第四十三話 約束された明日
「た、時流速度、等倍!」
【時流速度 等倍】
とっさに叫ぶ。模型は静かにそこにあり続ける。
しかし急に、アトラの手の中で重く感じる。
何が起きていたのか、この模型に、模型の中にいた、あの無骨な職人に何が。
「じ、十万倍……よ、4時間その状態だったとしたら、45年……」
アトラは震えながら模型を置き、その中に飛び込む。
下は藁の山だった。うず高く積まれた大人の背丈ほどの藁。よく乾燥した硬い藁であり、足は埋まらずに歩ける。
「畑が広がってる……池も」
畑はくろぐろとした良い土をたたえ、見渡すばかりと言えるほど大きい。大きく2つに分けられた畑の間に用水路が引かれ、木桶や洗い場もこしらえてある。
家は少し増設したようだ。二つの棟が並ぶような作り。その脇に大きめの納屋がある。
飛行機械もあった。しかしエンジンの周囲にわずかに骨組みが組まれているだけだ。翼は家の庇に利用されていた。
後ろから気配。レンナが来ていることを感じ取り、振り返って言う。
「レンナ……トラッドさんは」
「最初に言うよ、あまり悪く言わないであげて」
常にのんびりした印象のレンナであるが、この時は少し悲しげに見えた。空の彼方を見ながら語る。
「トラッドさんには飛行機は作れなかった。頑張ればできたのかも知れない。でも十日ほどで諦めてしまった。その後は時間の流れを十万倍にして、毎日ここで畑の世話をしてたの。そして、生涯を終えた」
「終えた……!? ど、どうして……なんで諦めたんだよ! あれほど情熱たっぷりに語ってたのに!」
「アトラ」
そこにスウロも来る。黒衣の魔法使いは伏し目がちに、ここで流れたであろう長い年月を思いながら言う。
「アトラ、我々の生きる世界に、得がたい宝が一つある。それはどんな権力者でも、心身に優れたる者でも容易には手に入らない、至高の宝デス」
「それって……」
「約束された明日」
スウロは手で招き、納屋の外へと促す。
世界に陽光が満ちている。緩やかでぬるい風と、絶えず流れる小川、濃緑色の木の葉は豊かな葉擦れの音を奏で、遠くから聞こえる山鳥の声。
「この模型は本当に素晴らしいデス。災厄もなければ天変地異もない。今はまだ人の世の煩わしさもない。この世界ならば安寧のうちに一生を終えられる。それは恐ろしいことと思いませんか」
「恐ろしい……?」
「食べて寝て、適度に働いて生涯を過ごせる。それは一種の理想デス。その魅力の前に人間はすべてを忘れてしまう。大事な使命も、大切な人も、生涯かけて成そうとしていた何かすらも」
「そんな馬鹿な! トラッドさんは奥さんをグランに残してた! それを忘れて模型に引きこもるなんて!」
「私には奥様への思いのほどは分かりません。あるいは、とっくに死んでると思っていたかも知れないし、そもそも飛行機を完成させる自信がなかったのかも。でもアトラ。それ以上の推測は避けるべきデス」
「うう……」
どんな思いでここに残ったのか。毎日を過ごしていたのか。
模型の中とはそれほど素晴らしいのか。約束された明日、変わらぬ日々、それがそんなに力があるのか、人間から気力を奪ってしまうのか。
「……スウロ、だからなの? だから模型に入らないようにしてたの? 使命を忘れてしまうから」
「そうデス。私には役割がある。その模型で、私という「個」が生涯を終えてしまうことは恐ろしかった。だから入らないようにしてたデス」
「でも……僕はそうならなかった。模型の中で何年も過ごして、体を鍛えた……」
「……アトラ、やはり模型で過ごした時期があったのデスね」
幼い風貌の割に鍛え抜かれた体。年齢の割に世間知らずな印象。そこに察するものがあったのだろうか。
うなだれるアトラの肩に手を置き、ゆるやかに言う。
「アトラは本当に立派デス。誰も見ていない場所で、何かに打ち込み続けるのは大変なことなのデスよ。でも、誰もがそのように強いわけではないのデス」
「そんな……」
無力感の痛みが、また一つ。
しかし何について悔しがればいいのか、それすらも分からなかった。
トラッドは天寿を全うしたし、飛行機を作らなかったのは彼の意志だ。グランの街に彼の妻らしき人物はいなかったし、飛行機がなくても溶岩の河を渡ることはできた。
飛行機があろうと無かろうと、何も変わりはしなかったのか。
では。人は。
何のために、生まれてきて、死んでゆくのか。
大いなる虚無。
群像の中の無為なる個人。
世界の大いなる流れの中での、蟻の歩みのように矮小な人生――。
我知らず、アトラは涙を流していた。
悔しいような悲しいような、憤るような、それはアトラに残っていた少年期の無垢なる部分、それが剥がれ落ちるような涙だった。
「アトラ、トラッドさんは立派だったよ。毎日たくさん働いたし、お酒も飲まなかった。それに私を求めなかった。あの人なりに誠実に生きていた。罪を償い続けるような毎日だったんだよ。だから悪く言わないであげて」
「い、いいんだよ。怒ってるわけじゃないんだ、ただ、悲しくて……」
今は泣くべきだと、アトラの本能が告げていた。
この世界でつつましく生きて、路傍の花のように世を去った、一人の職人のために泣こうと――。
「も、もう大丈夫……そうか、畑が広くなってたのはそのせいなんだね。立派な畑だよ。土も一から作ってある。きっと何十年も……」
そこで、ふと気づく。
涙を乱暴に拭って、レンナを見た。服は以前のツナギだがかなり古い。家の前には簡素な麻の服がいくつか干してあった。麻も栽培してるらしい。
「あれ……ねえレンナ、君は何年ぐらいここにいたの?」
「さあ? ここカレンダーもないし時計もないし」
「いや、だってまったく年をとってない……」
「ああ、私、そういうの無くなってるみたい。真なる竜銀と交わったからかな」
「えっ」
レンナはぐぐっと伸びをして、家の一つに戻ろうとする。あっちがレンナの家だろうか。
「そういうわけで、さっきの子たち村に来るの? なんか娯楽が欲しいから本とか持ってきてくれると助かる」
「いやちょっと、それって大変なことなんじゃ」
「これお酒もダメになってそうデスね。いや、村が広がるなら麦からビールぐらいは……」
「スウロちょっと、終わった感じにしないで!」
※
翌日。
ヴァルの街の住人は、まずは新たに現れた山に驚く。
そして街の近くに大きな湖が出現していたり、造船所が街のすぐ近くに来ていたりと天変地異がいくつも起きていた。
あまりにも奇妙に過ぎて、それが何らかの術によるものなのか。それとも本当に神や魔王が降臨したのかと話し合われた。
しかし結局、街の住人はどんな答えにも至れないだろう。
街の抱いていた鬱屈。グランの街とのこじれた関係。領主や終戦派が抱いていたかも知れぬ野望。
それらは露見することも、解消されることもなく、ただ街だけが残り続ける。
どこへも行けないことが、最大の罰と言うかのように。
「アトラ、優しいデスね。水場まで用意してあげるなんて」
騎竜の背には二人の旅人。
アトラの胴に腕を回しつつ、スウロが話しかける。模型は騎竜の脇に吊り下げていた。
「いちおう大きめに作ったけど、溶岩の河を抜きにしても暑いからね……。水を使い切る前に井戸を掘れればいいけど」
「大丈夫デスよ。地下水脈は生きてるらしいデスし」
街ごとの移動はできたとしても、井戸はおそらく枯れただろう。グラン河の流れがどう変化するかも分からない。街にはこれからも課題が山積みだろう。
「それに造船所まで掘り出したようデスね、まあ生き埋めになってる人がいたかも知れませんから仕方ないデスね」
グランヴァルを立つまでの数時間。
スウロは子どもたちと村に入り、レンナとともに畑の世話などについて教えていた。さらにグランの廃墟から無事な本をかき集め、百冊以上も運び込んでいた。今後必要になるとの考えがあったらしい。
アトラはというと、移動させたヴァルの街の周囲に水場を作ったり、街道を繋げたり、造船所を土の山から掘り出したりと色々だった。
造船所は潰れてはいなかったが、中に人はいなかったという。
「できれば造船所は破壊しておきたいデスね……。あるいはもう一度埋めておくとか」
スウロとしては造船設備を残しておきたくないのだろう。破壊だとか機能停止だとかぶつぶつ言っている。
「心配ないよ、もうあんな船は作れない、しばらくはね」
はい、と、スウロに向けて渡すのは小型模型。内部に空間があるスノードームだ。
「何デスか?」
「造船所に銀の蓄えがあったから持ってきたよ。ついでに領主さんのお屋敷からも。7億ドルムぐらいかな」
え、と目を丸くするのはスウロ。
「スウロ言ってたでしょ。個人においての蓄財は4500万ドルムまで。領主様って娘さんとか色々入れて7人家族らしいから、3億1500万ドルムだけ金庫に残してきたよ」
「アトラ無茶しますね」
「いらないなら戻してくるけど」
「もちろんいります」
ぱし、と後ろから模型をひったくる。
「これからの旅には竜銀がいくらあっても足りません。そのうち「森」の模型で銀を稼ぐ手段も考えたいデスね」
「そうだね……」
捨て鉢な行動だったことは否定できない、とアトラは思う。
グランヴァルの街では色々あって、その割にアトラが把握できたこと、関われたことはごく一部だった。領主の家から銀を持ち出したのは、せめてもの抵抗のようなものだ。
グランとヴァル、二つの街はいつから壊れてしまったのか。
終戦派が何かを吹き込んだのか。魔王との戦いが生んだ悲劇なのか。それとも、もっとずっと前からだろうか。
「ねえスウロ、一緒に住めないほど仲が悪い二人が、河を挟んで住むとするよね」
「はい?」
「それって、「逆」もあるのかな。分かれて暮らしてる街は、ただそれだけが原因で仲が悪くなっていく……」
「ほほう、アトラは賢いデスね」
感心したように言う。
「それが地政学というものデス。地形そのものが人間関係に影響するのデス。もちろん、それは多くの理由の一つに過ぎませんが」
日がだんだんと東の空を登ってくる。それを右手に見て騎竜が走る、北へ北へと。
「最大の理由はグラン河デス。グランの街が中洲となって残ったように、河はグランの街を迂回するようにカーブしていた。つまり砂や泥がグランの側に溜まりやすかったのデス。有機泥から銀を採取する砂取りの技術は、必然的に北で発達する。北方からの技術者や商人などもグラン側に集まる。それが街の格差を生んで……」
「ごめんあんまり興味ない」
「えええええええ!」
始めて見るレベルで驚いて、そして唇を尖らせる。
「こーゆー話に興味持たないとだめデス!」
「ごめんね……ま、そのうち……」
脇に吊った模型を意識する。内部ではレンナと、十五人の子どもたちが生活を始めているだろうか。
「この模型で……争いを止めることってできるのかなあ」
北方で行われているという、人間同士の戦い。
それにどこまで関われるのだろうか。今回のように土で埋めるとか、住んでる場所を引き離すとかはまさに力技の極みだった。そんな手は何度も使えないだろう。
「できますよ」
スウロが言い、体重をアトラに預ける。ふわりとナツメグのような匂いがした。
「それはまさに至高の器物。何だってできるのデス。肝心なのはアトラの成長なのデス、模型についてもさらにさらに学ぶのデス」
「そうだね……終戦派の動きにも気をつけよう。北に行くほどに、もっと出会うだろうし」
村を広げよう。
ふいにそう思う。
模型の中で子どもたちが家を持ち、畑を広げ、様々なものを作り始める。この模型はそのために生まれ、そのために魔王がこの世に残した、そんな気がする。
「……でもそれだと、子どもたちは模型の中だけでずっと過ごすことに……」
あるいは、それこそが。
「……時流速度、24倍」
言葉に反応して、模型が振動する。
「スウロ、止めたいなら言って」
「構いませんよ。アトラのやり方に従います」
スウロが模型を撫でる気配がある。愛おしそうに、慈愛を込めて。
「健やかに育つのデスよ。アトラも、この小さくて美しい、愛すべき世界も……」
そして旅は続く。
北へ、北へ。
虚無の彼方へ、魔王の都へ――。




