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22 深読みしすぎる平民兵士の、レヴ鳥に導かれた災難(後編)

※後編のみ長めです。次回からオクタヴィア視点へ戻り、準舞踏会の話に入ります。

「いってらっしゃいませ」


 練習室を後にするオクタヴィア殿下を、女官長殿は完璧なお辞儀でもって送り出した。侍女もそれに倣っている。


 あれから――俺が殿下の言葉に込められた真意に頷くと――殿下は俺への追求をピタリと止め、話を密旨に関することへ戻した。


「アレクはまだ城に? それとも既に出立を?」

「いえ、おそらくはまだ……今頃は、城門に向かっている頃だと思います」


 アレクシス殿下との会話を思い出して、俺はそれが脇門である旨も付け足した。


 その直後だ。殿下が適当に理由をつけて、「散歩に行く」と口にしたのは。

 マントを羽織っただけで城内散策に出掛けることになったが、女官長殿が最初に見せた反応からしても、明らかに想定外の行動だ。


 ――どう見てもただのお散歩じゃないだろう。


 実際、オクタヴィア殿下は出立するアレクシス殿下の見送りへ赴くつもりだ。


 女官長殿はどう捉えているのか。……額面通りに受け取っているはずはない。にもかかわらず、質問するようなことはしなかった。


 オクタヴィア殿下と女官長殿の関係が、うっすらと俺にも垣間見えた。


 王城に来てから知ったことだが、城に仕え、中枢に近い仕事を任されている女性たちは、基本的に全員、女官と称される。その中において、王族に直に接したり、登城した貴族の対応にもあたったりするのが侍女だ。

 そして、女官だけでなく、兵舎の食堂のおばちゃんなど――城で働くすべての女性をまとめるのが女官長。


 オクタヴィア殿下は、そんな女官長殿の忠誠を勝ち得ている。

 女官長殿が何の異議も唱えず『散歩』を受け入れたことが物語っていた。


 王城において、女官長殿を味方につけているってことは、強み、か。


 ――などと感想を抱きながら、アレクシス殿下からの任務を終え、オクタヴィア殿下が『散歩』を決めた後の俺は、傍観者だった。

 頭の大部分を占めているのは、いつ辞去すれば……ということだ。新兵という立場で場違いなところにいる以上、いろんな意味で心労が著しく、一刻も早く立ち去りたい。いかんせん、それはお許しがないとできない。俺は辞去する旨を言い出せる機会が訪れるのを、気配を殺しながらひたすら待っていた。


 のだが。


 オクタヴィア殿下は、俺のことを忘れてはいなかった。


 マントを着用、その下には華やかなドレス姿を隠し、『散歩』のため軽やかに歩き出した殿下は、俺に目を留めた。閉じた扇を傾けながら、厚意を示して下さった。


「あなた一人では帰り道が大変でしょう。一緒に来なさい」

 許される答えは、一つしかないだろう。

「は! 随行します!」


 ――俺も、『オンガルヌの使者』とお供に加わることとなったのだった!







 ただ、早足で歩いているだけで、これほど緊張したことはあったろうか? ……ないな。


 ……背後が気になって仕方がない。


 先頭にはオクタヴィア殿下が立ち、その次に俺、最後尾が『オンガルヌの使者』という順番で、城内を『散歩』している。


 背後とは、振り向かなければ己の注意が行き渡らない場所。……無防備なんだよ!


 この理屈を適用すれば、殿下もまた、俺に対し無防備であるとも言える。が、厳密には違う。たとえばだ――そんなことは絶対に、ぜっったいにするつもりはないが、万が一、俺が殿下の背中に斬りかかろうものなら、剣を抜き終える前に、俺の命は終わっていることだろう。瞬殺だ。殿下の場合は、おそらくこういった事態も織り込み済みでの、無防備さだ。


 背後に『オンガルヌの使者』がいるのは、それだけで心臓に悪すぎる。寿命が縮む気がする。気がするだけじゃないな。二、三年分は減ったんじゃないか……。


 殿下が歩を止めた。大回廊にさしかかっていた。

 脇門へは――そうか。殿下なら、大回廊を通るよな、そりゃ。


 大回廊は、その名の通り、城内にある巨大な廊下だが、一定階級以上の身分がないと単独で通ることが許されない。俺のような平民出の兵士は、飾り房を持てるぐらいになっていないと無理だ。


 大回廊へ続く扉の前には、二人の衛兵。ここだけは、繋がる扉すべてに兵が配置されている、と新兵訓練中に叩き込まれた。もちろん、行きでは俺が迂回した場所だ。そのほうが練習室へは最短だったし、そうでなかったとしても、新兵の俺が一人で大回廊を通ろうなんて、挑戦するだけ無駄だ。


「ご苦労様」


 衛兵が、オクタヴィア殿下に向かって目礼した。しかし、俺の存在は不思議に思っているようだ。表情が物語っている。


 ……これが普通の反応なんだよな。

 行きは、何故かどの衛兵も俺に何も言わずに――反応すら一切示さず、通してくれた。


 いまは、殿下に随行している形だ。俺がいるのがおかしくても、衛兵が俺を問い質すようなことはない。大回廊も、身分ある人物のお供としてなら、通る許可が出る。しかし、オクタヴィア殿下が連れているにしては、ただの兵の俺は不釣り合いだ。おかしいことに変わりはない。


 だから、衛兵の態度にも少なからずそれが出てしまう。

 むしろ、何らかの反応があってしかるべきだ。


 ――こう考えると、大回廊を通るのとはまた異なるとはいえ、俺が行きで遭遇した衛兵たちの態度は、あまりに何もなさすぎだった。アレクシス殿下が何らかの手を打っていたにしても、だ。あれは……?


 衛兵が扉を開いた。


「お通りください」

「ありがとう」


 俺も殿下の後を追い、たぶん、二度と通ることはないだろう、大回廊に足を踏み入れる。


 ……でかいな。


 大回廊そのものが、まるで美術品のようだった。一本一本に図像が彫られた巨大な柱が規則的に連なり、天井と床には対の絵画が描かれている。天井は天空の様子。……天空神が地上を眺める。床は地上で戦いあう軍勢――人間の様子。創世神話の有名な一幕だ。


 はじめて王都に来たときのように、すべてが物珍しい。きょろきょろしそうになる。気づけば、殿下との距離が大きく開きかけていた。


 速度を上げる。


 ……しまった。今度は急ぎすぎた。微妙に殿下の隣に並んでないか?


 小さな笑い声が漏れた。――オクタヴィア殿下だ。


「はじめてだと、驚くものね。大回廊は」

「はい……」

 俺には、見納めとなる光景だ。

「次は、一人で通るといいわ」

「自分には……」


 可愛い嫁さんをもらって、王都に我が家を構えるのが俺の夢だが、飾り房を持てるようになるのは、それより難しい。平民であっても、できないわけじゃない。できないわけじゃないが……。出世を狙い、野心はあれど、俺だって自分の能力の限界は知っている。


 ――オクタヴィア殿下相手に、安請け合いは良くないだろうな。


「自分は平民出身であります。一人で大回廊を通ることには憧れますし、数少ない、選ばれた者であれば別かもしれませんが……そこに到達するのは、自分では不可能です。突出した才能を持ち合わせておりません。凡人です。よって、次はないと思っております。――殿下のお言葉は有り難く」


 身分と、才能。どちらも足りない。卑下しているわけじゃない。ただの事実だ。大多数の人間が、身を置く場所に俺も属している。殿下だって、わかって……?


「…………」

 歩き続けながら、殿下は正面を見据えている。

「だから……仕方ない? 凡人は、諦めるしかないのかしら。希有な存在でなければ――」


 そこで、言葉は途切れる。

 自問めいていた。

 俺に、というよりは、何かを思い出して、か? 


「あなたの言いたいことは、よくわかる。けれど、そういう考え、わたくしは、好きではないわ」


 まるで、自分もそうであるかのような、苦々しさ。


 王女殿下だぞ。むしろ希有な側だろう。――王女の地位でも手が届かないもの。諦めるしかない? 俺の頭では、王位しか思い浮かばない。


「……余計なお喋りをしている場合ではなかったわね。急ぎましょう」


 緩く、かぶりを振った殿下が、歩く速度を上げる。

 それからは、無言で歩き続けた。

 大回廊を抜け、建物の中から外へ出る。脇門を目指し、迷うことのない足取りだ。


「アレク!」


 オクタヴィア殿下は、柵の上がりつつある脇門の側で馬に騎乗し待機しているアレクシス殿下の姿を見つけると、走っていってしまった。







 出立に使うのだから、当然ではあるが、開かずの門――脇門の跳ね橋がかかり、渡れるようになっている。しかし、そこで作業している者はいない。橋の上げ下げは、現場での人力ではないようだ。門の柵も同様だ。……どういう仕組みなんだ?


「姉上!」


 アレクシス殿下だけが馬から降り、オクタヴィア殿下を出迎えた。


 出立する一行が醸し出す空気は、お世辞にも友好的とは言いがたい。

 顔ぶれも、俺が知っているのは、アレクシス殿下からの信頼が厚いランダル様ぐらいだった。


 染まっていない者として! 兵士として採用されたとき、既に三十八歳だったにもかかわらず出世街道を駆け上がった平民の星として! 俺はランダル様のことを尊敬している。

 新兵にしては年が行きすぎていたため、物珍しさから最初は風当たりがきつかったそうだが、ランダル様の実力はそこらの兵の比じゃあなかった。長く傭兵をしており、妻と子どものために、安定した職を求め、正規の兵士になったという経歴の持ち主だ。


 他は――陛下が、アレクシス殿下のために用意した面々なんだろう。


 オクタヴィア殿下は、漂う空気を物ともせず、「偶然、散歩中にアレクシス殿下と会った」という内容を言ってのけている。


 どう事態が転ぶのか。ある程度まで脇門付近へ近づき、注視していた俺は、横に立った気配に飛び上がりそうになった。


 ――『オンガルヌの使者』だ。


 しかし、奴の視線は、上へと向かっていた。城の――尖塔部分だ。周りをざっと見渡してみる。ああ……。木が邪魔になって、他の場所からだと尖塔が見えにくいから移動したのか。それが俺の横だっただけか! 


 あそこが何だ? 誰も……。


 いや、いる。小窓から、人の姿が見えた。脇門の様子を窺っている? ――ついで、小窓が光った。一回、二回。兵士の間で使われる合図の一種だ。出立一行の中の一人が、馬上から小窓に向かい手の動きでそれに応えている。


『自分たちが全員渡り終えたら、橋を上げ、柵を下ろせ』、だ。


 どうやら、尖塔内部に脇門を動かす仕組みがあるようだな。


 ――『オンガルヌの使者』がこのことを把握していた、というよりは、注意を払う範囲が常人と比べ異常に広いために気づいた、が正しいように思える。些細な違いを鋭敏に嗅ぎ分ける。


 すでに、『オンガルヌの使者』の注意は、尖塔からオクタヴィア殿下へ戻っていた。


 向こうは……もめてるな。


 様子を見るに、姉弟殿下の息は事前に打ち合わせをしていたとしか思えないほどピッタリだが、出立一行を代表し発言している騎士の態度がまた、どうも慇懃無礼だ。


 完全に不意打ちで、それは来た。


「ガイ・ペウツ、だったな」


 ――俺の名と姓を口にしたのは、もしかしなくとも、『オンガルヌの使者』か?


 顔を向けるのは勇気がいる。眼球だけ俺は動かしてみた。

『オンガルヌの使者』の眼差しは依然としてオクタヴィア殿下たちにある。


「お前に確認しておきたいことがある」


 だが、話しかけている相手は、俺だった。

 脇門のほうでは、大きな動きがあった。出立一行の中で、アレクシス殿下とランダル様だけが留まり、続々と馬が橋を渡ってゆく。


「……何でしょう、護衛の騎士殿」


 あの、戦場でのことか? 

 練習室にいたときよりは、俺も冷静に応じることができた。


「『オンガルヌの使者』の正体なら、自分は存じておりません。オクタヴィア殿下にも、そのように言い含められております」

「聞きたいのは別のことだ」


 別のことだと? 俺に正体を知られていても、瑣末事ってことか? 

 俺が言いふらすとは――。いや、よほどの馬鹿じゃない限り、しないか。


「アレクシス殿下から命を受け、オクタヴィア殿下にお会いするまでの間、接触した者は?」

「……おりません」

「衛兵とも一度も話さなかったのか」

「……いずれも、何も言わず、通してくださいました」

「オクタヴィア殿下にお会いするまで、お前が接触したのはアレクシス殿下のみ、ということか」

「……そうなります」


 何故、こんなことを『オンガルヌの使者』は気にする? 何らかの理由で、俺をやはり疑っているからか? 練習室に入ってきたとき、たしかに殺気を浴びたが……。


 ふと、今更ながら、思った。

 護衛の騎士として、予定外の訪問者を警戒したにしても――俺は、『オンガルヌの使者』が殺気を放つほどの脅威か? せいぜい、警戒ぐらいじゃないか? 殺気を放つ、というのは、その警戒をすっ飛ばした行為だ。


 疑問の視線ごと、俺は気づけば、『オンガルヌの使者』のほうを向いていた。


「――最後の質問だ。命を受けた際、アレクシス殿下の様子は常と変わりなかったか」


 この質問だけは、俺の顔を見て、発せられた。


 口の中が渇く。俺は唾を呑み込んだ。


 真っ先によぎったのは、琥珀色の瞳のことだ。――あれは、俺の見間違いじゃない、のか? この男は、何故。


 視界の隅に、笑顔を浮かべ合っている両殿下の姿が映る。


「ペウツ! お前にも礼を言う。よくやった」

 アレクシス殿下が俺を呼んだのが、聞こえた。


「もったいないお言葉です!」


 大声で返事をし、すぐそこまでの距離を俺は全力疾走した。『オンガルヌの使者』の質問に答えずに済んだことに内心で深く安堵した。


「けれど、アレク。新兵に無茶をさせすぎだわ」

「姉上ならば、私の意を汲んでくれると思ったので」

 両殿下の会話を聞いているだけで、落ち着く。


「問題はあったか? ペウツ」


 だが、その問いに対し、俺の思考は、妙な方向に回り出した。


 ――練習室に着いた後は、オクタヴィア殿下が取りなして下さったおかげで、問題は、なかった。


 ……その前も、何も、問題は、なかった。大回廊の衛兵とは異なり、練習室に着くまで会ったどの衛兵も、俺に無反応だった。


 琥珀色に見えた瞳と、衛兵の無反応が、それと関連しているなんてことは――あり得るのか?


 あのとき、アレクシス殿下が俺に何かをしたから――神話の世界にしか存在しないような、説明のつかない何かをしたから、なんて馬鹿げた妄想が頭に浮かんだ。

 だからこそ、『オンガルヌの使者』は、異常を感じ取り、俺に殺意を向けた。だが、仮にこの妄想を信じるとして、だ。それでも疑問は生じる。何故『オンガルヌの使者』が、そんなことを察知できたか、だ。わかるほうも、おかしいだろ。


 ――それに、「こちらを向け」と俺を呼び止めたはずのアレクシス殿下は、行動を自覚していないようだった。


「あ、いえ……」


 俺は、つい、言い淀んでしまった。

 ほんの僅かな間に、めまぐるしく流れた妄想を、素早く振り払う。


「何も、問題はありませんでした。オクタヴィア殿下にのみ、言づてもお伝えしました」


 不思議な力なんぞ、この世には存在しない。『オンガルヌの使者』の妙な問いのせいで、俺が変に過敏になっているだけだ。


「それを聞いて安心した。ご苦労だった」

 現に、アレクシス殿下に、おかしなところなどない。

「は!」

 こうして命令を果たし、ご本人からねぎらいの言葉をいただくと、素直に嬉しいもんだな。

 しかし、報告まで終え、これで本当に俺はお役御免なわけだが――とりあえず、両殿下のやり取りを見守ることにする。


 どうも、アレクシス殿下は、『オンガルヌの使者』を好ましくは思っておらず、密旨のことも知られたくないようだ。密旨に関する話題を出すに辺り、下がらせることを要求した。同感だ。 

 対し、オクタヴィア殿下は奴を重用している。他言無用を条件に、『オンガルヌの使者』が留まることを許した。


 弟が姉に折れた形だ。姉弟では、よくある。

 アレクシス殿下の頭を撫でようとしたオクタヴィア殿下が、拒否され悲しそうにしている。……これも、姉弟ではよくある光景だな。年頃になった弟の反抗だ。男としては、頭を撫でられるのはちょっとな。わかります、アレクシス殿下。


 お二人のやり取りからは、たとえ血は繋がっていなくとも、姉弟としての仲が実に良いことが伝わってくる。アレクシス殿下は表情が穏やかで、気を張っていないし、オクタヴィア殿下も、少々違うように思える。王女というより、年相応の少女の面を強く感じる。


「わかりました。姉上。指切りをしましょうか」


 ところが、俺の微笑ましい気持ちは、アレクシス殿下による、そんな剣呑な発言で吹き飛んだ。指切り? 展開されていたのは、早く弟に戻って来て欲しいという姉のお願いに応える弟、という構図だったはずだ。


 何がどうなって指を切ることに……?


「あれを……? ここで?」


 オクタヴィア殿下が躊躇いを見せている。当然のことだ! むしろ反対しないとだろう! なのに、アレクシス殿下は間髪入れず「はい」と返事をした。


 俺の心配は杞憂に終わった。


 ――両殿下は、互いの小指を絡ませあった。


 妙な文章をお二人で言い合っている。げんまん? 針を千本飲ます? 

「指切った」

 アレクシス殿下が実に満足げに締めくくった。小指と小指が離れる。


 指切り……というのは、あくまでも擬似的な行為で、唱えた言葉も、お二人の間だけで通じる暗号文のようなものか? とにかく、物理的に切断する、という話ではないようだ。


 慣れた様子で行っていたが……何となく、オクタヴィア殿下が考え出したものに思えるな。俺の邪推か? 


 お二人の会話はその後も続いたが、キルグレン公なる人物について交わされた会話の大部分を、俺は聞かなかったことにした。本来、俺が知るべきことではない。


「――そろそろ行かなくては」


 やがて、そうアレクシス殿下が口にする。つと俺へと碧色の瞳が向けられた。


「……そうだ。念のためですが、私がいない間、今回のことで、もしペウツが何らかの叱責を受けるようなことがあれば、姉上にお任せして良いですか?」


 俺は瞠目した。正直、アレクシス殿下が、そこまで考えて下さっているとは、思ってもみなかった。


「守ればいいのね?」

「はい。お願いします」


 オクタヴィア殿下も、簡単に請け負っている。これにも驚いた。……もし、アレクシス殿下の危惧するような事態が起こった場合、俺を切り捨てるのが最善の方法なはずだ。いくら頼まれたからといって、俺を助けても、オクタヴィア殿下に得るものはない。いや――アレクシス殿下の頼みだからこそ、か? 


「それでは、姉上。最後に祝福をいただけますか?」

「もちろんよ」


 祝福は、旅立つ者の無事と帰還を祈願し、互いの頬に、唇で触れる風習だ。よほど親しく――家族や恋人の間柄ぐらいでないと行ったりはしない。


 滞りなく祝福は行われたが、アレクシス殿下の唇が左頬に触れた瞬間、オクタヴィア殿下が不自然に身じろぎした。


 同時に、『オンガルヌの使者』が片足を踏み出した。が、それ以上は、進まない。……何だ? 


「……姉上?」


 やや不安が混じった呼びかけに、オクタヴィア殿下が、送り出す言葉を紡ぐ。


「いってらっしゃい、アレク」

「いってきます、姉上」


 笑顔で応えたアレクシス殿下は、挨拶を残し、己の騎乗する馬の元へと向かった。待機していたランダル様と跳ね橋を渡ってゆく。二頭の馬が完全に渡り終えると、待ちかねていたように跳ね橋が上がり、脇門の柵も下がり始めた。


「行ってしまったわね」


 呟いたオクタヴィア殿下は、完全に閉じた脇門をしばらく見つめていた。

 空では、数羽のレヴ鳥が舞っていた。


 ――そして、俺はオクタヴィア殿下から辞去の許しを得、本来の新兵としての職務へ戻った。







 その日、残りの職務を終えた俺は、兵舎の食堂へ直行した。


 ――まずは飯だ。


 空いている席へ座り、食前の感謝もそこそこに、飯をかっ食らう。


「よう。聞いたぞ。アレクシス殿下と牢屋へ消えたって?」

 すると、肩身の狭い仲間である同僚が、真向かいの席に座ってきた。


「……雑用を言いつけられただけだぞ。何もない。雑用が終わった後は、鍛錬場へ戻った」

「らしいな。まあ、すぐ忘れられるだろ。そのアレクシス殿下が、遠駆けから戻られた後、体調を崩したらしいからな。そっちのほうが大事だ」

「はやく回復なさるといいな」


 ……手はず通りか。


「ああ。しかし、アレクシス殿下に健康不安があるとなると……悩ましいな。班長からそろそろ決めておけって今日の城下巡回で言われたんだよ。お前もだぞ。どうする?」

「アレクシス殿下か、セリウス殿下か?」

 大きめにちぎったパンを口に放り込み、問い返す。

「先にアレクシス殿下の名前が出るってことは……お前の中ではもう決まりか」

「……そうみたいだな」


 昨日までは、一応、自分なりに出世のことを考え、利点と難点を比較し、やや傾いていた、ぐらいだったと思うんだが。


 ただ単に、仕えたいという気持ちが、芽生えてしまっている。たぶん、アレクシス殿下が俺のことをオクタヴィア殿下に頼んだときだな。王族は、必ずしも優しい存在ではない。しかし、情を示されると、単純な俺は、それに酬いたくなる。


 ……そういや、靴洗うのを忘れてたな。


 レヴ鳥に糞をつけられた者には、災難が訪れる……。災難か。


 一日を、振り返ってみる。心臓に悪い一日だった。寿命も縮んだ。オクタヴィア殿下は優しげな見た目通りの方ではなかったし、『オンガルヌの使者』は得体が知れない。


 様々なことの中、最後に浮かんだのは、大回廊で見た、天井と床に描かれた絵画だった。見納めだと思って、脳裏に焼き付けた。


「――なあ、大回廊を一人で通れるようになるのを目指すって、どう思う?」

「大回廊? お前が?」

「おう」

 同僚は、いやに深刻な顔つきになった。

「頭は大丈夫か? 早起きしたせいで寝不足なんだろ。さっさと寝ろよ」


 俺は苦笑いだ。この反応が普通だよな。ランダル様という実例は存在するが、ただの平民がそこに到達するのは、ほぼ不可能だ。


「本気じゃないさ。ちょっと思っただけだ」


 ――飾り房を剣につけ、大回廊の中央を歩く。


 それを目指すのも、ありかもしれないと。




 俺がアレクシス殿下のもとへの配属を希望したのは、レヴ鳥に糞を落とされた、この日の出来事がきっかけだ。

 逸話通り、災難は確かに訪れたが、災難だけだったのかと問われれば、返事には窮する。


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― 新着の感想 ―
書籍版を読み返してたら、やっぱこのエピソードも欲しかったなぁ…って思ってしまう。
[良い点] 深読みしすぎる平民兵士さん、最初はただのモブかと思ってたけど、地味に気を回せるし深読みが面白くて好感度ドンと上がりました。
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