第70話 龍馬の帰京
見廻組の中で一番、剣の腕が立つのは誰か。
武士ならば、この話題に興味を持たない者はまずいない。
先日の一件で顔なじみになった銃隊の隊士たちに、昼餉の給仕の時間を利用してさり気なく水を向けてみると、案の定、食いついてきた。
「渡辺麟三郎は二十二の若さであの実力だ。一番と言うなら彼だろう」
「いや、桂早之助も以前、上様の前で剣術を披露して褒賞を賜ったことがあるほどの腕前だ。彼をおいて他にはいまい」
「世良吉五郎殿とて、剣術教授方を務めておられた方だぞ」
「某は以前、今井信郎殿と手合わせしたことがある。恥をさらすようだが、まるで歯が立たなかった。あれほどの剣客には、お目にかかったことがない」
「居合の技に限るなら、平野銀之助や海野弦蔵が群を抜いておろう」
「教養や人物の点を含めば、佐々木様が一段上だ」
「待たれよ、今は純粋に剣術の腕前のみを議論しておるのだ――」
それぞれに推す人物があり、草月が促すまでもなく、自然と喧々諤々の議論が始まる。草月は合間に適宜相槌を打ったり感心したふりをしながら、腕の立つ彼らは通常隊務と別に、何か特別な任務を言いつけられることもあるのか、というようなことを遠回しに聞いてみたが、それは空振りに終わった。
廊下に下がるや、忘れないうちにと得たばかりの情報を手控え帳に書きつける。生憎と名前が挙がった人物の中で、顔と名前が一致するのは佐々木と今井の二人だけだ。渡辺以外は屋敷の外に宿を借りているため動向を探るのは難しいが、文武場での稽古には毎回来ているそうだから、後でおりんに協力してもらえば顔を確認するくらいは出来るだろう。
(そろそろ一度、田中さんたちに、これまで調べたことを伝えるべきかな……)
あまり頻繁に連絡を取り合っては、幕府の密偵に目を付けられる恐れがあるからと、報告は必要最低限にしようと事前に取り決めていた。
だが、こんな日に限って帰り間際に仕事が入る。きりきりしながら片付けて、ようよう帰路についた頃にはすでに夜のとばりが落ち始めていた。何かと物騒なこのご時世では、こんな時間に出歩く人はまばらで、通りは閑散としている。草月は左手で提灯を掲げ、右手に握った短筒を着物の袂に隠して、底冷えのする京の町を菊屋へと急いだ。
「ああ草月はん。良かった、お帰りが遅いよって、心配しとったんや」
店前でうろうろしていた峰吉が、草月を認めてほっとしたように駆け寄って来た。
「お待ちかねのお客はんが来てはりますえ」
*
「――龍馬さん!」
「おお草月さん。邪魔しちゅうぜよ」
炬燵に丸まって熱心に書物を読んでいたのは、草月がこの数日ずっと待ち続けていた坂本龍馬その人であった。
「福井から戻って来たんですか!? いつ!?」
「昨日の夕方じゃ。まあそんなところに突っ立っとらんで、おまんも炬燵に入りや。外は冷えたろう。元気そうで何よりじゃ。……それにしたち、おまんのおなご姿を見るんも久しぶりやにゃあ。神戸でおった頃以来かえ」
勢い込んで問い詰める草月に対し、坂本はといえばまるで昨日別れたばかりのような自然体である。草月はもどかしげに頭を振った。
「そんなことはどうでもいいんです! 私、どうしても龍馬さんに伝えたいことがあって――」
「うん。話は慎太から聞いたぜよ。わしを刺客から守るために、わざわざ京まで来てくれたんやって?」
「そうです! なのにこんなところで呑気にくつろいでるから……! いえその、長旅でお疲れでしょうから、別にそれを責めてるわけじゃなくて……。つまり私が言いたいのは、一人でほいほい出歩かないでくださいってことです! どこで誰が狙ってるか分からないんですよ!」
笑って「心配いらん」と言いかけた坂本は、途中で盛大なくしゃみを連発した。
「だ、大丈夫ですか?」
「すまんちや。どうにも、こっちにもんてからちっくと風邪気味でにゃあ」
「あったかくしてないと駄目ですよ。……峰吉くんに、お茶のおかわり持って来てもらいましょうか」
「いや、それには及ばん。おまんこそ、もんて来たばっかりで夕餉もまだじゃろう。わしはどこにも逃げんき、先に食べてきいや」
「いいえ! 龍馬さんが戻って来た以上、ほんの一瞬たりとも目を離す気はありません。見廻組の仕事も明日ですっぱり辞めます」
銃隊の者から聞き出した、手練れの隊士の顔と名前もおおむね覚えた。休んでいた女中たちも、大半が復職してきているから問題ないだろう。
「どこに行くにも、ぴったりくっついて離れませんから」
「おお、こりゃあ……。おりょうに聞かれたら、こじゃんと妬かれそうな台詞やにゃあ」
「冗談言って、はぐらかさないでください。私は本気ですよ。そのために、長州を離れて、はるばる京まで来たんですから」
「気持ちは嬉しいけんど、わしなら大丈夫じゃ。今は近江屋で待たせちゅうけんど、用心棒代わりの従者もおるし、ほれ、護身用にピストルも買うたきに――」
「全然大丈夫じゃないから言ってるんです!」
草月は半ば叫ぶように坂本の言葉を遮っていた。
坂本は、小型の短筒を取り出して見せたまま、目をぱちくりさせている。
「……すみません、大声出したりして。でも、本当に心配してるんです。……ずっととは言いません。せめて年が明けるまで。あとふた月の間だけでいいから、側にいることを許してもらえませんか。もう……これ以上、大切な人を失うのは嫌なんです」
――この人は、本当に、本当に、殺されてしまうんだ。
それを、どうしたら分かってもらえるだろう。
唇を噛んで俯いた草月の頭を、大きな手のひらがぽんぽんと叩いた。
「分かった分かった。そんな顔しなや。おまんは笑顔が一番やき。それでおまんの気が済むんやったら、好きにしたらええ」
へ、と顔を上げれば、困ったように目尻を下げる坂本と目が合った。
「ほんまは止めるべきなんやろうけんど、おまんにはかなんなあ。下手にお偉方相手にするより厄介ぜよ」
「あ、ありがとうございます……。あの、我儘ついでにもう一ついいですか? 中岡さんと一緒にいる時と、猫の絵が描かれた屏風が置いてある部屋には、特に注意して欲しいんです」
「それもおまんの極秘情報源からくる助言かえ? 分かった、覚えちょく」
おどけたように両眉を上げて、それでも深く頷いた坂本を見て、草月はようやく体の強張りを解いた。
「良かった……。ああ、なんだか、ほっとしたら猛烈にお腹が空いてきました」
「それはいかん、はよ食べてきいや。今後について話すのはそれからぜよ」
「はい」
*
「……ところで、草月さんは、今の薩長や慎太らの動きをどう思いゆう?」
「え?」
「おまんも武力討幕を進めるべきじゃと思うかえ」
食事を済ませて戻って来た草月に、ひょいと投げかけられたのは、そんな問いだった。草月はいささか戸惑いつつも、「私個人の意見としては否です」と正直に答えた。
「そんなことにお金と労力を割く暇があるなら、新しい政治体制をより良くすることにこそ使うべきです」
「ばっさり言うなあ!」
坂本は嬉しそうに、くしゃりと笑った。
「……そんな風に言うってことは、龍馬さんも武力反対派ですか? 意外ですね。前に会った時は、戦に備えて外国から武器を買い集めるって言ってたのに」
「あれは大政奉還が実現せんかった時のためぜよ。慶喜公が英断を下して朝廷に政権が返された今、戦をする必要はないき。いや、したらいかん。戦なんぞしたら、日本を虎視眈々と狙いゆう外国の餌食になるだけやし、何より戦をしゆう金もない」
「そうですね」
たとえ王政復古が実現して天皇親政が始まっても、朝廷には一国を治めるに足る収入がない。それは木戸が散々憂慮していたことだし、そのために徳川家に領地の返納を求めるべきとの考えだった。薩長や岩倉らが目指すのは、徳川を徹敵的に政治から締め出し、天皇を中心とした中央集権型の新政府であるから、徳川の弱体化のためにも一石二鳥だった。
ただこれには、慶喜はもちろんのこと、幕閣や親幕派の土佐藩からの大きな反発が予想された。彼らが目指すのは、徳川を含めた諸侯会議による新政権の樹立だからだ。
「私は、不要な波風を立てないためにも、新政府に慶喜が参加してもいいと思ってるんですけどね……。慶喜には、配下の隊士や市井の人たちに対する目配りが足りないところがあるし、その点は評価してませんけど、有能な人だというのは衆目の一致するところですし。あくまで実権は与えずに、助言だけする相談役のような立場に留める、ということにすれば、反幕派も親幕派も、双方にとって悪くはないんじゃないかなって……。でもこれを木戸さんに言ったら、『甘い』って、それこそばっさり、こてんぱんに論破されてしまいましたけど」
「いやいや、悪くない案ぜよ。わしも慶喜公は新政府に必要なお方じゃと考えちゅうき」
これを見とうせ。
坂本は懐からよれよれになった一枚の紙を取り出して炬燵の上に広げた。
覗き込むと、癖のある坂本の字で『関白』『右大臣』『議奏』『参議』と大きく見出しがあり、それぞれの横に人名がずらりと書き記してある。何度も推敲を重ねたのだろう、あちこちに線で消したり書き加えたりした箇所がある。
「これ……、新しい朝廷人事の草案ですか?」
「まだまだ改善の余地はあるけんどな。わしは朝廷のことにはとんと疎いき、三条様の近習の戸田雅楽ゆう人と相談しながら作ったがじゃ」
総裁である関白に三条実美、その補佐役たる右大臣には徳川慶喜。会議を取りまとめる議奏には毛利広封、島津忠義、山内容堂などの有力諸侯の他、有栖川宮熾仁、中山忠能ら有力公家の名があった。
「……ほいで、木戸さんや西郷さんら、才覚ある諸藩の有志はまとめて朝臣に列するがじゃ。ほうして参議として実務を担ってもらう。今まで藩士は直接朝議に加われんかったけんど、これからはそれを改めて、げにまっこと有能な人がじゃんじゃん政治に参画出来るようにするぜよ!」
「あ……そっか。そういえば、今まではあくまでお公家様にこちらの意を伝えて、それをそのお公家様に朝廷で周旋してもらう、っていうやり方だったんでしたっけ」
ずっと前、久坂から聞いた時には、なんともまだるっこしいと感じたものだ。
「うん、私もすごく良い案だと思います。でも、慶喜をこんな重要な役職に就けるのは、木戸さんたちはきっと大反対しますよ」
「ほうじゃろうな。ほいじゃき、討幕派の者には、右大臣の職は抜かしてこの案を伝えちゅう。草月さんも、まだ木戸さんらあには内密で頼むぜよ」
「……。……分かりました」
「ははは。そこで一瞬詰まるんが草月さんやにゃあ。……まあ言うても、これはあくまで一例で、これからどんどん変えていくつもりじゃけんど。目指す国の形には、まだまだ遠いきに」
「そうですね、ゆくゆくは外国のように上下二院制にしていくとしても、まずは朝廷中心の政権をきちんと確立するところから始めないと。あー……、でも、それには財政問題もどうにかしないといけないんでしたっけ」
「そこぜよ!」
「え? そこって……、どこです?」
「財政じゃ! おまんは、三岡八郎いう名前を聞いたことはないがか?」
「三岡、八郎さん……? えーっと、この人事案の参議候補に名前がある人ですよね。いいえ、聞いたことないです。有名な方なんですか」
「財政をやらせたら右に出るものはおらん、ゆうお人じゃ」
海援隊を運営していることもあり、坂本は経済や財政に敏感である。
福井藩士の三岡は抜群の財政手腕を持った人物で、藩札の発行や産業の振興によって窮乏した藩財政を建て直した実績があるらしい。坂本は福井でその三岡と会い、新政府の財政問題について時を忘れて話し込んだという。
「その三岡さんがな、『金など信用さえあればいくらでも作れる』言うんじゃ」
「え? それって……、あちこちの豪商からお金を出させる、とか……、もしくは札差から借金すればいいってことですか?」
「いんにゃ。それでは一時しのぎにしかならん。そうでのうて、誰もやったことがないような、全く新しい方法で、ぜよ!」
それは、日本全土で共通する紙幣の発行、であった。
熱心に三岡の説を説いていた坂本だったが、途中、無言で坂本の顔を見つめるばかりの草月に気付いて言葉を切り、少しばつが悪そうに頭をかいた。
「すまんちや。つい興奮してわしばっかりしゃべってしもうて。ちっくと難しかったかえ」
「あ、いえ……。それもあるんですけど……。ちょっと、龍馬さんの姿勢に圧倒されて……。龍馬さんは、本当に、今までとは全然違った新しい国を作ろうとしてるんですね。それも、戦をせずに。長州も薩摩も中岡さんたちも、周りはみんな熱に浮かされたように、戦いくさって言ってるのに」
「当たり前ぜよ。自分が腹の底から信じちょらんことを、誰が信じるがや? 誠のない言葉には、誰も耳を傾けんき」
「そう、ですね……」
自信に満ちた坂本の姿が、懐かしい高杉の姿と重なる。
ふっと、以前、高杉に言われた言葉が脳裏に蘇った。
――ええか草月、大事なのは自分で考え、行動することじゃ。松陰先生が大事にされちょった『孟子』の言葉に、こういう一節がある。『至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり』。人が動かんのは自分の誠が足りんだけじゃ。
(……私はまだ、心から信じ切れてなかったのかもしれない。……私もつくりたい、戦をせずに、新しい時代を。たとえそれが、家族や友達と、二度と会えなくなる道であったとしても)
そして――それが、草月の知る歴史が変わってしまう道であったとしても。
(……ううん、変えたいんだ。龍馬さんたちが殺されてしまう歴史を。戊辰戦争が起きて、たくさんの被害が出る歴史を。先のことは何も分からない、まっさらな未来を、私も、ここで、この時代で――龍馬さんや木戸さんたちと一緒につくりたい)
「うん、私も、信じます。戦に拠らず、新しい国を作ることは出来るって。そのために、全力を尽くします」
「お、その意気やか!」
屈託のない坂本の笑顔を前に、草月も迷いの消えた表情で力強く答えた。
「はい!」
ここで、生きていくんだ。これからも――。
龍馬さんや、長州のみんなと、ずっと一緒に――。




