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花信風  作者: つま先カラス
第五章 慶応三年
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第72話 運命の日・前

 長州にいる木戸から草月へ手紙が届いたのは、十一月の半ば、朝から冷たい雨の降り続く午後のことだった。

 つい二日前に、草月自身も木戸へと報告を兼ねて手紙――この国に残るという決意表明と共に、最新の京情勢や開戦の抑止力となるべく上京して欲しい旨――を認めたばかり。折悪しく行き違いになってしまった形だ。

 木戸の手紙には、こちらでの生活を心配する細やかな気遣いに溢れた文章に続いて、長州の近況――藩主毛利敬親が藩内に正式に上坂の告示をしたこと、芸州藩と改めて出兵協定を結んだこと、薩摩藩兵が三田尻に到着次第、今後について詳細に打ち合わせる予定であること、品川を先行して京入りさせるから、詳しいことは品川から聞いて欲しいこと――などが書かれていた。

「ほうか、長州もいよいよ動くか」

 土蔵二階の中央に敷いた布団の上に胡坐をかいた坂本は、草月から回覧された手紙を読んで炯々と目を光らせた。抑えきれない興奮が、全身から立ち昇っている。身じろぎした拍子にずり落ちた羽織を、草月は分厚い綿半纏の上から丁寧にかけ直してやった。

 京から福井まで強行軍で往復してからこちら、疲れを取る間もなく連日走り回っていたつけが回ったのだろう。前々からくしゃみや鼻水といった風邪の症状が出ていたのが、昨晩、郡山藩邸から戻った後、急に熱を出してしまったのだ。熱冷ましの薬を飲んで一晩ぐっすり眠ったおかげか、今朝起きた時にはだいぶ調子も良くなったようである。だが、そうなると途端に布団から出ようとするからいけない。今しも坂本は、外に出かけたそうにそわそわと腰を浮かせている。

「遠出はせんがやき。三軒隣の福岡さんに会いに行くだけやき」

 な? と拝むような仕草をする坂本を一睨みして布団の中に押しとどめ、草月は坂本がきれいに平らげた昼餉の膳を持って立ち上がった。

「いいから今日くらいはちゃんと休んでてください。外は雨が降ってますし、せっかく熱も下がったのに、無理してぶり返したらどうするんですか。とりあえず中岡さんや田中さんのところには、私が今から知らせに行ってきますから。……そうだ、帰りに何か買ってきましょうか。入り用なものとか、食べたいものとかあります?」

「ほうやなあ……」

 しぶしぶと布団に座り直した坂本は、少し髷の崩れた頭をぼりぼりとかきながら、

「ほいたら、何か甘いもんでも買うて来てくれるかえ」

「甘い物、ですか……。そうですね、じゃあ最近評判になってる月華庵の練り切りでも……いえ、風邪の時だから、もっとのど越しの良いものの方が良いですね。葛湯なんかどうですか? たっぷりのお砂糖に、柚子と生姜も混ぜて。美味しいし、あったまりますよ。台所お借りして、私、作りますから」

「おお、ほりゃあええなぁ。頼んだぜよ」

「任せてください。じゃあ、生姜はここにあるのを分けてもらうとして……、葛粉と柚子を買ってきますね。……あ、私が出かけた後、こっそり外出しないでくださいよ」

「約束する。危ない真似はせんき」

 坂本は敵わんなあと目尻にしわを寄せてくしゃりと笑う。草月はえへんと咳払いすると、つんと鼻越しに坂本を見下ろして、気位の高い武家女性のように高飛車な口調で言った。

「それならよろしい」

「ははー、有り難き幸せ」

 それに応えて、大仰な身振りで坂本が頭を下げる。一拍のち、顔を上げた坂本と草月は互いに目を見交わし、二人同時に弾けるように笑い出した。

「……何をそないに笑てはるんですか、お二人とも」

 階段から顔を覗かせた藤吉が不思議そうに首を傾げている。きょとんとしたその顔がさらにおかしみを誘って、しばらく草月と坂本は笑い上戸のように笑い続けていた。

 ようやく笑いをおさめた草月は、藤吉に坂本の世話を託して、自身はさあさあと寒雨の降る通りを一路白川邸へと向かった。

 

 その後に起こる凶事になど、まるで思い至りもせずに。


                      *


 あいにく白川邸には中岡も田中も他行して留守であった。こんなこともあろうかと、あらかじめ用意してきた手紙を隊士の一人に託して引き返す。

 帰り道、忘れずに葛粉と柚子を買い求め、包んだ風呂敷を濡れないようにしっかりと胸に抱え込んで足早に帰路を辿る。遠目に近江屋の看板が見えた辺りで、雨音に紛れて小さくちゃりんと金属の当たる音がした。通りの脇に立つ柳の木の下に、菰を被った物乞いがうずくまるように座っており、有徳の者が施しをしたものらしい。物乞いがもごもごと礼を言って頭を下げる。その拍子に、菰がずれて溜まった水が着物の袖にびしゃりと垂れた。男は煩わし気に袖をまくり、片手で器用に絞って水気を切ると、再び菰を被り直した。

 草月は急に側の板壁に書かれた落書きに気を取られたように立ち止まった。顔は板壁の方を向いているが無論読んではいない。どっ、どっ、と心臓が音を立てて跳ねている。

 先ほど、ちらりと覗いた男の二の腕。やけにがっしりとした筋肉質な腕だった。とても食べるに事欠いた物乞いの腕などではない。

 思い出したのは、木戸のことだ。元治の戦の後、当時まだ桂小五郎と名乗っていた彼は、市中を転々としていた間、物乞いに化けて幕吏の目を欺いていた。

(もしかして、あの男は幕府の密偵? まさか、龍馬さんが近江屋に潜伏しているとばれたんじゃ――)

 その場を動かぬまま、視線の端に捕らえた物乞いの前に、今度は深編笠をかぶった武士が立った。

 金を恵んでやっている様子はない。ただ、何やら二言三言、ぼそぼそと会話をしている。間もなく武士は興が失せたようにそこを離れ、草月のいる方向へ向かって歩き出した。

 草月は慌てて意識を目の前の落書きに戻す。武士は草月を気にする素振りもなく、すたすたと脇を通り過ぎて行く。

 今の武士は、物乞いの男の仲間? 

 どうする――すぐに戻って坂本に知らせるべきか? だがもし彼らが坂本を狙う者だとしたら、今を逃せばもう正体を知る機会はないかもしれない。

(ええい)

 日が落ちるまでにはまだ一刻ほど時間がある。彼らとて、日のあるうちから襲撃に及ぶことはないだろう。それまでに正体を突き止めて、近江屋へ戻ればいい。

そう判断した草月は、くるりと近江屋に背を向けると、遠ざかる武士の姿を慎重に追いかけ始めた。

  

                     *


(一体どこまで行くんだろう……)

 降り続く雨のおかげで、差した傘でこちらの顔が隠せるのは有り難い。だが問題は、相手の顔も分からないことだ。

 かれこれ四半刻以上も歩いただろうか。

 武士は特段急ぐ素振りもなく、時折立ち止まっては商家の店先を冷かしながら、淡々と足を運んでいる。これ以上、武士の目的地が遠いようならば、日没前に近江屋に戻れなくなる。次第に焦りを感じ始めた時、

(あれ……、この辺って……)

 いつしかやって来ていたのは御所の西側に当たる区域。ほんの数日前まで、毎日通っていた、見廻組の屋敷へ向かう道だ。

(……ということは、あいつは、見廻組の隊士……?)

 だが、組屋敷へ向かうかと思われた武士は、予想に反してその手前で通りを左に折れた。ほどなく見えた小さな寺へ迷うことなく入って行く。

 その寺を、草月は知っていた。

 松林寺。

 見廻組与頭・佐々木只三郎の宿舎である。

 もう間違いない。見廻組が、ついに坂本の居所を捉えたのだ。早く戻って坂本に警告しなければ。勢いよく踵を返した拍子に、後ろから歩いてきた人物と危うくぶつかりそうになる。

「あ、すんまへん――」

 言いかけた言葉が尻切れになった。

 目の前の若い武士の顔には見覚えがあったからだ。文武場にいるのを遠目に見かけた際、おりんが名前を教えてくれた。小太刀の名人、桂早之助。

 驚いた表情を隠すようにさっと深く頭を下げ、「ほんまにすんまへんどした」逃げるように泥を撥ね上げて駆け出した。駆け出そうとした。

 桂が草月の動きを遮るように、目の前に立ちふさがったのだ。

 何を、と言いかけるより早く、後ろから強い力で腕を掴まれる。

「最前から俺をつけていたな。一体何の仔細あってのことだ」

 それは、寺に入って行ったはずの武士だった。深編笠の下から、凍えるような冷たい目が草月を見下ろしている。こちらの顔には見覚えがない……が、おそらく見廻組隊士の一人だろう。

「つけるやなんて、何のことですやろか。うちはただ、この辺に用があるだけどす」

 精一杯、おびえたふうを装い、言い逃れを試みる。

「下手な言い訳は止めろ。俺が分からぬとでも思ったか」

 ぎりぎりと腕を掴む手に力を籠められる。堪らず喉の奥からくぐもった悲鳴が漏れた。草月の手から傘が滑り落ちて、ぬかるんだ地面にころころと転がる。

「何をしている」

 良く通る低い声が響いたのはその時だった。

「佐々木様! この女が、最前から私をつけて来たのです」

「ほう」

 大きな黒い番傘を手に近づいて来た武士――佐々木只三郎は、草月の顔を見てわずかに目を細めた。

「お前は……確か、草と申したな」

「佐々木様のお知り合いでございますか」

 驚いたように、深編笠の武士が問う。

「うむ。組屋敷で働いている女中だ。いかがした。この者はお前がつけて来たと申しておるが、それはまことか」

「ご、誤解でございます!」

 どうやら佐々木は草月が見廻組屋敷の女中をやめたことは知らないようだ――まあ、一介の女中の動向など気を払わなくて当然だろう――。これ幸いと、草月は「使いに行った帰りで、たまたま方向が同じになっただけだ」と抗弁した。

「それは嘘だな」

「え――」

「お前は女中を数日前に辞めたと聞いている。正直に申せ。何の企みあってこの者をつけた。返答次第では――」

「ひ、一目ぼれしたんどす!」

「……何?」

「お屋敷で一度お見かけしてから、素敵なお方やなってずっと思ってて、せやけど、うちなんかが気軽にお話できるお方やおへんし……。それが今日、町でたまたまお見かけして、ついつい追いかけてしもたんどす。正直に言うんは恥ずかしゅうて、嘘を申しました。ほんまにすんまへん!」

 ままよとばかりに頭を下げた。

「つくならもっとましな嘘をつくのだな。この者は目深に編笠を被っていた。それでなぜ誰と特定できる」

「おなごは好いたお人のことやったら、顔なんか見んでも歩き方で分かります!」

「……」

「いかが致します、佐々木様?」

 草月の啖呵があまりに真に迫っていたせいか、編笠の武士がいささか威勢の削がれた様子で聞いた。

「そのまま寺へ連れて行き、物置にでも放り込んでおけ」

「よろしいのですか」

「大事の前だ。わずかな不安要素も取り除いておく必要がある」

「はっ」

「お、お待ちください、佐々木様! うちはもう決してお役目の邪魔はいたしませんよって、帰らせておくれやす」

 だが、佐々木は冷徹な瞳で草月を見下ろした。

「お前の話が嘘でも真でもどうでもよい。大人しくしておれば明日の朝には解放してやる」

(つまりは今夜のうちに龍馬さんを襲うつもりってこと……!?)

 草月は大人しいおなごの仮面をかなぐり捨てて、固い柚子の入った風呂敷包みを編笠の武士の顎めがけて力いっぱい振り上げた。

「なっ……!」

 体を反らせてうまく避けられたが、草月の腕を掴む力がわずかに緩んだ。その隙を過たず拘束を抜け出すと、間髪入れずに帯の間から短筒を取り出して真っすぐに佐々木へと向ける。

「誰も動かないで――! 少しでも動けば迷わず撃ちます。おなごだと甘く見ないで。私は本気です」

「そうだろうな。目を見ればわかる」

 向けられた銃口にも全く動じることなく淡々と佐々木が言った。一斉に刀の柄に手をかけた桂たちの動きがぴたりと止まる。

「それで、どうするつもりだ」

「そうですね、まずはその物騒なお腰の物をあちらの塀の向こうへでも捨てていただきましょうか。それから、後ろを向いて、ゆっくり離れてください。絶対に振り向かないように。その間に私は消えますので」

「ふむ。なるほどな。だが――自分は甘く見るなと言っておいて、お前は我らを甘く見過ぎている」

「!?」

 ふっ、と佐々木の体が沈んだ――気がした。

 咄嗟に発射した弾丸は、わずかに佐々木の肩口を掠めて飛んだ。間髪入れずに次弾を放つ。だがそれより早く、視界を黒いものが高速で過ぎった。

 分かったのはそこまでだった。気が付くと草月の手から短筒が吹っ飛び、体は編笠の男に拘束されていた。

 すぐ横で、何事もなかったかのように傘を差し直して短筒を拾い上げる佐々木を見て、佐々木が傘で短筒を弾き飛ばしたのだ、とおぼろげながらに察した。

「六連発の短筒か……。大層なものを持っている。なるほど、さすがはあの坂本龍馬ゆかりの者ということか」

「やっぱり……あなた方は龍馬さんを狙っているんですね!? どうして――なぜ龍馬さんを殺さなければいけないんですか」

「それが我らに課せられた使命だからだ」

「そんなの間違ってる。龍馬さんはこの国に必要な人です! 薩長は武力で幕府を倒そうとしているけど、龍馬さんはあくまで戦をせずに、新しい国を作ろうとしている。慶喜公を高く買ってもいる。あなた方幕臣にとって、龍馬さんは味方であるはずです」

「おなご風情が、たやすく利いた風な口をきくな。――桜井」

「はっ」

「また暴れられては敵わぬ。大人しくさせておけ。ただし、殺すな。その者には他にも聞くことがあるゆえ」

「御意」

「いや、放して! ぐっ……!」

 桜井と呼ばれた武士の太い腕が草月の首をじわじわと圧迫する。

(息が……、できな……っ。……たす、けなきゃ、龍馬さん……)

 もがく手足に力が入らない。視界がぼやける。やがて草月の意識は闇に落ちた。



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