第六十一話 虚無と無限
「嘘でしょ……ほんとに街が消えた!?」
月明かりの中で街の遠景が見える。まさしく砂に描いた街を指先で消したような眺め。東側から中央をかすめて西側へ抜ける虚無の領域。すべての建物は消滅し、鉄の大地はえぐられて地面が見えている。そして安定を失ったいくつかの建物が倒壊する。
ピアナは建物の一つに降り立つ。
消滅が見える。こちらへ向けて近づいてくる消滅の連鎖。
メダルが宙を舞う。回転しながらスウロの口元に重なる瞬間、唱えられる言葉が。
「贅炎!」
火線。光のごとき速度で直進する炎。周囲の空気を大量に巻き込み、膨れ上がって炎の激流となる。消滅の先頭にぶつかるが、炎すらも一瞬で消える。
「消されたデスか? いえ、呑み込まれたような」
「跳ぶぞ!」
ピアナはしかし真上には跳ばない。アトラを脇に抱え、スウロの腕を持ったまま浅い角度で跳ぶ。
「ピアナ、あれ何なの」
「決まってんだろ、野良竜じゃ鉄砂漠を渡れない、ここにいるってことは都市曳航竜だ」
「でも何も見えないよ」
「頭を使いなマスター。見えないが建物は消えてんだ。姿を消せるんだろう、透明な竜だ」
消滅の奔流、そうとしか言いようのないものがアトラたちをかすめる。アトラは何かいるのかと目を凝らすが、やはり何も見えない。
「仮定だ、やつは透明になれる。そして建物を食らうか、消滅させながら前進できる」
「食べたものも透明になるの?」
「「森」にも透明になれる獣はいたぜ。原理はいくつかある。クラゲみてえに体の透明度が高い、あるいは、反対側の景色を体に映せる。食ったもんまで消えてるなら後者か」
少し離れた建物の屋上に降りる。屋上にはタンクのようなものや、アンテナのようなもの。アトラにはよく分からない機械的な設備などがあった。ピアナが伏せるように手で示し、アトラたちは身をかがめる。
「背後の景色を映すならわずかに風景が歪むはずデス、しかし何も見えないデス」
「原理は後で考えりゃいい。あたしらにとって最悪なパターンだけ想定すりゃいいのさ。最悪なパターンってのはつまり、実体すら持ってない場合だ」
物陰から街を見る。消滅は起きていない。今の現象に都市曳航竜が関わっているなら、こちらを眼でしか見ていないのか、とピアナは推測する。
「実体を持たない「消える」って概念だけが走ってる、触れたものを片っ端から消滅させる竜、この場合は手の出しようもねえが」
「いいえ、それはないデス」
スウロが割って入る。
「都市曳航竜は単独では存在しない。必ず都市か、少なくとも操縦者がいるはずデス」
「そうなのかい? まあ原理が何にせよ、悪い想像で自分を縛るってのは愚の骨頂。もう少し見極めることを提案すんぜ」
戦士と魔法使いが早口で言葉をやりとりする中、アトラはふと思う。
もし都市曳航竜がその都市を、操縦者を失ったらどうなるのか。
それは、戦う意味の喪失を意味する。
都市曳航竜とは魔王の血肉、それぞれの意思を持っている。都市曳航竜が敗れるとは、その背負っている思想のすべてが無に帰すことを表す。実際、アトラが出会った2体の竜はそうだった。真なる竜銀としてのあり方を失い、長い時間をその模索に費やしていた。
(……つまり、都市曳航竜を倒すというのは)
(竜が倒されるだけじゃなくて、それが曳航している人々がすべて居なくなった場合も、含まれる……?)
「ピアナ、どうするデスか」
「あたしだけで行きたいとこだが、マスターたちを残すと見つかったときに対処できねえしな。まず模型に入りな、あたしが街からかなり離れたとこまで持っていく」
「我々なら心配ないデス。いざとなれば銀の魔法を使って飛べるデス」
「うん、模型もあるから身を隠せるし、これで相手の動きを知ること、も」
アトラは床に置いた模型を確認し。そして動きを止める。
「あれ?」
「どうしたマスター」
何も無い。
模型は先ほどと同じく都市の全景を再現しており、そこに削られたような跡はまったくない。
「変だよ、建物がごっそり消えたのになんで」
「! まさか……」
スウロがつぶやき、その瞬間、アトラの視界の果てで何かが動く。
宙に浮く直方体。
巨大な建物、いや、それには窓もなく凹凸も無い、完全な一個の鉄塊が浮かび上がっている。
よく見れば巨人から始まっている。巨人の腕が大きく振り上げられ、腕の先が角柱状の鉄塊に変わっているのだ。
一瞬の後、破滅的な勢いを乗せて振り下ろされる。
「!」
数百メートルを隔てていても分かる破滅的な予感。そして予想をはるかに超える轟音、衝撃、一瞬の無重力、建物から投げ出される錯覚。
「ぐっ」
ピアナですら槍を支えにして低く構える。アトラは全身を振り回されたようなダメージが残っている。
「おい! 巨人が動いたぞ!」
「迂闊でした……。おそらく再生はもう終わっていたのデス」
アトラは模型を確認する。幸いに飛ばされてはいない。
その模型の中で建物が消滅している。鉄の建造物を消し去りながら走る何か、中央に巨人がいるが、模型の中では人形である。
「戦おうとしてる」
振り上げる。打ち下ろす。世界中のどんな城であろうと砕く一撃。移動する消滅はそれをかいくぐって町を駆けまわる。
そして町全体にも変化が生まれる。街が消滅した区画で数秒後に建物が突き出てくる。建造に数十年はかかるであろう摩天楼が、わずか数秒で生まれてくる。
「街が再生してる」
「黒薔薇竜デアノルドは鉄の支配者なのデス」
スウロも模型に注視する。巨人は動いていないが打突によるクレーターが生まれている。消滅の軌跡でおおよその戦いが分かる。打撃を回避しながら巨人に直接攻撃をかけようとしている。
「この消滅。速度は時速80キロ程度デスか……? 体長は200メートル、幅と体高が50メートルほど。都市曳航竜としては小さめではありますが……」
「スウロ、この再生ってあの竜の力なの? 鉄の支配者って」
「デアノルドはこの世のすべてを鉄に変える力があるのデス。そして鉄の中に根を張り、自在に操ることもできる。あのように」
板が。
街の中に生まれる数十もの板。あまりに一瞬で生まれてくるのでその規模間を見失いかけるが、面積で言うなら百メートル四方にも達する鉄の板である。地面から突き出てきて、円陣のように巨人を囲む。
「防御を張ったって事かい。なるほどね、消滅があの板を突き破ろうとした瞬間、鉄塊を振り下ろすってわけか」
「すごい……」
「ピアナ、アトラを頼みます」
え、と言う前にスウロは飛び上がっており、ぶわりとローブをなびかせ、模型の真上に来たところだった。
「! スウロ」
手を伸ばそうとしたが、すかさずピアナに押さえられる。スウロは模型の中に消える。
「待てマスター! 危険すぎる!」
「スウロ無茶だよ! 死んじゃうぞ!」
声は帰らない。模型の中心は巨人になっている。スウロは巨人のすぐ近くに降りたはずだ。
「た、助けないと。あの巨人……デアノルドに殺されちゃう」
「……どうも妙だぜ、マスターたちと付き合ってまだ数週間だが、スウロは落ち着いた女だと思ってた。この状況でいきなり戦地の真ん前に飛び込むようなやつか?」
「え、そ、それは」
「考えてみりゃ街に入った時からだぜ。デアノルドってのがとっくに再生を終えてたなら、なぜあたしたちは襲われなかった? 妙な機械を出して巨人の体をいじくろうって連中をなぜ放置したんだ」
「そ、それは、自分を直してくれると分かったから……?」
「スウロは巨人に攻撃されないことを知っていた」
その言葉が、恐ろしい予言のように響く。
「壊れてたと思ったのは本当だろう。だがスウロの語ることはどこか断片的だ、裏切ってるとは言わねえが、何かを隠してる」
「……で、でも」
「予感はこのことか? だが……」
巨人の動きが止まる。鉄塊を無駄に振り下ろさず、じっと立ち尽くしている。街の消滅は続き、何千人もが居住しうる塔を消滅させながら、魚が泳ぐように巨人の周囲を回る。
「スウロは、あの巨人を操縦できるんじゃねえのか」
「え、そ、そうなのかな?」
「あの巨人は完全な機械なんだろ。操る手段があるはずだ。というより人間の言うことをきくのかもな」
ピアナの装備が熱を放っている。水分が熱され、蒸気となって白く立ち上る。
「……だが違う、これじゃねえ」
「? 何が?」
「嫌な予感だ。もっと粘っこくて湿った感じだった。藪の中を歩くときに毒ヘビの気配を感じるような、剣呑な何かなんだ。あの消滅にも巨人にもそれはねえ」
「どういう……」
アトラはふいに思考に沈み、ある瞬間を境にさっと顔を青ざめる。
「まさか……」
ローズオルトの首都であった街。退廃の薔薇園。
この場所に生まれていたのは膠着状態だ。
あの消滅を生む何かは、巨人、すなわち黒薔薇竜デアノルドを襲った、それは確かだ。
だが、なぜスウロたちが動き出すまで攻撃を仕掛けなかったのか。
「何者か」がデアノルドを我が物にしようとするとき、それを阻止せんとして潜んでいたのではないか。
「何者か」がアトラたちの一派であるはずがない。
消滅の竜が仮に竜冠国に属するとすれば、黒薔薇竜デアノルドは薔薇の頂に属している。
そこに何者かが介入するとすれば、すなわち鉄錆の国。
「もう一人、いる……!」
アトラは模型を見る。建物に埋め尽くされた街の模型。
いるとすれば、街を一望でき、かつ身を隠せる最上階のはず。
「透過、一階層」
すべての建物の天井が消える。
その建物の一つに、潜む人形が。
「! 真後ろ!」
アトラとピアナが振り向く一瞬の後、何かが高速で打ち出される。ピアナの足がアトラを蹴り転がし、鉄の床ががりがりと火花を上げる。
「こいつは……!」
打ち込まれたのは槍の穂先。大理石のような白い刀身、柄の部分も鮮やかな乳白色。柄と穂先が一体化しており、一つの象牙から削り出したような滑らかな形状。
だが異様なのはその長さだ。建物の谷間を渡っている、数十メートルもの長さがある。
たん、と。
降り立つ靴音がある。
女性である。
それは白一色の姿。麻の簡素な服の上から、肩と心臓、そして腰の左右に小さな盾を吊るような最低限の防具。透き通るような白い肌。白い髪。一瞬、その場が戦場であることを忘れるほど線が細い。露出した部分はほとんど骨と皮ばかりに痩せ細っている。
「え、いま、どこから」
その人物は槍を握っている。白一色の槍。柄から穂先にかけての曲線は女性的な優美さを備える。
「あれは透蠕竜バルアルブ。その姿は見えざる蛆虫。あらゆるものを食らい、世界から排除する。見えないのは透明だからではない。生物の目はそのおぞましい姿を認識できないから。機械の目であろうと例外ではない」
ぼそぼそと、舌先でこねるような低い音を放つ。目は眠たげかと思うほど細められ、誰の方向も向いていない。
「あんたは敵かい」
ピアナが槍を突き出す。蹴り飛ばされたアトラはようやく身を起こしたところである。
「私は戦士ミネアリス。質問を望む」
その人物は、やはりピアナに目を向けずにぼそぼそと言う。
「そこの模型は真なる竜銀の輝きを持っている。あなたは私の知らない戦士か。鉄錆の国に属する銀の戦士か」
「あたしらはどの勢力でもねえ」
両足が銀の炎を吹く。足元の鉄がじりじりと赤く染まる。
「槍士ピアナとその仲間たちだ」
「ちょっと」
「そう」
白の槍が跳ねる。ピアナが雷速で反応、槍の穂と衝突。
「……! こいつ!」
打ち合う。その軌道は常人の目では追えず、火花だけが互いの中間点で咲く。
ピアナは驚愕していた。一撃が信じがたいほど重い。大岩がぶつかるような衝撃がある。槍の横薙ぎを柄で受け止め、長身を利用した体捌きで勢いを逃がす。
「ちいっ!」
縦方向の振り下ろし、ピアナは半身になって穂先をかわす。槍を素早く持ち替え、体を反転させると同時に両脇で槍を保持しながらの回し打ち。銀の火を宿した穂先が空気を切り裂く。
「伸びて」
瞬間。白い槍が地面に突き立てられたまま伸びる。一気に数十メートルも。
そして白一色の人物は石突の部分にいる。手のひらを石突に当てて曲芸師のように逆立ちする。
「伸びる槍か、器用な逃げ方しやがる」
「少し違う」
声がすぐそばから聞こえた。ぎょっとして視線を下ろす一瞬。
石突が地面にある。槍を片手で捧げ持つような姿勢のミネアリスが。
「何!?」
彼女の足が世界から消える。ピアナが爆発的な衝撃を感じる瞬間、その体が数メートルも押される。鉄の床をがりがりと削りつつ踏みとどまる。
「がっ……!」
人間の蹴り足とは思えない威力。槍で防ぐのが遅れたら腹筋を貫通していた。
がり、と音がする。食いしばった奥歯が砕けた音だ。
「……どうなってやがる、なぜ地面に」
「秘匿は強さとならない、だから教えよう」
がん、と地面に突き立てる白い槍、長さはいつの間にか2メートルほどに。
「転経槍マニカロルカ。その権能は距離。定まった長さはなく、使用者は持ち手と穂先の距離を変えられる。その値をマイナスにすれば、穂先と石突の位置を入れ替えることもできる。このように」
白い光条。
瞬時に伸びる槍はそのように見える。今度は遥か天の高み、1キロ近い高さまで伸びている。
ピアナの研ぎ澄まされた眼がそれを見る。ミネアリスが夜の中心にいて、長さ1キロあまりの槍をぐいと引き抜く。
瞬間、爆圧にも似た音。先端があっさりと音速を超えた白い槍が、遥か上空に引き上げられる。
ピアナが哄笑う。
「面白え!」
そして降り注ぐ、人知を超えた槍の斬撃が。




