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花信風  作者: つま先カラス
第五章 慶応三年
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第65話 錯綜

 幕府の上坂命令に、いかに応じるか。

 藩政府は、政府員だけでなく、諸隊からも広く意見を募った。召命に応えて、諸隊の代表者が続々と山口政事堂へと集まってくる。

 使者を送るべきか否か。送るとすれば誰か。その人数は。あるいは、この機に乗じて兵を挙げてはどうか――。

 木戸や草月が戻って来たのは、そうした議論の坩堝のただ中であった。

 九月六日の朝。

 政事堂の大書院において、藩主父子臨席の御前会議が開かれた。

 家老一人を送ることにして、それに幾ばくかの兵をつけてはどうか、という意見が優勢だが、不測の事態を招く恐れのある兵をつけるのは不用とする慎重意見や、逆に、薩摩と呼応して挙兵すべしという積極論も出て、なかなかまとまらない。昼に差しかかったところで小休止を入れ、未の刻に再開することとして一旦散会となった。廊下で控えていた草月は、思い思いに広間を出ていく人の群れの中に小柄な友人の姿を見つけて声をかけた。

「山田くん」

「ん?」

 足を止めた山田市之允は、きょろきょろと首を巡らせる。やがて庇の柱の横で小さく手を振る草月を認めると、面はゆそうに眉を下げた。

「草月か、久しぶりじゃな。……なんか、会うたびにそう言っちょるような気がるするけど」

「確かにね」

 苦笑交じりの山田の言葉に、草月もつられたように笑った。

「だって滅多に会う機会ないから。……お昼行くなら、一緒に行かない? 安くて美味しいお店、知ってるんだ」

 秋晴れの高い空を、南へと渡るヒヨドリの群れがあるいはひと固まりに、あるいは細く長く、様々に形を変えながら横切って行く。

 二人は裏通りにある小ぢんまりとした一膳飯屋に腰を下ろした。待つ間もなく運ばれてきたのは、ご飯と味噌汁に漬物を添えただけの簡素な膳。だが、山と盛られたご飯は日替わりで野菜や魚、茸などを入れた混ぜご飯になっており、草月はこれがお気に入りだった。ちなみに今日の具材は甘辛く味付けされた椎茸と人参である。

「山田くんと最後に会ったのって、高杉さんのお葬式の時だっけ……。あの時は取り込んでて、あんまり話せなかったけど」

 山田は短く、そうじゃな、と言った。

「……山田くん、一度もお見舞いに来なかったね」

「何度も行こうと思ったんじゃけどな……。それでも俺は、あの丙寅丸の船上で見た、最高に格好いい高杉晋作の姿を目に焼き付けたままにしておきたかったんじゃ」

「ああ――」

 今も鮮明に覚えている。眩しいほどの朝焼け。その中で草月を振り返った高杉の会心の笑み。

 鼻の奥がツンとした。

 だめだ、駄目だ。

 涙の気配に、慌てて温くなった煎茶を喉に流し込む。

「そういえば、聞いたよ。高杉さんから、軍事の後継者に指名されたんでしょう」

「正確には、高杉さんの次の次の後継者、じゃけどな」

「それでもすごいよ、見込まれたってことでしょ?」

「そうかな……。そうなら嬉しいけど。高杉さんの存在が大きすぎて、正直、気後れしちょる」

「何言ってるの、山田くんならやれるよ。きっといい指揮官になる」

「ありがとう」

 はにかんで礼を言った山田は、照れ隠しのように話を変えた。

「ところでお前はどう考えちょるんじゃ。今回の議題について」

「ひとまず使者を送ることには賛成だよ。幕府の命を無視して、また軍勢を差し向けられたりしたら敵わないし。ただ、兵を付けることには反対。土佐が正式に大政奉還の建白を決定して、薩摩もそれに賛成してるんだから、少なくとも兵を挙げるのは建白の結果を待ってからでも遅くないと思う。もし幕府が受け入れなかったら、それこそ挙兵の口実になるし、その時には土佐も薩長に呼応して兵を挙げるって言ってたから」

「じゃが、建白の話が出てからもう二月以上経つぞ。土佐がイギリスとの一件に手間取っていることは承知しちょるが、一体いつになったら建白するんじゃ。こうしちょる間にも、幕府は諸外国の公使を引見して、確実に地固めを進めちょる。愚図愚図しちょったら、付け入る隙を無くしてしまう」

「それは分かってるんだけどね……。たとえ甘いと罵られようと、出来る限り、戦になる可能性はなくしておきたいんだ。……もうすぐ長州を離れる奴が何偉そうなこと言ってるんだ、って思うかもしれないけど、でも、だからこそ、長州がきっと大丈夫だって確信していたいの」

「……そうか、お前は故郷へ戻るんじゃったな」

 ひんやりとした風が吹き抜けて、それに乗ってかすかに金木犀の香りがした。

「もう日は決めたのか」

「ううん、まだ。でも、そう遠くないうちにと思ってる。だから今日、山田くんに会えて良かった。もし会えなかったら手紙を書くつもりだったけど、やっぱり直接お別れを言いたかったから。お昼に誘ったのは、そのためでもあるんだ。……今まで仲良くしてくれてありがとう」

 居住まいを正して頭を下げると、山田は焦ってわたわたと無意味に手を動かした。

「おい、気が早すぎるぞ。何も今すぐいなくなるわけではないじゃろう」

「うん。でも、こうやってきちんと挨拶できる機会は、もうないかもしれないから。本当にありがとう。私、山田くんの前では、素の自分でいられた気がする。高杉さんや久坂さんの前では、どうしても背伸びしてしまうところがあったから。……あ、だからって、山田くんを見くびってるとか、どう思われてもいいっていうのとは違うよ」

「分かっちょる」

 ぽたりと手を下ろした山田は、眉を下げて困ったように微笑んだ。

「村塾の中で、俺は特に年少じゃったし、この童顔かおじゃ。尊敬する先輩たちに、自分を良く見せたい、認めて欲しいという気持ちは良う分かる。……そうじゃな、今思うと、俺も、お前と一緒にいる時は、無理に気負う必要がなかった。……最初に会った頃は、俺はそんなにおなごと話した経験がなかったし、なのにお前はやけに馴れ馴れしいし……、妙に高杉さんと親しいのも腹が立って、どう接したらええのか分からんで参ったけど……」

「あ、そんなふうに思ってたんだ?」

「うるさいな。……まあ、話すようになったら、意外と話しやすくて、能天気に見えて色々勉強して自分なりの考えも持っちょるのも分かって、いつの間にか男とか女とか関係のうなっちょった」

 俺の方こそ、ありがとう。

 山田は律儀に頭を下げた。

 お互いに頭を下げ合って、目が合うと、途端にむずがゆい気持ちが湧いてくる。

「なんかこうやって改まって挨拶するのって、照れるね」

「お前が始めたんじゃろう」

「ふふ、ごめん」

「少し早いけど、そろそろ戻るか。再開する前に、他の隊ともう一度方針を確認しておきたい」

「うん」

 二人は程なくして政事堂へ戻り、やがて再開した会議において、家老の毛利内匠を上坂させること、その際、護衛の名目で兵を同行させること、非常の時に備えて薩摩と呼応すること、などが決定した。


                    *


 長州が上坂に向けて動き出す中、事態が急展開を迎えたのは九月十八日のことだった。京から、伊藤・品川の案内で、薩摩の大久保一蔵が長州へとやって来たのだ。

 今月初め、大政奉還建白のため上京してきた後藤象二郎が兵を率いて来なかったことに失望した薩摩は、京の情勢変化を理由に土佐との盟約を破棄し、挙兵上京することを決した。

 無論、土佐は反対し、挙兵延期を求めたが、薩摩は応じなかった。結果として、土佐は藩命を奉じて予定通り建白書を提出するが、薩摩の挙兵を妨げることはしない。薩摩も建白書提出を容認する……つまりは互いに無干渉、ということで落ち着いた。

 表御書院で長州藩主父子と謁見した大久保は、一連の経緯を語った後、居並ぶ重臣らを見渡し、こう言った。

 ――ついては、薩長合同の出兵を提案致すべく、罷り越した次第である、と。

 議論はたちまち紛糾した。

 京を追われて以来、様々な困難に見舞われた長州では、草月のように戦を好まぬ者が少なくない。

「ようやく四境の敵を退けたばかりだというのに、またあの時の京と同じ轍を踏もうというのか。そのような危険を冒さずとも、割拠して幕府を困らせてやれば良い!」

「いいえ、この機を逃せば、二度と天下の改革を成す機会はありますまい」

 木戸の良く通る声が広い座敷の端にまで響く。

「薩長はいわば幕府という巨大な敵を倒すための船の両輪なのです。一つでも輪が欠ければ、船はたちまち機動力を失い、海の底深く沈められてしまうでしょう。今、幕府は長州の家老を大坂へ召喚し、自ら出兵の名目を差し出した。これを天祐と言わずして何と言うべきか。今こそ、幕府を討つため立ち上がる時なのです」

 廊下で聞き耳を立てている草月まで、寒さも忘れて聞き入るほどの熱弁だった。

 結果、薩摩と共闘に決し、二十五、六日頃を期限に薩摩藩兵が三田尻に結集し、長州藩兵と同時に出兵することなど、細かな詳細を詰めて出兵協定が結ばれた。

 さらに二十日には、芸州も協定に加わり、かくして三藩が同時に出兵することが決まった。

 わずか二、三日の間に、怒涛のような事態の変わりようである。

 出兵反対派の草月ではあるが、出兵と決まった以上はそれを成功させるべく全力を尽くすのみだ。

 出兵準備や芸州藩士との応接などで、連日、木戸は多忙を極めた。それに付随して、草月の仕事も多くなる。

 薩摩との合同出兵の期日である二十六日には、上坂を命じられた家老・毛利内匠と、その護衛である諸隊が三田尻に結集した。

 奇兵隊・遊撃隊・整武隊・鋭武隊・膺懲隊・第二奇兵隊、合わせて四百八十名。

 彼らを率いるのは、二十四歳の若き指揮官・山田市之允である。

 草月は、山田と親しいことや諸隊とも縁があることから、彼らと政事堂の連絡役を命じられ、山口・三田尻間を往復することとなった。

「……まさか、こうしてすぐまた会うことになるとは思わなかったね」

「まったくな」

 三田尻で再会した草月と山田は顔を見合わせて苦笑した。二人が立っているのは海を臨む三田尻の港だ。だが、いくら目を凝らしても、この日を期限にやって来るはずの薩摩艦隊の姿は影も形もない。

 千を超える兵を、遠路はるばる京へ送ろうというのだから、その準備に手間取っているのだろう。

 そう好意的に解釈していた長州側であったが、九月末になっても薩摩からまるで音沙汰がないことに徐々に疑義が生じ始めていた。

「……諸隊はかなり苛立ってますよ。薩摩に対する不信感も表面化してきていますし、もし政府がこのまま薩摩が来るのを空しく待って機を逸するようなら、脱藩して自分たちだけでも上京しようという過激な意見も出始めています」

 昼過ぎ、馬で山口に戻った草月は、木戸へそう報告した。木戸は眉間に深い皺を寄せた難しい顔で腕を組み、

「それはまずいな。一度、諸隊の領袖を山口に呼んで、今後について議論する必要がある……。急だが明日の昼にでも、会議を開こう。とんぼ返りになってすまないが、戻って市たちに伝えてくれるか」

 はい、と元気よく返事をして、再び馬上の人となり三田尻へと戻る。諸隊は港付近に点在する寺社を仮の屯所として使っていた。山田に会って木戸の言葉を伝えると、山田はさっそく部下に命じて他の諸隊へ知らせにやった。

 部屋に山田と二人だけになると、草月は途端に「あたたたた……」と唸りながら顔をしかめて腰を浮かせた。

「どうしたんじゃ」

「いや、さすがに短時間で往復馬に乗るのはきついね。体がかちこちになっちゃった」

 先ほどまで生真面目に連絡役の役目を果たしていた人物はどこへやら、まるきり素の草月である。

 未だに仕事仕様の草月を前にすると尻がむず痒くなる山田としては、こうしていつもの草月に戻るとほっとする。

 緩みそうなる口元をごまかすように、山田はこう言った。

「もう直に暗くなるし、今日はここに泊って行ったらどうじゃ。その様子では、今から宿に戻るのも面倒じゃろう。どうせ、明日は一緒に山口へ行くんじゃけえ」




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