運命の日・後
「うっ、ごほっ……、ごほっ」
凍えるような寒さで目が覚めた。喉はひりひりと焼け付き、捻りあげられた腕はじんじんとうずくような痛みがある。
(ここは……)
どれくらい気を失っていたのだろう。
辺りは深い闇に沈み、自分の置かれた状況も判然としない。ただ、胸を貫く焦燥感だけははっきりしていた。
早く――、早く知らせないと、坂本が殺されてしまう。坂本だけではない。中岡も巻き添えになる。
急き立てられるように闇を掻いた手の爪先が、何か固いものに突き当たって鋭い痛みが走る。息を詰めて痛みをやり過ごし、もう一度、今度はやや慎重に腕を伸ばした。指に触れるすべすべしたこの感触はどうやら板壁のようだ。そのままそろそろと探って行くと、足元に触れるものがある。
置いてあったのは、大小様々な箱だった。そういえば、佐々木が部下の隊士に、草月を物置に放り込んでおくよう言っていた。ならばここは松林寺の中にある物置部屋か。
どこかに扉があるはずだ。さらに壁伝いに進めば、ついに手が引き戸らしきものに触れた。かじかんだ手に力を込め、思い切り引いてみる。しかし、外から心張り棒でもかってあるのか、戸はがたがたと揺れるだけで開かない。
こんちくしょう!
草月は拳骨を振り上げて戸に叩きつけた。
「出して! ここから出してください! お願い! 誰か――誰かいませんか! ここを開けて!」
だが、どれだけ戸を叩こうが叫ぼうが、返事はなしのつぶてだった。
隊士や寺の僧侶がおっとり刀で駆けつけて来る様子もなく、辺りはしんと静まり返り、聞こえるのは己の荒い息遣いだけ。
まさか、もう坂本たちは――。
いや、落ち着け、冷静になれと自分に言い聞かせる。
二人はきっと生きている。そう信じて、とにかくここから脱出するんだ。
(短筒さえあれば……)
外の心張り棒を弾き飛ばすなり、戸に穴を開けてそこから指で心張り棒を外すなりして脱出することも可能だっただろうに……。
だが、今はないものを嘆いていても仕方がない。考えるんだ。今ここにあるもので、出来ること。
(……そうだ、この引き戸……)
少し闇に慣れてきた目をよくよく凝らして見てみれば、古びているせいか、戸と壁の間にわずかながら隙間がある。この隙間に、何か薄い棒状の物を差し入れて、心張り棒を外せるかもしれない。
はっとして頭の髷に手をやる。
おさんから餞別にもらった、梅模様の赤い玉簪。これが使える。
手に伝わる感触を頼りに、うまく心張り棒に引っ掛けるようにして……
ガタッ
わずかに棒が動く感触があった。
(やった!?)
喜びもつかの間、簪が玉のところでぽっきりと折れてしまった。これではもう使えない。
(……くそっ、あきらめるもんか。あきらめてたまるか……! 絶対に……、絶対に龍馬さんと中岡さんを助けるんだ)
草月は回れ右をすると、手当たり次第に部屋の中にある箱を開け始めた。寺の人たちには申し訳ないが、背に腹は代えられない。
(これが使える)
茶杓らしきものを探し当て、それを使って再び開錠を試みる。
先ほどまでの奮闘でだいぶ緩んでいたのか、少し力を加えると、思いがけないほどあっけなく心張り棒がゴトリと床に落ちた。
勇んで飛び出した先は、やはり寺の一画のようだった。表のほうにちらちらと明かりが見える。さすがに無人ではないようだが、近くに見張りの一人もいないとは、草月を女と見て侮ったか。草月はもう一度戸に心張り棒をかって逃げていないように偽装すると、脇の板戸からそっと外へと抜け出した。ご丁寧に履いていた草履まで一緒に物置に放り込まれていたのは僥倖である。
いつの間にか雨は上がっていた。雲の切れ間からのぞく満月が、もうあんな高い位置にある。ずいぶん時が経ってしまった。
息を殺して境内を横切り、山門を抜けるともう後ろは見ずに全力で走り出した。
(お願い、間に合って――!)
*
「龍馬さん!」
近江屋を見張っているかもしれない見廻組の目を憚り、裏手にある寺の塀を乗り越えて近江屋の敷地へ入り込んだ。ぜいぜいと息を切らせて飛び込んだ土蔵の中はしんとして人の気配が全くない。
まさか、もう……
浮かんだ最悪の事態は、すぐに打ち消された。一階にも、二階にも、中には誰もいない。争った形跡もない。
良かった……。
でも、じゃあ坂本はどこに?
土蔵を飛び出し、裏口から母屋に飛び込んだ矢先、出合い頭に藤吉とぶつかりそうになった。
「うわっ、草月はん? ああ、よろしゅうおした。お帰りが遅いよって心配しとったんどす。ちょうど今、探しに行こうと――」
「ごめん藤吉くん、龍馬さんは!? 龍馬さんは今どこにいるの? 無事だよね?」
「へ? へえ、もちろんどす。坂本はんやったら、この二階の奥の間にいはりますえ。土蔵は冷えてお体に障りますよって、草月はんが出かけた後で移ってもろたんどす」
藤吉が言い終わらないうちに、もう草月は走り出していた。大きな醤油樽の並ぶ店表の脇にある階段を、裾をからげて駆け上がる。その背中に、藤吉の声が追いかけるように届いた。
「ちょうど今、中岡はんとお話ちゅうですえ」
(中岡さんと!?)
やっぱり――。間違いない。今日、この夜こそが『その時』だ。
「龍馬さん、中岡さん!」
「おーう、こっちじゃ」
二間続きの奥の八畳間から、灯りが漏れている。勢いよく襖を開け放つと、坂本と中岡が火鉢を挟んで向かい合うように座っていた。
「おかえり、ずいぶん遅かったのう――」
そろってこちらを向いた二人は、必死な形相の草月を見て、すぐに何事かあったと察したようだ。顔に緊張が走る。
「どういたが、草月さん」
「逃げて!」
草月はずかずかと中に入ると強引に坂本の腕を引っ張った。
「二人とも今すぐ逃げてください! 見廻組に龍馬さんの居場所が知られました。すぐにもここにやって来ます」
「何っ!?」
その時。
どすん、と階段の方から、何か重いものが落ちる音がした。
なぜだろう。なぜだかそれが、とてつもなく不吉なことのように、全身に悪寒が走る。坂本も同じだったのだろう。
「草月さんは援護を頼む! ――慎太!」
坂本は草月を後ろに押しやると、背にしていた床の間の刀掛けから、脇差を取って中岡に投げた。おう、と受け取った中岡が素早く抜刀する。と同時に、四人の武士が足音荒くなだれ込んでくる。先頭の男が、坂本と中岡、どちらともなく問いかける。
「坂本龍馬だな?」
「おや、前に会うた覚えはないけんど、どなたさんやったかのう」
にやりと坂本が不敵に返す。襲撃者たちは無言で刀を抜いて斬りかかった。対する坂本は片膝立ちで、まだ大刀に手をかけてさえいない。
ガキィ――……!
刺客の最初の一撃を、坂本がかろうじて鞘で受け止める。続けて第二、第三の刺客の刀が坂本を襲う。それが坂本の肩口に届くより早く、草月が横合いから振り下ろした置行灯に当たって軌道が逸れた。だが斬撃の衝撃はすさまじく、草月は行灯ごと背中から畳に叩きつけられる。
「草月さん!」
叫んだのは坂本か中岡か。行灯の火が消え、室内を照らすは障子越しに届く満月の光のみ。狭い部屋で敵味方入り乱れての斬り合いの中、正確な状況を確認する余裕はない。草月は仰向けに倒れた状態のまま、反動をつけて火鉢を蹴り飛ばした。真っ赤に燃える灰が刺客の足元に零れ落ちる。火箸を掴んで素早く起き上がり、わずかに態勢を崩した刺客の太ももに火箸を思い切り突き立てた。
「こなくそ!」
顔を憤怒の表情に染めた刺客が、柄頭で草月の横面を張り飛ばす。
「邪魔立てをするな!」
「ぐっ……!」
倒れこんだ畳のすぐ目の前に、びしゃりと血飛沫が飛んだ。
はっと顔を上げた先で、坂本が額から血を流してぜえぜえと息をついている。
「龍馬さん!」
刺客たちが畳みかけるように刀を振るう。多勢に無勢、坂本は防戦一方だ。みるみる全身に血が滲んでいく。
「やめて――!」
喉から悲鳴がほとばしる。
膝をついた坂本のもとへまろび出て、刺客たちの前に立ちはだかった。刺客の血に塗れた刀の切っ先が、過たず草月へと向けられる。
「それ以上邪魔立てするなら、おなごとて容赦はせんぞ」
「生きて大業の見込みあらば、何時でも生くべし。死して不朽の見込みあらば何時でも死ぬべし――! 私の死に場所はここじゃない。まだやることがたくさんある。龍馬さんも、中岡さんも、みんな生きて、新しい時代をつくる!」
もう一本残った火箸を、刀のように両手で構える。
「いい度胸だ。もろともに死ね!」
その時、後ろから、大きな手が草月の肩をがっしと掴んだ。振り向いた先に、血に塗れた坂本の顔が、鼻先が触れそうなほど間近にある。曇りのない黒々とした綺麗な瞳が、まるで心の奥底まで見通すように真っすぐ草月へと向けられている。その瞳が、にっと微笑みに弧を描いた。
「おまんは生きい」
坂本は草月の手から優しく火箸を取り上げると、隅に置かれた二つ折りの大きな屏風に向かって草月を思い切り突き飛ばした。
「龍馬さん!」
突然、時間の流れが数倍にも遅くなったかのようだった。草月の目に、全てがゆっくりと映し出される。
刺客に向き直った坂本は左手に持った鞘で斬撃を受け止め、右手の火箸で刺客の胸を深々と突き刺す。
だが反撃はそこまでだった。左右からいくつもの斬撃を受けて、ついに坂本は血の海に倒れ伏した。少し離れたところに倒れた中岡はすでにぴくりとも動かない。
(いや……、だめ、助けないと……)
どうしてこんなことになってしまったの? 何を間違えたの? 今日の昼までは、いつものように皆で楽しく笑っていたのに……。帰ったら、美味しい葛湯を飲もうって、そう約束したのに。それがどうして、こんな――。
がむしゃらに坂本のもとへ駆けつけようとして、その時草月は、自分の体が自由に動かないことに気付いた。何か、どろりとした沼の中にいるような……。
そう、この感覚には覚えがある。
あの時――京都の博物館で――。
(そうだ、この……屏風は……)
猫の絵が――描かれた――
ぐにゃりと視界が歪む。
(駄目……、いや、帰りたくない、助けなきゃ……、龍馬さんが……中岡さんが……。決めたの、ここで、この時代で、皆と生きるって……)
伸ばした手は、空しく宙をかいた。
もう、物音ひとつ、叫ぶ己の声さえ聞こえない。何もかもが遠くなる。
視界が白く弾けた。




