第五十二話 失われた言葉
「よ……鎧が」
一瞬、戦いの場から闘志も意思も遠ざかり、空白の時間が流れる。
鎧は、もし装着者がいたなら口元だけが開くようなデザインであったけれど、今はただ虚無の空間がのぞいている。竜の口が、古代の伝承にあるような暴竜をかたどった意匠が、かちかちと揺らめく。
「ア」
数歩、ドリーがあとじさる気配、アトラとフィラルディアは目をそらすこともできない。
肉を持たない鎧が、空中に音を放つ。
「イ ナ」
「……」
アトラは手にしていた鈍器を下ろし、フィラルディアも剣を下げる。周囲では洞窟が完全な再生を遂げつつある。
「 ナ」
「あなたは……」
「彼は戦士だった」
フィラルディアが言い、そのがらんどうの口元を見る。
「 ナ」
「彼は心優しい男だった。北方での戦いでも、戦いよりも融和を目指していた」
アトラは、その鎧の言うことが分かるように思えた。
ほとんど意味ある音声として像を結ばず、これといった動作を示したわけでもないが、それでも伝わる。魂の奥底から語りかけるような言葉。
「 ナ」
――行くな
――北方へ行くな
「 」
――子どもたちを、北方へ連れて行くな
「……この人は、生きてるの?」
アトラが尋ねる、それは残酷な問いにも思えたが、聞かずに済ますことはできなかった。
「生きていない。炎帝鎧ヴリトシャクナは真なる銀、魔王の血肉でできている。使用者の意思を読み取り、戦いの補佐をする。それを着たものが死の淵にあっても体を動かす。あるいは死してのちも」
「……」
やがて、鎧は動きを止める。
ひどく疲れたような動作の重さ。ゆるやかに背後を、ケイニオンの街を向いて、膝ががくりと崩れ、また座り込んでしまう。
「この場を守っているつもりだったのか。愚かなことだ。大竜窟は北方への唯一の道というわけではない。山越えのルートもある、そしてそもそも、北方への入り口は星の外周と同じ長さがあるのに」
勇者フィラルディアは、その鎧を見つめている。
その横顔は洞窟の暗さに溶けそうだったけれど、アトラが視線を向ければ、そこには。
「勇者!」
そこに割って入る声があった。ドリーだ。
「む、何だ。まだやる気か」
「そうじゃない、あんたはこの鎧を回収に来たんだろ!」
「……まあ、そうだ」
「こいつは俺たちが守ってたんだ、俺たちに所有権があるはずだ」
所有権、その突飛な単語が場の空気を弛緩させる。
「ど、どうしろと言うのだ」
「俺を遠征隊に入れてくれ、なんなら仲間も全員」
がさごそと音がする。見れば、いつの間にか洞窟のあちこちから子どもたちが顔を出している。
「俺はドリー、ドリー・ヒューマンだ。目は見えないけど戦える。銀の扱いにも慣れてる」
「い、いやドリー、何言ってるんだ。分かってるのか、遠征隊に参加するってことは北方へ行くってことだぞ。それに大体、鰐をけしかけたり洞窟を崩そうとしたり……それを勇者が許すはずが」
「いいだろう」
そのフィラルディアの答えに、アトラはこれ以上ないぐらい驚く。
「ただし、我々の都市曳航竜に乗ってもすぐには戦わせない。数年は練兵所に入ってもらう」
「やった!」
「ゆ、勇者フィラルディア! あんた、僕が同じこと頼んだときは!」
「アトラ、お前のときと同じ状況だと思っているのか」
う、と返答に詰まる。アトラには帰る家もあったし、バターライダーは少なくとも子供の目線で見る限りは平和だった。
この洞窟は違う。勇者が鎧を回収するなら、もはや洞窟に彼らの居場所は――。
「いや、待って、それならみんなは僕の方で引き取るよ。みんなが住める土地がある……」
「アトラ、ドリーは生まれついての戦士だ」
フィラルディアは腰を沈め、まだ背が伸び切っていない少年の顔を覗き込む。ドリーの後ろには少年たちが集まりつつあった。
「私には分かる。彼に備わってる才能は「対応」だ」
「対応……?」
「そう、状況の変化、環境の変化、時代の変化、あるいは自分の肉体の変化にも対応する、彼にはそんな力がある。ケイニオンのおおよその状況は調べているが、この洞窟で数年も子どもたちを指揮していた、簡単にできることではない」
「へへ……」
ドリーは目隠しの下ではにかんだように思えた。アトラには勇者が彼のどこに価値を見出したのかまだ分かっていない。ドリーは確かに優れた機転を見せたが、彼が戦士として戦えるのだろうか。
「……ドリー、さっき言ってただろ。領主様と約束してるって。仕事が終われば、ケイニオンに家が持てるって」
「そうとでも言わないと、こいつらが希望を持てない」
背後の子供たちに向かって腕を振る。
アトラはまたも驚愕する。ではドリーは、あるいはこの子どもたちは。
「……ドリー、君は領主様との約束を信じてなかったの?」
「信じるとか信じないじゃない。どちらでもいいように準備してた。5年もあったんだ。いろいろ展開は考えてたさ。イルガードみたいな竜をいくつも作って独立するとか、俺たちで街の軍隊を倒すとかね」
「なっ……」
「領主様は俺たちをなめきってた。お笑い草だ。これだけの銀を自由にさせて危ぶみもしなかった。竜に変えて外へ出す銀なんて、大竜窟の湧き水から取れる銀の数十分の一なのに」
視界が揺れる。
打ちのめされる思いがする。
この街に来てわずか数日ではあるけれど、それでも領主の屋敷を調べ、裏の裏まで通じたつもりであったのに。子どもたちはそれすらも手玉に取っていたのか。
「公平を保つために言っておこう」
フィラルディアが背中に剣を納めて言う。
「そこのアトラもまた、真なる銀を持っており、北方に向かう旅をしている。お前たちをどこかの街に送り届けるなり、あるいは安住の土地を用意するなりが可能な力を持っている」
「そうなのか?」
ドリーはアトラに顔を向ける。その目隠しの下で何を感じ取ろうとしているのか、目元の肉をわずかに動かす気配がある。
「……いや、だとしても俺たちは勇者様についてくよ。十八次遠征隊の一員になれるんだ、ほっとく手はない」
「ドリー……」
アトラのつぶやく先で、がしゃんと音がする。
見れば、真なる銀の鎧がばらばらに崩れて地面に積み重なっていた。あるいは先刻のわずかな発声。あれで最後の力を使い果たしたかのように。
「……フィラルディア、あの鎧を北方に連れて行くのか。あの鎧は誰も北に行かせたくないのに」
「関係ないな。言ったろう。あの言葉は鎧の意志ではなく、あの鎧を着ていた者。すでに死んだ人間の言葉だ」
「死んだ人間……」
「そうだ、意思とは人間だけのもの。器物が有するものではない。彼はここで死んだ、その時に彼の言葉も消えたのだ。死者にあの鎧を専有する資格はなく、もちろんこの土地に放置などできない。お前も分かっているはず」
「……あの鎧を着ていた人って、もしかして、あんたの……」
「アトラ、この場は譲れ」
やや強く、フィラルディアが槍を構えるように告げる。
「その代わり、この洞窟に溜め込んであった銀はすべて持っていくがいい。お前なら領主の銀を奪うことも可能だろう」
「……。分かったよ」
アトラもまた材木を捨てる。その瞬間、ドリーが足に力を入れるのが分かったが、アトラはどうでも良さそうにそれを見ていた。
ドリーはさすがに飛びかかるのは思いとどまったようで、他の子どもたちを呼んで何かしら指示を出す。
「勇者様、全部渡すのか?」
「ああ全部だ、お前たちの思いつく限りを渡せ、それでも我々の得るものの方がずっと大きい」
子どもたちは洞窟に散っていき、勇者はアトラのそばに来る。
「引いてくれて助かった。これは本心だ」
「……さっき、助けてくれたでしょ。三度目の崩落が起きかけたとき、自分だけ助かることもできたはず……。だから、これで貸し借りなしだ」
「……ふ」
アトラは全身から力が抜けるのを感じつつ、ドリーの方を見やる。
この世界にはあのような子供が次々と生まれているのだろうか。北方で行われている人間同士の戦いにも適応する戦士が。
この終末の残照が照らす世界に、銀の輝きの他には何もかも枯れ果てた世界にも、適応する戦士たちが。
「……模型みたいだって、思ってた」
「うん?」
周りでは子どもたちが動いている。フィラルディアの指示のとおり、アトラの周りに淡い光を放つ銀が集められる。容器は木桶であったり、鎧の胴丸であったり。
ほの青い光を放つ大量の銀が。あるいは鰐の竜の死骸までも。
「よく爺ちゃんに怒られた。こんな模型では人が生活できないって。模型は時間が止まってるから、何となく成立したように見えるんだ。でも実際に住めば不便でしょうがない、家が丘の上から転げ落ちる。そんな模型だ。ケイニオンの街も同じ。何となくうまく行ってるように見えても、どこか歪んでて、不自然だった」
「いくつかの街を見てきたか」
「うん……奇妙だったり、複雑だったり、とても自然な姿とは思えない街もあった。でもそんな街でも人は生きてた。自然な姿から大きく離れても、人はそこで安定を作り出すんだね、だから、だから今の時代は」
「そうだな、間違った姿だ」
フィラルディアは洞窟の果て、見果てぬ闇を見つめてつぶやく。
「確かに人は対応しつつある。銀の輝きの助けによって、何とか生き抜いている。しかしやはり、今の世界は本来の姿ではない。だから永遠には続かない」
「いつか、もとに戻る日は来るの?」
「来るとも」
そして勇者は、鎧を一つずつ拾う。どこか愛おしそうに、ゆっくりと。
「今は魔王の時代。その次には、きっと人の時代が――」
※
「全員です」
アトラの目の前には、孤児院の院長が。
そして20人ばかりの子どもたちがずらりと並んでいる。
「このケイニオン加護の館の子どもたち、一人残らず連れていきます」
「な、そんな……」
老婆は起きていることの意味が分からず、狼狽とも動揺ともつかない声を出す。
「い、いくらなんでも、全員を一組のご夫婦に預けることなどできません。それに、20人もの子供をどうやって連れていく気なのです」
「ここでは子どもたちを領主に売っている」
アトラの言葉に、老婆がぐっと息を飲む。
「人買いにも売っている。売れ残った子が13歳になると、領主を通じて大竜窟の奥で労働をさせている」
「な……何を言われるのです!」
「ドリーから聞きました」
驚愕に時が止まる。手をカギ型に固め、わななく老婆。
「し、知りません。ど、ドリーなどという子は、聞いたことが……」
「もう証拠もすべて押さえてます。仲間がすべて調べました。さらに言うと、この孤児院は違法な蓄財をしている。屋根裏に隠してあった1億ドルムは押収しましたよ」
「な!」
続けざまの言葉にもはや息も吸えない。心の臓のあたりを押さえて後退する。椅子ががたんと倒される。
周りの子どもたちは何が起きてるのか分からず目を白黒させる。エイワンが上ずった声を出す。
「あ、あんた、もしかして王様の使者かい? 噂に聞いたことあるけど、人知れず旅をして、悪いやつらを懲らしめてるって」
「違うけど、まあ似たようなもんだよ」
「こ、これは狼藉です!」
老婆が声を張る。過呼吸になりながらもかろうじて意識を保たんとする。
「そ、そう、あなたは乱心した狼藉者。王の使者など何十年も見ていない。今さら街に来るはずがない。すぐに兵士を呼びます。連行してもらわなければ」
「呼べませんよ」
「黙りなさい! 大声を出せば、すぐに」
「エイワン、そこのカーテン開けて」
言われて、エイワンは疑問符を浮かべつつカーテンを開ける。
「あれ!?」
そこは砂漠。
白っぽい大地に小石が広がる礫砂漠。周囲を見ても建物は見えず、もやが満ちるばかりでカラトルムの山並みすら見えない。
「……!?!?」
老婆はもっと驚いたようで、錆びていた窓を強引に押し開けると、ずるりと外へ出ていく。
「普通に入り口から出ればいいのに」
アトラはそのようにした。部屋を出て入り口から外へ、建物をぐるりと回り込む。老婆は地面にへたり込み、少年少女たちが窓から見ている。
「この孤児院だけを10キロほど移動させました。邪魔されたくなかったので」
「あ、あ……。ゆ、夢、これは夢です……」
「なあ、あんた」
エイワンが言う。勝ち気で強気な彼女であっても、さすがに少しは敬服のような視線が混ざっていた。
「もしかして、すごいやつなの?」
「全然すごくないよ」
アトラはつらつらと思い出す。
真なる銀は勇者に奪われ、ドリーと穴ぐらの子どもたちは救えなかった。
大竜窟はかなり落盤したものの健在だ。ハガネのいなくなった今、領主はやがてまた銀の採掘を始めるだろう。その大量の銀が街にどのような未来を与えるのか、まるで想像もつかない。
さらに言えば鰐の竜も救えなかった。アトラはそれも悔いていた。
「僕はまだ何も変えられないし、何も分かってないんだ。だから旅をしている」
そして、子どもたちに向かって手を伸ばす。
「だから一緒に来てほしい。世界を変えるのは銀の輝きじゃない。君たちの力なんだ」




