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私たちが隠し通路から兄の執務室に飛び込んだとき、ネイサンはかろうじて立っている状態だった。
そして、もう一人、ヒューだけが。
他の――ヒューに組し、執務室に来たのだろう曲者は、いずれも動ける状態ではないようだった。たぶん、ネイサンが戦った結果。
カランカラン、と床に長い剣が転がった。
汎用の飾り房がその動きにあわせて揺れる。
壁に寄りかかったネイサンに、いままさに剣を振り上げようとしていたヒューは、その攻撃手段を失った。
クリフォードが投げた短剣によって。
「…………」
ゆっくりとヒューが手をおろす。剣を拾おうとするでもなく、その場に立ったまま、動かない。護衛の騎士の制服をまとい、立つその姿は――何も変わらないのに。
平然とした様子で、現れた私たちを見つめる。ヒューの視線は、最後にシル様で止まった。
「バークス様は運が良い方だ」
「抵抗は、しないで欲しいわ」
「いたしません」
……あっけなさすぎる。
そんなもの、なのかもしれないけど……本当に諦めたの?
疑惑の目を向けると、ヒューは苦笑した。
「オクタヴィア殿下がいらっしゃった時点で、私の負けでしょう?」
シル様がネイサンに駆け寄った。肩を貸し、歩かせて、ヒューから距離を取る。
本来の入り口は、内側から固く閉ざされていた。ヒューたちの仕業? ……邪魔が入らないように、籠城してるんだ。廊下側から、扉を壊して侵入を試みようとしているのか、不定期に轟音が響く。
「……認めるというの?」
「何をでしょう?」
落ち着いた声でヒューが問いかけてくる。
「あなたが――」
そこで言葉が止まってしまった。そのつもりで来ていて、決定的なのははっきりしているのに、頭ではわかっているのに、どこか信じられない気持ちがある。
私が躊躇った続きを、ヒュー本人が掬い上げた。
「バークス様の馬車に細工をしたか? でしょうか。私自身が行ったわけではありませんが、指示は出しました。目撃者がいたのは想定外です」
事もなげに、自分が首謀者だとヒューは告げていた。よどみなく、口調にも一切の動揺はない。
「これが、お前のやり方だったのか?」
「……やり方?」
私たちが突入してきてから、はじめてヒューに感情の片鱗のようなものが浮かんだ。
それを引き出したネイサンは、かなりの負傷をしていた。制服は血まみれで、所々破れている。左腕は折れているのか、だらりと垂れ下がっていた。ただ、眼光は鋭く、まったく力を失っていない。
「人は必ずしも常に正しい道を選べるとは限らない。誤りだとわかりながらも茨の道しか選べぬこともある。王族であればなおさらだ。……俺は、たとえ誤った道だとしても、主君が進むのならば、いかなる誹りを受けようと黙して付き従うのが俺の役目と考えていた。諫めるのは俺の役目ではないと」
原作のネイサンは、兄の命令に逆らったりもするけど、あくまでもその命令の範囲内で、だった。
「……それは、お前の役目だと、思っていた」
「私の?」
対してヒューは、セリウスが迷走しそうになったときには、必ず忠言を口にするキャラクターだった。セリウスの命令に真っ向から反することになっても。
「私がセリウス殿下を諫めるなど、おこがましい」
「ならば何故、こんなことをしでかした! 理由を言え!」
ネイサンが怒声をあげた。
あらゆることが、ヒューが犯人だということを指し示す。
――本人だって、認めている。
でも、どうしても。
「ネイサンの言うとおりね。――理由は?」
「…………」
ヒューが押し黙った。
「私はシル・バークスという人間を殺そうとしました。その犯人であるという事実以外に、重要なことはないのではありませんか?」
「言わないつもりなの?」
「――黙秘します」
動機は、語りたくないって?
「犯人だからこそ、その主張は通らないわ」
「……そうですか」
呟いたヒューが、すっと目が細めた。懐から取り出した何かを、放る。
狙いは、シル様だ。でも、ネイサンの介抱をしているシル様が対処できるか――。
「クリフォード! シル様を!」
助けて、と言葉に出さなくても伝わった。
直後のクリフォードの動きを見て安堵した、そのとき。
ヒューが剣を拾い上げ、床を蹴った。
疾風のように飛び込んでくる。シル様のいる方向に、じゃない。
私へと、真っ直ぐに。
ヒューの漆黒の瞳は変わらず澄んでいて――。
肌が粟立つような感覚が、私を襲った。
ヒューじゃない。私を攻撃しようとしたヒューに対するクリフォードの、敵意のせいだ。ヒューを排除するという、明確な。
なのに、ヒューは満足げな笑みを口元に浮かべた。
瞬く間に起こった出来事の中、私の頭は妙に冴えていた。腹の底から、怒りが湧き上がる。
ヒューが私を狙った意図が、わかったから。
……そういう、こと。
「止まって! クリフォード!」
がむしゃらに、クリフォードの背中に飛びついた。
「っ?」
剣を持ったほうの腕を両手で抱える。すぐにクリフォードは剣の持ち手をかえて、ヒューの剣を一払いで弾き飛ばした。手加減、してくれた。
「危険なことはお止めください」
私を顧みたクリフォードは濃い青い瞳に、疑問と怒りの色を宿している。
「ヒューを殺しては駄目」
「…………」
クリフォードが眉根を寄せた。ああ、勘違いさせちゃったかな。
別に、博愛主義で止めたわけじゃないのに。
でもいまは――ヒューだ。
「オクタヴィア殿下は、私のような罪人の命も尊んでくださるのですね」
ヒューも、勘違いしてる。
「いいえ。違うわ」
私はかぶりを振って否定した。
そんなんじゃない。
「クリフォード。今後もヒューが不審な行動をしたら止めなさい。でも、決して殺さないように」
「――は」
クリフォードの腕を放して、つかつかとヒューに近寄る。
真正面に立って、対峙して、
「……何を」
困惑している様子のヒューに、私は思い切り平手打ちをした。
渦巻くぐちゃぐちゃの感情のままに。
「ヒュー。あなた、死ぬつもりだったでしょう」
「…………」
「クリフォードがわたくしを守ることを見越して、わざとわたくしを狙ったわね。そうすることで、クリフォードに自分を殺させようとしたわ。……わたくしの護衛の騎士を、利用しようとした」
自分が、死ぬために。
「死んだら、すべて解決するとでも思っているの?」
腹の底から、腹が立つ。
「覚えておきなさい。こんな風に、自分で命を絶つなんて、わたくしは許さない」
傲慢だって言われたって良い。
死ぬことが自分の意志なんだから、本人の自由だろうって?
そうであろうと、させない。
「少なくとも、わたくしの前では、絶対に」
だって――私は、生きたかった。
お願いだから、私の前で、簡単に命を捨てないでよ。
「……厳しいことを、おっしゃいますね」
力なく、静かに呟いたヒューが、入り口に視線をやった。
ひときわ激しい轟音が、振動となって身体にも伝わってくる。
執務室の扉が――開け放たれた。




