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花信風  作者: つま先カラス
第五章 慶応三年
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第69話 潜入

 御所の西、中立売御門から伸びる中立売通には、筑前・因幡・備前といった武家屋敷が数多く建ち並んでいる。中でも西寄りに敷地を有する屋敷の一つが、見廻組の組屋敷であった。

 中央の幹部棟を挟んで、左右に七棟の長屋を配している。別所に役宅を持つ見廻役(見廻組の長)や、周辺の寺社・宿屋等に分宿する一部の隊士を除き、ほとんどの隊士がここで寝起きを共にしている。

 屋敷の東に併設された文武場では、日を決めて剣術や槍術、文学の稽古が行われており、今日は武術の稽古の日なのか、遠く気合の入った掛け声が響いている。

 庭の隅にひっそりと植えられた百日紅の黄色く色づいた葉が、そよ吹く風に堪えきれなくなったようにふるりと枝を離れ、乾いた地面へゆっくり落ちていく。

 手にした竹箒でそれをさっと掃いたのは、目下、女中として潜入中の草月である。

 草月は仕事熱心な女中を装いつつ、その実、敷地内を行き交う隊士たちの会話に一心に耳を澄ませていた。切れ切れに聞こえてくるのは、熱心な剣術談義から真面目な政治論、露骨な艶話まで、実に様々だ。……しかし。

 仕事の手を止めぬまま、周りに気づかれぬように小さくふうと息を吐く。

(やっぱり、受け身のままじゃいつまで経っても知りたい情報は入って来ないな。どうにかして、隊士達の懐に入り込まないと――)


                  *


 話は、草月と峰吉が新選組の屯所を訪れた翌日にまで遡る。

 意外な成り行きではあったが、図らずも新選組に縁故が出来たことは僥倖だった。中岡や田中、菊屋とも良く話し合い、峰吉には重々気を付けるよう言い含めた上で、以後も貸本屋として新選組と付き合いを続けることになった。

 残る狙いは見廻組である。直に探るなら、女中として入り込むのが一番だ。たが、草月の伝手では限界がある。相談の結果、黒田に助力を仰いでみよう、ということになった。薩摩と見廻組は、かつて見廻組と歩兵隊が揉め事を起こした際に薩摩が仲裁に入った縁から、全くの没交渉というわけではないからだ。

 ただ、一つだけ問題があった。黒田は、草月が女であると知らない。

 黒田に頼るからには打ち明けるしかない。けれども、そこで黒田がどう出るかは、ふたを開けてみるまで分からない。

 笑って受け入れるか、もしくは、侮辱されたと怒り狂うか。

 田中は、万一のことを考えて自分も同席すると言って聞かなかったが、

「大丈夫、死ぬつもりはないですよ。――『生きて大業の見込みあらば、何時でも生くべし。死して不朽の見込みあらば何時でも死ぬべし』――。高杉さんにも言われましたから」

 強いて頼んで一人にしてもらった。

 そして――約束の日。

 草月は、堀川通にある料理屋の一室で黒田を待っていた。話したいことがあるので時間をもらえないか、と送った手紙の返事に、黒田が指定してきたのがここだったのだ。

 行灯の明かりが、草月の後ろに長い影を落としていた。

 やがて廊下のきしむ音がして、勢いよく障子が開かれる。

「――草月さあ!」

 大声で呼ばわりながら入って来た黒田だったが、中にいたのがおなごと分かると、「んん?」と盛大に首をひねり、

「すまん、部屋を間違えたごたっ」

「間違えていませんよ――黒田さん」

 静かに呼びかけられた声に、黒田が足を止めて振り返る。

 その顔をひたと見据えて草月は言った。

「ご無沙汰しております。唯野草月です」

 目の玉が飛び出しそうなほどに目を見開いて仰天する黒田の顔は、こんな時でもなければきっと笑えただろう。


                 *


「……つまり、わいは男でなっおなごで、ずっとおいたちを謀っちょったちゅうこっか」

 地獄の底から響いてくるように低い黒田の声。全身から立ち上る怒気で、周りの空気が揺らいで見えるほどだ。

 息をすることさえ苦しいほどの威圧感がその場を支配していた。……けれど、ここで尻込みすれば、何もかもおしまいになる。

 草月は怯むことなく真っすぐに黒田の視線を受け止めて、そして言った。

「そうです」

「田中さあは知っちょったんか。木戸さあたちもか」

「……そうです」

「揃いも揃うて薩摩を侮辱しちょいて、ようもぬけぬけとおいん前に顔を出せたな!」

「黙っていたことは幾重にもお詫びします。あれこれ言葉を重ねて申し開きするつもりはありません。でも、これだけは言わせてください。長州は、決して薩摩の方たちを侮辱したりなどしていません。私も――たとえ女であっても、長州を、この国の未来を想う気持ちに嘘偽りは一切ありません。……そして、田中さんや長州の皆は、男とか女とか関係なく、私を一人の志士として認めてくれました。だからこそあの時、私は使者の一員として京へ行ったんです」

「ふん、言葉を重ねっつもりはなかち言いながら、良うしゃべっ」

「……黒田さん。私たちは、お互いの良い所を認め合って、友人になれたと思っていました。黒田さんは違うんですか。それは、私が女であるというだけで、脆く崩れてしまうものだったんですか」

「おいもわいを友て思うちょった。だが、人と人とん友誼は信頼あってこそ成り立つもんじゃ。嘘をちちょった奴など信じらるっか。こけ一人で来た度胸だけは褒めてやっ。わいが真ん志士じゃちゆなら、ここで斬られてん文句はないな」

「……良かった」

 場違いにも草月は思わず微笑んでいた。対照的に黒田の額にめきめきと青筋が盛り上がる。

「何?」

「私が『女だから』って理由じゃなくて」

「――」

 黒田は虚を突かれたように息を呑んだ。

「それから――私が志士であることを否定しないでくれて。……黒田さん。あの時も、今も、志を持つ者として私はここにいます。坂本さんと中岡さんを守るという目的のために。私を憎んでくれて構いません。二度と許してくれなくていい。でも、どうか力を貸してください。私のためでなく、この国の未来のために」

「……」

 黒田は深々と頭を下げる草月の姿を黙って見ていた。

 実に身勝手な言い草だ。

 だが、怒りに任せて斬り捨ててやろうという気はもう起こらなかった。最前までの憤激は、さっきの草月の一言で跡形もなく霧散してしまっていた。代わりに、腹の底から新たにふつふつと込み上げるものがある。それは盛大な笑い声となって黒田の口から飛び出した。がっはっはっは、と大いに笑って、

「……まったく、油断したわ。おはんちゅう奴は、大久保さあのゆちょった通りじゃな」

「大久保さん?」

 一体大久保が何を言ったというのだろう。畳に手をついたまま、不思議そうにこちらを見上げる女志士に向かって、黒田はどこか晴れ晴れとした顔つきでこう続けた。

「木戸さあらとん会談で、行き詰っちょった話し合いん流れを変えたんなおはんやったち聞いた。おいもまんまとやられたわ。……そいで、おいに頼みとは何じゃ」

「協力していただけるんですか!?」

「おいとおはんな『友人』じゃろう? 坂本さあと中岡さあは薩摩にとっても重要な人物やしな」

「ありがとうございます!」

「そいにしてん、いまだに信じられんな」

 草月を上から下まで見ながらしみじみと言った。

「そういえば、前に一緒ん風呂に入った覚えがあっどが――」

「忘れてください! 即刻、頭の中から消し去ってください! それに、一緒に入った訳じゃないですから! 未遂ですから!」

「なら、互いに痛み分けちゅうこっじゃな」

 黒田はそう言ってまた可笑しそうに笑ったのだった。


            *


 かくして黒田の計らいにより、草月は見廻組の屋敷で臨時雇いの女中として働けることになったのである。たまたま風邪をひいて休む女中が相次いでおり、急ぎ人手が要り用だったことが――言葉は悪いが――幸いした。雇用期間はひとまず十日程度という約束だが、女中たちの復職具合によっては多少前後することになるだろう。

 果たして、見廻組は坂本龍馬暗殺を企てているのか。また、そうと仮定して、それはいつ、どこで、誰が実行に移すのか。

 与えられたわずかな時間の中で、それを探り出さなくてはならない。

 潜入に際し、田中が草月にくれた助言は、『まずは剣術の腕前が優れている者を探せ』というものだった。

『たとえ屋敷内、仲間内であっても、暗殺計画があると大っぴらに触れ回るとは思えんき、とりあえずは計画があることを前提として考えるんじゃ。その場合、刺客はおそらく腕の立つ選り抜きばかりで四、五人。多くとも十人までじゃろう。他にも、公務以外で頻繁に外出する者がおらんか注意せえ。俺の経験から言って、誰かを暗殺しようとする奴は、事前に対象の行動を徹底的に探って必殺の時を探るき、外出の時間が多くなるはずじゃ』

 自然と、市中見回りの役目も休みがち、または役目を外されるかするはずで、そうしたら隊士たちの間からも、あいつは最近さぼりがちだとか、裏で何かやっているようだとか、噂話が出ているかもしれない。もしそういった話があれば、『暗殺計画がある』という傍証にもなる――。

 だが、それは容易ではなかった。

 見廻組はその任務内容から、腕の立つ者がより出世しやすい傾向にあり、さらに最近では他の組織から腕の立つ者を引き抜いて隊士に加えていたりするから、腕自慢はざらにいる。

 潜入して三日が過ぎようとしているのに、朝から晩まで、炊事に水汲み、掃除洗濯と、きつい御端仕事に追い立てられて、実行者の目星さえつかない状況が続いている。

 今日こそは、と気合を入れて庭掃除を済ませた草月を、だが、すぐさま次の仕事が待ち受けていた。


                 *


「ほんまにもう、嫌になるわ。誰も行きたがらへんからって、いっつも下っ端のうちらに押し付けるんやさかい」

 草月の隣でぷりぷりと怒っているのは、寒さで鼻の頭を真っ赤にした『りん』という名の小柄な少女だ。まだ十五歳、と女中の内では一番の年若で、いつも周りの女中たちから厳しく指導されていたらしく、たとえ臨時とはいえ初めて後輩が出来たことが嬉しくてたまらないようだった。おかげで仕事のやり方はもちろん、女中たちの名前や性格、好み、果ては力関係まであれこれ教えてくれる、草月にとってはありがたい存在である。

 二人は、見廻組の隊士たちが銃隊訓練を行っている正運寺へ、昼食を届けに向かっているところだった。風呂敷に包んで背負ったずっしり重いもろ蓋の中身には、こぶし大のおにぎりが隙間なく詰まっている。

「鉄砲が怖いんはうちらかて同じやのに。なあ、お草はん」

「せやね……。どないしたってあの戦の時のこと、思い出すし」

 いささか頼りない京ことばで草月は答える。ちなみに『お草』とは、新選組の屯所でも名乗った便宜上のおなご名である。

 組屋敷から南へ四半刻ほど歩いた先に建つ正運寺の重そうな屋根瓦の山門をくぐると、境内では五十人ほどの隊士たちが小銃を手にきびきびと統制の取れた動きをしていた。

 昼食を持って来たことを伝えて、草月たちは隊列を迂回するようにして正面の本堂へ向かう。

「ちびっとの間、場所お借りします」

 おりんは本堂にきちんと手を合わせてから石段に荷物を下ろす。草月もおりんに倣いながら、ちらりと境内の方へ視線をやった。

 洋装の隊士らは訓練を中断し、小銃を外壁に立てかけているところだった。緊張から解き放たれたせいか、それとも昼食が待ち遠しいのか、どの隊士の表情も明るい。

「ほな、さっさと済ませてしまいまひょ!」

 おりんは手早く包みを解いて、すでにもろ蓋を胸に抱えている。慌てて草月は仕事へと意識を戻し、おりんの後に続こうとした……その時だった。

 目の前で、おりんの小さな体が、ふらりとよろけた。

 あっ、と大きく口を開いたまま尻餅をつくように倒れるおりん。弾みで木箱から勢いよく飛び出したおにぎりが、てんてんと地面に転がった。

 時が凍り付いたような一瞬の静寂。

「――おりんはん!」

 草月がおりんのもとに駆け寄るのと、隊士達の怒号が浴びせられたのはほぼ同時だった。

「も、申し訳ございません!」

 真っ青な顔で手をついたおりんの横で草月もがばりと頭を下げた。

「どうぞ堪忍しておくれやす。すぐに代わりのおむすびをご用意いたしますよって……」

「代わりだと!? これだけの握り飯を作るのに一体どれだけ時間がかかると思っている」

「俺たち武士は女とは違って、国のために命がけで働いて、腹を減らしているんだぞ」

「すんまへん、ほんまにすんまへん」

 みるみるおりんの目に涙が溜まり、大粒の雫となって溢れ落ちる。

 揃って平身低頭して謝るも、隊士達の怒りが収まる気配はない。

 このままでは埒が明かない。草月は腹を決めて顔を上げた。

「おりんはんが転んだんは、うちが愚図愚図しとったせいどす。せやさかい、この件の責はうちにあります。お叱りはうちが後でいくらでも申し受けます」

 お草はん、と驚いたように袖を引くおりんを無視して続ける。

「とにかく今は皆さまにちびっとでも早うお食事をして頂きとう存じます。幸い、あちらに置いてある分は無事どすし、まずはどうぞそちらを召し上がっておくれやす。その間に、きっと新しいものをご用意しますよって。……おりんはんは急いで屋敷に戻って、事情を伝えて。余分のおむすびがあったらもらってきて。うちはここを片付けてから、心当たりに頼んでみるよって」

「待て、勝手な真似は――」

 先頭の武士が言い差した時、

「何の騒ぎだ」

 新たな声は山門から。眼光鋭い武士が供を連れて入って来る。居丈高だった隊士たちの態度がたちまち改まる。ざわめきの中に、佐々木様、とささやく声があった。

(『佐々木』って……。まさか、与頭くみがしらの佐々木只三郎……?)

 草月は状況も忘れて、その武士の顔を思わずまじまじと見つめてしまった。幹部の中でも特に上からの覚えが目出たく、剣術だけでなく和歌にも通じる文武両道の人物。普段は組屋敷近くの松林寺という寺に寝泊まりして、用事がある時しか組屋敷に来ない。それもあって、実際に姿を見るのは初めてだった。

 つかつかと歩み寄った佐々木は、一瞥して状況を見てとるや、落ちたおにぎりの一つを無造作に取り上げた。そして、止める間もあらばこそ、砂まみれのそれに躊躇いもなくかぶりついてみせた。

「ふむ。なかなか美味いな」

 呆気に取られる草月らの前で、じゃりじゃりと砂音を響かせながら全て平らげてしまった。

「お前たち、女中の不始末をあげつらう前に、まずは己の不始末を反省したらどうだ?」

 突き出した手の中にきらりと光るのは小銃の弾。

 おりんはこれに足を取られたのか。

 弾かれたように、隊士らが一斉に腰に巻いた弾薬箱の中身を改め始める。

「今回の件は、互いに非ありとして双方の罪は相殺とする。これ以後、禍根を残すことは許さぬ。皆、それでよいな」

「はっ」

 一同、神妙に頭を下げる。

 それを見届けて、佐々木は銃隊頭を呼び、何事か話しながら庫裏の方へと歩き去った。

 気まずい沈黙を破り、一人の隊士が近づいて来た。とっさにおりんを守ろうと身構えた草月を制し、隊士はおりんに向かってそっと手を差し伸べた。

「怪我はないか? すまない。あの弾は俺が落とした物だった」

「大事おへん。ほんまにすんまへんどした」

 涙を拭い、隊士の手にすがって立ち上がったおりんが改めて頭を下げると、他の隊士も、

「もういいって。俺たちこそ怒鳴って悪かった」

 口々に言って、落ちたおにぎりを拾い上げる。さっと土を払うと、佐々木に倣ってかぶりつく。

「……うん、美味い!」

 いかにも無理が見え見えな言い様に、周りから自然と笑いが漏れる。

 一時はどうなることかと思ったが、何とかこじれずに済んだようだ。訓練に戻る隊士らを見送り、草月とおりんも片付けに取りかかる。汚れたもろ蓋を洗わせてもらいに庫裏へと赴いた時、ちょうど庫裏から出てくる佐々木と鉢合わせた。

「あの、先ほどは、ほんまにおおきに。ありがとうございました」

 深々と頭を下げる。女中の言葉など無視して行ってしまうかと思いきや、佐々木は立ち止まった。

「代わりの握り飯は、どのように用意するつもりだったのだ?」

「え?」

「申しておったであろう。心当たりがあると」

「それは……」

 聞かれていたのか、と内心冷や冷やしつつ答える。

「この辺の料理屋を片端から回って、言い値でええから、とにかく大急ぎで作ってもらうつもりでございました」

「なるほど、はったりだったというわけか」

 佐々木の薄い唇の端がほんのわずか上がったような気がしたが、錯覚だったかもしれない。

「もう一人の女中を屋敷に帰そうとしたのは、握り飯が目的でなく、ここから遠ざけるためか」

「いいえ、あれはほんまにそうしてもらお思て言うたことどす」

 佐々木は、草月の真意を測るようにしばし冷徹なまなざしを向けていたが、やがてこう問うた。

「お前の名は?」

「……草、と申します」

「草か。覚えておこう」

 悠然と歩き去って行く佐々木の姿を、草月はしばし呆然と見送っていた。

(まさか、幹部の佐々木只三郎と直接会って話をするなんて、思ってもみなかった……)

 顔と名前を知られることになってしまったが、果たしてそれはこの先、吉と出るのだろうか、それとも――。


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