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……アレクからの打診を、デレクは了承したみたいなんだよね。ただ、あくまで一時的な措置らしいけど。次期公爵が恒常的に、というのは無理だから。コネ採用なのに、ちゃんと試験もパスしたらしい。しかも、デレクの勤務は今日からっていう……。
原作のレイヴァンの立ち位置を、現実ではデレクが担っている。かつ、今日は護衛の騎士として参加している。これがデレクにも注目が集まる理由。
私も、デレクに視線を向けた。
――少し気になるのは、事件を起こらなくした影響が出るのかどうか。
楽観的に構えてはいるものの――だって、いままでのことを考えると、すべてが原作通りとは限らない。シル様と兄のハッピーエンド。そこに至る道筋が変わらないのであれば、変化は許容されてしまう。媚薬事件が起こらないのも、その一環になるんじゃないかなって。
それに、クラリッサが起こす媚薬事件以外にも、変わっていることは、他にもあるんだよね。
――ヒューがそもそもエスフィアにいない。もしかしたらレイヴァンも?
この事件に登場するはずの人物が、既に欠けている。
ふと、不安が生まれた。影響が出るとして……媚薬以外で、何か別の事件が起こったりしないよね……?
万が一起こるとしたら、それはやっぱり……。
主人公の二人に対して?
兄とシル様の姿を探す。さっき見た場所ではなく、少し移動している。人垣もなくなっていた。そこへ一人の参加者が近づいていった。
服装と、耳飾りからして――カンギナ人? 諸侯会議には、会議の内容によってはエスフィア在住の外国の要人も招かれる。
兄は完璧スマイルで対応している。私は内心で胸をなで下ろした。この調子だと、問題なさそうだよね? ……あ、シル様がぺこりと頭を下げて、別のところへ行った。
無意識に目でシル様を追って――、視界の隅に入ったものに、私は兄のほうへと急いで視線を戻した。
――どうして? 防いだはずなのに。
あるはずのないものが、そこにあった。
――ピンク色の炭酸水が、二つ。
盆に、ピンク色の杯を載せた給仕が歩いてくる。その給仕を、兄と話していたカンギナ人が――じゃなく、二人の会話に加わったらしきヤールシュ王子が呼び止めた。
まさかのヤールシュ王子?
そんな。原作通りに媚薬事件が起こってる? でも、シル様は行っちゃったのに?
「――ローザ様。ヒューイ」
広げていた『黒扇』を閉じる。
「わたくし、失礼しますわ」
断りを入れてから、向かったのは、当然兄のところ。その途中で、クリフォードとルストに言い含めておく。――この後、私が何をしても、その行動を妨げないようにって。
「ご機嫌よう、兄上」
なるべく自然に見えるよう、会話に交ざる。カンギナ人は、私と入れ替わりで立ち去っていた。兄と私、ヤールシュ王子の三人だけ。
ヤールシュ王子は、特に変装しているわけでもなく、そのまま。バルジャンの王子であることは、特に公表しておらず、バルジャン国のヤールシュ、としてこの場に参加している。
ここがエスフィアだからか、それでヤールシュ王子の素性がバレる様子はない。
「ヤールシュ様も、ご機嫌よう」
ここでは殿下呼びだと不味いので、さすがに変更する。
「そちらの呼び方のほうが嬉しいですね」
相好を崩したヤールシュ王子だけど、問題は、その手! 手にある二つのピンク色の杯! 炭酸水であることを示すかのように、泡が杯に付着している。
――やっばり、どこからどう見ても。
原作の描写通りの、淡いピンク色の炭酸水じゃないですかああああ!
二つの杯を手に持って、兄に渡そうとしている? てことは……兄だけじゃなくて、シル様の分も?
待って。これ、本当に媚薬入りなのかな? ただの色つき炭酸水の可能性も捨て切れない。確かなのは、原作の犯人であるクラリッサの仕業ではないってこと。
クラリッサが私に嘘をついた可能性? ……ううん。それはない。私の知る、実際の彼女の人となりからすれば。
――原作通り、媚薬入りだった場合、他に犯人がいるってことになる。
あああああ。
考えているうちに、杯がヤールシュ王子から、両方とも兄の手に渡ってしまった。
そうだ。いっそ、兄とシル様に飲んでもらえば、媚薬入りでも事なきを得るんじゃ……?
でも、すぐに駄目だ、と思い直した。
媚薬は時間差で効果が出てくるはず。そのときに、二人が一緒にいるとは限らない……! いや、もしくは飲んだ後に二人を隔離……?
どうやって隔離するの……? 兄は絶対に理由を訊いてくるはず。媚薬入り云々なんて言ったら、何故私がそんなことを知っているのかって流れになるよね?
やっぱり、二人に飲んでもらうのは、なしだ。
残るは――。
「……兄上。それ、可愛らしい色合いですわね」
原作の妹ちゃんの真似!
「その炭酸水、わたくしにくださいません?」
全開の笑顔でおねだりすると、兄が戸惑い顔になった。
杯と私を交互に見、
「……良いだろう」
ただし、素直に杯の一つを私に差し出してくれた。
「ありが――あ!」
それを受取るフリをして――取り落とす!
「ああ、申し訳ありません。わたくしったら」
杯は床に落ち、中身もろとも砕け散った。私の白いドレスにも濡れた染みが広がる。ドレスは尊い犠牲となったのだ……。
ついでに、クリフォードとルストの位置も確認。クリフォードは眉間に皺を寄せていたけど、動いていない。兄のところへ向かう前に言い含めておいて正解だった……!
でないと、少なくともクリフォードは絶対杯をキャッチして、かつ私のドレスが汚れないよう回避しちゃってただろうから!
「オクタヴィア……!」
兄が呼んだけど、驚いたようなヤールシュ王子の近くに立っていたはずの給仕の姿は、既にない。……もしヤールシュ王子が、私の手に杯が渡るのを邪魔してきたなら、王子を疑う線も残った。でもそうじゃなかった。
ピンク色の炭酸水が媚薬入りなら、杯を盆に載せていた給仕が実行犯だと思う。
失敗を悟って逃げた?
だとしたら捕まえなきゃ。実行犯も原作と同じなのか、違っているのかは不明だけど……。私も実行犯に関してはノーマークだったから……。クラリッサのことしか考えてなかった。
でも……。
視界に映る、もう一つのピンク色の炭酸水が、実行犯よりも、まずはこっちだって私に思わせた。
原作では、予備として描写されていた杯が、まだ兄の手の中にある。
見た目からは、媚薬入りの線が、濃厚。
一回なら、不注意で割ってしまった、で通用する。割ったのが第一王女である私だし。ただし、それが二回続いたら、さすがに通用しない。故意になってしまう。
兄に、この炭酸水は怪しいと言う……。いや、ヤールシュ王子が手渡した杯だよ? この場で伝えたら、大問題になる。
シル様が戻ってくるまで場をもたせて、何とかシル様に飲んでもらうのが最善……? シル様なら、影響がないし、兄から炭酸水をもらって飲むのも変じゃない。
と考えたのもつかの間、気を取り直そうとしたのか、兄がピンク色の炭酸水を口に運ぼうと――っ?
こうなったら――。
私はさっと兄の持つ杯に片手を添えた。
「兄上、取り落としてしまいましたのでこれをください」
さすがに兄も不審に思っているかもしれない。でも、もともと杯なんて、力を込めて持つものじゃない。私は逆に、目一杯手に力を入れて杯を奪い取った。
「オクタヴィア? お前、一体……」
にっこり微笑む。
「ありがとうございます、兄上。いただきますね」
ピンク色の炭酸水を、一口飲む。味は、ごくごく普通。通常の炭酸水と、何も変わらない。むしろ、美味しかった。後で異常が出たって、これが原因だとは思い至らないんじゃないかってぐらい。
「――汚れたドレスを、整えて参りますわ」
杯を手に、そう挨拶をして、踵を返す。
媚薬は、即効性じゃないはず。効いてくるまでには時間がある。
飲んだのは少量だし、もしかしたら効果が出て来ないかも。
それに、媚薬入りじゃなかった可能性も、依然として残ってはいる。
「――ルスト」
足早に歩く。片手に持ったピンク色の炭酸水が入った杯を軽く持ち上げて、ルストに指示を出した。
「わたくしが飲んだ、この杯を運んでいた給仕を捕らえなさい。騒ぎにはならないように。それから、父上に解毒薬を――」
「解毒薬?」
記章持ちのルストがいるのは、ある意味幸いだったけど、説明を端折りすぎていた。
「媚薬の解毒薬よ。父上なら、きっとそれでわかってくださるわ。わたくしは――」
念のため、どこかに、避難、隔離されておかないと。
自分の部屋? ここからだと遠い。他にどこか――。
「――『祈りの間』に行くわ」




