのキャラを攻略できる寸前なのにいぃぃぃっ!!」
「知るか馬鹿! また乙女ゲームやってるお前が悪いんだろうが!」
妹は必至でゲーム機から僕を離そうとぐいぐい引っ張った。やれやれ、それくらいの必死さを受験に生かしてもらえたら文句ないのに…。
僕と妹の攻防はしばらく続いたが、隙をついた僕による引き倒しから『テキサスクローバーホールド』が見事に決まったおかげで終了となった。
女性にかけるべきでない技と言われようが容赦はしないんだ僕。蛙のくぐもっただか何とも形容しがたい声で「ギブアップ!」を叫んだ妹を放してやった後は、無駄とは思いつつも口から抜けてはいけない『何か』が出かかっている彼女に忠告をしてやってから一階へと向かった。
あ、ちなみに僕達の部屋は二階にあるよ。
「おはよう、母さん」
「あらおはよう、今日はひと際大きな悲鳴だったわね。でも女の子はやさしく扱わなくちゃ駄目よ?」
「腐女子に片足どころか全身突っ込みかけている妹にはこれくらいの矯正が必要だよ。だいたいお母さんも甘過ぎるんだよ。少しはあいつのためを思うんだったら心を鬼にしないと」
「ふふ、これ以上鬼が出ちゃったらあの子本当に泣き出しちゃうわよ」
ちょうど朝食の準備をしていた母さんに挨拶を交わしてテーブルについた。薬剤師という仕事柄、栄養バランスを考えて作ったらしいおかずが人数分並んでいる。
視界に色彩豊かに映るそれらは見るだけで涎が出そうだ。
「いっその事、センター試験で一教科でも志望校の目安から外れたら小遣い無しって事で――」
「こおらぁっ! 本人を無視して勝手に決めてんじゃないわよ!」
「……ちっ」
「舌打ち!? 見たお母さん、この人実の妹に対して舌打ちしやがりましたよ!?」
先程かけてやった技の影響が残っているのか、腰を少々抑えたままリビングへとやってきた妹が吠えるものの、僕は嫌悪感を隠さずそのままな態度を示した。
「喧嘩してないの。ほら、あんたはそろそろ電車に乗らないとスクールバスに乗り遅れる時間でしょ?」
「へっ? うわっ! もうこんな時間!?」
妹は「がるるっ!」と擬音が聞こえんばかりの目付きで僕を睨んでいたが、やはり時間は惜しいのか自分の席にあるご飯にさっそく箸を取った。
「ちゃんと顔洗ったのか? きったねぇな…」
「洗ったわよ! むぐっ、お母さん牛乳頂戴!」
「はいはーい」
まったくこの光景はいつ見ても変わらないなぁ…。騒々しいというか、いつも飽きない。
けど、この景色ももう少しで変わるんだ。会社に就職したら社員寮に移り住む事になるからね。
寂しくない、といえば嘘になるかもしれない。長年過ごしてきた愛着のある家族の元を離れるのは不安を感じるものだ。
だから僕なりにやり残した事が無いように家族に対する孝行をしているつもりだ。約一名は結構酷いので飴と鞭を働かしているけどね。
こうして幸せに暮らしていく事がどれほど素晴らしいか…。成人して自分を見つめ直してみるとこんな当たり前の事がどうしようもなく貴重な存在に思えて仕方がなかった。
「あ、そういえばお父さんがそろそろ単身赴任から帰ってくる日ね。せっかくだから休日は久々に家族水入らずで過ごしましょうよ!」
「賛成! それなら、新都心に新しく出来た店があるんだって! 前から私行ってみたかったの!」
「んもう、お兄ちゃんからさっき厳しく叱られたっていうのにこの子は…。あなたもそれでいいでしょう? ねぇ――」
「●●――?」
…あれっ?
「帰ってきたらしっかり勉強するのよ、分かった?」
「はいはーい!」
「母さん、いや…その……」
「ん、なーに●●――?」
違和感が感じ取られた。振るえた鼓膜が警報音を鳴らすようにして痺れが残った。
「名前、間違えてるよ。俺の名前は丹だってば…」
「丹? ●●――、何言ってるの? いきなり良く分からない事を…」
「そうよ、ひょっとして二十代のくせにボケが始まったとかそんな訳ないよね?」
母さんと妹は怪訝な表情で俺を見つめる。
俺が間違っているのか? そんな筈ない。俺は白水丹でもうすぐ楠賀美学院を卒業――。
…待て、違う僕はもう内定が…なら何でこう考えているんだ!
「●●――、どうしたの?」
「ひょっとしてガチで体調悪かったり…?」
それに俺には妹なんていなかった筈だ! 父と母と僕の三人家族!
僕の母は薬剤師じゃなくて専業主婦だ!
どうして、どうして納得できないんだよ! 家族も、友達も、出身地も、何もかもが自信を持って挙げられないでいるなんて!?
おかしい、おかしい、違う、違う、違う、分からない、分からない、分からない――!!!
「●●――?」
「お兄ちゃん?」
うるさい、その名で呼ぶな! 僕を兄と呼ぶな!
気持ち悪い! 脳みそがかき乱されているみたいで不快感が込み上げてくる。
「――ろ…」
僕は、誰だ…?
「消えろ…」
僕は『僕』が分からない。そもそも僕は『僕』なのか?
「僕の中から…」
これ以上は耐えきれない。もう止めてくれ!
「消えろ!!!」
その言葉が皮切りだったんだろうか。
見慣れた風景が『止まった』。次の瞬間、全てが砂のように崩れ落ちていく。偽りの世界が剥がれ落ちていく。
色付きの世界はたちまち『黒』という名の色一色に支配されていく。上辺を取り去ったら何も残らない。まるでその事を暗示するかのように…。
世界だけじゃない、僕の身体もまた灰色だ。
光が入らないからなのか、僕の存在そのものが色を失ったのか。
「誰か! 誰かいないのっ!?」
声は反響することなく突き抜けて消えるだけ。ましてや返事を返す存在もいない。
暗闇にただ一人。僕は唐突に寒気を感じた。
身体から熱を奪おうとする類じゃない。初めから熱を持たないからこそ伝わるような金属的な寒さだ。
僕はひたすら呼びかけた。何も見えず、何も聞こえない、ひたすら寂しい景色の中で…。
喉が枯れそうなのを必死で我慢しつつも叫びながら探していた。
「絵梨菜!」
ふと思い出す出来事。こんな事になるような理由を頭に思い浮かべつつ、自分にとっての『守るべき者』の名を一度叫んだ。
――あの時、自分は…。
僕はおもむろに左胸辺りを弄った。生温かい感触が掌を伝う。
「あっ…」
軽い驚きを示した後、たちまち理解という信号が頭を奔った。
身体が震える。恐怖からなのか、寒さからなのか良く分からない。だけど僕の身に起きた事だけは明確に判断出来た。
「そうか、また…死んだんだ……」
呆気ない初回とは打って変わった劇的要因。撃ち殺されるというのは自分の国柄で何人に一人の確率なんだろうか。
痛みは不思議と感じない。ただ胸に穿かれた穴から流れる血が足元へ徐々に溜まっていく。
あと何分したら自分に流れる全ての血が抜け切るんだろうか。
「……くくく」
そんなどうでも良い事を考えながらも僕はこの現状に愉悦を覚えてすらいた。
べっとりと掌に付いた血液を眺めながらクツクツと笑いを漏らした僕は端から見たら狂人そのものだろう。
「人は行いと功に応じて相応しい末路を辿る――か…」
昔見たどこぞやの物語に載るようなお決まりの言葉。
悪人にとっては贈られる言葉にこれ以上相応しい物はない申告。
子供の頃は必ず実現する予言染みた言葉だと考えてたけど、大人になるにつれて世の中にはたくさんままならない事があると知った以上、この言葉は半分正解で半分間違いだという結論が完成していた。
「そうだよ、どんなに取り繕ったって所詮は人殺しなんだ。救いなんて訪れる筈がないんだ…」
この現状は罰だ。一人を救うために五人を犠牲にした自分に対する罪の証。
そう考えれば僕がこうなるのは相応しいんだと宣言できるくらいだ。
「馬鹿だなぁ…」
中途半端に罪悪感を背負って、勝手に罪を償う意味で絵梨菜を導きつつ世界に身を捧げる。
何もかも浅はかだ。裁判で罪を軽減しようと反省の形を取り繕う被告人と何ら変わりはしないじゃないか。
たとえどんな理由があろうとも、罪には罰しかないんだ。
このまま僕は消えてなくなるんだろうか? ここでは肉体的な死はもう味わえそうにない。いや、味わい終えたと言った方が早いだろう。
いつのまにかその場で腰を下ろして静かにしていた。
怠惰――すなわち無気力。
僕を支配するのは唯一つ。
――もう頑張るのは止めよう…。
罪を背負い、人に尽くすための人生を今後は歩もうと決意したなけなしの意思さえもこうなった以上はどうでもよくなってしまった。
酷く眠い…僕は額を膝に乗せたまま半ば眠るように座っていた。
《へぇーここで諦めるのかい? 君はそう簡単に終わるようには見えなかったんだけどねぇ…》
「!?」
《あー聞こえてるよね? こんな所まで来てるんだから僕の声も伝わると思うんだけど…》
「…誰?」
どこからか流れてきた謎の声。
本当に何者なんだろうか? 自分が言うのも何だけど先程までシリアス一直線な流れでいたのに、そんな軽快な声色で呼びかけてこられると反応に困るしかない。
しっかりと“ポカーン”な顔を今でもしてると思うよ僕…。
《別に僕が誰かは何だっていいじゃん。そんな事より君の方だよ、このままここに留まってちゃ本当に消滅しちゃうぞ。未練があるならさっさと肉体の方へ戻りなってば!》
「…お前には関係ないだろ」
《冷たいなぁ、せっかく良い所まで来ていたのにここで終わっちゃったらせっかくここまで来たのが全部無意味になっちゃうから僕としても納得できないんだよねぇ》
「もう、疲れた…」
《だから生きるのはもう止めだって? 軟弱だなぁ…》
「うるさいんだよ! 大体さっきから何なんだよお前は!? このまま静かにいさせてくれよ! 全部終わりにしたいんだ! もう訳がわからなくて考えるのも嫌なんだ!!」
耳を塞いで絶叫する。外からの刺激を拒絶する。
「いつだって偽ってきた! 本当の名前も年齢も出身も家族も何もかもだ! たとえ今が白水丹という人間だとしても、僕自身は結局はその役に当て嵌められた唯の偽物なんだ! 本来なら大人としてありたいのに無理矢理でも子供を演じなきゃいけなかった! この世界が元は作り物でも現実として認識し続けなきゃいけない事にどこか抵抗感を感じていた! 全部全部我慢した! そうしなきゃここで生きられなかったからだ!」
発露していく。他人は僕を強い人だと評価するけど、それは間違いだ。
本当の僕はこんなにも臆病で弱い心の持ち主だ。
「僕はどうして二度も生きなきゃならなかったんだ…桃山絵梨菜という少女を救ったのは本当に僕の意思だったのかも疑わしくなってる。考えているんじゃなくてそう思わされているんじゃないかって…だとしたら、惨め過ぎる……」
どうせだったら記憶なんてない方がよかった。何も知らない人形でいた方がよかった。
「そもそもどこなんだよ…僕が今まで生きていたのは作り物だったの、それとも現実だったの? 教えててよ、ねぇ…」
《…ここは、人々の『夢の果て』だよ》
「…夢?」
《人は自然と「あんな事があれば、こんな事があれば」と空想に耽る。それは次第に願いとして形作られていき、目に見えぬ物質として創造されていくんだ》
謎の声は先程までとは打って変わって真剣な声色で話を続けた。
《願いは多ければ多い程膨張していき、同じ願いならばそれらは互いに惹かれあっていく。やがてそれは一つの生命を芽生えさせ、意思を携えていく。それでも所詮は仮想という中で無意味に蠢く存在でしかない。0が1に近づこうと微小な数を増やそうが、1でない限りは存在できないように…》
「…やっぱりここは作り物の世界なんだね」
《そうであって、そうでもないと言えるよ。たとえ形を成したとしても、所詮は偽り――人々から願いそのものが忘れ去られた瞬間、脆く崩れ去る儚い世界さ。現実で形作られた小説や漫画といった物語は記憶に残りやすいから多少の心配はいらないけど、それでも仮想世界は少しでも形を保とうとある行動に奔る》
「ある事?」
《現実世界が現実たる証明…つまりこの世で『最も数が多く尚且つ力を持つ』生命を自分の世界に組み込もうとするのさ。その生命こそが世界を作り上げてくれる唯一無二の存在であり、霞のような夢を物質化させる触媒となる》
謎の声からの謎かけともいえる答え。けど自分だからこそ、その答えがすぐ分かった。
「…人間」
《正解! けどやつらには人間の肉身そのものを移動出来る程の力はない。だから『残りカス』がせいぜいさ》
「ひょっとして魂の事を指しているの?」
《…それより酷い。分かりやすくいうなら魂を一種の情報化して読み取った劣化コピー。これを仮想世界の住人に組み込む事で安定を保とうとする》
「劣化って…ちょっと待てよ。なら僕は…」
《聞かせたくなかったけどここまできたらしょうがないよね。そう、君の意識は現実世界で存在していた本人そのものを入れ替えた訳じゃない。君が偶然死んだ時、この仮想世界が安定を図ろうと偶々選んだ本物の肉体に宿る記憶を大雑把に切り取ってから仮想世界の住人に植え付けて作り上げられた『模造体』…君と同じような体験をした人からは『憑依』という現象として締めくくられてるけどね、まったくの別物さ》
何という事だ。肉体だけじゃなかった。
本当の自分を示すたった一つの証明ともなる記憶までもが偽物だったなんて…。
《仮想世界が終われば君も終わる。君が白水丹として生きられるのは悔しくもこの世界が平衡を保っていられるからだ》
一心同体。そんな言葉がふと浮かんだ気がした。
《それで、改めて聞くけど…このまま諦めるのかい?》
諦めるとかそんな事を決める状態ではいられない。
存在そのものがこの作り物の世界にとって必要だと言われたが、自分の意思そのものは『無価値』に等しいと知らされてしまった。
全ての物事はこの世界が決める――僕が記憶を取り戻してから抱き続けていた疑念が遂に証明されてしまった。
「…一つ聞きたい。この世界における主人公として選ばれた人も僕と同じなの?」
《あーあの女の人? あれ程まで欲に塗れた行動をする人は結構珍しいから良く覚えてるさ。きっと元の記憶の持ち主は生前は嫉妬や憎悪を抱いてたんだろうねぇ。まぁ、どんな形であれ強い感情は確固たるものとして世界に残りやすいから彼女に目を付けたんだ》
「やっぱりか…」
虹音百合という主人公として形作られた存在も結局は世界の道具という訳だったんだ。
《でもねぇー、仮想世界というのは飽くまで仮想世界であって全部が元になったイメージそのものって訳じゃないんだよ。上手く言えば『川』そのものって言った方が分かりやすいかな? 川の水が出来事という名の絶えず流れる情報であり、その中で君達はその川はどんな風に流れていくのかを知っていた。その水が流れる川をどうやって泳ぐかは泳ぐ本人が決める事であって騒がしく泳ぐか、静かに泳ぐかは仮想世界にとっては管轄外さ》
「そういう所、緩いんだね…」
《ふふ、僕もそう考えてた。でもあの人はね、そんな水を濁らせながら泳ぎ続けていた。求める水がある部分をそんな泳ぎ方でどんどんと渡っていく内、気付けばその濁りが彼女の後ろに追いついて来ていた。濁らせた分だけそれ相応にね…》
それが楠賀美学院や絵梨菜の身における歪んだ出来事として現れた。
《同じ川を泳いでいた君にはそれは看過できるものじゃなかった。だから彼女を川から排除しようと動いた。その川には君のお気に入りの場所があったからね》
「…………」
《濁りは時間と共に流れ去っていく。でも彼女を排除する過程で君は傷を負い、少しずつ血を流しながら泳ぎ続ける術を選択した。その血を流し切り、泳ぐ意思が事切れるまで君は進もうとしていたけど、途中で邪魔が入った。その邪魔が入ったせいで今君は深い水底へと溺れている所って訳だ》
「一応、彼女にも僕に復讐する権利はあると思ってる。けど、あの時の光景から察すればまったく見当違いの理由で絵梨菜を襲ってそれに僕が割り込んできたからこその結果によるものになってるけどね」
絵梨菜と百合の最後の会話から思い浮かべればああした理由を想像するのはさほど難しい事じゃない。
《あーあれは凄まじかったね! 愛する人のために命をかける男! って感じで見ていて気分がとても高揚――》
「絵梨菜とはそんな関係じゃない!」
彼女はこの世界にとって多くの人を照らしていく太陽のような存在だ。
異端者である僕がおいそれと触れていい存在じゃないんだ。
《…君ねぇ、あれは完璧『恋する乙女』の目で見られてたよ? まさか俗にいう鈍感って訳? そこまでくると逆に嫌味に聞こえるんだけど……》
謎の声がなぜか不機嫌そうな感じになった。
《引け目を感じるから? 結果的には世界にとって濁り出した水を綺麗に戻してくれた存在なんだよ君って。だからこそ世界は君を有益な存在として認めて守ろうと少なからず働き始めてるんだし…まぁ、極々わずかでまったく影響なんて今のところないけどね》
「そんな事は『人間』の僕には関係ない。僕の事は僕で決める。世界がなんだか知らないけど、勝手に作られた『設定』になんかで縛られたくない」
だからお願いだ。これ以上僕を弄り回さないでくれ。
この現状だからこそギリギリ自分を人間だと認識して鼓舞させていられるんだ。
どうせ死ぬんだったら、人間として逝きたい…。
『偽物』として終わりたくないんだ。
《…偽物ってなんなのさ》
ふと小さく謎の声が零した。
《君がいたからこそ、偽物以上の本物の幸せを手に入れられた人達がたくさんいるっていうのに…君は他人に対する感情ははっきりしてるのに、他人から向けられる感情には相当無頓着というか…とにかく自分をおざなりにし過ぎなんじゃないかな?》
ちょっとした怒りの感情が声から伝わってくる。
《あーもう我慢できない。いっそ教えてあげちゃう。この世界で白水丹という人間は本来なら『存在して存在しなかった人間』なんだ》
「存在して存在しなかった人間?」
またしても謎かけ的な言葉が出てきた。
《君の両親から聞かされただろう? 元は双子で一方が流産してもう一方に吸収されて一人の赤ん坊として産まれ落ちたのが君だって…》
「まぁ、確かに…」
《あれって間違い。そもそも白水丹は双子の片割れなんかじゃない。元々一人の存在なんだよ》
「はっ?」
《産まれないんだよ…白水丹は…本当はこの世に生まれる事すら出来ず、あの二人が待ち遠しかった流産した赤子の名前だけが残るだけの存在だったんだ》
謎の声が心底悲しげな口調で言った。
《しかもその時の流産がたたって母親は一生子が産めない身体になって、父親もこれを引きずり続ける事になる運命があった。やがて二人はこれではお互いのためにならないからと別れる事になって――》
「ちょ、ちょっと待ってよ!? じゃあ――」
《君がいたから白水丹は産まれる事が出来たんだ。片割れを犠牲にしたんじゃない…君は無意味に消え去る命を血肉を取り込んで受け継ぐ事で救ってくれたんだ。そのおかげで二人の心も救った》
信じられない。自分の出生にそんな真の意味があったなどとは…。
言葉を咀嚼する時間がもっと欲しかった。
《二人だけじゃない。白水丹という人間と触れる事で救われた人は君が思っている以上に存在する。それはキャラクターという枠によるものではなく、君が本来持つ仁徳からくる結果によるものだ。せっかくだから教えてあげるよ》
そう言うと、暗黒に包まれていた空間に一つ、また一つと淡い光の玉が出現した。
空間全てを埋め尽くす程の多さではないが、それでも沢山と表現できるほどの数がそこにあった。
《今この時、生死の瀬戸際に立つ君を想う人達の想いを具現化したものだ。触れればその声が聞こえる》
「僕を…?」
そういえば、僕は向こうではどんな風になっているのだろうか?
少なくとも病院に運ばれて緊急手術を受けてる事を願いたいものだ。
僕は何気なく、一番近くにあった光の玉に恐る恐る手を伸ばして触れてみた。
すると聞こえてくる。耳にではなく、頭に直接…次第に何者かの姿も伝わって来た。
その人は学校で授業を受けつつも、今にも椅子から飛び出したいと言わんばかりに全身を力ませていた。
【くそっ、くそっ、くそっ!! こんな事やってる場合じゃねぇんだよ!】
「け、圭!?」
中学で同級生だった圭の焦った声が聞こえてきた。
【なぁ神様、頼むから白水をつれていかないでくれ。あいつは馬鹿で愚図な俺の夢を初めて笑わないでくれた大事な友達なんだ。学校の成績も悪くて絶対に無理だって口々に言われて悔しかったのに、それをふざけて笑う事しか出来なかった俺をここまで引っ張り上げてくれたんだ!】
そうだね、君は医者になりたいって初めて聞いた時は恥ずかしがりながら言ってたっけ…。
だから勉強を教えてやったりと純粋に夢を語る子供だった君を応援したくなった。
【あいつはすげー奴なんだ! もしも俺が医者になれたとしても、あいつならもっと多くの人を助ける人間になる! だからまだチャンスを与えてやってくれ!】
「…………」
声を聞き終えると同時に触れていた光の玉が消えた。
流れるように僕は次の光の玉へと手を伸ばした。
その人は大きな飼育ケースに入ったイグアナと目を合わせていた。
【カズシゲ、白水君…きっと元気になるよね……?】
「椚さん…」
【ねぇカズシゲ、あの時の事覚えてる? 小さい時に拾ったカズシゲを内緒で飼っていた事がバレて捨ててこいって言われたよね? でもそんなの出来なかった私は駄目元で飼育場にいた白水君に必死でここで飼わせてほしいってお願いしたっけ】
ほとんど泣き顔で最後の頼みと言わんばかりに縋り付いてたね。
女の子がイグアナを飼ってるなんて当時は意外だと思ってたっけ。
【そん時こっぴどく怒られたよね、生き物を飼うって事の意味、本当に思い知らされたよ。命に対して責任を負うって事、子供の頃はちんぷんかんぷんだったけど、今なら良く分かる。楽しむんじゃなくて、愛してあげる。自分勝手に都合を生き物に押し付けては駄目だって…。白水君がそう教えてくれたからこそ、カズシゲを飼う事を諦めなかったんだと思う。私達にとっての大恩人だよね】
そうして命の責任を背負う事を知った君に僕は出来る限りの事をしてあげた。
ちゃんと両親に許可を得るまで世話をしてやったなぁ。
【だからこそ、悔しいよ…。こうして白水君に恩を今だに返してあげられないのが…。こうして無事を祈る事しか私には出来ないのがとっても悔しいの】
「…………」
三つめ、その人は車の後部座席で険しい顔のまま窓からの風景を眺めていた。
【ふざけないでくださいまし! 何もかも貴方の思い通りにされてたまるものですか!】
「瑠璃恵…」
【あんな『嘘』でこの私を欺けるとでも本当に思われたのですか!? ああする事で絵梨菜様の寵愛は愚か、無念を果たす権利をこの私から何もかも全て奪って…本来なら私さえも携えるべきあの出来事における全ての負を自分勝手に背負われて……】
嘘、バレてたんだ…はは……。
結構自信あったのになぁ。
【一体何様のつもりでなさいますか! 貴方の起こした出来事が真実だとしても、何故その時に抱いていた想いさえも偽って私に御自身の事を悪人だと勝手に思わせるよう仕向けて絵梨菜様の元から離れようと…正直あの時の貴方の顔は無理ばかりしていて痛々しく、正直見ていられませんでしたことよ!】
痛々しいか…。
【現に絵梨菜様の向けるお心を滑稽だとホラ吹いた貴方は凶弾から身を呈して絵梨菜様を守ったとの事! 気に入りません! まったくもって気に入りませんわ! この私を利用したばかりか最後まで絵梨菜様の御心を縛り付けるその行為! このまま美談且つ悲劇で終わらせる等とは絶対に私は認めませんわ! ですから、我が家の力を以ってして必ず助けてなさいますわ! そして私に頭を垂れながらこう仰いなさい、「桜小路様、私めのような地を這う虫けらの命を救ってくださり誠にありがとうございます。この度、私めのような至らぬ輩には絵梨菜様は釣り合わぬとはっきり思い知らされました。それと同時にこれまでの桜小路様に対する不敬の数々をお詫び申し上げます」とっ!! お~ほっほっほ!!!】
おい待てやこら、てめぇ…。後半で全部台無しじゃないか。
【ですから、とっとと目覚めなさい…。貴方の無事を必死で祈り続ける絵梨菜様の御姿を私はもはや見ていられないのです。悔しいですけど、絵梨菜様の真の笑顔は貴方でないと引き出せられないのですから――】
「…………」
四つ目、その人は座席に座ったまま必死で祈る姿をしていた。
【頼む、私の家族をこれ以上奪わないでくれ!】
「父さん…」
【私は諦めたくない、もう諦めたくないんだ! 妻の命を救うには子供達を堕ろすしかないと言われた時、醜くもそれを仕方がないと認めてしまった! あいつは最後まで諦めず、絶対に産むと貫き通したっていうのに…】
いいえ、最愛の人を守るためなら悪魔にだってなる。
あなたの判断は正しい。悔やむことなんかじゃないんだ。
【にも関わらずこんな私をあの子は親と慕ってくれた、父親と認めてくれた! 私には何とも勿体ない出来た自慢の息子だ…。私達にはあの子とまだまだ話したい事ややりたい事がたくさんあるんだ! 私に出来る事があるなら何でもする! 代わりに死ねと言うなら喜んで死んでやる! だから息子を…丹を助けてくれ――っ!!】
「…………」
僕が今まで交じり合ってきた人々の心の内。
最初の四人だけじゃない。
家族、親友、ありとあらゆる人々が祈るようにして僕へと想いを発していた。
【死なないで!】【生きろ!】【頑張って!】【死んだら許さないぞ!】【お願い!】
感謝、愚痴、激励、他にも様々な言葉が初めに来た後にて綴られる願い。
【私を置いていかないで、丹君…】
それはもちろん、『彼女』からにも…。
【丹君がいたから私、ひとりぼっちじゃなくなった。大切な人がそばにいる事の幸せを教えてくれた。なのに丹君は一人でこのまま私達の知らないどこか遠くへ行くつもりなの?】
その人は立っていた。戦うようにして生死を彷徨う待ち人の無事を祈り続けていた
【思い返してみても、私には丹君と一緒にいた事が一番楽しかったわ…だけどこれで終わりだなんて……】
「…………」
【…いや…いやよ…絶対…いや…もっと一緒にいて…私、丹君の事が好き…大好き…ちゃんとこの気持ちを直接聞いて欲しい。あの時みたいにもっと抱きしめて欲しい。優しく笑いかけて欲しい。だから――】
――生きて。
裏切れない、こんなの卑怯だ…。
こんなの聞かされたら、絶対に皆を裏切れないじゃないか…。
さっきまで甘美な囁きに聞こえていた死への誘いが僕の中で効果を失った。
あるのは胸に突き上げてくる気持ちで闇雲に溢れ出す涙。
《君は自分の事を偽物と称じたけど、それは彼らもまた偽物だと認める事になるんだよ? こんなにも温かい気持ちになる想いを抱く彼らを…》
「…………」
《今一度聞くよ、もう終わりにするかい?》
「――だろ…」
《ん? なんて言った。もっかい言ってみて?》
「良い訳ないだろうがちくしょうっ!!」
《それだったら、もうやるべき事が何か…分かってるよね?》
謎の声の思い通りに事を進められている気がしなくもないが、僕の考えている事は彼と一致しているだろう。
答えは自然と決まっていた。
力強い目をして僕は頷いた。
《出口へのご案内だよ、人気者さん。》
暗黒の世界に弱々しく輝く一筋の光の道。
屈折する事のない頼もしそうなフォルムをしている。
《二度目の人生、大事にするんだよ。じゃあ、皆によろしくねー》
「待ってくれ!」
《んっ?》
「君は一体誰なんだ。何故ここまでしてくれるんだ?」
《だからさっき言っただろ? 僕の正体なんてどうでもいいって。あぁでも…どうしてこうするかという質問には敢えて答えるとしたら――楽しみにしてるからさ》
「楽しみ?」
《不変の夢の世界に紛れこんだ君が引き起こす可能性…この世界はどんな道筋を辿るかは誰にも分からない。先の見えない未来ってのは不安と同時に希望でもあるんだ。》
そういえば、この世界の元である『OM2』という物語は間もなく終わる。
だけど先程の彼の言葉どおりならこの世界は物語が終わっても延々と続いていく。現実の人々が『OM2』を完全に忘れ去るその時まで…。
《ワクワクするね、君ほどの人物ならばきっと大きな事を成し遂げるっていう確信が湧いてくるんだ。そう考えると作り物なんかより断然面白い『本物』の物語を僕は特等席で見ていられる!》
本当に楽しそうな声だ。きっと表情も嬉々としているんだろうな。
《さぁ、寄り道なんかしてる暇はないよ? さっさと戻っちゃわないとうっかりコロッと本当に逝っちゃうかもしんないよ?》
つまり、いつまでもここにいるのは危険という訳か。
「…ありがとう」
《ふふ、どういたしまして!》
――君の事は忘れない。
僕は飛び出すようにして未来という名の道を歩み始めたのだった。
――――――――――――――――――――
《はぁーようやく行ったかー。まったく余計な所で頑固なんだからあの人…》
ずっと見ていた。彼が――白水丹が誕生したおかげで決して目覚めなかった筈の自分の意識を手に入れる事ができてから…。
肉体が無いからこの空間からは出られないこそあれども、代わりに彼の意識を通じて外の世界を間接的に体感出来た。
初めてみた世界は本当に綺麗で、同時にそこで生きられる彼が羨ましいと思った事もあったけど、それで十分だと考えた。
《頑張れよ。君の幸せは僕の幸せでもあるけど、逆に君の不幸は僕の不幸でもあるんだ》
彼の目を通して観測した人の人生。純粋に凄いと思った。
もしも自分があの場にいたとしても、果たして同じように行動できるだろうか?
だからこそ、彼の事が誇らしく、自分の事のように感慨に浸れた。
この先を見てみたいと決めた瞬間、自分は彼に全てを託したのだった。
《一度でも良いから君とあの世界で一人の人間として直に触れ合い、あんな素敵な家族の一員として団欒を楽しみたかったなぁ…》
だから、不幸にしたら絶対に赦しはしない。
《それと、彼女…絶対に幸せにしてやりなよ…頼んだよ――》
《兄さん…》
――――――――――――――――――――
先の見えない道を僕はひたすら進んでいく。
しばらく進んでいった道。その道中にて『それ』は現れた。
水溜りのように揺らめく漆黒の闇が僕の進む道先にて滲み出すように姿を作り上げていく。その姿は僕の罪――罪悪感を具現化するに相応しい形をしていた。
闇はその姿を以て僕を糾弾し始めた。
「お前さえいなければ俺は死ななかったんだ!」
蜂の毒針によって醜く全身を腫れ上がらせたあの時と同じ姿で僕を責める『橙堂藍染』の姿を僕はしっかりと目を合わせた。
「裁きを受けろ! お前も同じようになれ!」
形となった闇が僕へと絡み付いていく。苦痛をじっくりと味合わせるようにジワジワと下からゆっくりと…。
「俺の人生を奪った罪を償――」
「邪魔だ」
だけど僕は逃げ出す事は…目を背ける事をやめた。
人の命を奪った罪を犯してからはこの身は少しでも『穢れ』を落とそうと精神に制限をかけ、苦難に身を費やす聖人君子の姿を追い求めていた。
心のどこかで赦しを求めていたんだ。
でも、もう止めた。
「赦しはもう乞わない。君の事に関する重責も突き付けられる日が来るならばちゃんと受け入れる」
善人として生きられなくても構わない。
「だけど君は僕の大切な人を傷つけた人間でもあるんだ。無実の人を傷つけた君に罪が無いとは言い切れないよ。それだって償うべき事だったんじゃないかな?」
闇の動きが鈍くなった。
「形は違うけど、僕と君は同類だったのかもしれない。大切な者のためならば何にでもしてやれるって気持ちを僕達はもっていた。だけど僕と君との違いはその行為に責任を背負っていたかどうかという些細な違いだった」
藍染の姿が徐々に形を失っていく。
元の闇に戻っていく。まるで怯えているようだ。
「僕はこれからも責任を背負い続けるつもりだ。だからこそ生きなきゃいけないと決めた。死んで放棄しようとしたってそれは形として残り続けるんだ。自分の代わりに誰かがそれを背負う事になるだけなんだ…」
既に闇は僕の足元で力なく広がっていた。
「君はもう死んでいる。この世にはいない存在だ。怨みや憎しみはちゃんと形あるものとして存在しなきゃ意味がない。『亡くなった者』から受けたって何も清算されない」
一度僕は大きく息を吸った。
「だから僕は何時でも待ち受ける。君の無念を晴らそうと代わりに動き、真実に気付いて僕に罪を付きつけ、裁こうとする人が目の前に立ち塞がったら潔く受け入れて負けを認めよう。でもこれは飽くまで僕の問題だ、親しい者を理不尽へと巻き込む場合があるなら全力で抵抗させてもらうよ。これが自分勝手だと思うんだったら思っておけばいい。僕なりに考えた最大限の譲歩さ…つまり――」
「――死人は黙って引っ込んでろ」
悪を受け入れる心を今ここに――。
闇は完全に霧散してしまい、元の静寂な空間に戻った。
僕は再び前へと進む。この先、待ち受けるのは茨の道だとしても僕自身が選んだ悔いのない選択だ。
『死』に罪の終焉を見出す事はもうしない。
寿命を迎える――命という燃料を最後の一滴まで燃やし切るまで自分に出来ることをしよう。
その目標を果たすべく、簡単に死を選ばない…生きる事を絶対に諦めないとここで僕は誓う。
すると、誓いを受け入れたかのようにちょうどだった。灰色の光の穴が出現した。
きっとこの先が元の世界なんだろう。僕にとっての居場所が待っている。
遅くなってごめんね…ようやく帰る事が出来たよ。
帰ったらちゃんと謝らないといけないなぁ。
いいや、それよりも言うべき事となればこれが相応しい
「ただいま…みんな……」
誰にも聞こえない筈の独り言。
どこからともなく「おかえり」と聞こえた気がした。
この小説一番の長い話になっちゃったね。
いよいよ次で最終回です。




