第67話 京、行動開始
蒸気船に慣れた身には、帆走する千石船の速度は漂うクラゲのように遅々として、早く早く、といくら心の中で急かしても、大自然の前では成すすべもなく、それでも幾度目かの夜を超えた頃、ようやくおびただしい帆船と蔵屋敷のひしめく大坂の港に着いた。そこから伏見行きの三十石船に乗り換え、老若男女様々な客と共に寒風に身を寄せ合いながら淀川を上る。冬の日が落ちるのは早い。早朝に出発したにも関わらず、蓬莱橋の船着き場へと到着した頃には辺りは真っ赤な夕焼けに染まっていた。
お登勢の快活な笑顔に迎え入れられて寺田屋に草鞋を脱ぎ、翌朝には竹田街道を北上し、ついに草月は京へと入った。前日の冬晴れとは打って変わって、灰色の分厚い雲が空を覆い、まだ昼前だというのに夕方のような薄暗さだ。獣のような唸り声を上げて吹きつける強い北風が、幾重にも着込んだ着物の隙間から容赦なく素肌に突き刺さる。
以前、薩摩との話し合いのため京を訪れてから一年近くが経つ。あの頃は町のあちこちに散見された掘っ立て小屋は今はもうどこにもない。代わりに目立つのは、新築された町家の眩しい白木だ。だが、少し良く目を凝らせば、未だ生々しい大火の爪痕――瓦が崩れた状態のまま手つかずの家屋や真っ黒い焦げ跡が残る白壁――もまた、そこここに見受けられて、まだ京は復興途上にあることを思い知らされる。
喉の奥に重石が詰まったような気持ちを押し殺し、三条大橋付近にずらりと並ぶ旅籠から適当なところを見繕って中に入る。旅装を解き、お登勢が持たせてくれた握り飯で腹ごしらえを済ませると、坂本が泊っているという河原町の醤油商・近江屋を訪ねた。
だが――。
「え、坂本さん、京にいらっしゃらないんですか」
「へえ」
応対に出てくれた手代は細い眉を下げ、
「つい二日前に、福井へお発ちにならはりまして。はるばる長州からおいでたのに、お気の毒なことでございます」
「そうですか……。でしたら、お手数ですが、戻って来たら連絡をくれるように伝えていただけますか」
泊まっている旅籠の名前を告げると、手代は快く引き受けてくれた。それとなく猫の屏風のことも聞いてみたが、それについては心当たりがないのか首を傾げるばかりであった。
(龍馬さんが襲われるのは、ここじゃないのかな……)
いや、単に手代が屏風の存在を知らないだけかもしれない。用心するに越したことはないだろう。
礼を言って店を辞すと、分厚い雲の切れ間からほんの少し光が差していた。向かいに建つ土佐藩邸の瓦屋根に反射して銀色に瞬いている。
……さて、どうしようか。
坂本に会ったら、身辺に重々注意するよう伝えよう、たとえ煙たがられても、何とか理由を付けて一緒に行動させてもらおう……そんなことを道々考えていたけれど、まさか当の本人が京を離れているとは全く思案の外だった。
つらつら考えているうちに、足は自然と長州藩邸のあった場所へ向かっていた。がらんとした更地には、もはや以前の面影を残すものは何もない。それでも草月は、在りし日の藩邸の姿を、ここで高杉や久坂たちと過ごした日々の思い出を、まるで昨日のことのようにありありと脳裏に浮かべることが出来た。
(……よし)
ともすれば過去に引きずられそうになる気持ちを振り切るように、草月は心を決めて北へと足早に歩き出した。
四半刻ほど市街地を直進し、鴨川が二股に分かれる手前で右へ折れ橋を渡ると、その先は一転、枯草に覆われた田畑が広がる農村地帯だった。間近に迫る山々を視界に収めながら細い街道をさらに東へ進んでいけば、ぽつりぽつりと建つ大小の寺社に交じって、重厚な造りの大名屋敷が姿を現した。
きっとここだろうと見当をつけて、訪いを入れる。果たして在宅であった田中顕輔は、草月のおなご姿に驚いた顔をしたものの、すぐに破顔し、「よう来た」と労いながら中へ入れてくれた。
陸援隊の屯所である。
陸援隊とは、中岡慎太郎を隊長として、討幕のため結成された諸藩の浪士百余名からなる集団である。いざ事あらば、命を賭して戦う覚悟のある血気盛んな者たちばかりで、田中もその中の一人だった。当初、隊士たちは市中のあちこちに潜伏していたのだが、幕府の浪人狩りが厳しくなり、幕吏に捕らえられる隊士も出てきた。そこで中岡が上に掛け合って、隊士たちを収容させたのがここ、白川邸だった。もともとは藩兵が上京した時の駐屯場所として土佐藩が購った屋敷であったが、京の中心地から離れていることや、要害としての機能の低さなどから、ついぞ使用されることなく放置されていたのだ。
「……ほいで? 京にはいつ着いたがじゃ? 今日の朝? なんじゃ、知らせてくれたら伏見まで迎えに行ったんに……。もう近江屋にも行って来たがか。相変わらず行動が早いぜよ。坂本さんはおらんかったじゃろう。二、三日前に、急に福井に行くことになってなあ……」
先導する田中から、ぽんぽんと投げかけられる質問に答えつつ、長い廊下を奥へ奥へと進んでいると、左右の部屋からわらわらと顔を出した隊士たちが揃って好奇心丸出しの視線を向けてくる。女の来客が珍しいのだろう。中には「田中の女か?」などと揶揄いめいた野次を飛ばしてくる者もいたが、その都度田中が「阿呆言うな。この人は長州でこじゃんと世話になった人じゃ。これから中岡さんと大事な話があるき、邪魔しなや」と軽くあしらっていた。
やがてたどり着いた中岡の部屋は、最奥にある十二畳のゆったりとした一室だった。必要最低限の家具の他には、壁にかけられた一幅の書画が唯一の装飾といったふうで、その質素な設えに、生真面目な中岡の性格が良く表れている。
「やあ草月さん。長州からはるばるよう来てくれた。道中、危ないことはなかったか」
中岡は、寒かったろう、と言って火鉢を草月の方へ押しやり、自身は火鉢にかけていた鉄瓶を取って、慣れた手つきでお茶を淹れてくれた。
「男所帯やき、お茶請けもなくてすまんけんど」
「いえ、ありがとうございます」
冷えきった手のひらに、分厚い湯呑から伝わる熱がじんわりと温かい。
草月が落ち着いた頃を見計らったように、田中はおもむろに居住まいを正し、神妙な顔でそっと言った。
「……草月さん。高杉先生のことは聞いた。……まっこと、残念じゃった」
「……はい」
言葉がつかえたように、草月は短くそれだけ応えた。わずかに伏せた瞳の奥に、悲しみ、怒り、やるせなさ……様々な感情が嵐のように吹き荒れる。だが、それも一瞬だった。ぐい、と顎を上げた時には、その瞳には強い意志が籠められていた。
「でも、たとえ高杉さんはいなくなっても、高杉さんから受け継いだ精神は消えません。私は私で、やるべきことをやろうと思っています」
「そうか。……そうじゃな」
田中は自分に言い聞かせるように何度も頷いた。
それから草月は、二人に問われるまま長州軍の上坂や薩摩との連携について知る限りのことを話し、草月もまた、最近の京の情勢について二人から詳しく聞いた。そのほとんどは長州にいて聞き知っていた情報で、さして目新しいものはなかったが、大政奉還という歴史的な瞬間をごく間近で見ていた二人の口から直接聞くと、それはより生々しく心に響いた。
「まったくしてやられたゆう感じじゃ。俺たちはてっきり慶喜が拒否するもんじゃと思うて、勇んで戦の用意をしとったちゅうのに」
悔しさを露わに田中が拳で膝を打つ。
――まさに、晴天の霹靂のような大政奉還。
それによって政権は朝廷へと返った。だが、返されたところで朝廷にいきなり政治を行う力があろうはずもない。そこで朝廷は、慶喜に引き続き政権を担うよう命じ、その一方で、十万石以上の諸大名に上京するよう命を出した。今後のことは諸侯会議で決めようというのだ。
「おそらく慶喜はその会議で主導権を握り、徳川家を中心とした新しい政治体制を築く腹積もりだろう」
中岡の言葉に、はい、と草月は頷いて、
「木戸さんも言ってました。政権を返したからって、慶喜が無力になったわけじゃない。徳川家が、日本で一番広い領地を持つ強大な大名であることは変わらない、って」
「そうだ。その状況を変えなければ、真の革命は成しえない。天皇自らが政治を行う王政復古を成し遂げるべく、今、岩倉様たちと乾坤一擲の策を練りゆうところだ」
「それはつまり、薩長の武力を盾に、朝廷に改革を迫るというもの……、ですよね」
「ああ。現時点では、残念ながら朝廷の人事は親幕派が占めている。三条様たちは未だに追放の身だし、岩倉様も失脚中だ。危険な賭けではあるけんど、それで長州の復権や三条様たちの赦免が叶うなら、やる価値はある。そこに土佐藩兵も加わると心強いんだが……。あいにくと土佐藩は因循で、上層部は未だ親幕派が大多数だ。こちらの説得に応じて少しずつ討幕に傾く者も増えてきてはいるけんど、それを容堂公に睨まれて国元に帰されたり閑職に追いやられたりして、なかなか工作が進んでいないのが現状だ」
「なんちゃないぜよ、中岡さん! 薩長の兵だけでも十分ちや。俺たち陸援隊もおる。絶対に成功するきに。その次はいよいよ幕軍との決戦ぜよ!」
――やはり、彼らも武力討幕が既定路線なのか。
ぎらぎらと目を輝かせて討幕を語る二人に対し、草月は同調しきれない自分を自覚していた。
また、この京を戦場にするのか。京の人たちの暮らしを、命を脅かすのか。
長州の出兵が決まってからは、その準備に全力で奔走してきた。だが、開戦への否定的な思いはずっと熾火のように心の奥にくすぶっていた。
「……どうしても、戦をしないという選択肢はないのですか」
「……草月さん、」
中岡は諭すように、だが断固とした口調で言った。
「高杉さんも言うちょったろう。イギリスもフランスも、幾度も内戦を経て今のような強国になったんだ。長州もまた、外国との戦を経て彼我の力の差を知り、そこから攘夷を捨てて改革の道へと転換した。その後の内戦でさらに長州は団結・強固となり、幕府との戦にも勝利した。君もその目で間近に見てきたはずだ。戦は、日本をより強くするために必要不可欠なんだ」
本当に、そうでしょうか――
そんな言葉が喉元まで出かかった。
(……駄目だめ。今は、龍馬さんと中岡さんを助けることに集中しなきゃ)
ぐっと唇を噛み締め、言葉を呑み込む。
無理やりに気持ちを切り替え、草月は本題を切り出した。
「それで、私が京へ来た目的なんですけど……」
曇天のせいか、室内は随分と薄暗くなっていた。田中が立ち上がり、隅に置かれた行灯に火を灯す。曖昧に滲んでいた周囲の輪郭がぽっと鮮明になる。
田中さんや坂本さんからお聞き及びかと思いますが、と前置きした上で、草月は近々故郷へ帰ることになり長州を出たこと、坂本と中岡の暗殺計画があると知り、自分に何か出来ることがないかと京へ来たことを話した。
「そうか……。実はつい先だっても、ある人から、新選組内部に俺の暗殺計画があるから気を付けろと警告を受けたばかりだ」
「ええ!?」
「大丈夫だ。今のところ、周りに怪しい動きはないし、身辺には重々気を付けゆう」
思わず腰を浮かせた草月を宥めるように、中岡は努めて冷静な口調で言った。だが、ふと渋面になり、
「龍馬の奴にも、安全な土佐藩邸にいてくれと口を酸っぱうして頼んだんやけんど……」
「けど?」
「土佐藩邸は気まずいからと、聞かんのじゃ。だったら薩摩藩邸にと言えば、それは土佐藩に対して嫌味になると言うてな」
腕を組んだ中岡は深々とため息をつく。田中も難しい顔で、
「坂本さんは、前に寺田屋で幕吏を殺して恨みを買っちゅうき。もし幕吏に見つかったら、捕縛なんぞという生ぬるいことはせんと、最初から命を獲りにくるかもしれん」
「そんな……」
「田中君、そんな根拠のないことを言うて、あまり草月さんを怖がらせるな。――草月さん、心配には感謝する。けんど、俺もこの大事な時期に、むざむざ殺されるつもりはない。やき、俺たちのことは気にせず、草月さんは故郷へ帰って、家族に元気な姿を見せてあげるといい。万が一にも巻き込んでしまいたくはないき」
「危険は覚悟の上です。それに、このまま家に戻ったとしても、きっとお二人のことが気にかかって心穏やかになんて暮らせません。だからせめて、無事を見届けるまではいさせてください。私に出来ることがあれば、何でもやりますから」
必死な様子の草月に、翻意は無駄だと悟ったのか、中岡は長い沈黙の末に分かった、と言った。田中が身を乗り出して、
「ほいで? 草月さんのことじゃ。何か策を考えてあるんやろう?」
「いえ、それが、これといって良策があるわけではなくて……。京へ来る前は、できるだけぴったり坂本さんに張り付いていようと思ってたんです。でも、肝心の坂本さんがいなくて……。それでお二人にお聞きしたいんですけど、中岡さんたちを狙っているのは新選組だけなんですか? 品川さんの話では、見廻組にも注意が必要だということだったんですが」
見廻組とは、京の治安維持を目的として元治元年に作られた御家人等から成る集団であり、その総勢はゆうに五百人を超えると聞いている。
「確かに、浪士の取り締まりをしゆう点では、見廻組も危険じゃ。それに、見廻組は最近、名誉ある御所の警備を外されて、手柄を立てようと躍起になっちゅうき。世の中ひっくり返そうとしゆう大物二人を排除出来たら、ほりゃあ大手柄じゃろう」
「その外されたっていうのは? 何かあったんですか?」
「俺も詳しいことは知らんけんど、見廻組が見張りに付いちょった公家の邸に、危険人物がこっそり出入りしちょったらしい。当然、組の面目は丸つぶれじゃ。市中警備の任までは外されんかったんが、奴らにとっては幸い、俺らにとっては大不幸やな」
「そうですか……。なら、坂本さんが京を空けているのはかえって良かったかもしれません。今のうちに、新選組と見廻組の動きを探っておけば、彼らがどの程度まで坂本さんたちの動きを掴んでいるか分かって、対策もしやすくなります」
「いや待て、草月さん。探ると言っても、具体的にどうするつもりだ? まさか、奴らの根城に正面切って乗り込んでいくわけにもいかんだろう」
「私はおなごですよ」
草月は、不敵とも呼べる笑みを浮かべてみせた。
「前にも一度、適当な理由を付けて新選組の屯所に入ったことがあるし、方法はいくらでもあります。芸妓に化けて、新選組や見廻組のお座敷に潜り込む、っていうのもありですしね」
「相変わらず大胆じゃなあ、草月さん」
どこか嬉し気な田中に対し、中岡は憂い顔のままだ。
「まあ、それは最終手段として――とりあえずは、知り合いに情報を聞くところから始めてみますよ。黙って危ない真似はしませんし、何か掴んだら、すぐにお知らせすると約束します」
執り成すようにそう言うと、中岡はようやくほっとした表情を見せた。
ぢぢ、と灯心が燃える音がして、辺りがすっかり暗くなっていることに気付く。
「いきなりお邪魔して、すっかり長居してしまって」
詫びの言葉と共に暇乞いをした草月へ、中岡が「そういえば住むところは決めているのか」と聞いてきた。
三条大橋近くに宿をとったと答えると、中岡は長逗留するなら金がかかるだろう、知り合いの家に下宿できるよう頼んでみよう、と草月の返事も待たずに腰を上げた。
屯所に田中を残し、連れて行かれたのは、先に訪れた近江屋から南へわずか二丁足らずのところにある一軒の貸本屋だった。屋号は『菊屋』とある。
以前、中岡自身も下宿していた土佐藩御用達の店らしい。中岡の紹介ならばと、主人・鹿野安兵衛は快く草月の逗留を許してくれて、さっそく明日から世話になることが決まった。
それほど懐に余裕があるわけではなかったので、これは素直にありがたかった。これまでこつこつと貯めていたお金は、その大半が長州から京までの船賃に消えてしまっていたからだ。それでも全くの無償で居候させてもらうわけにはいかないと、幾ばくかの宿賃の支払いを安兵衛に申し出たのだが、「国のために命を賭ける志士を応援するのが自分の心意気だ」と言われては引き下がるしかなく、結局、空いた時間に家事を手伝う、ということで折り合いがついたのだった。




