第61話 これからの話をしよう
高杉がいなくなっても、日々は当たり前のように続いていく。
朝が来て、夜が来て、また朝が来て。
四月の末、京から戻って来た伊藤は、高杉の死を知って喉も裂けんばかりに慟哭した。
草月はそんな伊藤をどこかうらやましいと思った。草月は泣かなかった。泣けなかった。
ただ胸にぽっかりと穴が開いたような喪失感があった。その穴は縮まるどころか日増しに大きくなるばかりで、草月はその穴を埋めるように、ひたすらに目の前の仕事に集中した。
毎日応接掛の役所に出向いて通訳をこなし、細々とした問題に対処し、各種書類の作成・提出を行う傍ら、馬関を訪れる諸藩の志士たちから得た情報を山口へと送る。
生き生きと芽吹く新緑の美しさも、しっとりと雨にけぶる町並みも、草月の目には等しく単なる風景として過ぎ行き、気が付けば暦は水無月へと替わろうとしていた。
この間、京では島津久光・山内容堂・松平慶永・伊達宗城の四候が集まり、朝廷人事や兵庫開港問題、長州処分問題などについて幾度も話し合いを重ねていた。
彼らは、幕府が強行した長州征伐によって天下に騒乱を引き起こし、各藩の人心離反を招いたことを指摘し、長州藩主父子の官位を復旧させて幕府が理非曲直を正す姿勢を示すことが第一だと説いた。そうすれば人心は安堵し、兵庫開港も時勢に沿った処置ができる、と。
だが、満を持して開かれた朝議において、慶喜の繰り出す弁舌にことごとくいいようにしてやられ、結局は幕府の反省の意は示されることなく、単に長州の寛大処分・兵庫開港勅許が決まるのみとなった。
薩摩は、慶喜に屈した朝廷に見切りをつけ、西郷や大久保の唱える武力による討幕路線が現実味を帯びてきた。国内情勢はいよいよ予断を許さない状況になったが、草月にはもうひとつ、重大な懸念事項があった。
坂本と中岡のことである。
二人は明治の世を見ることなく、京で暗殺される。
その時は、もうそう遠くないはずだ。
(でも、どうやって助ける?)
空に月はなく、行灯の覚束ない光だけが、文机の前に座る草月の手元を照らしていた。
机上に開いて置かれた手控え帳には、思いつくままに書き散らした言葉の切れ端が――京のどこで? いつ? 大政奉還の後か? 猫の屏風 警告すべきか? 短筒で応戦 帰れるのか、帰れないのか? (帰りたいのか、帰りたくないのか?)――無秩序に踊っている。
『その時』にそばにいられるように、坂本と中岡、どちらか一人に四六時中張り付いていることも考えたが、実際問題としてそれは現実的ではない。脱藩の罪を赦免された坂本は、社中改め海援隊の隊長となって相変わらずあちこち飛び回っているし――海援隊が借り受けて運用していた蒸気船・いろは丸が紀州藩の船とぶつかって沈没したとかで、その損害賠償の交渉のために今は長崎に行っている――、土佐藩を討幕論へ導こうと京で精力的に運動中の中岡と草月では、目指すものが違い過ぎて一緒に行動する理由が思いつかない。
(なにより、それだと長州にいられなくなる。『その時』が来るぎりぎりまで、長州で、長州のために働きたい)
ぱたりと手帳を閉じて脇へ寄せると、代わりに傍らの文箱から真新しい紙を取り出して広げた。
頭の中でしばし文面を練る。それから、背筋を伸ばし、ゆっくりと深呼吸をひとつ。筆を手に取ると、真剣な顔で文を認め始めた。山口にいる、木戸へ宛てて。
――折り入って、お話ししたいことがあるのですが。
木戸からの返事は、山口へ来てくれ、というものだった。
*
草月が山口を訪れるのは、昨年の五月以来一年ぶり。政事堂の厳めしい門をくぐるのはさらに遡って三年ぶりになる。門の周りには諸隊の兵が警備についており、物々しい雰囲気を醸し出している。強い西日の照り付ける、広々とした見通しの良い前庭を抜けた先にある屋敷は、記憶にあるよりほんの少し年季が入った印象だ。炎天下を歩き続けて噴き出した汗を手ぬぐいで丁寧に拭って、案内人に従って木戸の執務室へと向かう。
「遠いところ、呼びつけてしまって悪かったな」
出迎えた木戸は、京からの報告書に最後まで目を通してしまいたいから少し待っていてくれるか、と言った。それが終わったら、近くの料理屋に場を移してそこでゆっくり話を聞こう、と。
「もちろんです。わがままを言ったのはこちらなんですから」
すまなそうな顔の木戸に草月の方こそ恐縮しつつ邪魔にならないよう隅に腰を落ろした。
十二畳の広い部屋には、今木戸が向かっている文机の右手の壁一面に棚が据えてあり、おびただしい数の書物がぎゅうぎゅうと乱雑に詰め込まれている。それでも入りきらなかった分が、側の畳の上にどこか所在なさげに積み上げられていた。
左手に置かれた二つの文箱には、各地からの報告書や手紙の類であろう大量の文が、少しでも手を触れたら途端に弾けて崩れ落ちそうな、絶妙の均衡を保って山盛りに入っている。
常の木戸ならこんな無秩序な状態は我慢ならないだろう。きっとろくに整理をする暇もない忙しさなのだ。木戸の苦労を垣間見て、草月は胸の内でそっとため息をついた。
障子に影が差したのはその時だった。まだ年若い藩士が、廊下に膝をついて木戸へ声をかける。
「失礼いたします。木戸様、至急、書院の間へ来ていただけませんか」
「何事だ? この後、大事な用があるんだ。明日にできないのか」
「申し訳ございません。ですが、芸州から使いの方が来られており、どうしても木戸様にも御同席いただきたく」
「……分かった」
木戸はやれやれと小さく息を吐くと、さっと袴の裾を払って立ち上がった。
「すまんな、草月。そこで待っていてくれ。すぐ戻る」
「はい」
一人ぽつねんと取り残された草月は、開け放たれた障子戸の前の廊下を藩士たちが行き来するのをただ黙って眺めるばかり。
(ちょっとだけ、整理するくらいならいいかな)
手持無沙汰に棚の中の書物に手を付ける。
草月には内容の想像もつかないような難しい題名の書籍に、仕事関係らしき綴じ本――会議の議事録や地域ごとの勘定帳、出納帳、各役職の任免の記録――等々、その細目は多岐にわたる。それらをいったん全部取り出し、改めて分かる範囲で分類・整理して並べ直していく。
棚は見違えるようにすっきりとしたがそれでも木戸はまだ戻って来ない。
こうなったら文箱の方も、と心持ち勇んで片付け始めた時、
「失礼いたす――」
頭上から声がかかった。
廊下から部屋の中を覗き込むようにして立っていたのは、いささか頭髪の寂しい中年の武士だ。
「やや、お前は……。いつぞや、世子様と一緒にいた――」
「唯野草月と申します」
姿勢を正し、短く草月は答えた。
「……して、木戸殿はご不在か」
「はい。少し前に、芸州からのお使者に会うため出て行かれたきり、まだ戻られておりません。お言伝があれば承りますが」
それでは、と武士は名前と用件を告げて去っていく。
結局、木戸が戻って来たのは、一刻近く経ってから。日もだいぶ傾いて、そろそろ灯が要り用になろうか、という頃だった。
綺麗に片付いた部屋を見て目を丸くしている木戸に、草月はどこかばつの悪そうな顔で弁解がましく言った。
「差し出がましい真似をしてすみません。ちょっと整理するだけのつもりが、つい熱が入ってしまって……。誓って中身は読んでいません。あと、お留守の間に、訪ねて来られた方が三人いらして、ご用件と報告書をそれぞれお預かりしています。……その、皆さん私のことを覚えてらっしゃったようで、……」
かつて御前会議の場に世子と共に現れた妙なおなご。普通なら不審極まりない人物と放り出されてもおかしくないが、藩主から直々に『唯野』という苗字を賜ったことが効いていたのか、胡散臭そうな目を向けはしても、一応の信用はしてくれたようだった。
幸い、取り急ぎ返事をしなくてはいけないものはなかったため、二人は間もなく政事堂を出て木戸の行きつけだという料理屋へと向かった。夕食を取り、腹も落ち着いたところで、おもむろに木戸が切り出した。
「それで、話というのは?」
「はい、実は――」
居住まいを正した草月は、真っすぐに木戸の目を見つめて、こう切り出した。
「長州を、離れようと思っています」
*
ごう、と突如吹き抜けた風がかたかたと障子を揺らした。
やがて静けさの戻った室内に、草月のやや硬い声が響く。
「もちろん、今すぐにというわけではありません。九月か……、遅くとも十月中には、と考えています」
「何故、と理由を聞いてもいいかな」
突然の告白にも表情を変えることなく、木戸が静かに問うた。
「……どうしても、京でやらなければいけないことがあるんです。それは、人の命に関わる大事なことで……、同時に、私が自分のもといた所に戻る唯一の機会でもあるんです」
「命に関わる、とは穏やかじゃないな。それは、君にとっても危険を伴う、ということなのか」
「……多少は」
「君の故郷に繋がるとなると、以前、君が探していた猫の屏風も関係してくるのだろうか。件の屏風が置いてある場所で、人命を左右する何か――おそらくは暗殺計画のようなもの――が進行している……。そして君はそれを阻止したい、と?」
「……」
草月は内心舌を巻いた。流石は若くして藩政の中枢を担う能吏だ。草月が明かしたほんのわずかな情報から、ほぼ正確に全体像を描いて見せた。
「……そうです」
ここまで見抜かれた以上は、変に隠し立てをしても仕方がない。素直に肯定して、膝に置いた両の手をぎゅっと握りしめた。
「ただ、それが正確にいつ、どこで起きるのかまでは分からないんです。本当にその人を助けることができるのかどうかも、屏風があったとして、自分の国に戻れるのかさえも――」
もし助けることができたなら、そこから歴史が変わってしまうのか。もとの時代に戻れたとしても、果たしてそこは草月の知る日本なのか。……二人を助けられず、もとの時代にも戻れず、最悪、巻き添えを食って自分も命を落とす可能性だってある。
「……木戸さんは、たつみ屋の女将さんから、どこまで聞いてますか? 私のこと」
「君が、どこからともなく忽然と江戸の町に現れた、ということなら聞いている。こことはまったく別の国から来たらしい、ということも」
草月はゆっくりと頷いた。
「私が江戸に来るきっかけになったのが、その猫の屏風なんです。それは京の町のどこかにあるはずで……。だから、それが見つかれば、もといた所に戻れるんじゃないかと思って探していました。でも、今は……。正直、自分でも分からないんです。戻りたいのかどうか。あちらには、家族も友達もいて、二十年間生まれて過ごしてきた私の故郷で……。だけど、こちらに来て、高杉さんたちと出会って、だんだんにこの国のことを学んでいって……。今は、ずっとここにいて、みんなと、長州や、この国の行く末を見届けたいって気持ちもあるんです。……本当、呆れるくらい、分からないことだらけ」
ふっと自嘲気味に笑った草月は、「だから、分からないことはもう考えないことにしました」とむしろあっけらかんとした口調で言った。
「私はただ、私がやるべきだと思うことをやるだけ。その時どうなるかは、その時考えればいい」
きっぱりと言い切った草月の心底を見極めるように厳しい表情でじっと見つめていた木戸だったが、草月が眦に不退転の決意を込めて見つめ返すと、根負けしたようにふっと相好を崩した。
「たとえ私が危険だからやめろと言っても、きっと君は行くんだろうな。まったく、そういうところはあいつ譲りだ」
「『あいつ』?」
「高杉だよ。私としては、あいつの無謀なところは学ばずに、他山の石として欲しかったところだが」
「高杉さん、ゆずり……」
「どうかしたか?」
大きく目を見開いた草月は、木戸の言葉を繰り返したまま、放心したように宙を見つめている。
「いえ……」
ちょっとの間俯いて、顔を上げた時には、草月の頬にほのかに赤みが差して、泣き笑いのような表情になっていた。
「取り乱してすみません。でも……、嬉しいなって思って。高杉さんがいなくなってから、日が経つごとに喪失感が大きくなって、何をしていても高杉さんがいないことを突き付けられているようで辛いばかりだったんですけど……。でも、そうか、私の中に、高杉さんはいるんですよね」
虚ろだと思っていた胸の穴は虚ろではなかった。草月の中には、高杉の精神が息づいていたのだ。
「俄然何でもやれる気がしてきました。どんな手を使っても、必ず助けてみせます!」
「君が元気になったのなら良かったが……。くれぐれも無茶だけはするなよ。……ところで、君がやろうとしているそれは、我々には手助けできないものなのか」
「え?」
「京には我々の仲間も多数潜伏している。その時に長州がどういう情勢にあるかにもよるが、状況が許すなら、京にいる者の力を借りると良い」
「……」
目から鱗が落ちる思いだった。
ずっと自分がやらねば、と頑なに思い詰めていたから、誰かの手を借りる、という発想がなかった。だが、確かにそれはありがたい。
「ありがとうございます」
「そういえば、肝心なことを聞いていなかったな。君が危険を冒してまで助けようとしているのは、誰なんだ? 私も知っている人物か?」
「……ええ、とても良く知っている人ですよ」
――坂本龍馬さんです。




