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「婚約破棄ですか? ちょうど良かった、違約金三万リラの請求書をお届けするところでしたの」〜元・温泉旅館の若女将、異世界で湯屋を経営したら王子様方に求婚されましたが、まずは今期の売上目標達成が先ですわ〜

作者: さんず
掲載日:2026/01/29

「婚約を破棄する。リリアーナ・フォンティーヌ」


アルベルト・ヴァン・クレイドルの声が、翡翠の湯の大広間に響き渡った。


(……え、今? 今それ言う?)


私は手にした帳簿から顔を上げ、目の前の光景を確認した。金髪碧眼の婚約者——もとい元婚約者候補が、これ見よがしに腕を組んで仁王立ちしている。その傍らには、蜂蜜色の巻き毛を揺らしながら勝ち誇った笑みを浮かべるセリーヌ・バルトリ男爵令嬢。


営業時間中。


お客様が二十人以上いらっしゃる大広間で。


湯上がりのお客様がフルーツ牛乳を片手に、何事かとこちらを凝視している。


(空気読めないにも程がありません? 前世のブラック旅館時代でも、さすがにお客様の前で修羅場はなかったわ)


「君のような湯屋の女将など、侯爵家の嫁には相応しくない」


アルベルトは高価な仕立ての上着の襟を正しながら、鼻で笑った。きつい香水の匂いが漂ってくる。せっかくの薬湯の香りが台無しだ。


「私はセリーヌと婚約することにした。彼女こそ侯爵家に相応しい令嬢だ」


「まあ、アルベルト様ったら」


セリーヌが甘ったるい声を出して、アルベルトの腕にしなだれかかる。胸元を強調したドレスが、これでもかと言わんばかりに揺れている。


(あー、はいはい。見せつけね。で、私が泣いて取り乱すところを見たいと。そういう脚本ですか)


従業員たちが固唾を呑んで見守る中、番頭見習いのモニカが私の後ろで拳を握り締めているのが気配で分かった。湯桶を投げないでね、モニカ。後で私が掃除するの大変だから。


「リリアーナ様、本当にお気の毒ですこと」


セリーヌが猫撫で声で言った。


「でも仕方ありませんわよね。だってあなた、お風呂屋さんですもの。汗の匂いが染み付いた女が侯爵家になど、ねえ?」


(汗の匂い? むしろ毎日温泉に入ってるから肌ツヤ最高なんですけど。あなたこそ、自分の店の湯の塩素濃度大丈夫?)


私は眼鏡の位置を直し、静かに帳簿を閉じた。


「……承知いたしました」


「は?」


アルベルトが間の抜けた声を出した。


「承知いたしました、と申し上げましたの」


私は完璧な令嬢の微笑みを浮かべた。前世で接客業を何年やったと思っているのか。クレーマー対応なら任せてほしい。


「婚約解消のお申し出、謹んでお受けいたします。では——」


私は腰に下げていた水温計の横から、折り畳まれた書類の束を取り出した。


「——いくつかご確認いただきたいことがございますの」


「確認? 何を確認することがある。私が破棄すると言えば——」


「こちらをご覧くださいませ」


私が差し出した書類を見て、アルベルトの顔が引きつった。


『婚約期間中における事業支援に関する覚書』


分厚い。とても分厚い。ハンス爺やが三日三晩かけて作成した、完璧な契約書だ。


「な、なんだこれは」


「ご存知ありませんでしたか? 婚約締結時に侯爵家と交わした契約書ですわ。第七条をご覧くださいませ」


私は該当ページを開いて見せた。


「『婚約期間中に投じられた事業支援金は、婚約破棄の場合、破棄を申し出た側が全額一括返済するものとする』——侯爵家様からは、この三年間で総額三万リラの投資をいただいておりますわね」


「さ、三万……!?」


セリーヌの顔から血の気が引いた。三万リラ。平民の生涯年収の十倍以上だ。


「お、おい待て! そんな契約は聞いていない!」


「契約書の末尾に、クレイドル侯爵様の直筆の署名と印がございますわ」


私は優雅にページをめくった。


「もちろん、アルベルト様がご存知なかったのは理解しております。当時、侯爵様は『書類など読む必要はない、侯爵家の名があれば十分だ』と仰っておいででしたもの」


(契約書を読まない貴族、本当に助かる。前世の私なら絶対やらないミスだけど、ありがとう傲慢な貴族社会)


「そ、それくらい……父上に言えば……」


「あら、まだございますのよ?」


私は二枚目の書類を取り出した。


「『翡翠の湯』は、王都の水利権を保有しております。これは初代フォンティーヌ子爵が王家より賜った特権ですわ」


「水利権がどうした」


「この国の公衆浴場法第十二条をご存知?」


私は、にっこりと笑った。


「『水利権保持者の許可なく湯を沸かし営業を行うことは、王法違反として処罰の対象となる』——セリーヌ様の『薔薇の湯』、許可申請は出されていらっしゃいまして?」


沈黙。


完璧な、沈黙。


セリーヌの顔が、茹で上がったタコのように真っ赤になった。


「そ、そんな法律……」


「王立図書館で閲覧できますわよ。私、毎月確認しておりますの」


(前世の温泉旅館法と公衆浴場法、暗記するくらい読み込んだ経験が活きてる。異世界でも法律は正義)


「つまりセリーヌ様の浴場は——無許可営業。これが発覚すれば、営業停止どころか罰金、最悪の場合は爵位剥奪もあり得ますわね」


「ひ……っ」


セリーヌがアルベルトの腕にしがみついた。だがアルベルトも顔面蒼白で、彼女を支える余裕などない。


私は帳簿を胸に抱え、深々と一礼した。


「婚約解消、誠にありがとうございました。違約金の請求書は後日、侯爵邸にお届けいたしますわね」


「ま、待て……!」


「あ、そうそう」


私は振り返り、最後にひとつだけ付け加えた。


「セリーヌ様の浴場、お湯の温度管理が甘いですわよ。あの状態では三日以内にレジオネラ——いえ、この世界では『湯腐り病』と言いましたかしら。いずれにせよ、食中毒患者が出ますわ」


元・温泉旅館の若女将として、これだけは言っておかなければ。


「衛生管理は命に関わります。お客様を守れない店は、店を名乗る資格がありませんの」


私は踵を返し、従業員控室へと歩き出した。


背後で、アルベルトとセリーヌの悲鳴のような声が響いている。


(さて、と)


控室に入った瞬間、モニカが飛びついてきた。


「女将様! かっこよかったです! あのクソ野郎——じゃなくて、元婚約者様の顔! 見ました!?」


「モニカ、お客様の前では言葉遣いに気をつけて」


「はい! ……でも、本当にスカッとしました!」


私は眼鏡を外し、小さくため息をついた。


「……正直、疲れたわ」


「え?」


「だって三年よ? 三年間、あの香水臭い男に『没落子爵の分際で』って言われ続けて、やっと解放されたの。もっと早くやってほしかったわ」


(婚約破棄イベント、やっと来たって感じ。長かった……)


「女将様、それ本音ですね」


「本音よ」


私たちは顔を見合わせて、小さく笑った。


控室の扉が静かに開き、白髪の執事が入ってきた。


「お嬢様、お見事でございました」


ハンス爺やが、いつもの穏やかな微笑みを浮かべている。


「ありがとう、ハンス。あなたの契約書が完璧だったおかげよ」


「いえ、お嬢様が三年間、証拠を積み上げてこられた成果でございます」


私は窓の外を見た。湯煙が空へと立ち上っている。


(さて、婚約破棄は片付いた。次は——)


「そういえばハンス、今日の午後の予約は?」


「ヴィクさん——いえ、例のお得意様がお見えになる予定でございます」


「あら、そう」


私は眼鏡をかけ直し、帳簿を開いた。


「なら準備しないと。あの方、入浴後にうちの薬湯饅頭を三つも召し上がるでしょう。在庫確認しておいて」


(恋愛より仕事。まずは今期の売上目標達成が先ですわ)


翡翠の湯の女将は、今日も帳簿と格闘する。


婚約破棄? むしろ業務効率が上がってありがたいくらいだ。



婚約破棄騒動から三日後。


私は『翡翠の湯』の特別浴室——通称『翡翠の間』の湯加減を確認していた。


「四十二度。よし、完璧」


水温計を腰に戻し、湯面に浮かぶ薬草の状態をチェックする。今日の薬湯は『癒しの湯』。ラベンダーに似た紫の花弁と、この世界特有の鎮静効果のある青い薬草をブレンドしている。


(前世の知識と異世界の薬草学を組み合わせると、とんでもない効能の湯ができるのよね)


「女将様、ヴィクさんがお見えです」


モニカの声に振り返る。


「ありがとう。いつもの浴衣と、例の薬湯饅頭を用意しておいて」


「はい! 三つですね!」


特別浴室の入り口に、見慣れた人影が現れた。


漆黒の髪に深い紫紺の瞳。長身で端正な顔立ちだが、目の下に隈がある。いつもの疲れた表情。


「いらっしゃいませ、ヴィクさん」


「……ああ、リリアーナ殿。今日も世話になる」


(相変わらず疲れてるなあ、この人。仕事大変そう)


ヴィクさん——本名、ヴィクトル・セルジュ・ラウレンティス。この国の第一王子殿下である。


もちろん、最初からそれを知っていたわけではない。


初めて来店した日、彼は変装して平民のふりをしていた。そして見事に湯あたりして倒れかけ、私が介抱した。


『王子様だろうが何だろうが湯あたりしたら同じですわ。水分補給なさい』


あの時の私の台詞を、彼はずいぶん気に入ったらしい。以来、週に二度は『翡翠の湯』に通ってくる常連客となった。


身分を明かされた時は驚いたけれど——


(お客様はお客様ですもの。王子だろうが平民だろうが、サービスに差をつけるつもりはないわ)


「今日の湯は?」


「『癒しの湯』でございます。鎮静効果がありますので、お仕事のお疲れに効くかと」


「……助かる」


ヴィクさんは脱衣所へ向かいながら、ふと足を止めた。


「リリアーナ殿」


「はい?」


「婚約破棄されたそうだな」


(あ、もう知ってるんだ。さすが王家、情報早い)


「ええ、おかげさまで身軽になりました」


「……おかげさまで?」


「重荷が取れましたの。これからは経営に集中できます」


紫紺の瞳が、じっと私を見つめた。


「泣いたり、取り乱したりはしなかったのか」


「泣く理由がございませんもの」


私は営業スマイルを浮かべた。


「愛してもいない相手との婚約ですわ。むしろ解消していただけて感謝しております」


(三年間の我慢料として違約金三万リラいただけますしね。ありがとう侯爵家)


ヴィクさんは無表情のまま、小さく息を吐いた。


「……そうか」


なんだろう、少しだけ嬉しそうに見えたのは気のせいだろうか。



一時間後。


湯上がりのヴィクさんは、休憩室で薬湯饅頭を頬張っていた。予想通り三つ目に手を伸ばしている。


「美味い」


「ありがとうございます。うちの厨房の自信作ですの」


私は向かいの席で帳簿を広げていた。お客様の休憩中に経理作業を進めるのは私の習慣だ。時間は有限である。


「リリアーナ殿」


「はい?」


「単刀直入に言う」


ヴィクさんが饅頭を置き、真剣な表情になった。


「王家直轄の温浴施設顧問にならないか」


(……え?)


「現在、王都には衛生管理が行き届いていない浴場が多数ある。民の健康を守るためにも、君のような専門家が必要だ」


「わ、私がですか?」


「君以上の適任者はいない」


紫紺の瞳が、真っ直ぐに私を見据えている。


「温浴施設の経営、衛生管理、薬湯の調合——これほどの知識と技術を持つ者を、私は他に知らない」


(ちょ、ちょっと待って。王家直轄? 顧問?)


内心でパニックを起こしつつ、外面は冷静を装う。


「……光栄なお話ですが、私は『翡翠の湯』の経営がございます」


「もちろん、兼任で構わない。むしろ君の浴場を王都の模範施設として推奨したい」


「は、はあ……」


「報酬は年俸五千リラ。王城への出入りも自由とする。必要な予算と権限は全て与える」


(五千リラ!? うちの年間売上の三分の一じゃない!)


私は帳簿を閉じ、深呼吸した。


これは——チャンスだ。


侯爵家との縁が切れ、後ろ盾がなくなったこのタイミングで、王家からの打診。偶然ではないだろう。


(この人、最初から私を見ていたのかもしれない)


「……一つ、条件がございます」


「言ってみろ」


「衛生基準に満たない浴場には、容赦なく営業停止命令を出す権限をください」


私は真剣な目でヴィクさんを見つめた。


「お客様の命と健康を守れない施設に、営業する資格はありません。たとえそれが貴族の経営する店であっても」


沈黙。


そして——ヴィクさんは、初めて見せる笑みを浮かべた。


「……やはり君だ」


「え?」


「私が見込んだ通りの人間だ」


彼は立ち上がり、私の前に跪いた。


「リリアーナ・フォンティーヌ。王家の名において、君を温浴施設顧問に任命する。全ての権限を与えよう」


(え、ちょ、跪かないで!? お客様が床に膝つけないで!?)


「その権限で、まず一つ仕事を頼みたい」


「は、はい……?」


「『薔薇の湯』——セリーヌ・バルトリの浴場を査察してくれ。無許可営業と衛生管理違反の疑いがある」


私は、にっこりと笑った。


「喜んで」


(さて、仕事の時間ですわ)



翌朝。


『薔薇の湯』の前に、私は立っていた。


「……派手な看板ね」


赤とピンクの装飾が施された外観。『王都一の美肌の湯』という看板が誇らしげに掲げられている。


(うちから盗んだノウハウで『王都一』を名乗るとは、いい度胸だわ)


隣にはモニカ、後方にはハンス爺やが控えている。そして——


「では、始めましょうか」


王家の紋章入りの許可証を手に、私は正面入り口に歩み寄った。


扉を開けると、甘ったるい香水の匂いが鼻をついた。


(この時点でもうダメ。浴場で強い香料は衛生上問題がある)


「いらっしゃいま——あら?」


受付にいた従業員が、私の姿を見て固まった。


「リリアーナ・フォンティーヌ……? 何の用ですの?」


「王家直轄温浴施設顧問として、査察に参りました」


許可証を見せると、従業員の顔が青ざめた。


「さ、査察……?」


「責任者——セリーヌ・バルトリ様をお呼びください。お待ちしておりますわ」



十分後。


セリーヌが血相を変えて現れた。


「何のつもりですの、リリアーナ!」


「おはようございます、セリーヌ様。王家からの正式な査察ですわ」


私は書類を差し出した。


「公衆浴場法に基づき、水利権の許可証、衛生管理記録、温度管理記録の提出をお願いいたします」


セリーヌの顔が歪んだ。


「そ、そんなもの……」


「ございませんの?」


沈黙が答えだった。


私はため息をついた。


(やっぱりね。最初から分かってたけど)


「では、浴場内の査察を行います。モニカ」


「はい、女将様」


モニカが水温計と検査キットを取り出した。前世の知識を活かして作った簡易衛生検査キットだ。


「待ちなさい! 勝手に——」


「王家の許可証がございますわ。拒否されるなら、王城の衛兵をお呼びしますが?」


セリーヌが歯ぎしりした。



浴場内を確認して、私は絶句した。


(……想像以上にひどい)


「お湯の温度、三十八度です」


モニカが水温計を見て報告する。


「低すぎるわ。この温度では雑菌が繁殖する」


浴槽の縁を指でなぞると、ぬめりがあった。塩素消毒が不十分な証拠だ。


「水質検査の結果は?」


「大腸菌群、基準値の五倍です」


私は目を閉じた。


(これは……下手したらお客様が死ぬ)


「セリーヌ様」


振り返ると、セリーヌが青い顔で立ち尽くしていた。


「この状態で営業を続ければ、三日以内に食中毒——いえ、感染症患者が出ます。最悪の場合、死者が出る可能性もございます」


「そ、そんな大げさな——」


「大げさではありません」


私の声が、自分でも驚くほど冷たくなった。


「お客様の命を預かっているという自覚がおありですか? 温度管理一つで人は死ぬのですよ」


前世で、いい加減な衛生管理の旅館で食中毒が発生したニュースを何度も見た。私自身、衛生管理には人一倍気を使ってきた。


(だからこそ、許せない)


「王家温浴施設顧問の権限により、『薔薇の湯』に即時営業停止命令を出します」


「そんな……!」


「同時に、無許可営業の件を王城衛兵隊に報告いたします。違反の程度によっては、爵位剥奪もあり得ますわ」


セリーヌが膝から崩れ落ちた。


「い、嫌……こんなはずでは……」


「ノウハウを盗むなら、本質まで盗むべきでしたわね」


私は冷たく言い放った。


「表面的な接客マニュアルや集客方法だけでは、浴場は経営できません。お湯を守り、お客様を守る——それが温浴施設の本質ですわ」


(あなたには、それが最初から欠けていた)


「女将様」


モニカが小声で囁いた。


「外に、クレイドル侯爵家の馬車が……」


振り返ると、店の前に豪華な馬車が止まっていた。そこから降りてきたのは——


「何事だ! セリーヌ、どうした!」


アルベルト・ヴァン・クレイドルだった。


(あら、元婚約者様。タイミングがいいこと)


「アルベルト様! この女が……!」


セリーヌがアルベルトにすがりついた。


「どういうことだ、リリアーナ!」


「王家の査察ですわ、アルベルト様」


私は許可証を見せた。


「『薔薇の湯』は無許可営業、衛生管理違反、温度管理不備。複数の法律違反が確認されましたので、営業停止命令を出しました」


「な——」


「ちなみに、私は昨日付けで王家直轄温浴施設顧問に任命されております。この査察は、王家の正式な命令に基づくものですわ」


アルベルトの顔が、見る見るうちに蒼白になった。


「お、王家……?」


「ええ。ヴィクトル王太子殿下直々のご任命ですの」


王太子の名前を出した瞬間、アルベルトの体が震えた。


「そ、そんな話は聞いていない……」


「聞く必要がございまして? もう私とアルベルト様は何の関係もございませんもの」


私はにっこりと微笑んだ。


「そうそう、違約金の請求書は本日中にお届けいたしますわ。三万リラ、一括でお願いいたしますね」


「さ、三万……」


「それと、セリーヌ様の無許可営業についても、侯爵家に連帯責任が発生する可能性がございます。婚約者として支援されていたのでしょう?」


アルベルトの顔が、蒼白を通り越して灰色になった。


「少なくとも賠償金は数千リラ。爵位剥奪まで行けば、侯爵家そのものが傾きますわね」


「そ、そんな……」


「ご自分で蒔いた種ですわ。お幸せに」


私は優雅に一礼し、『薔薇の湯』を後にした。



「女将様、かっこよかったです!」


帰り道、モニカが興奮気味に言った。


「あいつらの顔! 見ました!? 最高でした!」


「モニカ、言葉遣い」


「はい! でも本当にスカッとしました!」


私は小さく笑った。


(まあ、正直私もスカッとしたけどね)


「お嬢様」


ハンス爺やが静かに言った。


「これで侯爵家は完全に追い詰められましたな」


「ええ。違約金と賠償金で傾くでしょうね」


「自業自得でございます」


私は空を見上げた。澄んだ青空に、白い雲が流れている。


(さて、敵への対処は終わった。次は——)


「ハンス、今日の午後の予定は?」


「王城への表敬訪問でございます。正式な顧問就任の挨拶を」


「そう。なら準備しないと」


私は歩きながら、頭の中で計画を組み立てた。


王都の温浴施設改革。衛生基準の策定。従業員教育プログラムの確立。


やることは山ほどある。


(恋愛なんてしている暇はないわ。まずは仕事よ)


——とは言え。


(王城に行ったら、ヴィクさんに会うのよね……)


なぜか少しだけ、心臓が跳ねた気がした。


(気のせいよ、気のせい)


私は帳簿を抱え直し、足を速めた。



一ヶ月後。


「クレイドル侯爵家、破産寸前だってよ」


『翡翠の湯』の休憩室で、常連のお客様がそう噂しているのが聞こえた。


「違約金と賠償金で首が回らないらしい。嫡男のアルベルトは爵位継承権を剥奪されたとか」


「あの傲慢な侯爵が、まさかこんなことになるとはね」


私は受付で帳簿をつけながら、その会話を聞き流していた。


(因果応報ですわね。契約書は読みましょう、という教訓になればいいのだけど)


「女将様」


モニカが駆け寄ってきた。


「お客様です。とても偉そうな方が……」


「偉そう?」


「銀髪で、氷みたいな目の方です。表情が全然動かなくて怖いです……」


私は首を傾げた。心当たりがない。


「ご案内して」


「はい」



応接室に通された人物を見て、私は目を瞬いた。


銀髪に氷のような青い瞳。北方の国らしい色白の肌と、彫刻のように整った顔立ち。


——どこかの国の王族、という雰囲気が漂っている。


「初めまして。リリアーナ・フォンティーヌ殿」


無表情のまま、彼は軽く頭を下げた。


「私はレオンハルト・フォン・アルステイン。アルステイン公国の第二王子だ」


(……え、隣国の王子様?)


「ようこそいらっしゃいました、レオンハルト殿下」


私は慌てて立ち上がり、礼を取った。


「本日はどのようなご用件で?」


「貴女の湯に入りたい」


「……は?」


「アルステイン公国は温泉大国だ。私は各国の名湯を巡ることを趣味としている」


無表情のまま、彼は続けた。


「『翡翠の湯』の薬湯の評判を聞き、視察に来た。今日、全ての浴槽に入らせてもらう」


(温泉マニアの王子様……?)


「も、もちろんでございます。ご案内いたしますわ」



三時間後。


レオンハルト殿下は、全ての浴槽を制覇した。


『美肌の湯』『癒しの湯』『活力の湯』『安眠の湯』——『翡翠の湯』が誇る四種類の薬湯を、丁寧に、じっくりと堪能していた。


(すごい。本当に温泉が好きなのね、この人)


休憩室で、彼は薬湯饅頭を無表情のまま頬張っていた。


「素晴らしい」


「ありがとうございます」


「薬草の配合が絶妙だ。温度管理も完璧。湯の鮮度を保つ循環システムも、見たことがない設計だった」


(あ、この人、本当に分かってる)


私は少し嬉しくなった。温泉について真剣に語れる人は、前世でも今世でも貴重だ。


「ありがとうございます。温度管理には特に気を使っておりますの」


「聞きたいことがある」


「何でしょう?」


「薬湯の調合法を教えてほしい」


レオンハルト殿下の氷のような瞳が、真剣な光を帯びた。


「アルステイン公国の温泉地を、更に発展させたい。貴女の知識が必要だ」


(……これは、ビジネスの提案?)


「門外不出の調合法でございますが……条件によっては、技術提携も考えられますわ」


「条件?」


「ええ。アルステイン公国の温泉資源と、当店の技術を組み合わせた共同事業——」


「分かった」


殿下は無表情のまま頷いた。


「では、ついでに妻になってくれ」


「——は?」


「貴女の湯は芸術だ。私の国の温泉地を全て任せたい。そのためには、妻という立場が最も効率的だ」


(いやいやいやいや、待って?)


「ついでって何ですの、ついでって!?」


「論理的だろう。技術提携より婚姻の方が、長期的な協力関係を構築できる」


(論理的って言えば許されると思ってます?)


私は深呼吸した。


「殿下、恐れながら、私はお風呂を一緒に楽しめる方としか結婚するつもりはございませんの」


「当然だ。私は毎日温泉に入る」


「そういう意味ではなく——」


「一緒に温泉について語り明かしたい。貴女となら可能だ」


氷のような瞳が、どこか熱を帯びている気がした。


「……殿下、それは求婚ではなく、温泉仲間の勧誘では?」


「違うのか?」


(この人、恋愛感情と温泉愛好の区別がついてない……)


私は額を押さえた。


「とりあえず、今日のところはご帰国ください。技術提携については、後日改めてお話しいたしましょう」


「婚姻の件は?」


「保留ですわ」



レオンハルト殿下を見送った後、私は休憩室でぐったりしていた。


「女将様、大丈夫ですか?」


モニカが心配そうに声をかけてくる。


「……温泉マニアの王子様に求婚されたわ」


「え!? おめでとうございます!?」


「おめでたくないわよ。『ついでに妻になってくれ』って言われたの。ついでって何よ、ついでって」


モニカが噴き出した。


「ぷっ……すみません、女将様。でも面白すぎます」


「笑い事じゃないわ……」


「でも、選択肢が増えたじゃないですか。ヴィクさんとアルステインの殿下、どっちがいいです?」


私は眉を寄せた。


「何言ってるの。私は誰とも——」


「女将様」


ハンス爺やが入ってきた。


「ヴィクトル殿下がお見えです。いつもの浴室をご用意しますか?」


(ヴィクさん……)


「……ええ、お願い」


なぜか、心臓がまた跳ねた。



『翡翠の間』の湯加減を確認していると、背後から声がかかった。


「リリアーナ殿」


振り返ると、ヴィクさんが立っていた。相変わらず疲れた表情だが、どこか柔らかい目をしている。


「いらっしゃいませ、ヴィクさん。今日の湯は『安眠の湯』ですわ」


「ああ、助かる。最近、眠れない夜が続いていてな」


「お仕事が忙しいのですか?」


「それもあるが……」


ヴィクさんは言い淀んだ。


「……気になることがあってな」


「何でしょう?」


「アルステインの王子が来たと聞いた」


(あら、もう知ってるの。さすが情報網)


「ええ。温泉の視察に」


「それだけか?」


紫紺の瞳が、真剣な光を帯びていた。


「……求婚もされましたわ」


「——っ」


ヴィクさんの表情が、わずかに歪んだ。


「何と答えた?」


「保留ですわ。私にはまだ仕事がございますので」


「そうか」


彼は小さく息を吐いた。


「……よかった」


「え?」


「いや、何でもない」


ヴィクさんは脱衣所へ向かいかけて、足を止めた。


「リリアーナ殿」


「はい?」


「……私も、いつか言いたいことがある。今日ではないが」


(?)


「何のことでしょう?」


「今はまだ言えない。だが——覚えておいてくれ」


紫紺の瞳が、優しい光を湛えていた。


「私は、君を手放すつもりはない」


——そう言い残して、彼は浴室へ消えていった。


私は茫然と立ち尽くした。


(今の……どういう意味?)


心臓が、やけにうるさい。


(いやいや、考えすぎよ。お客様との距離感は大事。深読みしすぎない)


私は自分に言い聞かせ、帳簿を開いた。


(恋愛より仕事。まずは今期の売上目標達成が先ですわ)


——でも。


(『手放すつもりはない』って……)


湯煙の向こうで、私は今日も帳簿と格闘している。


恋愛は後回し。


でも、少しだけ——ほんの少しだけ、嬉しかったのは秘密だ。



三ヶ月後。


『翡翠の湯』は、王都最大の温浴複合施設へと生まれ変わっていた。


「女将様、今月の売上報告です!」


モニカが帳簿を抱えて駆け込んでくる。


「過去最高を更新しました! 前年比二百パーセントです!」


「ありがとう、モニカ。でも油断は禁物よ」


私は帳簿を受け取りながら、にっこりと笑った。


「来月は新しい薬湯を開発する予定でしょう? そっちの準備も進めておいて」


「はい、女将様!」



窓の外では、新設された露天風呂が湯煙を上げている。


王家の支援を受けて増築した施設だ。レストラン、休憩室、マッサージルーム——前世で見た温浴複合施設のアイデアを、可能な限り取り入れた。


(三年前は没落寸前だったのにね。人生何があるか分からないわ)


「お嬢様」


ハンス爺やが入ってきた。


「ヴィクトル殿下と、レオンハルト殿下がお見えでございます」


「……二人同時に?」


「左様でございます」


(嫌な予感しかしないわ)



応接室に入ると、二人の王子が向かい合って座っていた。


漆黒の髪のヴィクさんと、銀髪のレオンハルト殿下。


空気が——冷たい。


「いらっしゃいませ、お二方」


私は営業スマイルで挨拶した。


「本日はどのようなご用件で?」


「リリアーナ殿」


ヴィクさんが立ち上がった。


「私には、言いたいことがある」


「私もだ」


レオンハルト殿下も立ち上がった。


(やっぱりそういう流れ!?)


「リリアーナ・フォンティーヌ」


ヴィクさんが、真剣な眼差しで私を見つめた。


「私は、この三年間——いや、初めて会った時からずっと、君のことを想ってきた」


「殿下……」


「君の仕事への情熱。民を想う心。決して媚びない強さ。全てに惹かれた」


彼は一歩、私に近づいた。


「私の妻になってほしい。共に、この国の温浴文化を発展させよう」


「待ってくれ」


レオンハルト殿下が割って入った。


「リリアーナ殿。私も同じ想いだ」


「殿下……?」


「最初は温泉への関心だけだった。だが、貴女と話すうちに気づいた」


氷のような瞳が、どこか熱を帯びている。


「貴女自身に惹かれている。温泉だけではなく——貴女という人間に」


(えっと、これは……)


二人の王子に見つめられ、私は固まった。


(前世でも今世でも、こんなシチュエーションは想定してなかったわ!)


「あの」


私は深呼吸した。


「お二人とも、大変光栄なお言葉をありがとうございます。ですが——」


「ですが?」


「私にとって、今一番大切なのは『翡翠の湯』ですの」


二人が目を見開いた。


「この店を守り、発展させること。お客様に最高の湯を提供すること。それが私の使命だと思っております」


私は真っ直ぐに二人を見つめた。


「ですので——恋愛は、もう少し後にさせてくださいませ」


沈黙。


そして——


「ふっ」


ヴィクさんが小さく笑った。


「やはり君だ」


「……は?」


「私が惚れた女は、そうでなくては」


彼は穏やかに微笑んだ。


「待とう。君が答えを出すまで、何年でも」


「私も待つ」


レオンハルト殿下も、わずかに口角を上げた。


「貴女の湯は芸術だ。その芸術が完成するまで、見届けさせてもらう」


(……この人たち、本気で待つ気だ)


私は額を押さえた。


「とりあえず今日は、お二人とも『癒しの湯』に入っていってください。話し合いで疲れたでしょう」


「ああ」


「そうさせてもらう」


二人が浴室へ向かうのを見送りながら、私は小さくため息をついた。



「女将様」


モニカが後ろから声をかけてきた。


「どっちにするんですか?」


「どっちも保留よ」


「えー、もったいない! 王子様が二人ですよ!?」


「仕事の方が大事よ」


私は窓の外を見た。夕暮れの空に、湯煙が立ち上っている。


「でもね、モニカ」


「はい?」


「いつか——一緒にお風呂掃除を手伝ってくれる人となら、考えてもいいかもしれないわ」


モニカが目を丸くした。


「お風呂掃除、ですか?」


「ええ。温浴施設の経営は、地道な作業の積み重ねよ。それを理解して、一緒に汗を流してくれる人——」


私は微笑んだ。


「そういう人となら、長く一緒にいられると思うの」


(前世の旦那候補は、みんな旅館経営の大変さを理解してくれなかった。今世では——)


「女将様、ロマンチックですね!」


「そうかしら? 私は現実的だと思うけど」



その夜。


閉店後の浴場で、私は一人で掃除をしていた。


タイルを磨き、湯船を洗い、排水溝をチェックする。地道な作業だが、これが私の日常だ。


「リリアーナ殿」


声に振り返ると——ヴィクさんが立っていた。


なぜか、掃除用の作業着を着ている。


「……殿下? まだいらしたのですか?」


「ああ。少し考えていた」


彼は私の隣に立ち、掃除用のブラシを手に取った。


「手伝わせてくれ」


「は?」


「君が言っていただろう。一緒にお風呂掃除を手伝ってくれる人、と」


私は目を見開いた。


「聞いていたのですか!?」


「声が聞こえた。——で、どうだ? 私は合格か?」


紫紺の瞳が、いたずらっぽく光っている。


私は——思わず笑ってしまった。


「まずは掃除の腕前を見せてください。話はそれからですわ」


「了解した」


ヴィクさんが、不器用にブラシを動かし始める。


王太子が、浴場のタイルを磨いている。


シュールな光景だった。でも——


(悪くない、かも)


湯煙の向こうで、私たちは並んで掃除を続けた。


恋愛は後回し。でも、こういう時間なら——


(いいかもしれないわね)


翡翠の湯の女将、リリアーナ・フォンティーヌ。


婚約破棄から始まった私の物語は、まだまだ続く。


——今度は、自分で選んだ道を。


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― 新着の感想 ―
確かに経営している側からしてみれば、一緒に温泉を楽しんでくれる人より、一緒に経営をしてくれる人の方がいいですね。 面白く読ませて貰いました。
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