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オクタヴィア、靴擦れから完全復活!
なんと、ちょうど城を巡回中だったお抱え医師の一人がすぐ来てくれて、てきぱきと左足を治療してくれた。薬を塗って、保護布をあててもらう。「貴族女性によく見掛ける症例ですが、初期対応が大事なのですよ」とのお言葉をやんわりと頂戴した……。私の認識が甘かったことが露呈した。たかが靴擦れ、されど靴擦れ……!
なので、靴も履き替え! 薄紅色のドレスとは違う色合いだけど、いつも通り踵が低い靴へと。これは私付きの侍女のサーシャが持ってきてくれた。
履き替えて、トントン、と履き心地もチェックした。
歩いていても、違和感なし。これなら全力疾走も、隠し通路の踏破も可能!
そんな私を見ながら、サーシャと医師が、
「ですが、どうせならアルダートン様に殿下を運んでいただくのはどうでしょう?」
「そうですね。治療は済みましたが、治ったわけではありませんので。できるだけ足に負担をかけない――つまり歩かないのが一番の良薬です」
と、とんでもないやり取りをし、クリフォードが「お運びしますか?」と真面目に尋ねてきた一幕はあったものの、無事に、自力で歩いて父上の執務室の前に辿り着いた。
お姫様抱っこで城を闊歩したら、色んな意味で私の精神が瀕死になる。せっかくクリフォードと接しても大丈夫になったっていうのに、それもぶり返しそうだし。
――ただ、この、父上の執務室。
いつもなら扉の両脇にドーンと陣取っているはずの兵士たちの姿がない。その前段階の廊下にまで兵士が下げられていたんだよね。兵士にどうにか聞き出したところによると、エドガー様が父上に会いに来ているとのこと。
エドガー様が来たとき、父上はたまにこうして人払いされるんだとか。
それを押して、ずかずか執務室の扉の前まで私はやってきた。
これは初の試み。
ごくりと唾を飲み込む。
急ぎの謁見の申し込みは、扉脇の兵士を通して父上に……と考えていたんだけど、もう直でいっちゃうしかないでしょう!
要は勢い!
コンコン、と扉をノック――。
「……怒る理由がわからないな。イーノック、少なくとも、この件に関してお前が怒るのは筋違いだ」
エドガー様の、声だった。でも、一度として、こんな風にエドガー様が話すのを私は聞いたことがない。とても、冷ややかな。心から嫌っている人物と対峙していなければ出ないような。……でも、おかしい。そんなはずない。
いつも穏やかで優しい。それが、私がエドガー様に抱くイメージだ。何より、エドガー様が話している相手は――。
「わたしには、その権利すらもないというのか?」
父上、なのに。
その父上がエドガー様に返した問いは、皮肉げで、自嘲がこもっていた。
はっとエドガー様が嘲笑った。音だけで、それがわかった。
「ないね。――お前は」
――いけない。
これ以上、黙って聞いているべきじゃない。
音を大きく立てるようにして、私は扉をノックした。
「父上。オクタヴィアです。謁見の申し込みに参りました」
声を、張り上げた。
でも、結局聞こえてしまったエドガー様の言葉が妙に頭の隅に残った。
お前は、の後。
――お前は俺たちの家族ではない。
どういう意味なのかは、わからない。家族が誰を指すのかも。
ただ、突き刺すような、取り付く島もない拒絶の言葉だってこと以外は。
静寂が続く。一秒、二秒、三秒……。
ガチャリと、執務室側から扉が開いた。
「三日ぶり……庭園で話して以来だね、オクタヴィア」
開けてくれたのは、エドガー様だった。リーシュランの花を髪に挿してくれた時と変わらず、表情は柔らかい。私を迎え入れるように、エドガー様が片手を室内へと伸ばした。
――直前の二人の会話からは想像できないほど、私への接し方は変わらない。
執務室の中へ目を向ける。
アレクが出立する前、夕食会の後に訪れた時とほとんど同じだ。違うのは、あのときは執務机に向かって座っていた父上が、立っていること。
たぶん、エドガー様と話して――果たして話して、と表現して良いものか、口論と言っても間違いではない気がする――いたからだ。
廊下から、私のすぐ近くにいるエドガー様と、部屋の中ほどにいる父上を見比べる。
エドガー様は私と目が合うとにこりと微笑んだ。父上は、表情を消している。
「……入りなさい」
嘆息の後に、短く父上が告げた。
「アルダートンは外に控えているように」
……前回はクリフォードも入るよう言われたけど、今回は私だけか。頷いて、私からもクリフォードに改めて指示を出そうとした、そのとき。
「昨日起こったことを考えると、オクタヴィアは自分の護衛の騎士が室内にいたほうが安心するんじゃないかな?」
エドガー様が、決定に逆らう提案をした。
「――オクタヴィア。お前は、わたしとエドガーが危害を加えると思うのか?」
「イーノック。それとこれとは別の話だ。わたしが言いたかったのは心理的な問題だよ。それとも――オクタヴィア。彼がいては不味い話をする予定はある?」
「いいえ。ありません」
クリフォードが室内にいてくれたほうが心強いっていうのは、その通り。なので、エドガー様に反対する理由はない。
父上が、深い溜め息をついた。エドガー様もそれ以上は何も言わない。決定権は国王の父上にある。
「――撤回はしない。入室するのはオクタヴィアのみだ」
クリフォードは扉の外で待機中。扉の外っていうのがポイント。衛兵を下げて人払いをしていたことを考えると、父上もかなり譲歩してくれたんだと思う。現に、父上の執務室に通じる扉の外で控えているのはクリフォードだけ。
……ここまではうまくいっていた。のに、アクシデントが起こった。
入室直後、私のお腹が鳴ったのをエドガー様が耳ざとく――もとい、私が朝食抜きだと察知したのがきっかけで、父上の執務室で一緒に朝食を取ることになりました!
お腹が鳴ったときは顔から火が出そうなほど恥ずかしかったよね……。たぶん、エドガー様にしか聞こえていなかったのがせめてもの……! 普段、朝ご飯をもりもり食べていたのが、今日に限って胃が空っぽだったから? でも、我がお腹には、ぜひ空気を読んで欲しかった……!
執務室に食卓机があるわけではないため、本格的な料理ではなく、軽食がメインになった。
応接用の長机に、父上が上座、私とエドガー様が向かい合って座っている。そして、机の上には使用人の配膳により、色んな種類の具を挟んだ黒パン――つまりサンドイッチと飲み物、果物が並んだ。まあ、父上が座っているところには、読みかけの書類も置かれているけれども。
いままさに、いただきます、の挨拶がわり、天空神への感謝を父上が述べ終わったところ。
――サンドイッチの山を前に、私は執務室の扉を見やった。
今朝、クリフォードって早めに私の部屋まで来たんだよね。サーシャが気を利かせて呼んできてくれたおかげなんだけど、朝ご飯抜きってクリフォードもだったりして? 食べていたとしても携帯食で済ませていたりとか……。
私が密かに悩んでいると、
「どうやら料理長が張り切って用意してくれたみたいだね。ただ、三人では食べきれないかもしれないな……」
私の心を読んだかのように、エドガー様がアシストしてくれた。
「少しクリフォードにも協力してもらうのはどうでしょう」
「良いね」
「――ならば、使用人に持って行かせなさい」
でも、配膳をしてくれた使用人は既に執務室を辞している。
「必要ありませんわ、父上」
「何?」
「わたくしから直接クリフォードに渡します」
だって、クリフォードって、第三者から渡された飲食物をそう簡単には受け取らなさそうだから……! でも『主』からなら、固辞できまい!
「…………」
父上が眉根を寄せた。何か言いかけて、口を閉じる。結局、無言。「好きにしろ」ってことだよね。
かくして、私は選別を開始した。
色んな具が挟んであるサンドイッチや、ジャムが塗ってあるパンなどを真剣に眺める。
どれが良いのかな……。
…………!
そして、気づいた。
私って、クリフォードの食べ物の好みを知らない……!
結局、好き嫌いで食材を避ける、とかができなかったので、オーソドックスに、お肉――照り焼きチキンっぽいの――が挟んであるパンを中心にセレクト。
持ち運びができるように紙で包んであるので、いますぐ食べなくても、地下牢の警備兵みたいに携帯食として持っておくこともできるはず。
私は立ち上がると、執務室の扉に向かった。
楽しそうにエドガー様が手を振ってくれる。
ガチャリ、と私は扉を開けた。この扉、重い――! と思っていたら、急に軽くなった。クリフォードが扉を開けてくれたもよう。
「殿下?」
「――これを」
私はサンドイッチの入った包みを差し出した。
即席の朝食会が行われることになったのはクリフォードも知るところ。
「わたくしたちでは食べきれないの。職務中だけれど、あなたも手伝ってくれると嬉しいわ」
濃い青い瞳が思案げに私を見返す。
「…………」
「…………」
私の粘り勝ち?
長い沈黙を経て、クリフォードが口を開いた。
「――では、頂戴します」
紙の包みの重みが、手から消えた。
昨日、お茶に誘うのに成功したときみたいな勝利感が湧いてきた。
こう……たとえは良くないよ? でも、餌付けに成功したような気分?
ところが、そんな気分もつかの間。割とすんなりクリフォードが受け取ったことで、逆に不安になってきた。まず拒否しそうっていう私の前提が間違ってたのかな?
――一緒にお茶を飲んだときの記憶が甦る。はっ。も、もしや、どうせ毒入りでも多少なら問題ないし、とりあえず面倒くさいから受け取っておくかの精神だったり?
「その、城内であっても、みだりに食べ物をもらったりはしないでね。基本的には危険はないと思いたいのだけれど……」
兄やアレクの例だと、異物混入事件が過去にあったりしたからなあ……。原作では確かシル様も……。毒殺とかではないよ? 行き過ぎた愛? ストーカー心理的なやつね。クリフォードもそっち方面で被害に遭うことは十二分に考えられる。
「これまで城内でそのようなものを受け取ったことはありませんが」
あ、最初の私の読みのほうが正解だった?
ということは、やっぱりクリフォードがサンドイッチを受け取ったのはかなりなレアケース……。きっと『主』『従』の関係性によるものだってわかってはいても、あることを私は考え出していた。
「……そう。クリフォード、あなた、食べ物の好き嫌いはある?」
もし次の機会があれば、そのときはどうせなら好きなものを差し入れたいなーって!
「特にありません」
……想定してた。想定してたよ? 私は負けじと食い下がった。
「でも、何かはあるのではなくて?」
クリフォードが困った様子で眉を顰めた。こんな簡単な質問に、難題を投げられたみたいにするのってクリフォードぐらいじゃない?
しばしの沈黙が流れる。ようやく、クリフォードが重い口を開いた。
「……食べられるか否か?」
究極の、二択! 食べられれば好きなものっていうのはちょっと。渡したサンドイッチどころか、ほとんどの飲食物が該当するよ! いや、何でも好きって人はいると思うけど、絶対クリフォードはそれと違うケース……!
「美味しいと思ったものはないの?」
「一つだけありますが」
一個だけ?
「――あれは、状況がそう感じさせただけだったかと」
たぶん、すっごーくお腹が空いているときに食べたものを、一番のご馳走に感じる現象。それだったって言ってるんだと思う。だから、美味しいと思った食べ物もない、と。
「……とりあえず、わかったわ」
私とクリフォードの付き合いは必然的に長くなるはず。この先、食べ物の好き嫌いを探っていくしかないということが! 本人は、食べられる=好きという認識でも、微妙な好みはあるはずだもんね。
「とにかく、それを食べたら」
渡した紙の包みを視線で示す。
「感想を聞かせてちょうだい。……でも命令ではないわ。ただのお願いよ」
クリフォードの場合、こう言っておかないと命令と解釈しそうだし。
「――は」
了承の返答は、戸惑いを含んだものに聞こえた。




