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花信風  作者: つま先カラス
第五章 慶応三年
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第60話 春風ゆく

 汗ばむほどの暖かな陽気が続き、頑なに閉じていた木々の新芽が一気に開き始めた。生まれたての瑞々しい若葉が、朝日に透けて輝いている。

 くっきりとした青空を、一羽のつばめがすい、と飛んでいった。ヒナに餌を運んでいるのだろうか。何とはなしにその行方を目で追いかけていると、後ろでけたたましいクラクションの音が鳴った。信号を無視して強引に交差点へ突っ込んだ車が、逃げるように走り去っていく。

 京都随一の繁華街である四条河原町には、有名百貨店の高いビルが建ち並び、大通りは今日も大勢の人や車であふれかえっている。一瞬の静寂の後、人々は何もなかったかのように動き始めた。

(いけない、私も急がないと……! 次のバスに乗り遅れたら、完璧に大学の講義に間に合わなくなる)

 パンプスの踵を鳴らし、アスファルトの歩道を足早に進んで行く。シンプルな白のブラウスにネイビーのパンツ。上に一枚、薄手のカーディガンを羽織って来たけれど、この陽気では必要なかったかもしれない。ふあ、とこぼれそうになったあくびを手のひらの中に押し隠して先を急ぐ。

(春眠暁を覚えず、じゃないけど、春ってホント眠くなる……)

 言い訳めいたことを心の中で呟いたところで、あれ? と強烈な既視感を覚えて足運びが鈍る。

(前にも、どこかで……。誰かと、こんなふうに、『春』の歌について話をしたような……)


 ――西行って、あれでしたっけ。春に死にたいって歌詠んで、ホントに春に死んじゃった人


(……そう、あれは……。あれは、どこで言ったんだっけ)


 ――西行法師にあやかって、東へ行くと書いて、東行じゃ。いい名じゃろう?


 耳の奥で誰かの声がこだました。不敵に笑う口元が脳裏に浮かぶ。

(今のは……?)

 知らないはずの人。なのに、どうしようもなく懐かしくて、せつなくて、胸を締め付けられる。

 誰だろう。どこで、会ったんだろう。

 もう少しで思い出せそうな気もするのに、おぼろげな記憶を追いかけようとすればするほど蜃気楼のように逃げて行ってしまう。

 いつしか足は完全に止まり、肩にかけた鞄のひもを爪が食い込むほどにきつく握りしめていた。

 その時、ふいに通りを吹き抜けた柔らかな風が、ふわりと髪を揺らした。


 ――はるかぜ

 ――え?

 ――僕の諱じゃ。春に風と書いて、『春風』と言う


(ああそうだ、あれは……)

 あれは――

「――草月!」

 耳元で、はっきりと声がした。

「高杉さん!」

 短く刈り込んだ断髪。腰に大小の刀を手挟んだ袴姿。草月が良く知っている、元気な頃の高杉が目の前にいた。

「やっと正気付いたか。さっきから呼んじょったのに、呆けたように固まっちょったぞ」

「え?」

 はっとして辺りを見回す。先ほどまでと変わらない現代の四条の大通り。だが、己の姿を見下ろせば、先ほどまでのパンツ姿ではなく、思い出深いあの濃紺の着物と銀鼠の袴に変わっていた。

「おのしがいるということは、どうやらまだあの世ではないようじゃな」

「縁起でもないこと言わないでください」

「どうしてこうなったか、分かるか」

「それが私にもさっぱり」

 いつものように応接掛の仕事をして、帰って来て。夜が更ける頃になってようやく床に就いたけれど、全然眠れずに寝返りばかり打っていた。

(……そうだ)

 ようやくうとうとしかけた頃、急に枕屏風が光り出して――

「まさか……、戻って来た……!?」

 だが、それにしてはどこか現実感がない。時代劇から抜け出してきたような袴姿の二人は目立つはずなのに、道行く人は誰も気に留めた様子もない。それどころか、存在にさえ気づいていない節がある。先ほどの高杉の言葉ではないが、まるで自分たちが幽霊にでもなったような気分だ。

「ここが、おのしのいた国か」

「はい……。私の国の、私が住んでいた町です。私たち、夢でも見てるんでしょうか」

「さあな。何がどうなっちょるのかさっぱり分からんが、せっかくじゃ。見物していこう。案内してくれ」

 言ったそばから案内も待たずに大通りを東へずんずん進んでいく。草月は慌てて追いかけながら、

「あんまり、驚いてませんね。普通はもっとパニックになるかと思いますけど」

「驚いちょるぞ。こんなに衝撃を受けたのは上海に行った時以来じゃ。じゃがまあ、おのしの国だと思えば妙に納得する部分もある。僕の知る日本とは似て非なる国。あの恐ろしく速い箱の乗り物の存在も――」

 車のことだろう。

「――聞いちょったしな」

 商店街が途切れ、急に目の前が開けて大きな橋に出た。たっぷりと水量を含んだ広い川が空の青と白い雲を鮮明に写して南北に滔々と流れている。

「これは……、鴨川か? あそこに見えちょるのが南の芝居だとすると、ここは四条辺りか。建物や道の様子はまるで違っても、基本的な地形は僕の知る京の町と重なるところがあるな……」

 そうですね、と頷いて、草月はすっと前方に見える山を指さした。

「ちょっと歩きますけど、京都の町を一望できる、うってつけの場所がありますよ。行ってみますか?」

 八坂神社の南をぐるりと回りこむように進んだ先にある登山口から細い山道を登ること、およそ四半刻。それでもまるで疲れを感じないのは、やはりこれが現実ではないからだろうか。やって来たのは、東山の山頂にある将軍塚青龍殿と、その後ろに造られた広々とした大舞台。すぐそばに併設された展望台からは、どこを向いても遮るもののない開放感のある景色が見渡せる。

「すごいな――」

 高杉はそう言ったきり、眼下に広がる京都の町を食い入るように見つめている。

「いい眺めでしょう? 前は、友達と一緒に来たんです」

 今度は、デートで夜景を見に来たいね、などと冗談交じりに話していたが、それがこんな形で半分叶うとは思ってもみなかった。

「結局、洋行することは叶わなかったが、ある意味、それよりすごい所へ来れたな。まったく、おのしといると予想外のことばかりじゃ」

 よくよく目に焼き付けて満足したのか、ようやく町から目を離した高杉は、手すりに頬杖を突いて、悪戯っぽい表情で草月の顔を覗き込んだ。

「この間も、芸者の成りで乗り込んできたじゃろう」

「さあ、何のことでしょう」

 草月は澄まして空とぼけた。

「その人、鶯の化身か何かだったんじゃありませんか」

「抜かせ」

 乱暴な言葉を返しながらも、吊り目は楽し気に細められている。

 その笑顔を見ているだけで、草月の心が温かいもので満たされていく。

 これが夢でもいい。ずっと覚めなければいいのに……。

 そう思った時、急に立ち眩みがしたように視界がぐにゃりと歪んだ。たまらずたたらを踏んで、ようやく落ち着いて顔を上げた時には、周りの景色は一変していた。

「ここは――」

 張り詰めたような高杉の声がすぐそばで聞こえる。草月も同じように息を呑んだ。

 目の前をさらさらと流れる高瀬川。風に揺れる柳の木。遠く響いてくる寺の梵鐘。ぎゅうぎゅうとひしめくように軒を連ねる無数の町屋。複雑に入り組んだ狭い路地。

 忘れもしない、かつて長州の仲間たちと何度も歩いた、木屋町の通り。その三条小橋の辺りに二人は立っていた。

 先ほどまで天高くあったはずの太陽は屋根の下に隠れるほどまで沈み、空はほんの少しの朱色を残して濃く深い藍色に取って代わろうとしていた。

 黄昏時の空の下を、どちらからともなく歩き始める。

 辺りに人の気配はなく、二人もまた無言だった。

 対馬藩邸を過ぎ、加賀藩邸を過ぎ――

 息を詰めて『そこ』へと顔を向ける。

 長州藩邸は、在りし日の姿のまま、存在していた。

 まるで、あの戦などなかったかのように。炎に包まれて焼け落ちたりなどしなかったかのように。

 門扉は、二人を招き入れるかのように大きく開け放たれていた。

 二人は顔を見合わせ、黙って頷き合うと、そろって門をくぐった。

 何もかもが、記憶の通りだった。

 部屋の配置も、庭に植えられた松や紅葉などの木々の枝ぶりも、人の顔のように見えて不気味だった縁側横の柱の木目も、歩けばぎいと音が鳴る角の廊下も。

 全ての障子や襖が開け放たれた屋敷内は、人がいない分、余計に広々と感じられて、どこかものさびしい。

 薄暗い邸内に、一つだけ明かりの灯った部屋を見つけた。よく皆で集まって話をしていた広間だ。

 引き寄せられるように近づいていくと、次第に賑やかな声が耳に届いてくる。

 そこには、懐かしい面々が顔をそろえていた。

 真っ赤な顔で次々に酒杯を空けているのは、麻田と来島。淡々と静かに飲んでいるのは楢崎。大和と長嶺は、所の皮肉がツボに入ったのか、大口を開けて笑い合っている。

 ああ、また有吉が、寺島にちょっかいをかけては邪険にされている。それらの喧騒を少し離れたところで冷静に見守っているのは吉田だ。

 さらに奥へと目をやると、開け放たれた障子の向こう、ひとり縁側に腰かける背中が見えた。

 座っていても分かる長身に、ぴんと伸びた背筋。触ると痛そうないがぐり頭。

 高杉の体が緊張に強張るのが分かる。

 その人物が、ゆっくりと振り返った。

(――ああ、)

 久坂は、立ちすくむ高杉と草月に気付いて、にっこり笑って手招きした。

 つられるように高杉が前へ足を踏み出す。

 その足が、何かに引っ張られたように、ぴんと止まった。

 高杉の腕を、草月がとっさに掴んで引き留めたのだ。

 だめだ。

 今行かせたら、本当にもう二度と会えなくなる気がする。

「だめです。行っちゃ――」

「草月、」

「行くなら、私も――」

 高杉の手が、優しく、だがしっかりと草月の手を引きはがした。

「おのしはまだ来るな。おのしには、まだやるべきことが残っちょるじゃろう」

「でも、私は……!」

 まだ離れたくない。もっとずっと一緒にいたい。

「なあ草月。なぜ露草が月草とも呼ばれるか、知っちょるか」

「え? いいえ……」

「月の出るうちに咲き始めるから、という説もあるが、もう一つある。花びらの青い色が着きやすいことから、『着草ツキクサ』と呼ばれるようになった、という説じゃ。露草で染めた着物は色が落ちやすいと言うが、おのしは僕の中に、決して消えぬ色を残していった」

「――」

「なあ草月。面白かったのう」

「……はい。面白かったです。一緒に過ごしたこの六年間、とっても、とっても……!」

「僕もじゃ。正直、やり残したことはたくさんあるが……、まあ、久坂に頼まれた分くらいは、やれたかの。あとは木戸さんたちの仕事じゃ。またやっかいごとを押し付けて、と叱られそうじゃがな」

 高杉らしい言い様に、思わずくすり、と笑ってしまう。その拍子に、目尻にたまった涙がぽろりとこぼれた。そっと優しくぬぐってくれる、高杉の少し荒れた指の感触がたまらなく愛おしい。

「誰かがまた次の誰かに志を託して――。そうやって少しずつ時代は変わっていくんじゃろう。その成果が見られんことは残念じゃが」

「見てますよ。もうすでに。私のいた国は、高杉さんのいた頃から百五十年以上経った先の未来の日本なんです」

「未来――、そうか」

 高杉は腑に落ちたような顔をして、何度も頷いた。

「そんな先の世を垣間見たのは、この世で僕くらいのものじゃろうな」

「百五十年も昔の世に迷い込んだ人間も、私だけですよ、きっと」

「確かにな」

 ははは、と笑い声が重なる。

 高杉の瞳が、真っすぐに草月の瞳を射抜いた。

「草月、約束しろ。どこにいても、何をしようとも、おのしの信じる道を行くと」

「……っ、約束、します」

 ぐっと涙をこらえ、精一杯胸を張った。

「これでも私は、高杉さんや久坂さん――、たくさんのすごい人たちの薫陶を受けた、長州の志士・唯野草月ですから!」

 言い放つと、高杉はふっ、と柔らかく微笑んだ。

「その意気じゃ」

 ふいに、眩い光が差し込んだ。隣の続き間が、明るく光を放っている。

 いつしか、久坂たちがそろって立ち上がり、こちらを見ていた。

 ひとり、またひとりと微笑みを残してその光の中へと消えていく。最後に残った久坂が、高杉に向かって手を伸ばした。

 今度こそ高杉は一歩を踏み出した。

 高杉の姿が薄くなる。

 辺りの景色がかすんでいく。


(約束します。きっと。精一杯生きるって――)


(きっと……)


「――高杉さん!」

 己の声で目が覚めた。

 一二三屋の二階にある、見慣れた自室。その隅に敷いた布団の上に草月は横たわっていた。

 夜明けにはまだ間があるのか、辺りはまだ薄暗い。

 顔に手をやると、頬が涙で濡れていた。

 高杉の手の感触が、まだ残っている気がする。



 高杉死去の報が届いたのは、それから間もなくのことだった。

 享年二十九歳。満年齢では二十八にわずかに満たぬ、短くも鮮烈な一生であった。



                      *


 馬関から北東に四里ほど行った先にある吉田という地で、高杉の葬儀はひっそりと営まれた。吉田は、奇兵隊の陣営が置かれた場所である。

 それから半月が過ぎ。草月はおうのを誘って招魂場を訪れていた。二人の前に建つ真新しい石柱には、高杉の名が刻まれている。

「こうして二人で話すのは久しぶりだね。お葬式の時以来、かな」

「へえ」

「大福さんはこれからどうするの?」

「落ち着いたら、髪を下ろそう思とります。旦はんの菩提を弔いたぁて。……旦はん、ああ見えて寂しがりやですよって。誰かがそばにいてあげへんと」

「そっか……。そうだね、大福さんがいてくれたら、高杉さん、きっと寂しくないね。私も安心」

 最後のお座敷を決行した翌日、おうのを訪ねて、雅が白石邸に来たという。

 二人の間にどんな話があったのか、草月は知らない。だが、その日以降、おうのは雅と共に高杉の看病にあたるようになった。

「草月はんは、どうしはるんどすか」

「私は、これまで通り、長州のために働くよ。……ひとつだけ、個人的にやらなくちゃいけないことがあるんだけど……。その時が来るまでは、私に出来ることを精一杯やるつもり。高杉さんとも約束したから」

「そうどすか」

 草月はん、とおうのの柔らかな声が草月の名を呼んだ。

「いつか、教えてくれまへんやろか、草月はんの見てきた旦はんのこと。どないなふうに笑て、どないなことで怒って、どないなことに喜んで、どないなことに悩んで、どないなことを目指してはったんか……、いろいろ」

「……うん。私も聞きたい、私の知らない高杉さんのこと。いっぱい話そう。たっくさん美味しいお菓子用意してさ。朝から晩まで話そうよ」

「へえ」

 微笑み合う二人の間を、悪戯な春の風がひゅんと軽やかに吹き抜けていった。



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