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兄の子どもの頃? で、兄妹関係について?
『高邁なる舞曲』は緩急の差が激しい曲。山と谷が曲の終了まで続く感じ。谷部分は基本のステップの繰り返しで、ゆったりとした時間が続く。
そして現在は谷。
「……………………」
足元への注意を少々おろそかにして、私の頭の中では「?」マークがたくさん浮かんでいた。
私の沈黙が異様に長くなったのはそのせいなんだけど、これまでとは少し様子の異なるデレクは、真剣な面持ちで提案してきた。
「――少しばかり腹を割ってわたしと……いえ、おれと話すことはできませんか?」
デレクが私の前で自分のことを「おれ」と言ったのは、幼少期以来だった。
「おれはただのセリウスの友人として、オクタヴィア様はただのセリウスの妹として」
「……お互いに嘘偽りは厳禁ということかしら」
「ええ。おれも正直に話しますよ」
「それは良いことだわ」
乗った!
裏を読むとか、探り合いとか、そういうのに神経をすり減らす必要がなくなるってことだもんね!
嘘偽りなし! 正直に!
こういうフレーズ大好き!
――真面目な話、兄関連のことなら、私にも降りかかってくる事柄かもしれない。
これこそがデレクにとっては本題、という雰囲気もある。
でも、だからこそ、デレクがいまさら子どもの頃のことなんて持ち出してきたのが謎だったりする。
「さっそくですが、先ほどのおれの質問にお答え願えますか?」
「……子どもの頃のことも、兄上とのことも、覚えているわ」
記憶喪失じゃあるまいし。
すると、デレクは過去に起こったある出来事について、真剣な顔つきで言及した。
「セリウスとの関係や――おれにいじめられていたことなどは? おれとセリウスが取っ組み合いの大喧嘩をして……」
「忘れるはずがないでしょう?」
私は即答した。
この恨み、晴らさでおくべきか! 私は根に持つタイプ! やられたことは忘れない! 幼少期、デレクにいじめられたこともバッチリ覚えていますとも!
……と言っても、生まれたときから私の精神年齢は十八歳なわけで、精神的なダメージはまったくなかったんだけど。
だって十歳の子どもデレク対中身十八歳の六歳じゃあ、私が反則勝ちしているようなもの。いじめによる肉体的な怪我なんかもなかったし――あ、まさに、デレクの言った、兄とデレクが取っ組み合いの大喧嘩をしたっていう話。
これのきっかけになったのは、私がデレクに転ばせられたことだったっけ。
本当は、華麗に避けるはずが……! そして立ち去るはずが……!
――片膝をちょっとすりむいてしまった。
あれが最初で最後の、デレクのいじめによる怪我らしい怪我。
すりむいただけでも怪我は怪我だったので、保護者であるおじ様の雷がデレクに落ちて、あれを境にデレクのいじめもピタリと止んだ。おじ様と兄の立ち会いのもと、謝罪と一応の和解が行われた。
――そして、いまでは精神年齢という、私のアドバンテージも失われて久しい。
デレクはたしか……二十歳ぐらい?
だけど、私の精神年齢は変わらず十八歳のまま。
……オクタヴィアとして十九歳になったら、心も成長できるのかな。
たまに、ちょっと考えちゃうんだよね。
もし、私が成人して、結婚して、子どももいるような、そんな年齢で死んでオクタヴィアとして生まれ変わったんだったら。
ちゃんと私は大人で、もっとうまくやれていたんじゃないかなって。
「けれど……おじ様をとってしまったことは、わたくしも反省しているわ」
ため息と共に、そんな言葉が、自然と私の口をついて出ていた。
これも、うまくやれなかった部分の一つ。
両親……父上たちとの関係が関係だったから、私、出会った当初から大好感触だったおじ様に必要以上に懐いちゃったんだよなあ……。
ナイトフェロー公爵であるおじ様も、王女を無碍にできるわけもなく――。
それを実子のデレクがどう思うかとか、身体そのままの子どもじゃなかったくせに、私の頭からはそういうところがすっぽ抜けてた。たぶん、デレクを微妙に苦手に思ってしまうのも、心に残ったそういうしこりのせい。
「…………おじ様?」
反省していると、愕然としたような声が耳に届いた。
意気消沈して心持ち下がっていた視線をあげれば、ふ、とデレクが噴き出しそうになっていた。
……何事?
「オクタヴィア様は、おれの父をおじ様と呼んでいるんですか?」
は! しまった! おじ様呼びは、おじ様夫婦と私の三人だけのときか、私の心の中でだけ使われる呼び方だった! ……でもそこ? デレクも真っ先に反応するはそこってどうなの?
「おじ様……」
また呟いたそばから、デレクが笑い出しそうになっている。
あ! デレクの楽しげな様子を見て、私のダンスに関する通説を信じているとおぼしき人々から、驚愕や安堵の気配が……!
デレクの破滅を望んでいる派とそうじゃない派がわかる……! 通説、恐るべし……! 貴族の世界怖!
そしてデレク! まだ笑い出しそう!
こうなると、しんみりとした反省の念はどこへやら、私もちょっとむっとしてくる。
おじ様呼び、いいじゃない!
「……おじ様はおじ様よ。親しみをこめているの」
むしろ、おじ様をおじ様と言わずして何と言うのか!
「親しみをこめるにしろ、そんな上品な呼び方があの父に合っているとはとても……おじ様ねえ」
ウケてる。明らかにウケてるよ!
ジト目の私に対し、しばらくして、笑いの発作を抑えたデレクがようやく口を開いた。
「失礼。反省してくださっていたんでしたか」
「……そうよ」
息を吐き出す。
「オクタヴィア様を可愛がったのは父の意思ですから、オクタヴィア様に非はありませんよ。不満があったにしても、悪いのは嫉妬していじめた未熟なおれです。他の方法をとることができたのにもかかわらず、悪手を取りました」
「……兄上が心を砕いて――仲の良い兄妹になろうとしていたのに、わたくしが兄上との距離を保ったままだったこともデレク様は気に入らなかったのでしょう?」
嫌味を言ったり、一線を引いていた私に、あの頃の兄は根気よく付き合ってたもんなあ。
兄が成長するにつれ、向こうも距離を置くようになって、いまの関係に落ち着いたんだけど。
ただ、そんな兄を見ていたデレクからすれば、友人のムカつく妹だった私には腹が立ったと思う。
デレクは幼少期からの兄の友人なわけで。
……そう、そうなんだよね。
――実は、密かに不思議に思っていることがある。
曲は、谷から山へ。しかも『高邁なる舞曲』最大の山場。
相手の動きに集中し、調子を合わせなければならない時間。いくら玄人であろうとも、話している暇もなくなる。私は言わずもがな。デレクも口を噤んでいる。
喋ったら舌を噛むこと確実だし。
流れで身体が接近し、必然的に、見上げた顔も近くなった。
じっと吟味するように見つめる。
デレクの端正な顔がちょっと強ばった。それなのにイケメンだった。この、いずれは男とくっつく超優良物件め……!
じゃ、ないや。
そうじゃなくて、デレクの立ち位置といい、やっぱり、変なんだよなあ……。
首を捻るしかなかった。
――デレク・ナイトフェローという名前の人物は、原作には出て来ない。
ところが、現実では、兄の友人。
もっとも、兄の友人は何人かいて、その中には原作に出てきた人物もいれば、出て来ない人物もいる。デレクは単に後者なのかもしれない。
作中では書かれなかった名もなき脇役だったとか。
……でも、デレクって、兄の友人として名前があがる確率が高いほうだと思うんだよね。『高潔の王』で登場していないことにこそ、違和感がある。
普段はほとんど接していないから意識していなかった不思議さを、改めて感じてしまう。
……不思議に思っても、答えは出ないんだけど。
私は心の中でかぶりを振った。
まずは目の前の問題。『高邁なる舞曲』最難関のパートを攻略しなきゃ。開幕のダンスを台無しにするわけにはいかない。
――そして、専念の甲斐があって、ノーミスでクリア! 達成感!
「おれがオクタヴィア様をいじめていたもう一つの理由ですが」
山場を抜け谷部分へ入ると、デレクがさっそく切り出した。
「――たしかに、気に入りませんでしたね。セリウスがあなたに友好的だっただけに」
最大の山場であるパートの直前、私が発した問いへと答える。
「ですが、これでおれとオクタヴィア様の記憶は一致していることがはっきりしました。……おれとセリウスの記憶は、食い違っていましたから」
苦々しく、後半の言葉が付け足された。
「……食い違って?」
「あなたをいじめていたと怒り心頭でおれと取っ組み合いの大喧嘩をしたことも、つれない妹を可愛がっていたことも覚えていないんですよ、セリウスは」
「子どもの頃の記憶を忘れることや、記憶が曖昧になることはあるはずだわ」
デレクが短く嘆息した。小さくかぶりを振る。
「単にそれだけ、という風では……。まるで、そこだけごっそりと記憶が抜け落ちて、書き換えられているかのようでしたので。子どもの頃というよりは――オクタヴィア様、あなたとのことが」
「わたくしの、ことが?」
瞬きする。
「ええ。しかも、本人には自覚がない。子どもの頃の、あなた方ご兄妹の関係性を知る人間は、ごく少数です。幼少期から、第一王子と第一王女は昔から疎遠で険悪な仲だった。それがいまでは認識としてまかり通っています。真実ならおれも何も言いませんよ。しかし、当事者であるセリウスに加え、もしオクタヴィア様の記憶がおかしくなっていたら――」
「……わたくしは大丈夫よ」
むしろ、忘れたいことまで覚えているほど。クソ忌々しい記憶とか。
「――けれど、兄上に、害を為した者がいるということかしら」
「自然な現象だとは思えませんね。……おれには、セリウスが無意識に忘却したというのも考えにくい」
最後は独白めいて聞こえた。
「何故そう思うの? それが嫌な記憶だったら、忘れたいものかもしれないわ」
「……あの頃のセリウスを覚えているからです。抱いていたはずの夢も。それが……記憶ごとなくなっていたのが、おれには衝撃でした」
私よりデレクのほうが兄と断然親しい。
そのデレクによると、何者かの手によって、兄は部分的に記憶をなくしている。
子どもの頃の、私と関わった出来事を?
―――でも、誰が、何のために?
前世の記憶……既読済みの『高潔の王』知識をもってしても、犯人の見当がつかない。
原作小説では、セリウスに記憶障害があるなんていう過去はなかった。考え込んでしまう。
俯いた私に、デレクの声が降ってくる。
「……セリウスが心配ですか?」
「――兄上なのよ?」
私は顔を上げた。
そりゃあ関係はお世辞にもうまくいっているとは思えないけど、カッチーンときたりもしたけど、憎んでいるわけじゃない。お世継ぎ問題がでーんと横たわっているせいで、何とも複雑なだけで。
「安心しました」
たぶん、素の笑みをデレクが浮かべる。
デレクが知りたかったのは、私の反応?
「兄上を慕う方々は、わたくしを敵視していると思っていたのだけれど」
つまり、デレクも。
いじめがなくなった後、エスコートの申し込みという今日の口撃まで、デレクに攻撃されたことはない。単に接触がなかったとも言えるけど、こうしてデレクが私と話しているのは、要するに兄のため。好きか嫌いかでいえば、デレクも私のことは嫌いなほうじゃないのかな。
デレクが浮かべていた笑みが苦笑へと変わる。
「まあ、それはおおむね当たりですね」
ほらー!
「おっと、おれは敵ではないつもりですよ。……味方でもないかもしれませんが」
「あなたも兄上の友人なのに? ――この準舞踏会のために、シル様に協力したのは? 兄上にとっては、裏切り行為に等しいのではないかしら」
「意見が違った場合に、賛意を示し、従うだけが友人ではないでしょう。友人だからこそ、逆らうことも必要なのでは?」
「シル様とわたくしが親しくなることについては?」
「……いいんじゃないですか?」
あっさり。軽い。軽いよデレク!
「ただのデレクとしてはそう言えますよ。シルは、ずっとオクタヴィア様に話しかけたがっていたみたいですしね。そもそも、シルの個人的な交友を制限することはできません。ただ、シルがオクタヴィア様をエスコートしてこの会場にやって来るとはおれも想像していませんでした」
「あら、デレク様は、クリフォードもわたくしのエスコート役だったのをお忘れ?」
「……そうでした。アルダートンの存在も、セリウスにとっては悪印象なのがまた厄介なところですね」
デレクが思案顔になった。
兄が、クリフォードに悪印象? んー。これも新情報だなあ。
人材的には、むしろ実力登用を好む兄がスカウトしそうな感じなのに。
奏でられている演奏曲の音が小さくなる。
話している間に、残りの山を危なげなく越え、『高邁なる舞曲』は終わりに近づいていた。曲調がか細く、余韻を残すようなものへと変わってゆく。
広間で、開幕のダンスを務めている私とデレクを見守る人々の姿が、改めて視界に映る。
デレクに片手をとられ、一回転。
そして手を離して終了。奏でられていた音楽も止んだ。
ここから、男同士や男女で、招待客たちも踊り始めるんだけど――。
私のダンスにまつわる心外すぎる通説のことが脳裏をよぎった。
あ、思いついたかもしれない。
……うん。言うならいましかない!
人々が動き出す前に、立っていた場所から一歩分だけ踏み出し、彼らへ向かい私は言葉を発した。
「――この場をお借りして、わたくし、皆様にお伝えしたいことがありますの」
え……ひ、広間が静まりかえったんだけど?
いや、しっかり聞いてもらえてるんだから、悪いことじゃないはず!
言っちゃえ!
「わたくしと踊った者の大半が破滅する――そう思われているそうですね?」
広間には大勢の招待客が大集合しているわけで。本日最大規模の数え切れない視線が。
かぶりつきの勢いで見られています!
……こんなときこそ扇が欲しい。
扇で顔の半分を隠して、ついでに視界も遮りたい……! 扇……! 私の最強の味方よ……!
でもクリフォードに預けてるんだった……。預けて……。
またしても、私は思いついた。クリフォードは同じ広間内に控えているんだから、返してもらえばいいんじゃあ? 通説のことに加えて、現物を持って、おまけで『黒扇』についても「使っても問題ないよー!」って言えば一石二鳥にもなりそう! 私も扇が手元にあって安心できる!
その場から、視線を巡らせてクリフォードの姿を探す。王族席は……と。
目を輝かせているローザ様や、私たちが踊り出す前はそこにいなかったおじ様の姿をローザ様の隣に発見。
クリフォードもすぐに見つけることができた。
濃い青い瞳と視線が合う。
「――クリフォード。扇をわたくしに」
右手を差し伸べる。
内心は汗の滝だけど、私は王女らしく微笑んだ。
ドレス効果で余裕綽々……とまではいかなくても、それらしく見えたはず!




