第62話 馬関、最後の日々
木戸との話し合いで、要らぬ混乱を避けるため、ひとまず坂本の暗殺計画うんぬんは伏せて、草月がいずれ長州を離れることだけを周りには伝えた。
急な話に、親しい友人たちはひどく驚き、そして寂しがった。だが同時に、草月が故郷に帰る当てが見つかったことを心から喜んでくれた。
とりわけおさんは、怒ったり悲しんだりを繰り返し、ひととおり感情を爆発させた後はしゅんとして、けれど次の日にはいつもの明るい笑顔で、ごちそうを作るから、最後の日にはみんなで集まってお別れの会をしましょ、と言った。いったんは馬関に戻って来た草月だったが、間もなく外国応接掛の仕事を辞し、山口で新たな仕事に就くことが決まっていたからだ。
草月の記憶が正しければ、坂本らの暗殺はおそらく大政奉還が成された後。情報をいち早く得るため山口にいたい、という草月の我儘に応えて、木戸が仕事を世話してくれた。
三年近い時を過ごした馬関を離れる感傷にゆっくりと浸る暇もなく、応接掛の仕事の引継ぎや山口への引っ越し準備、世話になった人たちへの挨拶回りで、しばらくは慌ただしい日々が続いた。
ブラウンからその話を聞いたのは、そんな慌ただしさもひと段落したある日の午後。応接掛の一室でのことだった。
ブラウンは、イギリスのとある貿易会社に勤める三十代半ばの男性で、五日前から雇い主に従って船で馬関に寄港していた。昨日、町へ散歩に出かけたブラウンは、露天で売っていた素朴な竹細工に目を留めた。一目で気に入り、土産にと買い求めようとしたところ、それを作ったらしい職人から「夷狄に売るものはない」と、けんもほろろに断られたのだという。
ここ数年で外国人の往来が珍しくなくなったとはいえ、まだまだ外国嫌いの人は少なからずいる。外国人が買い物をしようとしても、ブラウンのように断られたり、それでなくとも正規の十倍、二十倍の値段を吹っ掛けられたりしたという話は幾度もあった。そんな時、間に入って収めるのも応接掛の仕事だ。
「でしたら私も一緒に行って、売ってもらえるよう交渉しましょうか」
草月が申し出ると、ブラウンは少し意外そうな顔をした。
「単純に、自分が代わりに買ってくる、とは言わないのですね」
「私は日本人と外国人がお互い尊重し合える国を目指していますから。それでは意味がないんです」
「なるほど、ではお願いしましょう」
二人はさっそく連れ立ってその露店へと赴いた。
*
「何度も言わせんでくれ。異人になど売るものはない」
白髪交じりの老爺の態度は頑なだった。なるほど取り付く島もない。
道端に広げたござの上には、実用的な大小の竹かごや虫かごのほかに、可愛らしい動物の細工物が並んでいる。
ねずみ、とら、うさぎ、ひつじ……。十二支を模したもののようだ。欠けたものもあるが、それは売れてしまったのだろう。ブラウンが気に入ったのは、中でもうさぎの細工物だ。
「三歳になる娘さんへのお土産にしたいそうなんです。こちらのブラウンさんは、ちゃんと正当な対価を支払うとおっしゃってますし……。日本の物が、全然文化の違う遠い異国の人に気に入ってもらえるって、素敵なことだと思いませんか」
「弥吉は……、わしの息子は、三年前、夷狄と戦って死んだ。わしら家族や生まれ育った土地を守るんじゃと奇兵隊に入って――。敵の砲撃を受けて、左足を吹っ飛ばされて、その傷がもとで死んだ。この細工は近所に住む小さな子供のためにと弥吉が考えたものじゃ。あんたはそれを、弥吉を殺した敵に売れと言いなさるのか」
老職人の口調はむしろ淡々としていた。それが余計に彼の心のうちに秘めた怒りを感じさせた。
草月はとっさに何も言い返せずに口をつぐむ。だが、彼が口にしたその名前に覚えがあった。
「……“奇兵隊小者弥吉”」
唇からぽろりと零れた言葉を聞きとがめて、老職人はぎょろり、と草月を睨みつけた。
「お役人さん、あんた弥吉を知っちょるのか」
「いいえ、直接は。……でも、招魂場の石柱にその名前がありました。あの戦には、私も遊撃隊の一員として加わっていました。あそこに刻まれた人たちの名前は忘れません」
「――どうしたのです、唯野さん。彼は何と言っているのです」
ただならぬ雰囲気を察したのか、ブラウンが草月に詰め寄る。
草月が青い顔のまま訳すと、ブラウンはまるで撃たれでもしたかのように、はしばみ色の瞳を見開いた。
「……唯野さん。彼に伝えてください。辛いことを思い出させた上に、気持ちを抉るような真似をしてすまなかった。申し出のことは忘れて欲しい、と」
神妙な面持ちで頭を下げる二人を、老職人は軽蔑のまなざしでねめつけたまま、商売の邪魔じゃけえ帰ってくださらんか、と投げつけるように言った。
うなだれて踵を返そうとした時だった。
遠くから上がったのは、甲高い叫び声。と同時に、地響きのような振動が体を伝う。
「暴れ馬だ!」
誰かの声。
はっと振り向くと、通りの向こうから、背に米俵をいくつも積んだ荷馬が、土ぼこりを舞い上げながら猛烈な勢いで駆けて来る。通りを行く人々が、次々と悲鳴を上げて飛び退った。
「おじいさんも早く!」
商品を守ろうと慌ててござの上に屈みこむ商人を、ござもろとも強引に道の端へと引っ張る。その拍子に、老職人の懐から何かがぽろりと落ちて地面に転がった。
「せがれの形見が!」
「だめ、危ない――」
通りへ飛び出そうとする老職人を半ば引き倒すようにして制止する。今しも目の前に迫る暴れ馬の前に、ブラウンが突如立ちはだかった。
「ブラウンさん逃げて!」
鋭いいななきと共に、馬は高々と前足を上げて急停止する。なおも目を剥いて興奮状態の馬に向かい、ブラウンは慌てず騒がず、ゆっくりと穏やかな口調で語りかける。徐々に馬が落ち着きを取り戻してきた頃、馬を曳いていたらしい人足が汗だくになりながら駆けて来て、通りはようやくもとの賑わいを取り戻した。ブラウンはかがんで落ちていた物を拾うと、胸ポケットから取り出したハンカチで丁寧に汚れを拭ってから老職人へと差し出した。竹を彫って作られた素朴な仏像だった。
震える手でそれを受け取った老職人は、ブラウンを見上げて何か言いたげな顔をしていたが、固く結ばれた唇が開かれることはついぞなかった。商人に別れを告げ、草月とブラウンは来た道を悄然と戻り始めた。
(……私、なんて考えなしだったんだろう)
機械的に足を動かしながら、草月は猛烈な自己嫌悪に奥歯を噛み締めていた。
一二三屋で提供している西洋料理が日本人にもわりと好評だったため、草月の心に浮かれと慢心があった。ブラウンに話を聞いた時、きっと無知な商人が、外国人のことを野蛮な人間だと思い込んでやみくもに敵視しているだけだろう、心を尽くして話せば分かってもらえる、なんて、偉そうに思っていた。あの外国艦隊との戦はまだ、ほんの三年前のことなのに。
草月だって、久坂たちのことを思うと、今でも薩摩や会津が憎い。互いに命と信念を賭けての戦だったのだと理屈では分かっていても、なかなか感情は割り切れないものだ。
相手の気持ちも考えずに、こちらの理想論を押し付けてしまった。
重苦しい沈黙のまま、港に着いた。
草月はブラウンに深々と頭を下げて謝罪した。
「今日はすみませんでした。私が出しゃばった真似をしたせいで、ブラウンさんにもあのおじいさんにも余計な心労を増やしてしまいました」
「あなたのせいではありません。私の思慮が足りなかったのです」
「いえ……」
草月は重ねて謝罪の言葉を口にしようとして止め、代わりにこう言った。
「そういえばまだお礼を言っていませんでした。馬を止めてくださってありがとうございました。おかげで怪我人も出なかったようです。……馬の扱い、お上手なんですね」
「ええ、まあ。私はイギリスの田舎の生まれでしてね。ロンドンへ出てきて今の職に就く前は、馬丁の仕事をやっていたこともあるんですよ」
娘には別の土産を考えます、と言ってブラウンは船へと戻って行った。
*
次の日、重い気持ちを引きずったまま応接掛で書類仕事をしている草月のもとへ、あの老職人が訪ねてきた。急いで英国船からブラウンを呼んで来ると、老職人は固い表情のまま言った。
「礼を言いそびれたと思ってな。命より大事なせがれの形見を救ってもらって、日本人は礼の一つも言えんと異人に思われるのも業腹じゃ。……ありがとう」
頭を下げた老職人は、懐から何かを取り出してブラウンの前に突き出した。
「気にくわんが、これはあんたに売ってやる」
骨ばった皺だらけの老職人の手にあったのは、ブラウンが買おうとしていた、あのうさぎを模した竹細工だ。
「良いのですか?」
「わしは今でもあんたら異人が嫌いじゃ。何をされてもせがれはもう戻って来ん。じゃが、せがれが考えたものを良いと言ってもらえたのは嬉しかった。戦には負けたが、せがれの技は異国にも負けんと誇らしかった」
大事にしてくれ。
半ば押し付けるように手渡されたその素朴なうさぎを、ブラウンはまるで壊れやすい宝石のように、優しく手の中に押し抱いた。
*
いよいよ馬関で過ごす最後の日。
その日はかねてのおさんの宣言通り、一太郎やおさんに、お梅、おうのらを交えた賑やかな送別の宴が催された。一太郎の心尽くしの料理を堪能し、美味い酒を飲み、歌い踊り、思い出話に花を咲かせる。
夜も更けて客たちが帰ってしまうと、急に店の中はしんと静かになった。すぐに眠ってしまうのが惜しくて、誰が言うでもなく揃って縁側に腰かけた。夜風が、酔って火照った頬に気持ちがいい。
「草月さんがいる生活にすっかり馴染んでしまいましたから、これから寂しくなります……。おさんも秋には嫁に行ってしまいますし」
「兄さんたら。秋なんてまだまだ先じゃない。それに、お嫁に行っても、ここには店の手伝いに毎日通ってくるんだから、今までと大して変わらないわよ」
おさんが、とうとう仙吉に嫁ぐことを承知した、と打ち明けてくれたのはほんの数日前のこと。草月が高杉の死を乗り越えて、前へ進もうとしているのを知って、自分もいつまでも迷ったままではいられないと決意したそうだ。
わいわいとかしましい兄妹の会話を、草月はほほえましく聞いていた。
「草月さんが行ってしまわれても、西洋料理の研究は続けますし、店でもどんどんお出ししていくつもりです」
「……ありがとう、ございます」
一太郎は草月を喜ばせようと言ってくれたのだろう。だが、草月は素直に喜べなかった。頭のすみに引っ掛かりがある。おさんが目ざとく気付いて、
「草月さん? どうかした?」
「うん……」
言おうかどうか迷って、結局口にした。
「実は、この前、ちょっとしたことがあってね――」
竹細工をめぐる一件のことをかいつまんで話し、
「一二三屋で西洋料理を出してること、快く思ってない人も当然いるわけでしょ? 実際、食べに来てくれなくなった人も少なからずいるし……。今更だけど、そんなふうに、前からのご常連さんを無くしてまで、一太郎さんやおさんちゃんに勧めて良かったのかなって」
「何弱気なこと言ってるの。うちは異国の人たちとのおしゃべりは楽しいし、世界がぐんと広がったようで嬉しいわ」
「おさんの言う通りです。草月さんがいなければ、私には一生縁がなかったかもしれない西洋料理を知る機会を持てて、私はとても幸運だと思っています。草月さんがまとめてくれた和英辞書もありますし、異国のお客様が来られてもなんとかなります」
「ここの西洋料理がもっと評判になったら、きっと異国嫌いの人だって、気になって食べに来てくれるわ。そうなったらこっちのものよ」
力強く語られる二人の言葉が眩しく、そして頼もしい。
「ありがとう。それを聞いて安心したよ。これで心おきなく山口に行けます」
「でも、時々は顔を見せてね」
「うん。仕事でこっちに来ることもあるだろうし……。おさんちゃんの祝言の日には必ず戻って来るから」
「約束ね」
「うん、約束」
そして、翌、早朝。眩しい朝焼けの中を、見送りに来た人々に見送られながら、草月は長く濃密な過ごした馬関を後にしたのだった。




