第66話 決断、そして――・前
「――それで? 山口へ行ってどうなったんじゃ」
ぐい、と酒杯を傾けて、井上が言った。
「そりゃあ、議論、議論、議論ですよ。長州だけでも出兵すべきとか、一度退いて周辺諸藩を味方につけるべしとか、色んな意見が出て……。一日では結論が出なくて、次の日も朝から侃々諤々の意見のぶつけ合い。ホント、井上さんも巻き込んで差し上げたかったですよ」
しっかりと味の滲みたこんにゃくを満足そうに味わった後、ちょっと意地悪げに言ったのは草月だ。対する井上は、酒の肴に南瓜の煮つけを美味そうにぱくつきつつ「わしがいたらそんなもん、一喝して終いじゃ」と嘯いた。
馬関は新地の裏通りに建つ、小さな料理屋の一室である。大通りの喧騒とは無縁の、誰からも忘れ去られたような静けさが辺りに満ちており、それが建物の古びた佇まいと相まって、不思議と居心地がいい。
草月が山田と共に山口へ行ってからおよそ半月が経っていた。久方ぶりに馬関に戻って来た草月は、仕事終わりの井上と落ち合い、珍しく……というより出会って以来、初めてになろうか。二人きり、差し向かいで夕餉を取りつつ、最新の政治状況を報告していたのだった。
まあ飲め、と井上が差し出した酒を景気づけとばかりに勢いよく飲み干して、草月は再び口を開いた。
まず十月三日に開かれた二日目の会議で、散々紛糾した末に出兵取り止めが決まった。薩摩の動向が不明であり、長州単独での出兵は危険が大きいとの公算から、機を失したとして善後策を講じる必要があるとの結論に達したのだ。木戸は直ちに京や薩摩、芸州へと使者を送った。
しかし、そのわずか数日後。もう来るまいと半ば思われていた薩摩の艦船二隻が、総勢千を超える兵を乗せて相次いで三田尻に姿を現した。着艦が遅れた訳は、薩摩藩内で出兵に対する根強い反対の声があり、それを抑え込むのに時間がかかったためと知れた。
これにより、長州藩内に噴出していた薩摩への疑惑と批判の声は一気に沈静化した。
「それは良かったんですけど……」
それと相前後して、山口には、土佐藩がついに大政奉還の建白書を提出したとの報が芸州を通じてもたらされていた。そして芸州は、これを理由に出兵の延期を求めてきたのだ。
「あんなに揉めて揉めて、ようやく出兵見合わせが決まったと思ったら、これですよ? 薩摩は出兵する気満々でやって来るわ、京では土佐が建白するわ、芸州ときたらまるでやる気がないわ……。何なんですかこの怒涛の展開は」
思い出すだにげんなりする。
木戸ら政府員は、次々起こる新たな事態への対応に追われて、連日ほとんど寝る間もない忙しさだった。草月もまた、山口と三田尻を往復する傍ら、薩摩兵の宿所の準備に奔走していた。
「肝心の薩摩は何と言っちょるんじゃ。素直に出兵中止に応じたのか」
「とりあえずは三田尻に待機してもらうことで話がつきました。薩摩の方でも上方に使者を送ったそうなので、その報告待ちですね。薩摩兵は今、港近くのお寺二軒に分かれて駐屯してもらっています。……ただ、長年の長州と薩摩のわだかまりが完全に解けたわけではないですからね。お酒や鶏を贈ったり、宴を開いたりして、お互いに親睦を深めることに腐心しています」
忙しさもとりあえず一段落して、おかげで草月はこうして馬関へ来ることが出来たのである。
「明日のおさんちゃんの祝言には何としても出たかったから、ほっとしました。……井上さんにも、ちゃんとお別れを言えるし」
「別れ?」
「前に話したでしょう? 長州を離れることにしたって。状況にもよりますけど、多分、今月中には京へ行くことになると思いますから――」
「おい、まさかここで『お世話になりました』だの何だの始めるつもりか? よせよせ、酒がまずくなる」
「なんですよ。最後くらい、きちんと挨拶させてください」
「わしとお前がそういう殊勝な間柄か。だてに会うたび喧嘩しちょったわけではないじゃろう。くどくどしい挨拶などうっとうしいだけじゃ」
本気で嫌そうに手を振る。
「……そうでしたね。じゃあ、挨拶は抜きにして、これだけ――」
草月は大きく息を吸い込んだ。そして一言。
「――女遊びはほどほどに!」
「は! 言うに事欠いてそれか! 最後の最後まで口の減らん奴じゃ」
「あら、真面目な挨拶はいらないって言ったのはそっちでしょう」
「ふん、お前こそ、せいぜい無茶をし過ぎてうっかりくたばらんようにな」
「その台詞、そっくりそのままお返ししますよ。井上さんの生命力なら、何があっても百まで生きそうですけどね」
「……」
そっぽを向いて鼻を鳴らした井上だったが、やおら草月へ向き直ると、出し抜けに右手を突き出してきた。
「?」
「知っちょるじゃろう。“Handshake”じゃ」
「……相変わらず、発音がお宜しいことで」
堅苦しいのは嫌いじゃなかったんですか?
憎まれ口を叩きながらも草月は手を伸ばし――、二人は一度きり、最初で最後の握手を交わした。
初めて触れた井上の手は、思ったよりがっちりと厚く、そして温かかった。
*
井上と別れた草月は懐かしの一二三屋へ向かい、おさんと一太郎、そして里帰りしていた二郎丸から温かい歓迎を受けた。四人で積もる話をした後、おさんたっての希望で、おさんの部屋に二人分の布団を並べる。部屋の隅に置かれた衣紋掛けには、乏しい行灯の明かりの中でも鮮やかに浮かび上がる紅色の振袖が掛けられている。檜扇に熨斗目、梅の花などの柄を繊細に組み合わせた目もあやな逸品で、おさんの母親が嫁入りの時に着ていたものだそうだ。
明日、おさんはこれを着て嫁に行く。
今日はおさんがこの家で最後に過ごす日。そんな大事な日に自分が家族団らんの邪魔をしてはと最初は遠慮したのだが、
「いいの! 一太郎兄さんと二郎兄さんとは、昼のうちにたくさん話したし。お嫁に行くって言っても、これまで通りお店の手伝いには来るんだから、大して変わらないわよ」
おさんと仙吉は近所に家を借りて住み、そこから一二三屋に通うそうだ。仙吉は江戸で板前修業をしてきており、一太郎と共に店で腕を振るうことになっている。
「それに、ずっと夢だったの。女同士でこうやって一緒の部屋にお布団並べて、夜中まで目一杯おしゃべりするの」
布団の上に腹ばいになって両肘をついた顔を草月の方へ向け、ふふふ、と嬉しそうに笑う。隣で草月も同じように頬杖をついて、
「そういえば私も子供の頃、友達とお泊り会やったなあ。……あの時は、枕投げで盛り上がって、家の人に怒られたっけ」
「枕投げ? なあにそれ?」
「そのまま言葉の通り、枕を投げる遊びだよ。私の故郷にある枕は、こんな固い箱枕じゃなくて、こう……座布団をもっとふっくらさせて横に長くしたような、柔らかい枕でね。ぶつけ合ってわいわい騒ぐだけの、他愛ないものだけど……。友達同士で泊った時の、定番の遊びみたいなものかな」
「へえ……。草月さんの故郷には、面白い遊びがあるのね。じゃあ、ここでやるとしたら、座布団投げになるのね」
「――っ、そうだね!」
何ともおかしな光景になりそうだ。
ぷっと噴き出した草月につられるように、おさんも笑い出した。静かな夜に、二人の明るい笑い声が重なる。
とりとめのない話に花を咲かせているうちに、やがてすっかり夜も更け、草月はそろそろ寝ようか、と言って行灯の火を吹き消した。
「おやすみ、おさんちゃん」
「おやすみなさい……、草月さん」
しんと静まり返った部屋の中、聞こえるのは互いの息遣いだけ。
うとうとしかけた頃、草月を呼ぶおさんの声が闇の中に響いた。
「……草月さん、起きてる?」
「起きてるよ。どうしたの?」
「あのね……」
少しだけ、ためらうような間があった。
「うち、草月さんが一太郎兄さんと夫婦になってくれたら、ってちょっと思ってたのよ」
「……え?」
「そうしたら、草月さんとずっと一緒にいられるでしょ? 草月さんに想う人がいるって知って、すっかりあきらめたけど。……ずっと変わらないものなんて、ないのよね。変わらないように見えて、少しずつ変わっていく……。うちね、本当は、ちょっと不安なの。仙吉さんとうまくやっていけるのか、って」
いつもの明るいおさんの、密やかなその声がかすかに震えていた。草月は布団を跳ねのけて起き上がった。声に力を込めて言う。
「初めは誰だって不安だよ。それまで他人だった二人が、いきなり一緒に暮らすんだもの。うまくいかなくて当たり前。初めから何もかもうまくやろうとしないで、お互い少しずつ歩み寄って行けばいいんじゃないかな……。ほら、これまでだってそうだったでしょう? 色んなすれ違いとか誤解とか乗り越えて、仙吉さんと夫婦になろうって決めたんだから。おさんちゃんなら何があってもきっと大丈夫。分かり合えなかったら、何度でもぶつかればいいんだよ。困ったら、遠慮なく人を頼ればいい。きっと助けてくれる人はいっぱいいるよ。……たとえ遠くにいても、私はいつでもおさんちゃんの味方だし、ずっと応援してるから」
「……ありがとう。私も草月さんのこと、ずっとずっと忘れない。大好き。うちの本当のお姉さんみたいだった……!」
勢いよく抱きついてきたおさんを、草月もしっかりと受け止めた。
「私も大好きだよ、おさんちゃん。幸せになってね――」
そうして――。
突き抜けるような高く澄んだ青空の広がる十月吉日、おさんは仙吉のもとに嫁いで行った。
母親の遺した花嫁衣装に身を包んだおさんは、はっとするほど美しく、表情には覚悟を決めたような意志の強さがあった。
(……私も、覚悟を決めなきゃな)
坂本と中岡を襲う凶事の正確な日時が分からない以上、少しでも早く京へ入り、情報を集めるべきであった。なのに、いざとなると離れがたくて、何だかんだ理由をつけてずるずると長州に留まってしまっていた。
もう少し。あともう少しだけ。
長州の今後の方針が決まったら。
薩摩との提携が固まったら。
大政奉還建白の結果が出たら――。
(……でも、ここが潮時かもしれない)
一二三屋では約束通り、西洋料理の提供を続けてくれている。一太郎もおさんも「もっとたくさんの西洋料理を知りたいし、日本のお客さんに紹介したい。外国の人にも日本の良さを知ってもらいたい」と熱く語ってくれた。仙吉もまた、そんな二人とともに店を盛り立てていくと声を励ました。
草月の草莽攘夷の志は、確かに受け継がれている。
長州と薩摩の関係も良好で、土佐や芸州ともつながりがある。以前のように長州が孤立することはないだろう。
……きっと長州はもう大丈夫だ。
草月は自分の心にはっきりと区切りがついたのを感じていた。




