後編9
すべてを知りつくしたなんて決して思わないことよ。
――『ユードラ・ウェルティ』
「あはははは、いやー知り合いにはそう言われた事はあったかな。それにしても君って『ネペンテス』みたいな髪形していて中々綺麗な形をしているね」
「…っ? あら、ご丁寧にどうもですわ。どうやら見る目だけはあるようね、この髪の手入れは苦労しますのよ」
「――あの、瑠璃恵様…ネペンテスというのは…英語でウツボカズラという『食虫植物』の事を言っているんです」
「んなっ! あなた、私を馬鹿にしなさったの!?」
「馬鹿にしている訳じゃないさ。ありきたりな髪形をする人よりは個性があって良いと僕は少なくとも思っているよ。その横ロールなんてまるっきりネペンテスそっくりで面白みがあって愛嬌が湧くんじゃないかな…飽くまで『少数派』にだけど――?」
「むきーっ! お黙りなさい! 人の髪型を食虫植物だなんて比喩する事自体が恥辱極まりませんわ!」
「おやおや、瑠璃恵様ともあろう方がこんな『つまらない』男の言葉を一々と気にするなんて…感激して拍手が止まりませんよ」
「ぐぬぬっ…!」
悪気など一切見せつけない笑顔から発せられた棘付き言葉による弁論。多くの事を受け身としている丹が頭にきた際、大抵の人間がこれによって言い負かされる。
変わらない。あの頃と全く変わっていない。
姿格好は昔みたいな少年らしさが鳴りを潜めて好青年という特徴が浮き出てはいるものの、独特な雰囲気は三年経った今も変わらず。絵梨菜は昔の友人のそんな所を知れた事が何よりも嬉しかった。
でも丹と瑠璃恵の睨み合いをこのままにしておくのは立場としても認められないため、すぐさま二人には有無を言わせぬまま互いへの謝罪を命じた。学園で鍛え上げた指導力は癖の強いこの二人にも通じた事で解決へと導かれた。
ようやくテーブルで二人きりになった所で絵梨菜は心のパズルにあるひと際大きなピースを引っ張り出した。他人には滅多に見せない自分としての大部分をだ。
「ごめんねー、瑠璃恵って子はちょっとした偏見があるけど根は凄く良い子なの。私からも許してあげてもらえないかな?」
凛とした佇まいと繊細な仕草をこの学園では定義としていた絵梨菜はその正反対となる大雑把で大胆な態度を示した。片手を顔の前に立てて軽い笑みを浮かべながら謝るその姿は彼女の学園での普段を知る者にとっては大口を開ける衝撃さだろう。
「まぁ、別にこっちも大人げなかったし…。それよりさ、なんで一々と口調を変えて喋ってるの?」
「あ、これ? 実はね、転校した先がお嬢様学校っていう風な場所だったからお母さんが『立場にふさわしい言葉遣いを覚えなさい』って半ば無理やりに矯正されたのよ。私としては丹君達との頃で使っていた話し方が気が楽で済むんだけどね」
「…中学の頃と全然違ってて違和感ありまくりだったしね。そうか、お嬢様学校か。合併した女子高も結構名の知れた富裕層の人間も通う所だったっけ?」
「そ! 実は私もお父さんが会社をすごく大きくしたものだから社長令嬢って身分になっちゃった訳。どう、すごいでしょ~?」
――私は変わってないよ。これが本当の私…皆で面白おかしく過ごすのが大好きだった丹君達の親友。
今の自分を知ってもらいたいという絵梨菜の静かなアピールを含んだ主張。
絵梨菜は丹とお互いの身の回りの情報を交換するかのように語り合った。本気で楽しいと思えるこの時間がいつまでも続いて欲しく思うも時間は有限に尽きる。
「せっかくだから番号とメールアドレス交換しよ! ねっ?」
常人ならば相手さえ考えれば簡単に出来る提案。
だが絵梨菜の緊張は最高潮に達していた。高校生になって初めて購入してもらったスマートフォンの中には自分と同じ女友達の情報しかほとんど入っておらず、唯一男といえば父の電話番号しか入れていなかった。
だから男友達の情報をスマートフォンに登録するのはこれが初めての試みだった。
「うーん、別にいいけど…」
少し悩んだ顔をしてから丹は絵梨菜の提案を呑んだ。
ちなみに念のため話しておくが、学園合併後にて絵梨菜と親密になろうと考えた男子はこの学園には多く存在する。
普段の態度や口調による近づきがたい雰囲気は勿論の事、絵梨菜の周りにいる彼女を敬愛する女子達によって近づける輩はおろか、無闇矢鱈に話しかける事さえ妨げられているため、本人の知らぬ所で男運を下げられているとは思いもしなかった筈だろう。
元より柳二と婚約の身だ。二人のような同種の身分を携える令嬢達にとっては名高い蒼井の御曹司が相手ならば絵梨菜の伴侶として彼以上に相応しい人間はいないと決めつけるのは必然といえた。
言葉にすると悪いが、それならばその辺の男子など『ゴミ』同然だとして清純不純関係なしに絵梨菜に好意的な感情を向ける男子には排他的な態度を示しているのだ。
「じゃあ、私も授業あるから行くね。久しぶりに喋り方を気にせず話せる事が出来て本当に楽しかったよ!」
大きな達成感を得た事による満足度はたちまち絵梨菜の顔をにやけさせるも、余裕を帯びた自制心がすぐに矯正して微笑みという形に落とした。
食堂から去ってからしばらくすると騒がしくなったが、別段気にせず絵梨菜は教室へ戻るのであった。
「君って相変わらずすごい人気者だね。中学の時も大概だったけどあれが優しいと思えるくらいってどんだけだよ。昨日だけで僕の友人として自分を紹介してくれだなんて架け橋役を頼まれたのが五人もいたし…その内二人は全然知らないやつであんまりにもしつこすぎるから少々現実を見てもらう事にしたけどね」
「ふふーん、これぞ私の仁徳が成せる力ってものよね」
「男子はいいんだ。問題は女子、聞いてもいない事をペラペラとまるで神様でも崇めるかのような勢いで延々と語るのを見てると流石の僕も怖くなるよ。はっきり言ってあれは駄目だ、あんなの将来まで引きずらせると碌な事にならないから君の方から言い聞かせておいてね」
「…宗教おっぱじめられると流石の私も洒落にならないからよーく言い聞かせておくわ。なんかごめんね」
丹との見えない交流はスマートフォンという一つの道具を通して大半が行われた。表立って交流出来る立場ではないお互いにとって唯一の連絡線はとても重宝された。
初めは何度か食堂の時のように話をしていたものの、その間で自分達――特に丹――へ向けられる視線が居心地を悪くし、とてもじゃないが楽しく語り事が出来る雰囲気ではなくなってしまう。不快感極まりなく、絵梨菜が不機嫌になるのも至極当然といえた。
だが人は自分の持っていない物を他人が持っているのを見ると羨んでしまう。
物事とは表裏一体。表があれば裏もあり。羨む彼らの心には一方として『妬む』心が生まれる。
楠賀美学院の生徒は家柄の良い子息女が何割かを占めているために特殊な環境ゆえプライドが高い者も多く存在した。丹は成績が上位三十位以内に入る生徒として実力者達に多少は認識されてはいるが、生まれは自分達とは違う一般家庭で廃部寸前な園芸部に入部してるだけのとりたてて言うほどの人物ではないとしても認識されていた。
中には認識すらしていない者もいるが、別にその者が悪い訳ではない。興味がない事には目を向けないのは誰にだってある習性だ。
なのでこれ以上は言わないでおこう。
つまり、誰もが敬愛する絵梨菜が気さくに話せる相手が『ただ昔に通っていた学校が同じだった』という理由だけで自分達を差し置いて親密に接する丹の事が妬ましいのだ。
当事者二人にとっては厄介この上ない感情だ。
だからこうしてコソコソやり繰りする事自体も実質不本意極まりなくもあった。
「そういえば聞いたんだけどさ…」
貴重な機会と時間もそろそろ終わる。するとここで丹が唐突に予想だにしない質問をした。
「絵梨菜って一年にいる蒼井柳二って子と何か関係あるって噂を耳にしたけど、そこんところってどう?」
意外な質問に絵梨菜はしばらく言葉を失った。
「…そっか、やっぱり漏れちゃってるんだ。きっと瑠璃恵あたりの仕業ね」
絵梨菜にとっては心のどこかでは丹に知られたくない事実ではあったが、いつかは話そうと覚悟していた事柄。これを自慢げに知らせ回ったであろう瑠璃恵を胸の内で軽く罵った後、意を決して真相を伝えた。
「――婚約者なの」
それが会社関係であり、親同士が決めた事。自分はその結婚を拒否しておらず、むしろ良い話だと考えている事。
桃山の娘としての言葉を単に淡々と話していく。
絵梨菜は丹の反応をひそかに心待ちにした。
丹は『自己』を大切にするものだと良く聞かせてくれた。だからこの結婚に関して「絵梨菜はそれでいいの?」や「そんな結婚をして本当に幸せになれると思ってるの?」等と反論してくれるかもしれない。
絵梨菜は期待を密かに胸を膨らませ、丹の言葉を待った。
あの頃のように迷っている自分の道を示してくれる筈だと――。
「とりあえず、『おめでとう』。良い相手と巡り合えて良かったじゃないか」
苦みが滲んだ祝言。本当に欲しい言葉はどこにも存在せず、絵梨菜はただそれを無理にでも呑みこまなくてはならなかった。
自分はつくづく甘い人間だと思い知らされる。丹に依存しないで生きる決意は三年前に済ませた筈だ。
なのに捨て切れていなかった。
だから丹に対して「裏切られた」と少しでも考える自分が酷く気持ち悪くなった。スマートフォン越しで丹には何も見えてないのを良い事にそれを払拭すべく頭を乱暴に振った。
そして震える唇で一言。
「…うん」
絵梨菜の返事に『だけども』はなかった。柔弱な態度を悟られぬように機械的な発声…歓喜も悲壮も感じさせないありきたりな声色。
願いは所詮願いでしかない。叶うという保証はどこにも存在しない。
他愛ない世話話をする中、絵梨菜は一種の諦観を果たしていた。
「…丹君の分からず屋……」
電話を切る際、絵梨菜はこっそりと誰にも切られぬ程の声量でポツリと呟いた。
頭では理解していても心は納得していない。所詮は彼女も一人の子供でしかないのだ。不満を漏らす事だって偶にはある。
充電器に接続せずベッドの上にスマートフォンを放り出したまま絵梨菜は就寝した。まるで毛布を不機嫌そのものな殻に見立てるように彼女は思いと共に一夜中ずっと閉じ籠るのであった。
こうして丹とは友達以上恋人以下のなんでもない関係を延々と続けて早一年。
互いに三年生へと進級していた絵梨菜は一人の女子生徒の噂をふと耳にしていた。
――虹音百合。
きっかけは後輩から送られてきた苦情。
楠賀美学院において重要なポストに位置する生徒達と集まって自由奔放な振る舞いをし始めているとの事。
令嬢という社会的地位の女子生徒から愚痴紛いな進言が多く交じっているものの、分別済みの物事を精査してまとめればこれに尽きる。おまけに男子生徒にも部活動や行事の流れに影響が出ている事実も判明していた。
噂の転校生のあまりにも常軌を逸した行動の数々にさすがの絵梨菜も眉を顰めた。
やれ遅刻は当たり前、課題を他人に任せている、学年規定を無視した学園区域の歩き回り。
普通ならば担任に厳しく注意され、しかるべき処置を取られる筈にも関わらず今だ何の報告も無し。
百合と同クラスの後輩から窺った話によれば、婚約者である蒼井柳二が何やら教員に対して彼女に関する罰則を揉み消すよう話を付けている等と俗にいう『黒い噂』が流れる始末。
もはや黙って見過ごすレベルではいられなかった。
「絵梨菜様、こっちです!」
相手の都合を優先させ、人目に触れぬ場所で真剣に話し合うのが常とする絵梨菜はこの日、初めてこちら側から乗り込むという行動に出たのだ。
百合の居場所へと案内してくれる瑠璃恵と浅翠を傍人に、絵梨菜は昼休みにて一番目撃情報が多いとされる食堂へとやって来た。
するとあからさまな人だかり。絵梨菜の登場に湧く中、モーゼの十戒の如く割れた人だかりの先にはこの学園では知らぬ者はいないとされる赤羽、蒼井、橙堂、緑川…そして目的である百合が楽しそうに語る光景。
「…ちょっとよろしいですか、虹音さん?」
絵梨菜は上から目線というものはしない。問う側ならば下手に出るのが礼儀だとしている。
「ん~なーに?」
間の抜けた返事を返した百合。状況分析に長けているとは言い難い真剣味を帯びていない態度ではあるものの、無駄に謙られてもこちらが困るだけなので無理には文句を言わない。
「…何しに来た、桃山」
「大した話ではありませんわ。ただ少しだけ虹音さんに進言と注意を促しておきたいだけです」
「そんな物は後にしておけ。俺達は今暇じゃないんだ」
「ですから大して時間を取らせませんので、お耳に入れておくだけで結構です」
どうみても忙しそうには見えないとは正直に言ってはならない。相手の波長に合わせる事が話し合いでは重要な要素だ。
百合達の行動に関しては何の意図があるのか、自分達の学校生活に大きく影響を及ぼしてはいまいか等と彼らの歪みの修正を図るべく、絵梨菜にとって知っておきたい情報をなるべく多く収集していく。
途中、瑠璃恵が暴走して百合の学園に対する上下の認識を全く理解していない様子に苛立って心にもない事を数度言い放ってしまうも、逆に柳二らに完全に論破される羽目になり、焦る様子を見かねた絵梨菜が下がらせる形で彼女を守った。
「御自身の立場を理解して行動なされてください。ましてや、特定の生徒に対する贔屓は周りの印象を悪くさせるだけです」
一番聞いてほしい部分を強調するかのように言えば「むっ…」と柳二達が口ごもる。百合はともかく、彼らは将来、この学園だけでなく、きっと社会を率いていく可能性を持つ生徒達。このようなつまらない話で経歴に傷を付けるのは不憫だと絵梨菜は感じていた。
だから傷が浅い内に間違いを正す意識を生み出して欲しいと願った。
「そんなカッカしないでよ絵梨菜さん。別に皆の迷惑にはならないようにしているよ」
「…そうだな、百合の言うとおりだ」
「別に今のところ支障なんて出てない訳だし」
絵梨菜は頭が痛くなった。初対面の相手に対して名前を呼ばれるのは目をつぶろう。だが百合の言葉が鶴の一言となって先程まで良い方向にいきかけていたのを台無しにされた事だけはいただけない。
何だか彼らは自分で考えるという行為を放置しかけている。そんな感じが窺えて仕方がない。
「あ~分かった!」
そこへ百合が何かを閃いたかのような顔をして唐突に言った。
「絵梨菜さんと柳二君は婚約者同士なんだよね? 大丈夫! 二人の仲を邪魔するような事は私しないから安心して!」
本当に何を言っているのかと正直怒鳴ってやりたい。絵梨菜は不機嫌な心が顔に現れそうになるのを必死に堪えつつ、説得を続けた。
第一、その言葉がどういう意味を帯びるか分かって言ってるのか問い詰めたい衝動でいっぱいだった。ましてや、食堂という大勢がいる面前で話すとは…。
本人は身の潔白を証明している気でいるかもしれなくても、男女関係の俗話は一度始まれば泥沼のごとく噂という名のぬるかみに足を取られていく。
起こした側も起こされた側も面倒な事この上ない事態に進まれる事などざらではない。
ストレスで偏頭痛が生じかねない中、唐突に鳴った昼休み終了十分前のチャイムがこの場を解散させる引き金となり、百合達に断りを入れてから絵梨菜は教室へと戻らざるを得なかった。
(あ、そういえばご飯食べてない…)
無駄な時間を過ごした上、自分の管理を怠るという失態を犯した絵梨菜はこの日始終苛々したまま過ごすのだった。
帰宅後、これまでの鬱憤をぶつけるように丹へと一日が終わるまで愚痴を電話越しに吐き散らしたのは言うまでもない。本音を出せる分だけその勢いは測り知れず、丹を翌日、寝不足へと陥らせる代物である。
正直彼女もこれには深く反省するのであった。
だがそんなどうでも良い事を余所に、学園の状況は絵梨菜の想像以上に悪い方向へと向かっていた。
今まで入る筈の物事や行事が上手く流れて来ず、排出する筈の情報処理が一向に出てこない。さながら古い水が留まって濁りきった溜池だ。
おまけに良識ある生徒が何人かいつの間にかいなくなる。秩序に厳しく、落第者には無慈悲な措置を取る事もある楠賀美学院ではあるものの、この頻度はさすがにおかしい。
絵梨菜は一度生徒会に学園長や教師のそういった決定に関して今後の対応を図るよう発言したが…何も変わらない。
絵梨菜が生徒会に起こった異変への結論を確実にしたのはとある一人の数学教師が解雇された時だった。
後輩の話によれば、その教師は厳しくも面倒見がよろしい人として一部の人間には慕われていた人間だった。そんな彼が解雇を言い渡される数日前、ある女子生徒を少々厳しく叱った場面を大勢の人間が目撃している。
悪いのは圧倒的に女子生徒。あろうことか化粧道具を自慢げに持ち歩いていたのを発見されたのが原因だった。勿論、学園はそういった嗜好品を持ち込むのは厳禁だ。
数学教師は噂の事を所詮は噂だとして彼女を『誠意』を以てして叱ったのだ。
しかし、学年及び担当が違う彼は目の前の女子生徒を良く知ってなかったのが悲運としか言いようがない。
言わずもがな、虹音百合その人だ――。
後日、百合が藤和と柳二に対して何やら泣きついている目撃例も浮かび上がっていた。おそらくその時に…。
だからこそ、絵梨菜は百合に対して厳しく追及と査問を始めた。生徒会のメンバーが百合を非難するのは止せと邪魔をしてきた事もあったが、もはや人個人の人生を丁寧に保障してやるほど余裕がなかった。
被害を受けた同級生並びに後輩を一気に同伴させて百合に脅迫まがいの警告を発した事もあった。こうでもしなければ彼女を止められないと察した部分があったからだ。
そのおかげで百合は行動を自粛するようになった…いや、なったように見せかけたのだ。従順な態度を見せるその裏に小さな黒い炎を燻らせて……。
「百合さんが虐められている?」
「あ、はい、ひそかにそんな話が流れているんです。現に落書きされたノートや私物を破壊されていたのを発見している所を見たって…」
「誰がしたか知っているって話は流れてない?」
「いえ、上級生辺りが怪しいって話は出ているんですけど詳しい事はまだ何も…。生徒会の方々も犯人が見つけられなくてピリピリしているそうです」
「そう、分かったわ。ありがとうね」
些細な噂話がきっかけだった。
百合に対して強引な手段を取った事が原因かもしれないという懸念もあったせいか、放っておけなかった。
――罪を憎みはすれども人は憎まず。
実際、こんな格言は実現するには困難極まりないが、近づこうとする努力はできる。
絵梨菜は踏み込んでいった。百合の虐めに関する問題を…。
それが深く暗い落とし穴の入り口であるとも知らずに――。
「卑怯者め、百合を助けるふりをしてその実裏でせせら笑っていたんだろう」
――違う。
「偽善者の仮面をかぶった悪党め」
――違う、違う…。
「お前のせいで私の苦労が全て水の泡だ! こんなくだらない事をするようなのが私の娘だったとは憎たらしい!」
――違う、違う、違う、違う!
「絵梨菜、直ぐにでも蒼井さん達に謝りなさい! 誠意を見せればちゃんと分かってくださるわ!」
――違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う!!!!!
無実を訴えても取り合ってくれない。誰もが絵梨菜が百合を虐めた主犯であると糾弾する。
真実を語っても虚言だと蔑まれ、親友だと信じていた人間が自分を非難する側に回る。
地獄だった。幼い頃、童心からくる排他的感情で存在を認められなかったあの状況とは比べ物にならない。
だけど絵梨菜は闘った。自分は何もやましい事はしていないという毅然とした態度を崩さず、いつか真実が明らかになってくれる事を信じて…。
そんな絵梨菜を支えてくれる人物。瑠璃恵、浅翠、丹。
彼らの応援を無得にはできなかった。
だけど…。
「瑠璃恵様の会社、最近援助の話が滞っているそうなんですの」
「浅翠さん、赤羽様の知り合いから何やらちょっかいを…」
「何だか白水の奴、最近知らない奴から変な話に付き合わされるようになって困っているって言ってたような…」
自分のせいであの三人にも迷惑がかかり始めている。
そう考えると心が張り裂けそうで堪らなかった。
これ以上自分のせいで傷ついてほしくない。
絵梨菜にはもはやどうすればいいのか分からなかった。家族からは孤立し、学園には自分の味方と呼べる人間は頼れるどころか存在しないに等しかった。
故に気づいてしまった。自分一人は何とも非力な存在だったのか。周りに誰かがいなければ出来ない事が多すぎる。
絵梨菜はこの時、考えれば当たり前のことを悪い方向へと曲解していった。
トラウマが呼び覚まされる。一人ぼっちで苦しみ続けるあの光景が脳裏に甦っていく。
喪失の恐怖がどんどんと膨張し、『もしあの三人からにも見放されたら…』と最悪な未来を想定してしまう。
失いたくない、失いたくない、失いたくない――。
失いたくないのなら――。
トマッテシマエバイイ――。
その瞬間、絵梨菜の心に致命的な亀裂が走った。
誰にも聞こえない音を響かせて生じたその亀裂は絵梨菜の足をふらふらと洗面所へと進めさせる。
そこで、絵梨菜は最悪の選択を取ってしまう。
手にしたのは…母が所有している折りたたみ式の剃刀。
絵梨菜が最後に仄暗い視界で目にしたのはたった一つ。
見渡す限りに広がる紅という名の色彩であった。
それから絵梨菜はどこまでも暗く冷たい世界へと堕ちていった。
深海よりも深くどこまでもどこまでも…。
光の届かない世界へと逃げ込むように…。
幸福も不幸も安楽も苦痛も希望も絶望も――。
何も感じることのない虚無の世界へと絵梨菜は自然と向かっていた。
――もう、疲れちゃった…。
自分を救ってくれた人のようになりたくて頑張ったのに、その果てに待っていたのは理不尽な責め苦。
――このまま眠っていい…よね……。
全てを失った今、絵梨菜に出来る事は何もなかった。
何となく『死』という物がこんなあっけない物だという失望感が稀に浮かぶ程度。
それも今となってはどうでもいい。
どうでもいい、筈なのに…。
――…誰?
私を遠くから見つめているあの光は何?
それだけが気がかり。無力感に晒されているこの気持ちが目を離せないでいる不思議な光。
諦観の境地でいる絵梨菜をまるで必死に見失わないように照らし続ける暖かそうな光。
――気持ちよさそうだなぁ…。
手を伸ばす事さえ億劫な倦怠感。にも関わらず絵梨菜は知らず手を伸ばしていた。
ぼぅっとした気持ちで見つめている内におぼろげになりつつある記憶がふと頭を過ぎった。
もはや顔はおろか、名前すらも思い出せずにいる。
何もかも分からない事ばかりの中でただ一つ。
決して消えない光がチラついていた。
――ああ、そうだ…あの光は……。
正体は分からない。けど、初めから知っていた気がした。
呼んでいる。『彼』が…呼んでいる!
――あの人が呼んでいるっ!!
もはや絵梨菜に恐怖はなかった。
戻らなくちゃいけないと使命感を帯びていた。
だから歩む。ただひたすらに。
大丈夫、道はちゃんと『見えている』のだから…。
暗闇から戻ってきた絵梨菜の最初の視界に写ったのは慌てふためく看護師。
その次に遅れてやってきた医師による「意識はしっかりしていますか?」という質問。
微かに感じる嘔気と痛みが自分がまだ生きているという実感を感じた。
「絵梨菜、私が分かる! 大丈夫なのね!?」
最初に来たのは母の杏奈。最後に見た失望の顔をしたあの母とは同一人物とは思えない豹変ぶり。
思わず絵梨菜は困惑した。
自分は大丈夫だと何度も言い聞かせても態度を一向に改めないくらいだ。
「絵梨菜様!」
それからしばらくして狼狽えた様子のまま勢いよく病室に入ってきた瑠璃恵が床に転がりながら絵梨菜の元へと近寄る荒業を成し遂げた。
絵梨菜はそれを間近で見て何とも言えない感情に見舞われたのは内緒だ。
「ふぇっ…ひぅ…ひっく…うぇっ…よっがっだです! ぼんどによがっだでずわあぁぁぁぁっ!!!!!」
今まで見せた事もない瑠璃恵の泣顔に絵梨菜は深い後悔と罪悪感が浮かんだ。
追いかけてきた浅翠が後ろからそっと瑠璃恵を慰めるまで絵梨菜は瑠璃恵に謝罪を述べ続けた。
そう、「ごめんなさい」と何度も何度もと…。
「絵梨菜様、実は白水さんもこの後来るそうなんですが…」
浅翠にそう言われて心臓が跳ね上がった。
一番会いたくて、一番会いたくない人がやってくる。
どんな顔をして会えばいいかが分からない。むしろ会う資格さえないとも考えた。
けど丹は順調にこちらへ向かってきていると聞かされて『逃げる』という選択は消した。
どんな結末であろうと、もう逃げたりしない。
絵梨菜は覚悟を決めた。だから絵梨菜は丹に会う決意をしたのだ。
「お母さん、少し相談があるんだけど…」
それから絵梨菜は丹を迎える喜劇を即効で立てた。
盛り立て役は瑠璃恵と浅翠。
彼だけは無理矢理でもいいから笑顔で迎えたい。
軽蔑されてもいい、馬鹿にされてもいい、嘲笑されてもいい――。
こんな風にしか今は笑う事が出来ないから…。
だが、彼は優しかった。ひたすらに優しかった…。
「お前というやつは…お前というやつはっ……!!」
「あわわわわっ!?」
案の定、丹はネタばらしをされた後に怒りを露わにした。
大股歩きでずかずかと近づいてきてからゆっくりと両手を上げた丹に対して絵梨菜は身構えた。
罰を享受する気はあれども、実際となるととても怖い。
絵梨菜は来るべき衝撃と痛みをひたすら待ち構えた。
そんな絵梨菜に丹が与えたのは――。
「…どこまで、心配させれば気が済むんだよ。この馬鹿……」
「……ぁ」
暖かい抱擁だった。
初めて丹から抱きしめられたという事実は絵梨菜の気を瞬時に緩ませ、同時に緊張の糸を全て綻ばせた。
でも言わないといけない。伝えなければならない事がたくさんある。
少しずつ、ゆっくりと絵梨菜は懺悔を始めた。
「…ごめんね。正直、どういう顔をして丹君に会えばいいか不安だったの。だって、あんな真似をしたから……」
「知ってる」
「もし丹君に嫌われたらって思うと私、どうしたらいいか分かんなくなっちゃって…だから、さっきみたいな事を…」
「分かった」
「…責めないの?」
「責めてどうするんだよ」
伝えたい事がたくさんあった。でも、無理だった。
涙がぽろぽろと零れて堪らなかった。
今だけは、こうしていたい。
我儘といわれても構わない。
絵梨菜は丹へと力いっぱい抱きついた。
心臓が力強く脈打つ音が直接肌に触れ、幸せな温もりと共に包まれていく。
――あぁ、そうだったんだ…。
絵梨菜はようやく理解した。
もう自分を偽らず、この気持ちを素直に認める。
――私、丹君の事が…。
だが絵梨菜はまだ知らない。
熱き血潮を滾らせるこの心臓が数ヵ月後、無情にも止まってしまうなどとは。
この時、誰にも知る由もなかった。
今回はちと難産でした。目標の部分までいってないのに終わってしまった…。
次から主人公視点に復帰します。




