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花信風  作者: つま先カラス
第五章 慶応三年
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     最後のお座敷・後

「どうしたんですか、伊藤さん。何か計画に変更でも?」

「とぼけるなよ。用件は分かってるだろ?」

 草月に向き合って座った伊藤は、いつになく真剣な表情で草月を見据えた。その目は如実に、ごまかしは許さないと語っている。

「お前は、本当にこれで良いのか?」

「……くどいですよ、伊藤さん。言ったでしょう、約束したんだって」

「お前、今、自分がどんな顔してるか分かってるか? そんな無理が見え見えの顔しておいて、いつまで意地張るつもりだよ。本当にこのまま高杉さんに会わなかったら、絶対に一生後悔するぞ!」

「それでも……!」

 草月は袴の布を皺が残るほどに強く握りしめた。

「それでも、約束したんだもの、もう会わないって! そういう伊藤さんこそ、後悔しないんですか。藩命だからって、伊藤さんも田中さんと一緒に、高杉さんを置いて、もうすぐ京へ行ってしまうんでしょう」

「しないよ。それが長州の志士としての俺の役目だから」

 伊藤は迷いなくきっぱりと言い切った。

「長州には今、一人でも多く、京で活動する人間がいる。薩摩はもちろん、朝廷や幕府、有力諸侯の動きを探るための人間が。そうして集めた情報をもとに、慎重に次の一手を見極めないと、この先、長州は生き残れない。高杉さんのため、長州のため……、そして俺自身のために、命を捨てる覚悟で、俺は行く。でも、お前は違うだろ? お前にはまだここで、出来ることがある。……さっき、おうのにお前が言ったこと、そのままそっくりお返しするよ。高杉さんはきっとお前に会いたいはずだ。……お前はそうは思わないのか?」

「思いますよ。それくらいにはうぬぼれてます。……それでも高杉さんは、私がそばにいることより、元気な姿を私に覚えておいて欲しいと願ったんです。だから、高杉さんの方から会いに来いと言われない限りは、私からは決して行きません」

 草月は頑なに意見を曲げない。それきり会話が途切れ、室内には重苦しい空気が漂う。

 場違いに明るい笑い声が、階下の店表から聞こえてくる。隙間風に揺れる行灯の火が、二人の影を不気味に伸び縮みさせていた。

 長い沈黙を破ったのは、伊藤の方だった。

「……お前、『十萌』って名前に心当たりはあるか」

「……え?」

「高杉さんがまだ東行庵で養生していた頃、庭に遊びに来る鶯を可愛がってたことは知ってるよな? 今日は来るか、いつ来るか、って心待ちにして……。一度だけ、高杉さんがその鶯を『十萌』って呼んでるのを聞いたことがあるんだ。その時は、その名前に何か意味があるとは思わなかったから、大して気にも留めてなかった。でも、この前、見舞いに行った時、久しぶりにその名前を聞いてさ――」

 自分ではもう思うように動かせない痩せた体を布団の上に横たえ、顔だけを庭に向けた高杉が、独り言のようにぽつりと漏らしたという。

 十萌はどうしちょるかのう。あの約束は、三千世界より遠いか……、と。

「その時、気付いたんだ。『十萌』っていうのは、草月のことなんじゃないか……、高杉さんは、鶯にかこつけて、ずっとお前のことを言ってたんじゃないか、って……。人の気持ちなんて、そう簡単に割り切れるもんじゃない。高杉さんがお前に元気な姿を覚えていて欲しいのは本心だろうさ。それでもやっぱり会いたい、でも会いたくない……、そんな矛盾する気持ちを抱えて、約束だと自分に言い聞かせて、でも心の底では、ずっとお前が来るのを待ってるんだよ」

「……」

 ――『十萌』

 いつだったか、高杉とふざけて考えた草月の変名だ。

 覚えていたのか。あんな他愛もない言葉遊びを。

 かっと目の奥が熱くなった。

 投げ入れられた小石が水底の澱を舞い上がらせるように、深く深く沈めていた感情が込み上げてくる。


「……会いたい」


 一度口にしてしまえば、漏れ出した想いはもう止まることなく奔流のように胸の内から噴き出した。

「高杉さんに会いたい……!」

「やっと言ったな。なら、会いに行こうぜ」

 ……ああ、そうだ。

 世界でも何でも飛び越えて会いに行く。

 自分でそう言ったのに。

 忘れていたなんて。

「最高の踊り、高杉さんに見せてやれ」

「はい。……でも、もうずっとお稽古してないし、ちゃんと踊れるか……」

 仲間内の宴会の余興で踊ることはままあれど、最後に正式に芸者として座敷に上がったのは何年前だろう。

「いいんだよ。もちろん芸も大事だろうけど、ここで何より大事なのは気持ちだよ。草月が高杉さんを思う気持ち、存分に込めて踊ればいいんだ。みんなで最高のお座敷を高杉さんに贈ろうぜ」

「はい……!」


                      *


 体が動かないがゆえに他の感覚が鋭敏になるのだろうか。

 高杉はなぜかその日、屋敷の雰囲気や周囲の人間の様子に、どこか浮き立ったものを感じていた。しかし、何かあるのかと雅や母親に尋ねてみても、いずれもはぐらかされるばかり。

 日が沈むころになり、やって来た井上と伊藤のにやにやとした企み顔を見て、やはり直感は正しかったと悟った。

「一体、何事じゃ」

「いいから、行けば分かりますって」

 二人に両側から支えられるようにして、本邸の一室へと導かれる。

「「御開帳―!」」

 息の合った掛け声に合わせて、ふすまが左右に開いた。

 目に飛び込んで来た光景に、高杉は目をみはった。

 部屋には豪華なごちそうの膳が並んだ宴席が用意され、木戸や田中、坂本、白石をはじめ、気の置けない仲間が勢ぞろいしている。

「これは――」

「『高杉が行けないのなら、座敷の方を持って来ればいい』と抜かしおる、どこかの馬鹿の、突拍子もない思い付きでな」

 にやりと井上が言って、高杉を床の間の前の上座へと誘う。

 その間にも、部屋のあちこちから高杉へ声がかけられる。

「邪魔しちゅうぜよ、高杉さん!」

「いやはや、面白い趣向ですな」

「先生、今日は思いっきり楽しみましょう!」

 正面に据えられた金屏風のそばには、三味線を構えたおうのがいて、高杉と目が合うと、ふんわりと微笑んだ。

「さあ、主役も来たことだし、さっそく宴を始めよう」

 木戸の合図で、六人の芸者がしゅるしゅると着物の裾を鳴らしながら入ってくる。彼女たちは、おうのの三味線に合わせて、ぴたりと息の合った見事な踊りを見せた。曲が終わり、やんやの歓声の中、芸者たちが左右に割れると、後ろに隠れていた一人の芸者が姿を現した。

 身にまとうは、露草色の地に竹の絵をあしらった鮮やかなお引きずり。髪はすっきりとつぶし島田に結い上げて、流水文様の蒔絵櫛と銀の平打ち簪を挿している。華美さはないが、ひかえめな中にもどこかきりりと芯の強さを感じさせる居姿である。

 芸者――草月は、覚悟を決めるようにきゅっと丹田に力を込めて、伏せていた顔をゆっくりと上げた。畳三枚分隔てた先で、はっと、高杉が身じろぎするのが分かった。

 照明の加減で、草月からは高杉の顔は影になってはっきりとは見えない。高杉との約束を守るための、これがぎりぎりの線だった。

 再び会えた嬉しさ、無理に会いに来てしまったことへの後ろめたさ、様々な思いが一瞬のうちに胸に渦巻いた。

(高杉さんの前でこうして踊るのは、きっと、これが最初で最後――)

 技術も経験も半端な私が出来るのは、ただ心からの想いを込めて、全身全霊で踊ること。

 べん、とおうのの三味線の音が鳴る。

 その音に導かれるように、扇を手に取り立ち上がった。

 いつしか周囲のざわめきも人も消えて、広い座敷に草月と高杉だけがいる。


 ~春は花 いざ見にごんせ東山


(……初めて高杉さんに会ったのも、こんな宴の席でしたね。あの頃の高杉さんは攘夷に燃える血気盛んな若い武士で、私はただの芸者見習い。それがまさか、その後何年も続く縁の始まりになるなんて、あの時はお互い夢にも思ってなかったでしょう)


 ~みそぎぞ夏はうち連れて 河原に集う夕涼み


(色んなことをしましたね。……。皆でおしゃべりして、くだらないことで笑い合って、喧嘩もして。春はお花見、夏は川涼み、秋は紅葉狩り、冬にはみんなで雪遊びもしましたっけ。横浜にも行ったし、江戸から京まで長い長い旅もしました。離れていた時期もあったけど、決死の思いで来た長州で再会して……。正直、楽しいことばかりじゃなかった)


~真葛ヶ原にそよそよと 秋は色増す華頂山


(自分に何が出来るのか、思い悩んだこともありました。戦の時は、どれだけ強がっていてもやっぱり怖くて怖くてたまらなかった。大切な人たちを亡くした悲しみに、押しつぶされそうになる夜もあった。……ねえ高杉さん、たつみ屋にいた頃と今の私は変わったかな。高杉さんたちの背中を追いかけて、夢中でここまで駆けてきて――。少しは成長できたでしょうか。少しは役に立てたでしょうか)


 ~想いぞ積もる丸山の 今朝も来て見る雪見酒


(……来るなと言われたのに来てしまったこと、本当にごめんなさい。でもどうしても、もう一度会いたかった。会って伝えたかった。どうか忘れないでください。私は今も、あの日たつみ屋で、高杉さんたちに会えたこと、悪いことだったなんて、これっぽっちも思ってません。みんなと知り合って経験した全てのこと――いいことも悪いことも――、その中で感じた嬉しさも楽しさも苦しみも悲しみも切なさも愛しさも……、全部ぜんぶ、私にとって忘れられない、忘れてはいけない、かけがえのないものだから。だから何度でも言います。高杉さんに会えて良かった。あなたを好きになって、良かった)

 なめらかに扇が舞い下りて、最後の振り付けが終わる。流れるような動作でそのまますっと腰を下ろすと、閉じた扇を畳の上に置き、深々と頭を下げた。

 同時に三味線の音が止まる。

 二人の間に、現実が戻ってくる。

「見事な舞じゃった」

 ひと月半ぶりに聞く高杉の声。それだけで泣きそうになる。

「よく――、来てくれたな。……おのし、名は?」

(え?)

 草月は一瞬、迷ってから答えた。

「……十萌、と申します」

「十萌、か……。おのしは僕の知り合いに良く似ちょる……。一見、どこにでもある野の草のような風情をして、その実、大木ほどの頑丈な太い根っこを持っちょるような奴でな――」

「はい」

 何を言い出すのだろう。話の先が見えないまま、高杉の言葉を一言も聞き漏らすまいと耳をそばだてる。

「いざとなると、とんでもない度胸の良さを発揮するんじゃ。悪党相手に大立ち回りを繰り広げるわ、危険な戦のただ中に飛び込んでいくわ……、そこらの武士も裸足で逃げだすほどの男前っぷりで、いつだって、こちらの予想を超える、突拍子もないことをやってのける。昔も今も、僕は驚かされてばかりじゃ」

 暗がりの中、見えなくても、高杉が口角を引き上げて、あの楽し気な笑みを浮かべているのが分かった。よくもまあ、本人を目の前にして、ぬけぬけと言ったものだ。なんだか面白くなってきて、草月は澄ましたふうを装って、こう返した。

「まあそうですか。奇遇なことに、私もその人のこと、よぉーく存じ上げておりまして。その人が聞いたら、きっとこう言うと思いますよ。『自分が野の草なら、高杉さんは何をしでかすか予測もつかない嵐みたいな人です。だから、自分の根っこがたくましくなったのは、その嵐に負けないよう踏ん張り続けたせいです』って」

「ほう」

 しばし無言で睨み合ったのち、同時にぷっと噴き出した。部屋のあちこちからも忍び笑いが漏れる。

 本当に最後になるかもしれないという時に、二人して何をふざけているんだろう。でも、変に改まってしんみりするより、軽口を交わし合うこの関係の方が、何より自分たちらしいのかもしれなかった。

「なら、そいつに伝えてくれ。……おのしのおかげで、退屈する暇もなかった。共に過ごした日々、何があろうと忘れん」


 ――草月に、


 ――高杉さんに、


「「出会えて良かった」」



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