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自室に向かうより、たまたま近かったのが、『祈りの間』だった。
クリフォードと室内に入り、向かい合う。
「――説明するわね。わたくしは、先程媚薬入りの炭酸水を飲んだかもしれないわ」
証拠として、飲み残しの杯は部屋の机に置いた。杯と一緒に、『黒扇』も。
「それで、あなたに命令よ。わたくしがおかしな真似をしたら――」
原作のセリウスみたいに、私を手刀でも首筋に打ち込んで気絶させて、と言おうとしたときだった。クリフォードだったら、そんなの簡単なはずだから。
「っ」
……甘かった。『祈りの間』まで歩く間も、中に入っても、身体に異変はなかった。だから、クリフォードに説明をしながらも、ただのピンク色の炭酸水だったんじゃないかって、思い始めていたほどだった。
でも、やっぱり媚薬入りだったみたい。
実地でわからされている。創作物では、山と読んでいた媚薬の効果……。あんなの、理性があれば我慢できるでしょ? なんて思っていた時期が私にもありました!
しかも、徐々にじゃなくて、急に来た。
原作でもこうだったとか……?
自分の心臓が鼓動してる音が、やけに大きく聞こえる。息苦しいような感覚もして、深呼吸してみたけど、全然効果がない。
ただ――クリフォードに近づくのは危険だっていう意識は、かろうじて頭の中にある。
「離れ……」
離れようとしたのに、足元がふらついた。何かに寄りかかろうとする。とりあえず、近くにあるものに捕まろうとして、クリフォードに抱き留められる。
離れるどころか、その逆になった。
――一刻も早く、伝えないと。
何とか、冷静さをかき集めて口を開いた。
「媚薬が、効き出したみたい……。わたくしを気絶させて、くれる、かしら?」
原作みたいに、気絶という応急処置をしてもらえれば。ルストが解毒薬を持ってくるはず。
話したら、ちょっと楽になった。喋っていたほうが、媚薬の効果が薄れる感じがする。
頑張った、私! と思った。
すぐに手刀かなんかで実行してくれる、と私は疑ってもいなかった。
「それは……」
だけど、クリフォードが口ごもった。
本当に、困った、という顔をしている。
全然、実行されない。
――命令したのに、何できいてくれないの?
腹が立って来て、ポカポカとクリフォードを叩いた。……ビクともしない。ムカつく。
クリフォードが息を吐いた。息が頬にかかって、震えそうになる。
「……じゃあ、『祈りの間』から出て行きなさい」
だって、このままクリフォードといたら、私が襲っちゃうかもしれないし。
だから、これが最善のはず。
「…………」
でも、これに対しても、クリフォードの反応は鈍い。濃い青い瞳が私を見返しているだけ。揺れている。変なの。普段だったら即座に従うはずなのに。
不思議に思っても、そのことに――クリフォードが出て行かないことに、どこかほっとしている自分がいた。
媚薬のせい?
「……やっぱり駄目よ」
思ったことをそのまま口にしてしまう。
「――一人は嫌」
普段だったら、絶対に言わないようなことを、吐露していた。
「…………」
濃い青い瞳が、ちょっと見開かれた。
「――では、お側に」
ゆっくりと、クリフォードが言葉を紡ぐ。
「――ええ」
いっそ一人になったほうが、楽だってことはわかっていたのに、媚薬のせいで、判断がおかしくなっている。……クリフォードにしがみついて、やり過ごすなんて。
でも、大丈夫。私ならできる。
気を紛らわすために、色々と考えるようにする。
そのうち――間近に見える、きっちりと留められたクリフォードの制服の釦が、気になってきた。
これ。本当はこうじゃないんだよね。
――外したいな。
衝動が強く湧き上がる。
私はクリフォードの首元に手を伸ばした。
「――殿下」
でも、頭上から声が掛かって、私ははっとした。手を引っ込める。殿下、と呼ばれただけだけど、制止のように聞こえたから。クリフォードを改めて見上げる。
怒って……。
「これを外したいのですか?」
ない?
クリフォードの手が、私が衝動的に外そうとしていた釦に掛かっている。
外したいか? ――うん。
ぼんやりとした頭で、思ったままに頷く。
すると、クリフォードがその通りにした。片手で、首元の釦を外す。
――制服の襟元が緩んだ。
ちょっと満足な気持ちになった。そっか、これが正装用の制服の完成形なんだって。
でも……釦が外れて、首の傷痕が少しだけ見えた。
「……邪魔しないで」
阻止されてしまわないようにそう言ってから、クリフォードの制服の上着を掴んで、引っ張る。
……傷痕がはっきり見えた。
私は顔をしかめた。
「――お目汚しを」
クリフォードが目を伏せる。
「……違うわ」
私はぶんぶんと首を振った。そういう意味で顔をしかめたんじゃなかった。
「……消せそうだったのに。刺青」
呟いてから、夢と現実がごっちゃになっていることを自覚した。
なのに、言葉が止まらない。
「どうして、間に合わなかったのかしら」
あの夢の中で。もうちょっとだったのに。
私は真剣に考えた。
熱に浮かされたような気分のままで、必死に。
たぶん、そんなことを思いついたのは、媚薬に冒されていたせい。
少年とクリフォードを完全に同一視していたのも。
――背伸びをする。
クリフォードからの制止はない。私の好きにさせてくれている。
だから、思いついた通り、首筋の傷痕に、私はキスをした。
我に返ったのは、キスをした後。
その瞬間、右手が熱くなった。
傷痕から唇を離し、見ると、夢では左手の甲に浮かんでいた『徴』が右手の甲に浮かびんでいた。光を放っている。
ど、どうすれば?
「…………」
すると、『徴』の輝く私の手を、クリフォードが静かに取った。
そこへ、クリフォードが口づける。
――光が収まり、何事もなかったかのように、元に戻る。
……あ、れ?
でも、私には明らかな違いが生まれていた。媚薬の効果が完全には消えていないんだけど、薄まった感じがする。
「クリフォード、あなた、何かした?」
「――いいえ」
かぶりを振ったクリフォードが柔らかく微笑んだ。
「――そう」
まあ、いいか。
開き直って、私はクリフォードに抱きついた。
実際そうすると、媚薬のせいなのか、心地よいから。
クリフォードの手が包み込むように背中に回ったのを感じた。
たぶん、少し落ち着いた私の状態はクリフォードにも伝わっているって、何となくわかった。




