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花信風  作者: つま先カラス
第五章 慶応三年
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    決断、そして――・後

 おさんの嫁入りを見届けて、草月が馬関から山口へ戻って間もなく、政局は再び大きく動き始めた。

 京情を偵察していた広沢兵助と品川が、薩摩の小松・西郷・大久保を連れて三田尻へやって来たのだ。一足先に山口へ復命した広沢により、慶喜が大政奉還を受け入れたこと、また、岩倉具視らの暗躍で討幕の密勅が下されたことが伝えられた。続いて、品川の案内で小松と西郷が山口を訪れ、長州藩主毛利敬親に謁見。木戸や広沢らを交えて今後について話し合い、上京出兵の密約を交わすに至った。

 ……だが、もう草月がそれに関わることはない。

 草月は一人、三田尻港にいた。

 数日前まで沖合に停泊していた数隻の薩摩の艦船は、薩兵を乗せていったん薩摩に戻って行った。そのせいか、町中に漂っていた物々しい雰囲気も、幾分和らいでいるように感じられる。

 山口からここまで二刻余りも歩き通しで火照った頬に、海を渡る潮風はひんやりと冷気をふくんで心地よい。空一面に広がるいわし雲の隙間から届く太陽の光が、草月の足元にくっきりとした影を作っていた。

 その見慣れぬ己の影法師の形に、無意識に手が後頭部へと伸びる。

 高杉が良く『馬の尻尾』と呼んでいた、一つにまとめた長い髪の束はそこにはなく、代わりに複雑に結い上げられた髷の形が指に伝わった。京ではごく一般的な、髪を笄に巻き付けた両輪髷と呼ばれる髪型である。

 京へ行くにあたり、市中で活動しやすいようにと、長らく定着していた男装を解き、おなごの姿に戻っていたのだ。松皮菱に南天を散らした柔らかな丁子色の着物は、幾松が草月のためにと自分の着物を手ずから仕立て直してくれたものである。

 旅の荷物は、お金や着替えなどの生活必需品と、思い出の品が二、三。そして、帯の間に忍ばせた護身用の短筒のみ。残りは全て木戸の家に置いてきた。

 京にいる坂本にはすでに手紙で警告済み。同じく京にいる田中にも、坂本の身辺に注意を促すと同時に近々上京する旨を伝えてある。長州人が全て京を出払っている今、力を借りられるのは田中しかいない。

 木戸からは、戦支度が落ち着き次第、坂本護衛のための人員を京へ送ると言われている。ただ、この大事な時に、明確な根拠のない草月のあやふやな言葉だけでは、たとえ木戸の指示でも危険な京へ貴重な人手を割くのは難しいだろうことも分かっていた。

 やはり、自分がしっかりしなくては。

 ぐっと両の拳を握りしめ、決意を新たにする。

 出港の刻が迫り、草月は桟橋から米俵を山と積んだ千石船へと乗り込んだ。この商船でまずは大坂まで行き、そこから船を乗り換えて伏見へと向かう予定だ。

 屈強な水夫たちの巧みな操帆により、船は大きな白い帆に風を受けてゆっくりと動き出した。

 あれだけ濃密な時を過ごした長州が、三田尻の町が、徐々に遠ざかって行く。

 自分で出ていくと決心したくせに、どうしようもない寂しさが胸を締め付ける。まるで心をまるごと置き去りにしてしまっているような感覚に、どれほど自分の気持ちが長州にあったかを改めて思い知らされるようだった。

 今頃、木戸は政事堂で内外の諸事に追われていることだろう。昨夜、最後の挨拶をする草月に木戸がかけてくれたのは、坂本暗殺阻止への激励ではなく、ただただ草月の健康と幸せを願う言葉だった。娘を嫁に出す父親のようだ、と笑い含みに幾松に突っ込まれて、否定もせず大真面目に「似たようなものだ」と答えた木戸の気持ちが嬉しくもあり照れ臭くもあった。

 軍を束ねる立場の山田も、出兵準備に作戦立案といよいよ忙しそうだ。数日前には、軍務の合間を縫って、わざわざ品川と共に最後の挨拶に来てくれた。

 久しぶりの再会となった品川には、「これからって時に出ていくなんて!」と本気で怒られてしまった。山田の執り成しにも応じず、けんか別れのようになってしまったことだけが心残りだ。

 伊藤とゆっくり話をしたのは、共に長崎から馬関へ戻った時が最後になった。伊藤はその後も京、長崎と飛び回り、今度は英国艦に乗って上方の偵察へ向かうと聞いた。相変わらずの精力ぶりが頼もしい。

 井上とは初めて会った時から互いに虫が好かなかったが、もう口喧嘩することもないと思うと、あの癇癪も懐かしく思える。

(みんな、元気で――)

 一人一人の顔を思い出しながら、もう二度とは目にすることのないだろう景色を最後に目に焼き付けるように見つめていると、にわかに通りの向こうに激しい土煙が立った。

「……げつ――!」

 腹にずしんとくる地響きに混じって、誰かが叫んでいるのが聞こえる。

 早馬だろうか。

 まさか、何か悪い知らせでも……。

 自分にはどうすることも出来ないと分かっていてもやはり気になる。船べりから身を乗り出すようにして、もうもうと舞う土煙の向こうに目を凝らす。

 やはり馬だ。二頭……、いや三頭。草月の予想に反して、海軍局の方には向かわず、真っすぐこちらへ近づいてくる。

 あれは――、まさか。

 草月の瞳が驚愕に見開かれる。

「――木戸さん!? 山田くん、品川さんまで……! みんなどうして――、お仕事は」

「抜けてきた!」

「ええ!?」

 木戸は巧みに馬を操り、船と並走するように海岸ぎりぎりまで寄せて来た。

「君の見送りをしないというわけにはいかんだろう。なに、多少なら抜けても問題ない」

「……っ」

 胸がいっぱいになって、ぶわ、と堪える間もなく涙があふれた。

「そんな……、木戸さん、高杉さんみたいなこと、言って……」

「大事な友のためならば、たまにはこんな勝手をするのも悪くはないさ」

「草月――! お前えええ!」

 少し遅れてきた品川が草月の名を絶叫しながら前へ出た。

 よほど全力で駆けてきたのだろう。髷は緩んで今にも解けそうだ。だがそんなことには委細構わず、ただただ草月を真っすぐに見据えて声を張り上げる。

「この間は怒鳴って悪かった! 木戸さんからお前のこと、全部聞いたぞ! お前の故郷のことも、坂本さんを助けようとしてることも! お前、そんな大事なこと、俺たちに言わずに行くつもりだったのかよ。水臭いぞこの野郎ー!」

「品川さん……っ」

「勝手に話してすまない。そうでもしないと、弥二の強情は揺るがなくてな」

 申し訳なさそうに眉根を寄せる木戸に、草月は涙でぐちゃぐちゃになった顔をぶんぶんと横に振った。

「ごめんなさい、品川さん。何も言わなくてごめんなさい。こんな大事な時に長州を離れてごめんなさい。ホントは、もっとずっとみんなと一緒にいたかった……っ!」

「そんなの俺たちだってそうだ! でももうお前は行くって決めたんだろう! だったら胸張って行ってこい! ただし、絶対に死ぬんじゃないぞ! 死んだら、あの世の果てまで追いかけていって、ぶん殴ってやるから覚えとけ!」

 やがて道は海へと突き当たり、馬を下りた三人は道の端ぎりぎりまで身を乗り出して、遠ざかる船上の草月に向かって大きく手を振った。

「えいか、草月! お前がどこの誰であろうが、お前はもうとっくに俺たちの仲間なんじゃけえな! それから、長州のことは心配するな。俺たちが絶対にえい方向へ変えてみせるけえ! じゃけえ、お前は、お前の成すべきことだけに集中しろ! たとえ故郷に戻っても、俺たちのこと、忘れるなよ!」

「うん……、うん!」

「草月、達者でな。何があっても、私たちはいつでも君の味方だ。君の行く先に光あらんことを願っている」

「……はい!」

「俺もこっちでの用が済んだら、すぐに合流するからな! 本当は今すぐにでもそっちの船に飛び乗りたいところだけど、長州のために自重する! 俺たちがいない分、借りられる手はいくらでも借りろよ! 薩摩の黒田さんたちにも声をかけろ! きっと力を貸してくれる」

「そうします!」

 当初あれほど嫌っていた黒田とは、もうすっかり馴染んだようだ。品川らしい、と涙も引っ込んで、笑みが零れる。

 ひとつ、大きく深呼吸をして。そして、ありったけの思いを言葉に込めた。

「皆さん、本当に――、本当に、ありがとうございました。こんな月並みな言葉しか出てこないのがもどかしいけど、でも、心から言います。ありがとうございました……! 皆さんと過ごした日々は、私にとって何にも代えがたいものでした。……私はもう、皆とは別の道を行くけど……っ」

 ああ、また涙で前が見えない。胸が詰まって声にならない。

「たとえ、場所は違っても……! 長州の志士として、唯野草月として、恥じない生き方をしてみせます! どうか皆さんもお元気で……!」

 ――自分の意志と関係なく、江戸の町へと迷い込んでから六年余り。

 生活習慣の違いに、初めは戸惑うことばかりだった。この時代の考え方や、きな臭い戦の気配に心が耐えきれずに逃げ出したこともあった。

 けれど、自分で戻ると決めて戻って来た。

 その長州を、今度は逃げるのではなく、確固たる意志を持って出て行こうとしている。

 だから、あえてさよならではなく、この言葉を使おう。

 ごしごしと涙をぬぐって。とびっきりの笑顔で。

 両手を大きく振り返して叫んだ。


「――行ってきます!」



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