皇紀二六八六年、模倣と生存の帝国史論
皇紀二六八六年(西暦2026年)。
かつて東洋の一角に閃光の如く現れ、そして焦土の中で消滅した大日本帝国という国家体制が崩壊して八十余年が経過した。
現代において、この帝国の興亡を振り返ることは、単なる過去の追憶ではない。
それは、一九世紀以降に形成された西欧列強主導の「国際社会」という冷徹なシステムがいかなるものであったか、そしてそのシステムの中で、遅れてきた非西洋国家がいかにして生存を模索し、なぜ破局に至ったのかを解明する作業に他ならない。
我々は今、狂信的な軍国主義の暴走という戦後のステレオタイプな史観を排し、生存への過剰な意志がもたらした悲劇的な軌跡を、冷徹な史眼をもって再定義する必要に迫られている。
嘉永六年のペリー来航は、日本にとって単なる開国の要求ではなく、文明という名の暴力を伴う「世界標準」への強制編入の通告であった。
浦賀沖に停泊した四隻の黒船が突きつけたのは、蒸気機関や巨砲という科学技術の優劣だけではない。
それは、産業革命を経た西洋文明が、非西洋世界を圧倒的な物理力で支配するという、逃れられない現実であった。
当時の地政学的状況を俯瞰すれば、日本の危機感は妄想ではなく、目前に迫る物理的脅威であったことが理解できる。
アフリカ大陸は地図上で幾何学的に分割され、インドは巨大な市場兼原料供給地として大英帝国の胃袋に収まり、東洋の巨人・清国でさえもアヘン戦争の敗北によって半植民地化の道を歩んでいた。
当時の国際法たる「万国公法」は、表向きは国家平等を謳いつつも、その適用範囲は「文明国(キリスト教圏)」に限定されており、それ以外の「未開国」に対する支配と搾取を正当化する構造を有していた。
この無慈悲な国際社会において、有色人種に用意された席は「支配者」の側には存在しなかった。
あるのは「植民地」という名の隷属か、あるいは奇跡的な跳躍によって自らを「文明化」し、列強のルールを身につけて対抗するかという、二者択一の過酷な運命のみであった。
日本は後者を選び取った。
それは国家としての野心というよりも、物理的な生存と精神的な独立を保つための、国家存亡をかけた不可避の決断であった。
明治維新以降、日本が狂気じみた速度で推進した「文明開化」の本質は、西欧への文化的な憧憬ではなく、生存のための武装である。
チョンマゲを切り、刀を捨て、西洋風の法体系を整備し、立憲政治を導入し、軍制を改革した。
これらはすべて、欧米列強に対し「日本はあなた方と同じ文明の言葉を話す国である」ことを証明し、屈辱的な不平等条約を撤廃させ、主権国家としての体裁を整えるための必死のパフォーマンスであり、同時に実質的な強化策であった。
この過程において、日本は欧米の帝国主義政策をも模倣した。
富国強兵をスローガンに掲げ、海外への進出を図ったのである。
しかし、ここで看過してはならないのは、日本の帝国主義と欧米のそれとの間に横たわる、動機の決定的な差異である。
欧米列強の植民地支配は、産業革命による過剰生産のはけ口や資源の収奪といった経済的動機に加え、社会進化論に基づく人種的優越感、すなわち「未開の蛮族を教化する」という「白人の責務」によって正当化されていた。
そこには、有色人種に対する根源的な蔑視と、他者を手段として利用することへの躊躇なき悪意、あるいは傲慢な善意が存在した。
対して、日本の対外膨張は、常に「恐怖」に突き動かされていた。
朝鮮半島や満州への進出は、凍れる北の大国・ロシア帝国の南下政策をはじめとする列強の重圧から、自国の生存圏を確保するための「防御的帝国主義」の側面が色濃かった。
山縣有朋が説いた「主権線」を守るための「利益線」の確保という論理は、攻撃的な領土欲というよりは、国家という生命体が呼吸するための空間、あるいは敵の侵攻を食い止めるための緩衝地帯を形成しようとする、切実な防衛本能の発露であった。
日本にとっての植民地獲得は、富の収奪以前に、列強に囲まれた孤立無援の島国が生き残るための、唯一残された生存戦略であったと言える。
だが、模倣の果てに待っていたのは、称賛ではなく深まる孤立であった。
日露戦争での辛勝は、近代史上初めて有色人種が白人国家の大国に勝利した事例として、世界中の被抑圧民族に熱狂的な希望を与えた。
しかし、この勝利こそが、欧米列強の深層心理に潜む「黄禍論」を顕在化させ、日本を脅威として認識させる転換点となった。
日本はその後も、国際協調主義を掲げ、第一次世界大戦には連合国側として参戦し、国際連盟の常任理事国ともなった。
しかし、パリ講和会議において日本が提出した「人種的差別撤廃提案」が、ウィルソン米大統領の裁定により否決された瞬間、日本は悟らざるを得なかった。
いかに文明化し、いかに強大な軍事力を持とうとも、白人の文明国クラブは、有色人種を真に対等なパートナーとして受け入れることはないのだと。
一九二四年の米国における排日移民法の成立は、その拒絶を決定的なものとした。
勤勉で優秀な日本人は、欧米社会にとって好ましい隣人ではなく、彼らの生活水準と純血性を脅かす異質な存在として排斥されたのである。
ワシントン体制による軍縮の強要、満州事変以降のリットン調査団による断罪、そしてABCD包囲網による経済封鎖。
これら一連の流れは、日本側から見れば、生存のために模倣したはずの「帝国」というシステムが、逆に自らの首を絞める縄となっていく過程であった。
資源を持たぬ工業国である日本にとって、石油や鉄屑の禁輸措置は、国家の窒息死、すなわち緩慢なる自殺を強いるに等しい行為であった。
「座して死を待つよりは、打って出るべし」。
開戦の決断は、勝算のある戦略というよりも、追い詰められた獣が放つ最後の咆哮であった。
欧米とは異なる理想――「八紘一宇」や「五族協和」――を掲げ、アジア解放の大義名分を唱えたとしても、現実の戦場において日本軍は他国の土地を踏み荒らし、そこに住む人々に塗炭の苦しみを強いた。
生存のためという切実な動機があったとしても、支配される側からすれば、それは侵略者の論理以外の何物でもなかった。
ここに、日本の悲劇的な矛盾と、近代日本が抱え込んだ業の深さがある。
大日本帝国の行動原理は、根底においては生存への渇望であり、欧米列強のようなサディスティックな人種支配の悪意とは一線を画すものであったかもしれない。
しかし、結果として日本は破滅的な戦争へと突き進み、自国民のみならずアジア近隣諸国に多大な犠牲を強いた。
この歴史的結末を前にして、我々はソクラテスの言ごとき「無知」の罪を問わざるを得ない。
日本はあまりにも多くのことに対して無知であった。
第一に、西欧文明のルールを完璧に模倣すれば、彼らが仲間として受け入れるであろうという、国際政治の根底にある人種的・文明的な壁の厚さに対する無知である。
日本は「優等生」であろうとしたが、教師である欧米は最初から日本を卒業させる気などなかったのだ。
第二に、自国の生存のための「防御」や「利益線の確保」が、周辺諸国(中国や朝鮮)のナショナリズムと衝突し、彼らにとっては耐え難い「侵略」と映るという、他者視点の欠如に対する無知である。
日本は自らが欧米の植民地になることを恐れるあまり、隣人が日本によって植民地化される痛みに鈍感であった。
第三に、そしてこれが最も致命的であったが、近代という時代そのものが持つ限界と、変化する世界潮流に対する無知である。
力による現状変更が可能であった時代は終わりを告げつつあり、モラルや正当性が物理的な力と同等の武器になり得る新しい時代の到来を、日本は見誤った。
国力と兵站の限界を超えて、精神論で世界を変えられると信じた傲慢さこそが、最大の無知であった。
「無知であり、罪である」。
生存のための必死の模倣、そして恐怖に駆られた膨張政策は、当時の国際環境を鑑みれば情状酌量の余地はある。
しかし、無知ゆえの行動がもたらした惨禍に対する責任は消えない。
国家の指導者たちが陥った視野狭窄、国民が共有した被害者意識と排外主義、それらが複合して、日本は自らを焼き尽くす業火へと飛び込んだのである。
模倣の帝国は、一九四五年の夏、二つの原子爆弾とソ連の参戦によって物理的に粉砕された。
しかし、その灰の中から再生した現在の日本が、過去の「無知」を完全に克服したと言えるだろうか。
皇紀二六八六年、我々が学ぶべき歴史の教訓は、単なる反戦平和の誓いにとどまらない。
力なき者が理不尽に踏みつけられる現実は、形を変え、手法を変えて今も続いている。
経済戦争、情報操作、文化的な覇権争い。
国際社会の本質的な無慈悲さは変わっていない。
その中で生き残り、かつての過ちを繰り返さないためには、単なる強者の模倣や、閉鎖的な自己正当化に陥ってはならない。
世界という巨大なシステムの構造的欠陥を冷静に見抜き、自国の生存と他者の尊厳を両立させるための、極めて高度で孤独な知性こそが不可欠なのである。
大日本帝国の歴史は、生存への必死のあがきが、知性を欠いた時にいかなる悲劇を生むかを示す、血で書かれた巨大なマニュアルとして、今も我々の背後に聳え立っている。




