第64話 長崎ア・ラ・カルト
焦げ付きそうな強烈な日差し。広々とした水平線。遥かに見える青い山稜。
海洋を行く丙寅丸の甲板上には、蒸気機関の低い音に交じって、きびきびと働く屈強な水夫たちの威勢のいい掛け声が絶え間なく響いている。
船首に立った草月は、長い年月を経てすり減った船べりの縁を愛おし気に指でなぞった。深々と息を吸い込めば、少し生臭いまでの強烈な潮の匂いが鼻に絡みつく。
(ああ、この匂い)
「どうじゃ、久しぶりに戻って来た気分は。懐かしいじゃろう」
作業の合間に、顔見知りの水夫が声をかけてきた。
「ええ、とっても。……でも、乗組員としてじゃなく、お客さんとして乗っているのがものすごく変な感じですよ。さっきも甲板長の号令を聞いた瞬間、『はいっ』って体が動きそうになっちゃって」
「はは。船の仕事が恋しいなら、戻って来ても良いんじゃぞ」
「ありがとうございます。でも、あいにくと、他にやらなくちゃいけないことがありますので」
「異人相手の通詞もやめて、今は木戸様についちょるんじゃったか。お前も色々忙しいのう。じゃが、俺たちじゃって負けちょらんぞ。この間も、世子様をお乗せして萩から馬関、三田尻を巡航したんじゃけ」
「船員冥利に尽きますね」
水夫の自慢げな様子がおかしくて、ふふっ、と笑う。
早朝に馬関を出港した丙寅丸は、玄界灘を通り、平戸島を過ぎて大島の辺りに差し掛かっていた。波は少々高めだが、航行に支障の出るほどではない。
と、やにわにガクン、と船体が前につんのめるような衝撃を受けた。たまらず数歩、たたらを踏む。
「何じゃ、どうした!」
「浅瀬にぶつけたか!?」
船員たちの間に、たちまち緊張感が走る。
いくつかのやり取りの後、航路に問題はなく、座礁の可能性は低いことが確認された。そうこうするうちにも、みるみる船足が落ちていく。中央の煙突から盛んに噴き出していた黒煙が途切れがちになり、まるで鯨が咳をしているかのような不穏な音を立て始める。
――原因は機関部か。
草月は素早く身をひるがえすと、昇降口の階段を駆け下り、勝手知ったる船内を機関室へと急いだ。途中、船室の扉が開いて、中から伊藤が険しい顔を覗かせた。
「草月! 今のは!? 何かあったのか!?」
「まだ分かりません。危ないので、伊藤さんたちは中で待っていてください。私が行って確かめてきます!」
機関室にはすでに艦長をはじめ主要な士官が集まっていた。やはりさきほどの衝撃の原因は蒸気機関だったらしい。
「出航前の点検では何の問題もなかったんじゃが」
機関士長が難しい顔で、不穏な音を立てる機関を見やった。
ともあれ、原因究明と修理には相応の時間がかかる。蒸気機関を使っての航行をあきらめ、帆を使った航行に切り替えることになった。
草月は艦長と共に船室に戻って、艦長が木戸らに状況説明するのを聞いた。
予定では今日のうちに長崎に着くはずだったのだが、これでは難しいかもしれない。大幅に予定が遅れることになることを覚悟した一行の前に、思いがけない救いの手が現れた。偶然通りかかったグラバーの商船が、親切に長崎まで曳航してくれることになったのだ。
おかげで日の暮れる前に着くことが出来たものの、今度はどこで船を直すかが問題だ。長崎には、造船所としての性格を持つ長崎製鉄所があるが、そこは幕府の施設であり、長崎への立ち入りを禁止されている長州藩士がのこのこと訪れるわけにはいかない。
どうしたものかと思案していると、ここでもグラバーが力を貸してくれた。
現在、グラバーは薩摩藩士と図って小菅という地に修船場を建設中らしく、その設備とお抱えの職人を使って、こっそり丙寅丸を修理してくれることになったのだ。
ようやく安堵の息をついた一行は、表向き薩摩藩士と称して海沿いにある薩摩藩の蔵屋敷に滞在し、精力的に諸藩の藩士と会うなど情報収集に動き出した。
――ほどなく一行が耳にしたのは、長崎有数の花街・丸山で起きた、とある痛ましい事件だった。
*
その事件が起こったは、今から一月ほど前の七月六日深夜。路上で寝入っていたイギリス船イカルス号の水夫二名が、何者かによって無残にも惨殺されたのである。
犯人の目撃証言が海援隊士と同じような白袴の男であったこと、事件の翌朝に土佐藩の船二隻が相次いで長崎を出港していたこと……、諸々の悪条件が重なって、海援隊士にその殺害容疑がかけられていた。無実を主張する土佐藩に対し、イギリスは海援隊士の仕業だと決めつけて譲らず、話し合いの舞台は長崎から土佐へと移された。
しかし、そこで開かれた談判でも、両者の主張は平行線をたどるばかり。改めて事件の徹底調査をすることでどうにか合意して、八月十五日、双方の代表者――土佐藩の大監察・佐々木高行と坂本龍馬、イギリスのアーネスト・サトウら――が、そろって長崎に戻って来た。
草月たちが長崎にいたのは、奇しくもそうした渦中のことであった。
事件の行方が気になるのはさることながら、長州にとっては、土佐藩・イギリス両方の政治的展望を知る絶好の機会である。
木戸と伊藤はさっそく両者と接触を持ち、草月も末席に加わって、数度にわたり会合の場を持った。サトウとは日本国内外の政治問題や展望について意見を交わし、坂本や佐々木とは大政奉還策についてかなり突っ込んだ話をした。その結果、土佐とは、建白が受け入れられない場合、最後には武力討幕をする方向で一致した。
数日後、小菅へ船の修理の進み具合を確認しに行っていた草月が屋敷に戻ると、坂本から夕食の誘いの手紙が届いていた。
「急に呼び出してすまんかったのう。この間は佐々木様の手前、おまんとゆっくり話せんかったと思ってにゃあ。卓袱料理は好きかえ? この先に、美味い卓袱料理の店があるがじゃ」
小雨降る生憎の天気であったが、その分気温が下がって過ごしやすかった。草月が初めてだと返すと、屋敷まで迎えに来てくれた坂本は体ごと振り向いて「ほりゃあ良かった」と破顔した。
「きっと驚くぜよ」
案内されたのは、長崎の中心市街地にある小綺麗な料理屋だった。座敷に通された途端、草月は「あ!」と声を上げて目を見開いた。
中央に置かれている色鮮やかな朱色の円卓……にも目を惹かれたが、何より、それを囲んでいるのが、懐かしい社中――今は海援隊――の面々だったからだ。
坂本が言っていた『驚く』とはこのことだったのか。斜め後ろに立つ坂本を振り返れば、してやったりといわんばかりの満面の笑み。けれど、こんな嬉しい驚きなら大歓迎だ。草月もまた弾けるような笑みと共に、隊士らの輪の中に飛び込んだ。
互いの近況報告に驚いたり感心したりがひとしきり済むと、それを見計らったように、女中が御椀や大皿に乗った料理を運んできてくれた。鯛のお吸い物に里芋や蓮根の煮つけ、刺身、黒豆、天ぷら、豚肉の角煮――。卓の上はたちまち色とりどりの料理で埋め尽くされた。
『尾鰭をどうぞ』という女将の言葉で、まず鯛のお吸い物を頂くのが作法らしい。そのあとはどの料理でもご自由に、だ。
それぞれ遠慮なく箸を伸ばして美味しい料理に舌鼓を打ちながらも、途切れることなく話が弾む。
「――それにしても、今度の件は皆さん災難でしたね。もちろん、殺された水夫の人たちは本当にお気の毒だと思いますけど」
「まったくなあ……。いつになったら解放されるんやら」
「この間も奉行所に呼び出されて、あれこれしつこく聞かれたぜよ」
答える隊士たちの顔にもげんなりした表情が浮かぶ。
「イギリスの人たちも、ちょっと強引ですよね。海援隊が犯人だ、なんて端から決めつけてる感じで。状況証拠ばっかりで、具体的な物証なんて何もないのに」
「あのパークスとかいう公使がまっこと傲慢で気が強い御仁ながじゃ。けんど、土佐での談判の時は、後藤様も負けちょらんかったぜよ。まるで臆することなく、堂々たる立派な態度じゃった」
誇らしげな坂本の言葉に、草月は「そういえば……」と目をしばたいて、
「龍馬さんも、その時、土佐に行ってたんでしたっけ……。どうでした、久しぶりの故郷は? ご家族には会えたんですか」
「いや、談判は土佐の船でやったし、わしはその後も船に残って、上陸はせんかったがじゃ。藩から脱藩の許しを得たとは言うても、わしを良く思うとらん輩はぎょうさんおるき」
「ええっ、そんな……。それじゃあ、許された意味ないじゃないですか」
「ほうでもないぜよ。こうして、土佐藩お墨付きの海援隊隊長として大っぴらに活動できちゅうんじゃき。今じゃって、海援隊の嫌疑が晴れたら、外国から武器を買い付けて、土佐に運ぶ算段をしゆうところぜよ」
「武器?」
「土佐も、薩長と同じく大政奉還策が上手くいかんことを見越して、軍事行動を考えちゅう言うたじゃろう。そのための武器じゃ。いざその時になって、土佐だけが後れを取るわけにはいかんき」
先の佐々木らとの会合では、山内容堂は後藤象二郎の建言を容れ、大政奉還の建白を決意したと聞いた。だが、満を持して上京しようとした矢先にこの水夫殺害事件が起こり、それどころではなくなってしまった。しばらくはこちらの対応に手一杯で、建白書提出は大幅に遅れることになるだろう、とのことだった。
「……少し前に、イギリスのサトウさんと話をしたんですけど、サトウさんは、三藩の合同軍事行動については懐疑的でしたよ。『大事を成そうと公言して結局やらないことを欧州では老婆の理屈と言いますが、日本が今やろうとしていることはそれに近いのでは』、なんて言って。それ聞いて、木戸さんはとんでもなくお冠でした。もちろんその場は如才なく受け流してましたけど、サトウさんと別れてからは大荒れで。『一通訳官風情にあのようなことを言われるとは、この上ない恥辱だ』って怒髪天を衝く勢いで……。しばらくは怖くて誰も近づけませんでした」
「いや、それは木戸さんが怒るんは当たり前じゃき!」
「この上は何としても、王政復古を成功させんといかん」
「ですよね! ……って言っても、私は戦を起こすことには反対なんですけど。皆さんは、将軍が万に一つも大政奉還を受け入れるとは思わないんですか」
坂本らは顔を見合わせて「それはないじゃろう」と口を揃えた。
(んー……、やっぱり、慶喜が政権を返上したことって、誰にとっても、かなり意外なことだったんだな……)
しみじみ思ったが、口には出さず胸の内に留めておく。
「ところで、おまんらは、まだしばらく長崎におるんかえ」
「いえ――。あと二、三日もすれば、船の修理も終わるそうですから、それに合わせて長州に戻る予定です」
「ほうか。ほいたら、今日はとことん楽しむぜよ! 酒は? おまんもまだまだいけるじゃろ?」
「……じゃあ、あと少しだけ」
「よっしゃ。おおい女将、お銚子もう十本追加じゃ!」
「え、いえ、ちょっと待ってください。龍馬さんたちに合わせてたら、確実につぶれますって!」
「心配せんでも、これくらい軽いもんじゃき!」
「土佐の大酒飲みが言う『軽い』は、全然軽いじゃないですから!」
草月の悲鳴は楽し気な笑い声にかき消された。
その夜、座敷には遅くまで賑やかな声が響いていたという。
*
「――で、案の定、飲みすぎちゃって。次の日は大変だったんだよな~。酷い顔で起きてきて、金槌で頭をがんがん殴られてるみたいな気分です、とか言って」
「ほーお。馬鹿じゃとは思っちょったが、そこまでの馬鹿じゃったとはな」
「わああ、伊藤さん! それ、井上さんにだけは絶対に言わないでくださいって言ったじゃないですか!」
「ごめん草月。俺と聞多の間に秘密はないんだ」
「この薄情者――!」
大真面目な顔でけろりと答える伊藤の言葉に草月の絶叫が重なる。
そこへ、くすくす笑いながらおさんが追加の酒肴を運んできた。
「相変わらず賑やかね」
「聞いてよおさんちゃん。伊藤さんたら酷いんだよ。男女の友情より、男の友情だって!」
「あらそうなの? それはいけないわね。お梅ちゃんに言いつけてやらなきゃ」
「待った待った、おさんちゃん、それだけは勘弁!」
伊藤が大袈裟に拝むような真似をして、一同はいっせいに噴き出した。明るい笑い声が部屋を包み込む。
木戸一行は、今日の昼過ぎに長崎から馬関へ戻って来たばかりだった。長崎にいた期間はひと月にも満たなかったが、帰途、船上を渡る風はほのかに涼しく、確実に季節の移り変わりを感じられた。
休む間もなく山口へと向かった木戸とは別に、草月は在関の藩士らと情報交換をするため一日馬関に留まることになった。同じく伊藤も馬関に留まっているが、それはこの後、京へ行く予定があるためだ。
草月と伊藤は、先日より外国応接掛として馬関に赴任していた井上を誘って、長崎の報告がてら一二三屋で夕食を共にすることにしたのである。
「それじゃ、うちは引っ込むわね。何か要るものがあれば遠慮なく呼んで」
台所へと下がるおさんを見送り、草月は井上へ顔を戻した。
「……えーと、それで、どこまで話しましたっけ」
「お前がとんだ失態を晒したところまでじゃ」
「だからそれは忘れてくださいって! ――ええと、そう。その後ですよ、問題は! いざ船が直って、よしこれで帰れるって思ったら――」
修理代として請求された額を見て愕然とした。
その値、千五百両。
木戸も渋面になり、
「五百両までなら何とか即金で用意できるが……、全額となると難しいな」
困って坂本に相談すると、坂本から佐々木へ話が行き、佐々木が長崎にある土佐商会(土佐藩の貿易を管轄する役所)にかけあってくれて、千両を貸してもらえることになった。
「……で、ようやく船を出せて、こうして戻って来れたってわけ。俺たちからの報告はこんなところだけど、そっちは? 何か大きな動きはなかったの?」
「あったぞ」
井上はきゅうりの漬物をぼりぼりと美味そうに咀嚼すると、にたり、と歯を剥いて笑った。
「……幕府から、支藩主と家老を一人、大坂に寄越せとの命が来た」




