第五十一話 夢幻の光
「――!!」
アトラの目が捉えるのは剣の残像。竜の体を斬り裂き、その血潮が洞窟を流れる清水に混ざる。
「あいつ! 竜を斬ったぞ!」
「信じられない! できるわけないよ!!」
子供たちに恐慌が走る。外の世界から隔絶された子らが初めて触れる脅威、存在するとも思ってなかった強敵、それに触れたための恐怖が闇の中で肥大する。
「うろたえるな! 奥まで退がれ!」
ドリーが叫び、彼は前に出んとする。
その手には棒きれが握られている。先端が匙のようになっており、こぶし大の銀が乗せられた投石器だ。
その銀は薄く発光しており、表面から水蒸気が上がっている。ドリーの手から汗を気化させているのか。
「……竜銀? しかもかなりの純度の……」
「爆ぜ銀って言うんだ」
一秒の集中。ドリーが洞窟の中いっぱいに意識を広げる。あらゆる音に耳を澄まし、そして小さな動作で素早く振られる投石機。
風斬りの音を残して飛昇する石。
「あ!」
アトラがその意図を察して身をかがめる刹那。石は70度以上の仰角を描いて天井へ。
閃光と爆炎。天井のもろい部分が砕け、大量の土砂と岩と水の流れが落ちてくる。
「アトラ! こっち!」
正確な腕の位置が分からなかったのか、服を掴んで引っ張るドリー。アトラは耳鳴りと頭痛に苦しみながらも後を追う。
「ど、ドリー、あれは竜銀の純度を高めた爆弾だね、どうやってあんなものを」
「試行錯誤だ。銀の炎を水の中で燃やすと銀を鋳潰すことができる。そうやって純度を高める。北の方じゃもっと純度の高い爆ぜ銀が使われるらしい」
「あそこを壊すと天井が崩れるって知ってたの?」
「そうだよ。壁も天井も常に音を出してる。それ自体が発する音とか、別の音が跳ね返って出る音とかね。あの部分がつっかえ棒になって土砂を支えてるのは分かってた」
「すごい、ね……」
「あの剣士も生き埋めだろう。あとで死体を掘り出さないと……」
はっと、ドリーが足を止める。目隠しをしていながら背後を振り向いた。
「どうしたの?」
「何か変だ。瓦礫が落ちる音が少なすぎる。もっと派手な音がすると思ってた」
「え……」
アトラも振り返る。子供たちが自分たちの脇を通り過ぎて洞窟の奥へと逃げていく。
そして、視界の果て。
土砂と岩の積みあがった小塚の上、剣を構える戦士の姿が――。
「! あいつ! 生きてる!」
「くそっ! おい、全員高台へ登れ! イルガードを放て!」
ドリーが闇の奥に向かって叫ぶ。子供たちが悲鳴を上げてばたつく気配。
そして何かを固定していたロープが切られる音。途端にどかんと扉を押し開ける音がして、闇の奥で巨大なシルエットが動く。
「アトラ、こっちだ!」
数人が服を掴んで引っ張り上げる。それは石でできた小屋の上だ。
壁面に並ぶ簡素な建物。箱を並べたような眺めの上に、子どもたちが縮こまっている。それは大半はイルガード、巨大な鰐の竜に向けられた畏怖だ。
子どもたちの誰かが、暗がりの奥から声を飛ばす。
「ど、ドリー、イルガードを出すのはいいけど、戦いが終わったらどうやって檻に戻すんだよ」
「何とかなる、今はあの侵入者を殺すんだ」
アトラの目が大きく開く。
言葉に頭を殴られたような衝撃。先刻、己がまさに殺されかけたというのに、それでも子どもたちと殺意とを結びつけていなかった。人里離れた土地に生きる、汚れなき妖精のように考えていた。ドリーの示した殺意に目眩がする。
「おい、爆ぜ銀を用意しろ、手槍もだ」
「やめろ」
それは剣士の声だった。子どもたちの視線が集まる。
「手を出 な、子供だろ 容赦は ない。何もせず 伏せ いろ」
「ひどい声だぞあいつ、爺さんか何かか?」
確かに、かろうじて聞き取れる程度のいがらっぽい声だ。アトラはふと思い出す。知り合いに高齢の鍛冶職人がいたが、その声に似ている。火を扱う職人は焼けた空気と煙のせいで、あのような声になることがある。
ともかくアトラは身を伏せ、他の子どもたちに呼びかける。
「ドリー、他のみんなも動かないで。あいつは只者じゃない。下手に動くとまじないの火で狙われるかも」
「くそっ……わかったよ」
子どもたちは気配を潜めて動かなくなる。
だが、竜はそうはいかぬ。
4対8本の足を持つ鰐。膨大な銀を呑んだ竜は水の流れる砂利場を這い、荒い息を撒き散らして剣士に迫る。
「やれ! イルガード!」
そいつの脳を満たすのは食欲と暴虐さだけなのか。間合いの測りも牽制もなく、すべての足をだんと地面に打ち付けて跳ぶ。
艦船が飛ぶような眺め。襲いかかる数トンの重量。剣士が背中から抜き放つ大剣。
薙ぎ払う一撃、鰐の皮膚と触れ合って火花を散らす。
「おそろし 硬 な、数億は与 ている」
剣士の鎧は全身を包むプレートアーマー。だがステップは軽く、鰐の旋回に先んじて動く、そのヒダ状の背中に振り下ろす一撃。
切っ先が沈む一瞬、鰐が全身を回転させて鋼を弾く。ものの見事に脇腹に尾が沈み、剣士の姿が視界から消える。一瞬後に左方でとどろく衝突音。
「やったぞ!」
「うっ……」
アトラは吐き気がこみ上げるのを感じる。今の一撃、大理石の柱すら砕いただろう。人間ならば胴体が両断されてもおかしくない。
だが。
剣士は平然と立ち上がり、プレートアーマーから砂利を払い落とす。
「な……!?」
ドリーが愕然とそれを見た直後、剣士は体勢を低くして突進。竜もまた食欲を剥き出しにして走り、交錯する瞬間に数度の打音。竜の皮膚から体液が散る。
「な、なんだあいつ、あれで生きてるぞ」
「きっと銀を呑んでるよ! 怪物じみた強さになってるんだ!」
「……」
アトラは違う違和感を持っていた。
あの一瞬、間違いなく鎧が砕けた音がした。強い力をかけた鋼板が破断するときのばあんという音。それに確かに胴鎧がひしゃげたように見えた。
だが、剣士の鎧はまるで新品のよう。
鰐の動きに慣れてきたのか、その足さばきが的確なものになってきた。巨体が流れる先を読み、頭頂部や眼を狙った振り下ろしを繰り返す。
そして何度目かの一撃、竜の頭に刃が埋まり、激しい血しぶきが暗闇に散る。その竜は鳴けないのか、声なき声を放って砂利場でもがく。
「やばいよドリー、やられる!」
「あのイルガードが……信じられない!」
子どもたちから上がる焦燥の叫び、ドリーもまた竜の苦戦を感じ取っているのか、唇を噛み締めている。
「……おい、爆ぜ銀だ、誰かこっちに投げろ」
「だめだドリー!」
止めるのはアトラ、横からドリーの腕をつかむ。
「天井を崩すのはやめるんだ! こんな短い時間で2度も崩したら、崩落がどれほど大きくなるか分からない!」
「……あの剣士に銀が奪われる。そうなったら街に戻れなくなる。それ以前に、あいつが僕らを生かしておく保証がどこにある」
「だ、だからって……」
眼下では竜が狂乱状態となっている。生命力の限りを尽くして暴れているが、もはや剣士に当てることができない。
「ドリー、体に当てるぞ」
「受け取って」
何人かが投げてよこす銀塊、その一つがドリーの肩に当たり、下に落ちた瞬間にさっと拾われる。
「全員伏せてろ!」
「やっ……やめるんだドリー!」
「アトラ、これは僕たちの問題。君は黙っててくれ」
抜き放つのは匙のような投石機。アトラがドリーに掴みかかろうとする刹那。ドリーはそれを察して身を沈め、アトラの肩を強く蹴る。
アトラがのけぞる瞬間。虚空に描かれる軌跡。銀塊が飛び、天井の一点に突き刺さり、そして音速で広がる燃焼と膨張。天井にかかっていた力の均衡が崩され、大量の土砂が。
誰の目にも見えはしない、一秒の何分の一で伝わる力の流れ、ドリーの予想を超えて広範囲に伝播した崩壊が洞窟全体を崩し、その上にあったカラトルムの山々が、その超重量が一気に伸し掛かってくる瞬間。
「時の極限」
瞠目。
アトラの頭上で岩が止まっている。崩れ始めていた天井が、倒れかかっていた壁が、崩壊の風景を描いた模型のように。
「これって……!?」
「再生の祝福」
剣士の声が変化している。より甲高く滑らかな、まるで、喉に火傷を負っていたものが治っていくかのような。
そして瓦礫が真上に向かう。屋根ほどもある岩塊も、砂の一粒すらも重力に逆らって上昇し、元あった場所にはめ込まれていく。
「そこにいるのはアトラか」
「あなたは……!」
それは完全に本来の声を取り戻していた。女性としての声を。
「勇者フィラルディア!」
勇者は剣を構えている。幻光剣イムカウェンザ。あらゆる滅びを遠ざける真なる竜銀の武具。
「勇者だって……?」
「北方で魔王と戦った……」
「第十八次遠征隊のリーダーのはず……」
「フィラルディア! なぜあんたがここに!」
「この街がハガネと呼ぶものを回収に来た」
フィラルディアは体を覆っていた布を脱ぎ落とす。その下から現れるプレートアーマーは、確かに女性用に胸部が張り出したものだ。
薄桃色の光をたたえる剣を地面に突き立て、声を張る。
「この地に赴いて確認できた。あれこそは真なる竜銀の武具、炎帝鎧ヴリトシャクナ。炎を統べる鎧。北方の戦いを離脱して逃げていた一人なのだ」
「そんな……十八次遠征隊はどうしたんだ」
「この大竜窟であっても我々の都市曳航竜は通れぬ。ハガネとやらの噂を聞いて調査に来た」
「あ、アトラ、知り合いなのか?」
「じ、じゃあ帰るように言ってくれよ、あの鎧が欲しいなら、やるから……」
「……」
この大竜窟に大人が入れなくなり、ドリーたちがここで身を寄せ合って暮らしている元凶、それがあの鎧。
鎧さえ無くなれば、街は昔の姿を取り戻すだろうか。ドリーたちも街に戻れるのか。
だが。
「……渡せない」
アトラは周囲を見て、そのへんに落ちていた角材を持って飛び降りる。武器としては扱いにくい大きさだが、アトラはしっかりと両手で握る。
「戦うつもりか、アトラ」
「あれが真なる竜銀だと知ってしまった以上、あんたには渡せない」
「なるほど、奪い合うか、それもいいだろう」
フィラルディアは剣を引き抜き、正眼に構える。
「旅をして多少は精悍な顔になった。だがまだ甘さが抜けきれていないな。それで私に勝てると思っているのか」
「あんたのことを何度も夢に見た。あんたとまた戦う日が来ると思っていた。あの日の戦いだって何千回も思い返したとも。負けやしない」
(策は、一つしかない)
低く構える。フィラルディアのほうが上背がある。狙うなら脚部だと踏んでいた。
(あの剣がある以上、フィラルディアは簡単には死なない。たぶんそういう力があるんだ。だからハガネの炎にも耐えられた、あのイルガードの一撃を受けても立ち上がった)
(あの剣を弾き飛ばす、それしかない)
低く払う一撃、勇者の剣が斜めからぶつかり衝撃をいなす。
「やあああっ!」
アトラが振るう角材、当たれば確かに骨を砕く威力、そして暗闇の中で足場の見極めが覚束ない。
だがやはり勇者の太刀筋か、アトラの剣が勢いに乗る前に割り込んで弾く。アトラは驚異的な膂力で角材を引き戻して打ち据える。
「くそっ、倒れろよ!」
「甘いぞアトラ、その程度で……」
「こいつだ!」
アトラが、そして勇者フィラルディアの意識が声の方に向く。
そこにいたのは目隠しをした少年ドリー、どうやって見つけ出したのか、こぶし大の銀の塊を拾っている。先刻、誰かがドリーに渡そうとしたものか。そして腰から投石機を抜き放つのが見える。
見据えるは天井の一点、先刻ドリーが撃ち抜いた場所。
「しまっ……!」
轟音と爆風。ほぼ真下にいたアトラに無数の石つぶてが襲う。全身に気を張って耐えるその頭上から、超質量の崩落が。
「さっきの技と戦闘、両方同時にやれるか! 勇者!」
「ぐ、おのれっ……!」
1秒に満たぬ逡巡。アトラももはや戦闘を止められない。跳ね飛ばされた角材を拾い、体勢を立て直す姿がスローに見える。
(私一人なら)
(私だけなら、崩落で潰れてからでも再生は可能。イムカウェンザにはそれだけの力がある)
(だ、だが……)
「時の極限!」
崩れかかる大竜窟が、液体のように振る舞う天井の崩落の流れが押し止められ。
そして勇者フィラルディアに、アトラの一撃が。
「……!」
無音。
さしもの勇者も覚悟に目を閉じる。
そして数秒の空白。勇者がゆるやかに目を開けたとき、アトラが眼前に立っている。
己に振るわんとしていた角材を空中で止め、アトラ自身も、彼の後ろにいたドリーも茫然と背後を見ている。
「……?」
フィラルディアも背後を見る。周囲では洞窟が再生を始めていた。
そこには鎧が。
中身のない、生物の殻のようながらんどうの鎧が、フィラルディアたちを見つめていた。




