第71話 水面下の攻防
坂本にはすぐに辞めると啖呵を切ったものの、さすがに即日というわけにもいかず、草月が女中の職を辞したのは坂本と再会してから二日後のことだった。その間に、もし坂本と中岡が襲われでもしたら、と気が気ではなかったが――なにせ坂本は、あれだけ口を酸っぱくして気を付けてくれと言ったにもかかわらず、今日はとある藩の有志、今日は知り合いの公家に面会……と、毎日あちこち精力的に動き回ってちっとも大人しくしてくれないのだ――、幸い何事もなくその日を迎えた。以来、草月は常に坂本の傍に、影のようにひっそりと付き従っている。
さて本日、朝食を済ませた坂本が向かったのは、二条城の北に位置する郡山藩邸。幕府の大目付・永井尚志を訪ねてのことである。見廻組の屋敷からわずかに十町余りと、万が一隊士に見つかれば、たとえ逃げてもすぐに組屋敷から来た応援に包囲されてしまうだろう危険な場所にある。さりとて本人は取り立てて身を隠す素振りもなく、果たして本当に命を狙われている自覚があるのか、と歯ぎしりの一つもしたくなる無頓着さである。
きっと新政府の構想実現に頭がいっぱいなのだろう。だったらその分、自分が目を光らせていようと、草月はもう、とうに腹を決めている。女中をやめた後、菊屋から近江屋に居を移したのも、いつ何時襲われてもすぐに対応できるようにするためだ。
遠目に坂本と従者の藤吉が屋敷の門内へと入ったのを確認し、草月は無害な通行人を装いつつぐるりと周辺を見て回った。今のところ、近くに見廻組の隊士はいない。
目星をつけていた手近な空き家の二階に腰を据え、格子窓の隙間から通りを注意深く見張る。
曇天の下を行くのは、きびきびと歩く壮年の武士、大きな荷を背負った初老の行商人、小さな子供の手を引く若い母親、大事な商談でもあるのか、少し緊張した面持ちの商人、目深に笠を被った托鉢の僧、物乞いの老人……と実に様々だ。
幕府の密偵がどんな姿に化けているやも知れず、誰であろうと気は抜けない。
待つうちに懐に入れた温石はすっかり熱を失い、手足をこすり合わせることでかろうじて寒さをしのぐ。一刻ばかりして、坂本たちが屋敷から出てきた。草月はすぐには追わず、しばしその場に留まり、坂本の跡をつけるような不審者がいないことを確かめてからそっと空き家を後にした。
*
(龍馬さんは、幕府の永井尚志とどんな話をしたんだろう……)
近江屋へ戻って来た坂本は、一人でじっくり考えたいことがあるからと、早々に店の裏手にある土蔵(坂本の隠れ家として寝具や家具などを整え、食事もここに運び入れていた)に引っ込んでしまった。
こんな時、いつもなら見張りを兼ねて表の掃き掃除でもするところなのだが、それは坂本から待ったがかかった。
「ええからおまんはちっくと休んどき。わしの護衛をしてくれるようになってからずうっと、一日中気ぃ張りっぱなしで疲れちゅうろう。見張りやったら藤吉に任せとったらええき。のう藤吉?」
「はい、任せてください!」
大きな体を得意げに反らせてどんと胸を叩いた藤吉は、縁あって坂本の従者になったばかりだという元力士の十九歳だ。志士になるのが夢らしく、草月が長州の志士たちの話をすると小豆のような小さな目を真ん丸にして、体をゆさゆさ揺らしながら楽しそうに聞いてくれる。
「今日は夕方に黒田さんらと会う約束があるんやし、それまではゆっくり体を休めること。ええな?」
そういうわけで、草月は一階奥の客間に座り、女中が気を利かせて運んで来てくれた熱々のほうじ茶をふうふう息を吹きかけて飲みながら、一人ぽつねんと降ってわいたような無聊をかこっているのである。
(静かだな……)
ここには、表通りの喧騒も遠い。時々、女中たちの忙しく立ち働く物音や小僧さんの良く通る声が聞こえるくらいだ。店表から漂ってくる醤油の香ばしい匂いが、昼食前の空きっ腹をしきりに刺激する。菊屋で借りた読本を開いてみるも、目が文字を上滑りするだけで、内容が頭に入って来ない。
(あー、やっぱり駄目だ、じっとしてるのは落ち着かない)
少し温くなったお茶を最後の一滴まで飲み干し、勢いよく立ち上がった。
その後草月は、呼びに来た坂本に、台所で食事の手伝いをしているところを見つかり、「ちょっとも休めてない」とお小言を頂戴することになる。
*
「おお、来た来た。草月さあ」
黄昏の薄闇に乗じて訪れた祇園の座敷では、黒田と田中が先に来て待っていた。坂本から少し遅れて入って来た草月を、酒杯を手にした黒田のだみ声が迎えてくれる。草月は「今夜も冷えますね」と挨拶しつつ、空いた田中の隣の席へ腰を下ろした。同行した藤吉は、有事に備えて部屋の隅に控えている。
「まずは見廻組潜入お疲れさん。まあ飲みやあ」
「あ、ありがとうございます。じゃあ、ちょっとだけ」
田中が注いでくれた酒を、ほんの少し、唇を湿らすほどに口を付けた。酔ってしまってはいざという時に護衛が務まらない。
「送ってくれた報告書は読んだぜよ。なかなか実りの多い潜入やったようやな」
「はい。でも、見廻組が龍馬さんを狙っているのかどうかの確証は得られなくて……。もっと凄腕の間者みたいに積極的に幹部の部屋に侵入して探るとか、色仕掛けで聞き出すとか出来たら良かったんですけど。……でも、田中さんの助言通り、腕の立つ隊士の顔と名前は特にしっかり覚えたので、龍馬さんの周りで見知った隊士を見かけたらすぐ分かります」
そうか、と大きく頷いて見せた黒田は、そこでぐびりと酒杯をあおり、
「そいで今は坂本さあの用心棒か。気張っなあ」
「坂本さんはじっとしゆう人でないき、草月さんも大変やろう」
「そうなんです!」
草月はよくぞ言ってくれたとばかりに、ずいと身を乗り出した。
「私がいくら危ないからくれぐれも気を付けてくださいって言っても、ちっとも聞いてくれないんです。今日なんて、二条城のそばにある郡山藩邸へ、大目付の永井尚志って人に会いに行ってたんですよ。見廻組に見つかる危険がとてつもなく高いっていうのに!」
だが、当の坂本は参ったなあと頭をかきつつ、懲りた様子もない。
「まあその危険を冒したおかげで、色々実のある話が出来たぜよ」
「おお。そいじゃそいじゃ。慶喜が画策しちょっ新政府ん案にちては聞けたんか?」
「うん。やはり慶喜公は諸侯会議による新政府を目指しゆうようじゃ。永井様は薩長の動きを非常に警戒されちょったけんど、わしは薩摩と土佐に任せとったら、武力に拠らんでも王政復古は成し遂げられると説いてきた。永井様も賛同してくださった」
「いや、坂本さあ、そんた甘か。武力なっしてどげんして朝廷にこちらん意を通す?」
「確かに武力で朝廷を脅せば事は早いかもしれん。けんど、それでは反発も大きいろう。諸外国に比肩する強く開けた新しい日本を作るためには王政復古が一番やと、きちんと朝廷にも慶喜公にも意を尽くせばきっと分かってもらえるきに」
「そげん悠長なことは出来ん。薩摩はすでに、新政府におけっ発言力や、今後起こり得っ不測ん事態を視野に入れて、藩主様直々に兵を率いて上京すっこっが決まった」
「えっ」
「ほんまか!」
「昨日、西郷さあから手紙が届いた。藩主様や重臣方ん説得に成功した、とな」
「俺もさっき黒田さんに聞いて、今から血が滾ってきゆうぜよ!」
「落ち着いてください田中さん。別に兵を率いて来るからって、一足飛びに開戦ってわけじゃないでしょう。そうですよね、黒田さん?」
草月は好戦的な田中の様子に慌てたように黒田に確認する。黒田は丸太のような太い腕を組んで、
「おいや西郷さあらは、いつでん戦上等ん精神だが、国元では慎重論もわっぜ根強かったげな。手紙には、途中で長州に寄港し、今後ん両藩ん行動について子細を打ち合わすっと書いてあったが……。長州からはないも知らせはなかか」
「はい、今のところは」
「木戸さんは慎重なお人やき、むやみに戦をすべきとは言わんろう」
「私もそう思います。でも、今回はいつになく出兵には積極的でした。諸隊は総じて好戦的ですし、実際、事態がどう転ぶかは分かりません。……私としては、朝廷が長州の復権をあくまで拒むというなら、兵威による朝廷の改革もありだと思いますが」
むむう、と坂本が懐手でうっすらと無精ひげの生えた顎を擦って唸った。
「まさかおまんの口からそがな言葉が出て来るとは思わなんだ」
「長州を離れたとはいえ、私の気持ちは今も長州の仲間と共にありますから。長州のみんなが報われない未来は絶対に嫌です。ここまできて長州の復権が成されなかったら、諸隊はそれこそ激怒して京になだれ込んできますよ。それじゃますます長州の立場が悪くなるだけだし、下手をすれば三年前の二の舞です。それだけは避けたい。……ただ、その先の開戦については断固反対ですけど」
「王政復古を目指す点では同じでん、そん手段とそん後ん方針にちては互いん意見が分かるっな」
「当面は、薩長が出兵に当たってどのような取り決めをするかが肝ゆうことやな。――ああ、早う知りたいもんじゃ」
「こん四、五日ん内に大久保さあが先行して京入りすっそうじゃっで、大久保さあが到着したや、詳しか話を聞けっじゃろう。出立ん準備に時間がかかっで、藩主様や西郷さあらん上京は、はよても今月ん半ば過ぎになっちゅう見込みじゃ」
(……あれ?)
黒田の言葉の中に引っ掛かる点があり、草月は箸を置いて黒田にたずねた。
「小松様の名前が出ませんでしたけど……、小松様は京へはいらっしゃらないんですか」
「ああ、小松様は持病ん足痛が悪うてな。ずっと薩摩ん温泉で療養されちょられたんじゃが、今度ん上京は断念された」
「ほりゃあ、残念やなあ」
坂本が眉を八の字にして嘆く。その気持ちは草月にも良く理解できた。
強硬な討幕路線の西郷・大久保に対し、小松は穏健派。意見の異なる者たちの調停に長けた小松は、慶喜の政治手腕も高く買っており、薩長土の調整役として、また、坂本の目指す新政府構想の良き理解者ともなってくれそうな人物だった。
(歯止めとなる小松様がおられないなら、西郷さんや大久保さんは一気に武力討幕に突き進もうとするかもしれない……。長州も、芸州も、陸援隊も、皆がそれに賛同したら、止められるのは龍馬さんだけだ)
考え込んだ様子の坂本の顔をじっと見つめていると、坂本はそれに気付いて、分かっていると言うように頷いた。草月も無言で頷き返し、ぐっと丹田に力を込める。
(しっかりしなきゃ……、私も。まずは長州からの知らせを待とう。それで、もし長州が武力討幕に傾いているなら、何としてでも軍にいる山田くんに直接会って、戦だけは止まってくれるよう話をしよう)
会合は深更に及び、草月を除いていずれも大酒飲みの集まり、次々と徳利が空になって行くのは自明の理。やおら立ち上がった黒田が、その場でもぞもぞと袴をたくし上げ始めた。
「? 何してるんですか、黒田さん」
「……しべん」
「シベン?」
「小便んこっだ」
ああそうですか、とすんなり流しそうになって、次の瞬間、「え!」と青ざめて箸を取り落とした。いつも酒癖の悪い黒田が、今日は機嫌よく飲んでいたのですっかり油断していた。
「いやいやいや、ここ御不浄じゃないですから!」
「お、落ち着くがよ、黒田さん!」
坂本たちも慌てて黒田を制する。
「ええい邪魔をすっな!」
暴れる黒田を、坂本と田中と藤吉の三人がかりで取り押さえ、間一髪で厠へ押し込むことに成功する。すっかり酔いの醒めた面々はそこで三々五々解散となった。
「ないか動きがあれば、また互いに連絡すっことにしよう。坂本さあ、くれぐれも、身辺には気を付けてな。必要とあれば、薩摩藩邸はいつでんおはんを歓迎すっで」
「おおきに。気持ちはしっかと心に留めておくぜよ」
「草月さあも、こっが落ち着いた暁には、存分に酒に付き合うてもらうでな」
「……お手柔らかに願います。でも黒田さん、また今日みたいに悪酔いするのだけは勘弁してくださいよ」
「おお、今度こそちゃんと反省したで心配いらん」
「うわあ怪しい。最近京のあちこちで降ってるありがたいお札くらい怪しい」
「何じゃと!?」
低い声で凄む黒田の、その目はしかし笑っている。
ふふっと吹き出した草月につられるように、ははは、と四人の明るい笑い声が重なる。
近々の再会を固く約して、彼らは別れた。




