138
――へえ、こんな感じだったんだ。
父上の執務室へだって、赴いた回数はそう多くないのが私。
さすがに隣室の存在は知っていたけど、入ったのは初めて。
当然、未知の場所だった。
寝室でもなく、自室でもなく――執務室とセットになっているプライベートルーム兼休憩室って感じかな? 室内から受ける印象は執務室とまったく同じ。シンプルかつ実用性重視。国王という地位に見合ったものではあるものの、調度品に装飾性はほとんど見られない。
室内を見渡していると、
「――よ」
ルストが呟いたのが聞こえた。
はっきりと聞き取れたのは一部のみ。
――我が子孫よ、心せよ。
私の補完が正しければ、呟かれた内容は、こうのはず。
部屋のある方向を眺めて、ちょっと……嘲笑うみたいな感じで。
でも、ルストの視線の先には、壁があるだけだし。
「我が子孫よ、心せよ? どういう意味かしら?」
壁を見据えていたルストが私を顧みた。
「よく似た場所を知っているのです。そこには隠し部屋があり、『我が子孫よ、心せよ』と扉に文字が彫られています。――そのことを思い出しました」
「それほど似ているの?」
「ええ。非常に」
一瞬浮かんだのは、歪んだ笑い。痣以外、顔はまったく同じなのに、笑い方が『あの青年』とは違う。――クソ忌々しい記憶として沈めて、でも鮮明に思い出せるあの光景の中の姿とは。同じだからこそ、違いが際立つこともあるんだって、つと実感した。
「……そうですね。これほど似ているのです。試してみましょうか?」
――隠し部屋があるかどうか。
そんな風に続けたルストは、私の返事を待っている。
エスフィア王城の性質上、あっても全然おかしくはないとはいえ――。思い出されたのは、女王イデアリアの墓標に施された仕掛けを、ルストが知っていたこと。
まさか、ね。でも……。
「……好きになさい」
ルストの口元に、今度は満足げな笑みが刻まれた。つかつかと、さっきまで見ていた壁の前へと立った。ルストの背中で、そこで何をしたかはわからない。
ほとんど音もしなかった。
「隠し部屋があるか否か、ですが」
ルストが身体の位置を横にずらして、私を振り返った。
直前までルストが立っていた向かい側の壁。
そこに、さっきまではなかったはずの、扉が現れていた。
「ありましたね。入ってみますか? いかがでしょう?」
父上は、この隠し部屋の存在を知っている? 知らない?
どちらにせよ――。
私は直感に従うことにした。……入ってみるべきだって。
現れた扉へと歩を進める。深呼吸してから、取っ手に手を掛けた。
鍵はかかっていない。――開いた。
「ここも、似ているのかしら?」
私に続いて入ってきたルストに、問いを投げかける。
「そうです。よく似た場所には、隠し部屋がありました。まさに、ここそっくりの」
扉を開けた先にあったのは、小部屋だった。
執務室や隠し扉のあったプライベートルーム兼休憩室と比べると、とても狭い。白くて殺風景な空間。真っ先に目が行くのは、壁に掛けられた絵。
……小さな肖像画だった。
描かれているのは、一人の微笑む女性。
「では、この絵も?」
「いいえ。絵が飾られているのは同じですが――描かれている女性は違いますね」
「あなたは、この絵の女性を知っているの?」
ルストが絵から視線を外し、私を見た。ゆっくりとかぶりを振る。
「いいえ。知りません」
「――そう」
何となく、ルストは嘘を言っていないって、そんな気がした。根拠はまったくないけど。
ルストは、知らないと答えた。でも、たぶん私は知っている。この絵に描かれている女性が誰なのか。
ナイトフェロー公爵家の別邸で見つけた、一枚の絵。
架空の結婚式が描かれていた。作者は、ジハルト・エスフィア。前王であり、私の祖父。
新郎は若い頃の父上で、新婦は――たぶん、アイリーンという人。
この絵の、微笑んでいる女性は、アイリーンさんだ。あの絵と似ているもの。
視察のとき、エドガー様の生家で目にした家族の絵の中の少女とも。
エドガー様の、亡くなった妹。
入ってみるべきだって直感は、間違っていなかった。でも、入ったことを後悔してもいる。
……たぶんここは、父上にとって、誰にも触れられたくない場所だ。
だって、何とも思っていない人の絵を、ひっそりと、きっと父上しか入れない部屋に飾っておく意味は? そんなはずない。むしろ逆。
――とても、大切だから。誰にも見せられない……見せたくないぐらい?
父上は、アイリーンさんを愛してた。……いまも、愛してる? じゃあ、エドガー様と結婚したのはどうして? アイリーンさんが亡くなった後に、二人の間に愛が芽生えた? ううん。そんなはずない。そう思った。
『この世で一番嫌いかな?』
エドガー様が冗談にしようとしていた言葉は、事実だ。
視察に赴く前に、庭園で会ったときのエドガー様の様子。リーシュランの花を持って……。父上にはどうにもできないと言っていた、あの陰。即席の朝食会で、父上とエドガー様に覚えた、違和感。
最初から――愛はなかった。そのほうが、腑に落ちる。
二人が結婚したのは、取引……契約のようなもの?
「どうやら、殿下はこの絵の女性が誰なのか、ご存じのようですね」
「…………」
私は答えなかった。
「出ましょう」
かわりにルストを促し、小部屋を出ようとする。室内には、絵以外に、小さな台と椅子があった。そのとき、台に小瓶が置かれているのに気づいた。透明な液体が入っている。
ただの水ってことはないだろうし、薬か、香水……?
これも、アイリーンさんに関係しているもの、かな。
王女――私にとっての『祈りの間』が、国王――父上にとってのここなんだ。だからこそ、長居すべきじゃない。そんな想いが改めて浮かんだ。
――それから、小部屋側から向き合った扉に、文字が彫られているのにも、気づいた。掠れているけど、意味は――。
「――我が子孫よ、心せよ」
私の背後に立ったルストが、掘られた文字を指でなぞりながら読み上げた。そのまま手を伸ばし、扉を開ける。……文字が、遠ざかる。
「本当に、ここは、わたしのよく知る場所と似ているようですね」
似ている? 知る場所、そのものじゃなくて? どうしてルストは――。一旦、溢れた疑問は、心の中に仕舞う。
小部屋を出て、振り返ると、施された仕掛けがそうなっているのか、扉は消えていた。ただの壁があるだけ。壁に触れても、特におかしな感じはない。
私はルストに向き直った。
「隠し部屋に入ったことは、父上に報告するのかしら?」
通常は、白金の記章を所持していることは、国王に忠実であることと同義。
ルストの場合は?
「主君のためには、物事をすべて明らかにせず、秘密にしていたほうが美しいこともあるのでは? ……それに、このような事態をも考慮した上での記章である、と私は考えています」
――つまり、ルストが隠し事をしても、父上は織り込み済なの?
「それで、オクタヴィア殿下。前置きが長くなりました。――殿下はどのようなお話を私にご所望ですか?」
まずは……。ずっと、父上に話を聞いたときから不思議に思っていたことがある。
「ルスト……。あなた、何故固辞しなかったの? 父上の手足となって動くことも、護衛の騎士となることも」
だって、これって王家に仕えるってこと。原作設定からかけ離れているし、私がルストに抱いていたイメージとも合致しなかった。隠し部屋に入ったことを父上に報告しない姿勢は、そうでもないけど。
他の方向性としては――たとえばルストが内部に入り込んで工作するつもりなら、理屈としてはわかる。でも、父上との関係性が、よくわからない。
「そうですね……。準舞踏会でオクタヴィア殿下にお会いする前だったら、断っていたかもしれません」
「……わたくしのせいということ?」
「間接的には?」
「では、直接的な決め手は?」
「陛下の理念に賛同したから、とでもお答えしましょうか」
父上とルストの……目指しているものが同じ?
「……父上は、あなたが……いえ、あなたの顔が嫌いなはずよ。痣どうこうではなく」
ふっとルストが笑った。
「それは殿下も同じでは? しかし、一般的には好感を持たれやすい顔だと思いますが」
「……でしょうね」
ルストが超絶美形だってことは私も認める。……何もなかったら、私だって、きっと単純にキャーキャー言ってた。
「イーノック陛下が私の顔を嫌っていようと、その感情ではなく別のものを優先したということでしょう。これは私の想像に過ぎませんが」
ルストを引き入れたい理由が父上にあるって? 記章を授けてまで?
「父上と、あなたの目的は?」
「陛下のお考えなら、私よりも殿下のほうがおわかりなのでは? 私の目的……そもそも国王陛下とセリウス殿下からの要請を私が断れるとオクタヴィア殿下はお思いで? 私は一介の貴族です。しかも爵位を得ているわけでもありません。目的も何も、要請を受領しただけです」
「……最初に、断っていたかもしれません、と言ったのは誰だったかしら?」
「言葉を省略していたようです。可能なら、ですね。それが可能であれば、断っていたかもしれません、という意味でした。もともと固辞できないと理解した上でのことですよ」
この方向からは、探っても得られるものはなさそうかな……。
じゃあ、角度を変えて――。
「――女王イデアリアの墓標に」
ルストがすっと目を細めた。琥珀色の瞳によぎったのは――苛立ち?
青い墓標へ、長剣を振り下ろそうとしていたルストの姿が脳裏に甦る。
「何があるかを、あなたは知っていたの?」




