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今度こそ自室に戻ったときには、夜になっていた。
私は、あれからすぐに地下牢を出た。だから、あの場に残った兄が、ヒューと何を話したのかは知らない。
椅子に腰かける。
……何となく、部屋が寒々しく感じた。
なかなか部屋に戻る気にならなくて、細々とした雑務をこなしてみたりしたものの――替え玉の任務を果たしてくれたエレイルやガイに会ったり、アイリーンさんの服から普段着用ドレスに着替えたり、クリフォードに左手の包帯に血が滲んでいますって指摘されて、新しい包帯を医師に巻き直してもらったり――城内をいつまでもうろうろしているわけにはいかない。
普段ならサーシャがいるけど――駄目だ。サーシャは呼べないや。
エレイルに着せたドレスのことを頼んだんだった。ガイと城に戻ったエレイルを見た時のサーシャの悲鳴はすごかった。
そのときの騒動を思い出して、少しだけ、明るい気持ちになった。でも、広い自室を見渡した途端、しぼんでしまう。お姫様仕様の、豪華な部屋なのに。
一人で、いたくないなあ……。
「クリフォード」
辞去の挨拶をし、部屋を出ようとしていたクリフォードを、思わず呼んでいた。立ち止まったクリフォードの顔には、疑問の色。
どうしよう。何も考えてないや。用事、用事……。
私が部屋に戻ったときのために、サーシャが置いてくれていたんだろうティーポットを見つけた。
「一緒にお茶でもどうかしら。そこに座ってちょうだい。わたくしが淹れるから、味の保証はできないけれど」
で、言い終わってから、気づいた。
『主』になった――クリフォードを部屋に呼んだとき、お茶も椅子も遠回しに断られてるんだよね、私。
うーんと……。
「毒なんか入れたりしないから安心して良いわ」
飲んでも身体に害はないんだよ、ということを伝えてみる。
「多少の毒であれば問題ありません。飲めとご命令されれば飲みます。たとえば自白剤程度なら完全に無害です」
それ、飲んじゃ駄目だから!
「……自白剤も入っていないわ」
「構いません。……入っていれば気づきますが」
だからね、入っていること前提の会話は何なの、クリフォード!
「いいこと、クリフォード? 私が淹れるお茶には、異物が入っていないことを約束するわ。私とあなたが『主』『従』である限り、有効よ」
や、『主』『従』じゃなくても入れたりしないけど。こう引き合いに出したほうがクリフォードは受け入れやすそうだし。
サーシャが事前に準備してくれていたから、私は超早業で紅茶を淹れることができた。問答無用で、クリフォードが座る予定の場所にカップを置く。
もう淹れたんだから、飲んでいくよね? 飲んでいくしかないでしょう? という私なりの渾身の圧力。
「…………」
困惑気味のクリフォードに言葉で追い打ちをかける。
「座ってちょうだい」
「……は」
薦めた椅子に、クリフォードが腰掛けた。勝った! 内心でガッツポーズ。
クリフォードが座ったので、自分の分を、と。クリフォードのはストレートだけど、私のはミルクティー。
一口飲んで、カップを置く。……心が緩んで、今日の疲れがどっと押し寄せてきた気がした。
「……頂戴します」
だからか、ちゃんと紅茶を飲んでくれたクリフォードを、頬杖をついて眺めていたら、口走っていた。
「あなたは、ヒューのようなことは、しないでね」
「…………」
「まずは、話して欲しいわ。どんな理由があっても」
私への不満点があるとかだったら改善するし。改善できそうにないときは、正直に無理って言うし。
感情の読めない、考え込んでいるようにも見える表情で、クリフォードが私を見つめ返した。顎が浅く引かれた。遅れて、答えが来る。
「……わかりました」
「ありがとう」
にこっと笑おうとしたけど、失敗したのが自分でもわかった。
「――何故」
ふいにクリフォードが言った。
「殿下は傷ついておられるのですか?」
「左手なら包帯を巻き直してもらったし、わたくし、怪我なんて……」
私の言葉の半ばで、首が横に振られる。
「そのことではありません」
「え……?」
そこで、言葉を止めた。
クリフォードが言おうとしたことが、わかったから。
どうして、ヒューが裏切ったことにショックを受けているのかって。
たぶん、それを訊かれてるんだ。
「――おっしゃりたいことがあるのであれば、殿下も私にお話しください」
はっとして顔をあげる。
落ち着いた、濃い青い瞳が私を見下ろしていた。
……包み隠さず、とはいかないけど。
確かに私は、ヒューのことでショックを受けてる。地下牢での、兄とヒューのことが脳裏をよぎった。兄に比べたら、私の傷なんてたいしたことはない。それでも。
「ヒューのことは、わたくしにも責任があるのではないかと、後悔しているから、かしら……。何か、できることが、あったのではないかって」
だって、原作とは、全然違う。
兄とヒューの間にあった関係が、現実では粉々に壊れてしまった。兄がたとえそれを望んだとしても、ヒューが無罪になることはあり得ない。
本当の動機が、公に明かされることもない。
ヒューが騙った言葉だけが、真実となって残る。彼が兄に抱く忠誠は変わらないのに。
だから、考えてしまう。
――私が、過去に別の行動を取っていたら? 原作の『妹ちゃん』のように、ヒューと親しかったら? 兄ともっと……。
私――兄とシル様にさえ気をつけていれば大丈夫だって思っていた。そして原作で、二人のお世継ぎ問題を解決するオクタヴィア……自分のことだけを。
だって、原作はバトルもあるけど、メインキャラクター同士の仲が決裂したり、死人が出たりすることもなかった。主人公たちの、兄とシル様のハッピーエンドは約束されていて。だから、他のキャラクターの運命が変わるなんて、考えもしていなかった。
現実でも、そりゃあちょっと違う点はあったって、兄たちに関わる人たちの幸せは、壊れないんだ。ヒューとネイサンは兄たちの絶対的な味方で、不動のことなんだって。
……そうじゃなかった。
あくまでも、あの青年が約束したのは、シル様と兄が結ばれて、幸せになる結末。
二人のハッピーエンド。
原作では幸せな結末を迎えるのだとしても、シル様たち以外がこの世界でも……私のいる現実でも、同じ結末を迎えられるかなんか、決まっていない。二人以外の運命は、容易に変わるんだ。
――ヒューみたいに。
「……どんな状況下にあろうと、最終的な選択を行うのは、自分自身です。他者の介入する余地はありません」
「……ふふっ」
クリフォードらしい答えだなあって思ってしまった。
「でもね、クリフォード。わたくしは、割り切れないのよ」
私がオクタヴィアであることで、変わってしまったことがあるから。最後は本人が選ぶことだって言ったって―――これからも、私がしようとすることで、逆にしないことで、原作の他の幸福に少なからず影響を与えてしまうのかもしれない。
だからって、立ち止まったりは、しないけど。
「……では、ずっと傷ついたままなのですか?」
まさか、と答えようとして。
つと、疑問が浮かんだ。でも、じゃあ、どうすればいいんだっけ。
麻紀だったときのことは、すぐに思い浮かんだ。お姉ちゃんに愚痴をたくさん言って、「よしよし」と慰めてもらって……思う存分甘えて、朝起きたら、気持ちも浮上してる。
別に問題は解決しなくても、吐き出す場所があった。甘えられる人たちがいた。
オクタヴィアになってからは……。
眠って、起きれば……? 子どもの頃は、アレクをぎゅっと抱きしめたり……。「あねうえ?」と不思議そうに抱きしめ返してくれるアレクがいた。ただ、アレクは私が守らなきゃって思いのほうが強かったから……。
「――殿下?」
えっと、どう誤魔化――。
そう考えて、駄目だって思った。話して欲しいってクリフォードに要求しておいて、自分が言い辛いから誤魔化すって、人間として駄目なやつ。
うーん。でもなあ……。どう言えば……。
「……心が傷ついたときは」
やっぱり、お手本は前世になっちゃうから、そこはぼかすしかないけど。
「人に抱きついて、抱きしめてもらっていたわ。他には、よしよしと頭を撫でてもらったり。だから、」
ずっと傷ついたままなわけじゃないって続けようと――。
座っていたクリフォードが立ったのは、見た。
気がつくと、彼の腕の中にいた。




