最終話 未来へ
――龍馬さん!
喉を震わせ放った声は現ならぬ虚空に飲み込まれ、絞り出した吐息の残滓だけが、無機質なタイルとガラス張りの空間に溶ける。
閉館間際の博物館、展示物のガラスケースに取りすがって泣き崩れる和装の彼女を、まばらに残っていた客が驚いたように遠巻きに見つめている。
間もなく駆け付けた警備員に別室へ連れて行かれ、落ち着くまでここにいなさいと温かいお茶を出してもらったことだけはおぼろげに覚えている。けれど、それからどうやって下宿先のマンションに戻ったのか、その後何をして過ごしていたのか、といったことは、すっぽりと抜け落ちたように記憶がない。
連絡が取れないのを心配した家族や友人が訪ねてきて、真っ暗な部屋の隅でうずくまる抜け殻のような彼女を見つけたのは数日後のこと。親身に世話を焼いてくれたおかげで、彼女は徐々に人としての生活を取り戻していった。ただ、心ここにあらずといった様子は相変わらずで、話しかければ受け答えはするものの、食事や入浴といった必要最低限のことをする以外は、ぼんやりと虚ろな視線をどことも知れない彼方へ投げ出しているばかり。
あなたは、ここじゃないどこかにいるのね。
そう言ったのは母だったろうか、友人だったろうか。
その言葉に何か思うところがあったのか、彼女は翌日、にわかに図書館へ行くと言って出かけて行き、近代史の資料を大量に抱えて戻って来た。連日連夜、何かに憑りつかれた様に片端から読み進めていく。やがて全ての本を読んでしまうと、放心したように長い吐息を吐き出した。机の上に積み重なった本の山をしばし見つめ――そうして、ふらりと町へ出た。
*
涼やかな風が、街路樹の若葉を揺らして通りを吹き抜けていく。
ビルとアスファルトに囲まれた乾いた街並みの中に、時折ひょいと趣ある古い町家や寺社が顔を覗かせる。
目的地もなく、ただふらふらと足の赴くまま歩いていた彼女は、いつしか入り組んだ細い路地へと迷い込んでいた。構わず進んだ先に、古びた小さな寺がある。
猫の額ほどの庭には、真っ白な花をつけた木が植えられていた。強烈な既視感を覚えて立ちすくむ。
「空木――」
思わず口をついて出た声は、喉の奥に絡みついてざらついた音をたてた。
「おや、おいでやす」
ちょうどお堂から出てきた恵比寿顔の僧侶が、庭に佇む彼女に気付いてにこっと微笑んだ。観光の方ですか、と気さくに話しかけながら、ひょこひょこと隣までやって来る。ぽんと突き出たお腹が歩くたびにゆさゆさ揺れた。
「よう咲いとりますでしょう。『空木』言うんですわ。……それにしてもお嬢さん、ようここを見つけはりましたなあ。辺鄙なとこにあるもんで、土地のもんでさえ知らんゆう人も多いのに」
断りなく入った非礼を詫び、自分は近隣の大学に通う学生で、たまたま散歩をしていて迷い込んだのだと返せば、ああさようで、とたるんだ顎を震わせる。
「ここはもうだいぶん前から檀家さんもおらへん無人寺なんですわ。わしが管理を任されとるもんで、こうして時々掃除やら庭木の世話やらしに来よるんですけど……それももう終わり。実はこの寺、来月に取り壊しが決まっとるんです。きっとお嬢さんが最後のお客さんでしょう」
「……あの、このお寺は、いつ頃からあったんでしょうか」
「はて、いつやったかなあ……。今ある本堂は明治期に建て替えられたもんですけど……、最初に建立されたんは室町あたりやったかなあ。はっきりせんですんまへんな。……あ、せやせや! お詫びに、と言うたらなんやけど、面白い話、お聞かせしまひょ。この寺に伝わる逸話なんですけどな」
僧侶は内緒話をするように声を潜め、
「伊藤博文ておりますやろ? ほれ、初代の内閣総理大臣になったいう……。その伊藤博文が、この寺に二度ほど来たことがあるらしいんですわ」
能面のようだった彼女の表情が、その時初めてかすかに動いた。
「伊藤さん……いえ、伊藤博文が?」
「ええ。なんでまたこんな辺鄙な寺にわざわざ、て思いますやろ? なんでも、幕末の若い時分に、仲のええ友人らと遊びに行った帰り、たまたま通りかかったそうなんですわ。ほんで、明治になって、昔を懐かしんでふらっと寄ってみたらしうて。しばらく一人でそこの広縁に腰かけて、庭を眺めとったとか。帰り際に幾らか寄進したいう話も聞いてますけど、まあ、文書も何も残ってへん口伝やさかい、ほんまに来たんかどうかも眉唾もんですけんどな。……ああ、いかんいかん。すんまへんな、年寄りは話が長うて。ほなわしは行きますけんど、取り壊しの前に、こないしてお嬢さんが来てくれはったんも何かの縁ですやろ。どうぞゆっくりしていってください」
「……はい。貴重なお話、ありがとうございました」
「なんの、こちらこそ。年寄りの長話に付き合うてくれはっておおきに」
僧侶は再び太鼓腹を揺らしながら路地の向こうへと歩き去った。
静けさの戻った境内で、彼女は本堂の前に立ち軽く手を合わせると、伊藤博文が座っていたという広縁に浅く腰かけた。上着のポケットに手を入れ、取り出したのは、細い鎖のついた銀色の懐中時計。かちりと蓋を開ければ、優美な装飾の施された時計盤が現れる。だが、その時計の針は、あの日――あの瞬間から、止まったまま。
目を背けるようにして蓋を閉じる。ポケットに戻そうとしたところで、不意にぷつりと鎖が切れた。手元が狂い、時計は彼女の手をすり抜けて地面をとんとんと弾んで床下へ転がって行く。
慌てて暗い床下を覗き込み目を凝らすと、少々奥まった柱の付け根に鈍い銀の塊が見えた。ほっと安堵の息をついて、蜘蛛の巣だらけの中に体をねじ込んだ。じりじりと這い進んで時計に手を伸ばした時、そばの柱に竹筒がくくり付けられていることに気が付いた。近くまで来て見なければ決して分かるまい、まるで念入りに隠されているかのような……。
唐突に、いつかの伊藤の声が鮮明に脳裏に蘇った。
『……和尚がそりゃあ厳しい人で、なかなか友達とも遊べなくて……竹筒を床下に隠しておいて、それでこっそり手紙のやり取りしたりしてさ……』
どくっ、と心臓が音を立てて跳ねる。
鼓動は治まるどころか、体を突き破らんばかりに勢いを強めていく。突き動かされるように、その竹筒を手に取った。古びてぼろぼろになった紐は、彼女が触れると役目を終えたかのようにたちまち崩れ落ちた。ずりずりと這い出し、体についた土を軽く払って再び広縁に座る。今度こそきちんと時計をポケットにしまうと、改めて竹筒を両手で捧げ持つ。大きさは五百ミリリットルのアルミ缶くらい。上部に油紙でしっかりと封が施されてある。
ごくりと唾を飲み、大きく何度も深呼吸してから、震える指で封を解いた。中には幾重にも油紙に包まれた封書が入っていた。
封書の宛名は――
「……『草月』……」
*
『 草月へ
よう草月、久しぶりだな。
お前がいなくなってから、ずいぶん長い時間が過ぎたよ。
あれからどうしてる? 家族や友達とは会えたか? 元気に暮らしてるか?
俺も皆も、どうにか元気にやってる。それでも、とても紙上じゃ言い尽くせないほど色んなことがあったよ。幕府を倒して新しい政府を作って……。何もかも前例のないことばかりで、誰も彼もが、このつぎはぎだらけの新政府を沈ませまいと、今も舵取りに必死だ。
実はこの後も、やっかいな仕事が待ってる。生きて帰って来られるか分からないから、その前に、お前に手紙を書いておこうと思ってさ。……え? 命がけの仕事なんて、前々から日常茶飯事だったって? はは、確かにそうだ。
まあそれはともかく。書くと決めたのはいいけど、問題は、どこに送ればいいかさっぱり分からないってこと。
どうしようか悩んで、ふと思い出したんだ、この寺のこと。高杉さんと久坂さんとお前と俺と。四人で、最後に訪れた場所。ここで俺が餓鬼の頃の話をしたの、覚えてるか? 床下に隠した竹筒に手紙を入れて、こっそり友達と連絡を取り合ったって。
だから、今度もまたそうする。
ここに置いておけば、きっとお前に届くと信じてこれを書くからな。心して読んでくれよ。
坂本さんたちのことは、本当に残念に思ってる。お前が突然消えたことで、実はお前が刺客を手引きしたんじゃないかって心無い陰口を叩く奴もいたけど、俺は、お前を知る人たちは皆、お前が絶対にそんなことしないと知ってる。お前がどれだけ必死に坂本さんを助けようとしていたかも。
田中君から、近江屋のその部屋に、猫の絵が描かれた屏風があったって聞いて、お前は自分の国に帰ったんだって分かったよ。
お前はこの国に残ってくれる決心を固めていたから、きっと不本意だったろうな。
お前のことだ、坂本さんたちの死にも、責任を感じてるんだろう?
でも、それは違うぞ。絶対に違う。
あの人たちの死に責任があるのは殺した奴らで、それを命じた奴らだ。
気に病んで落ち込んでいる暇があったら、もっと有意義なことに時間を使え、って高杉さんならそう言うぜ。坂本さんたちだってそうだろうよ。もちろん俺も。
お前は生きているんだから。めいっぱいその命を使わないでどうするんだ。
お前の国がどんなところか俺は知らないけど、きっとそこにも、お前にしかできないことがあるはずだ。自分を責めてばかりで何も成そうとしないんじゃ、長州の志士・唯野草月の名が泣くぜ。
草月なら、きっと前へ進んで行けるって俺は信じてる。
柄にもなく説教くさくなっちゃったな。
――ああ、そうそう。
お前に手紙を書くって言ったら、そりゃあもう大勢から言伝を頼まれてさ。
とても全部は書ききれないから、集約してこれだけ伝えるよ。
達者で、生きろ。
はは、皆、言いたいことは同じだな。
俺も精一杯生きるよ。先に逝ったたくさんの仲間の分も。
この国を、今よりもっと豊かに、強くするために。
じゃあ、行ってくる。
たとえ生きる国が違っても、目指すものが違っても、俺たちの友情はずっと変わらない。
いつかきっとまた会おう、草月。
明治某年 空木の花咲く季節に
生涯の友たる伊藤俊輔 』
『おっと、肝心なことを忘れるところだった。
ずっと預かっていたものをお前に返すよ。
あの屏風の前に落ちていたのを田中君が拾って、俺に渡してくれたんだ。 』
(……?)
同封されていた薄い紙包みを開く。
瞬間、雷に打たれたような衝撃が全身に走った。
中から現れたのは、長崎で撮った高杉との写真だった。
失くしてしまったと思っていた。
もう二度と、見ることは叶わないとあきらめていた。
それが、百五十年余りの時を超えて、彼女のもとに戻って来た。
まるで昨日撮ったかのように、色褪せず、鮮やかに、あの時のまま。
我知らず流していた涙は止まることなく、次から次へと溢れ出ては両頬を濡らしていく。抑えていた感情がどっと洪水のように押し寄せて、堪えきれずにこぼれた嗚咽が、誰もいない静かな境内の空気を震わせる。
あれから、何度も何度も、繰り返し自問しない日はなかった。どこがいけなかったのだろう。何を間違えたのだろう。どうすれば助けられたのだろう。
あの日、自分が出かけなければ――
不用意に尾行などしなければ――
もっと上手い言い訳を用意していれば――
近江屋に戻った時、戸締りをして絶対に誰も中へ入れないよう、藤吉に伝えていれば――
己の行動のひとつひとつを思い出しては、ただただ自分を責め苛む毎日。
必ず守るとの誓いも、葛湯を作るという約束も、戦に依らず新政府設立を目指そうという夢も、何もかもを置き去りにして、自分は戻ってきてしまった。
あの頃の絆は全て断ち切られたと思っていた。
(でも、違った……)
皆と駆け抜けたあの日々は、流れていた時間は、途切れることなく今に続いている。
……正直、維新後の新政府のやり方には、目を背けたくなるような事実もあった。まさかあの人が、と信じたくない出来事もあった。しかし、何ひとつ間違わない人間などいるだろうか。誰しも、最善を尽くそうと努力している。それでも何度も間違いを犯す。その度にそれを正し、乗り越え、またより良い未来を求めてあがき続ける。そうして繋いだ道の先に、今、自分は生きているのだ。
止まらぬ涙をそれでもぐい、と拭って。
(私、頑張ります。長州の志士として駆けたあの頃の自分に負けないように。胸張って皆に会える自分であるために。ちゃんとこれからの人生を生きていきます……!)
懐かしい人々を想い、激動の日々を想い、残してきた様々な事どもを想い、草月――未咲は、最後に一粒だけ涙をこぼして立ち上がった。
*
*
空港の広々とした国際線搭乗フロアには、年代も人種も様々な人たちが賑々しく行き交っていた。聞こえてくる言語も様々で、目を閉じると本当にここが日本なのか分からなくなる。
搭乗を促すアナウンスが流れて、未咲は懐中時計の蓋を開けて時間を確かめてから、鞄を手に待合のソファーから立ち上がった。
止まっていたはずの懐中時計は――うっかり落とした時の衝撃がたまたま内部の機構に上手く働いたのか、それとも、持ち主の心を反映したのかは分からないが――再び時を刻み始めていた。
突如、「日本と世界をつなぐ仕事をしたい」と言い、大学の国際学部への編入を目指すと宣言した未咲を、周囲は驚きつつも応援してくれた。猛勉強の末、無事に合格し――そして今日、未咲は日本を離れ、海を渡り異国へと旅立つ。
留学先に選んだのは、イギリス――ロンドン。
かつて、伊藤や井上たちが留学した場所。
そして……高杉が、何度も渡航を夢見て果たせなかった場所。
(私も、向こうでたくさんのことを学んで帰ってきます。そしていつか、この国や、世界をより良くすることに還元できるように……。見ていてくださいね)
ゆっくりと歩き出す。
襟足のところで短く切った髪がさらりと揺れた。
これから先、また何かで躓いて、心が折れることがあるだろう。でも、きっと何度だって立ち上がってみせる。
だって私は長州の志士・唯野草月なんだから。
だから行こう。恐れずに。真っすぐに前を向いて。
未来へ――




