第59話 最後のお座敷・前
時に真冬に逆戻りしたような寒さと夏を先取りしたような暑さの両極端を行き来しながら、少しずつ季節は移ろいでいく。今日はこちらで桜が咲いた、あちらの桜はもう見頃だ。行き交う人々の口の端にも、花見の話題が上がり始める。
だが、春が深まるにつれて、高杉の体調は、坂を転げ落ちるように悪くなっていった。よりよい療養地を求めて、高杉とおうのは新地会所の近くにある林算九郎邸の離れに移り、高杉はそこを竹にちなんで『緑筍堂』と名付けた。
「お顔の色はまるで透き通るように白うて、熱のせいか、頬にだけぱっと朱が差したようになって……。最近は寝返り打つんもしんどいみたいどす。重湯でさえあんまり喉を通らん日もあって……」
しとしとと冷たい春雨の降り続くある日の午後。
『一二三屋』の二階には、看病の合間に草月を訪ねてきたおうのの姿があった。
「そんなに悪いの――」
草月の体に、まるで氷の手で心臓を撫でられたような感覚が走る。
「毎晩、眠りにつくたんびに思うんどす。朝起きて、旦はんが息してはらんかったらどないしょう、って。何べんも夜中に目ぇ覚めて、旦はんの寝息を確かめて、ほっとして……。その繰り返し……。旦はんが苦しそうにしてはるのに、うちはそばにおっても、なんもできへん。それが情けのうて情けのうて――」
話の途中、ふいに声を詰まらせたおうのは、せり上がった気持ちを呑み込むようにぐっと唇を引き結んだ。ややあって、目尻に浮かんだ涙を袖口でそっとぬぐい、
「……すんまへん。うちゆうたら、弱音ばっかり吐いて。草月はんかて会いたい気持ち堪えてはるゆうのに。何より一番つらいのは旦はんやのに……。うちがこんなやったら、旦はんに余計な心配かけてしまいますな」
気丈に微笑むおうのは、心労ゆえか少し痩せたようだった。草月は元気づけるように、声に力を込めた。
「そんなことないよ、大丈夫。大福さんがそばにいてくれるだけで、きっと高杉さんは随分気持ちが楽になってると思うから……。でも、そんなふうにずっと気を張り詰めてたら、大福さんの方がまいっちゃうよ」
草月は口を付けぬままだった手の中の湯呑に目を落とした。
「……私もね、何年か前に、一人で色々溜め込んじゃってた時期があったの。でも、ある人にすっぱり見抜かて、全部白状させられちゃった。自分の弱さをさらけ出すのはみっともなくって、恥ずかしくって、失望されるんじゃないかって不安もあったけど、でも、その人は全部丸ごと受け止めてくれて、すごく気持ちが楽になったんだ。それからは、一人で抱え込まずに、時々は人に甘えるようにしてる……。だから大福さんも、ここにいる時くらい、人目なんか気にしないで、思いっきり愚痴でも何でも吐き出しちゃって! 人に頼ることは、全然恥なんかじゃないよ。つらいならつらいって言えばいいし、泣きたい時は泣けばいいんだから。会えないつらさも、そばにいることで感じるつらさも、どちらがよりつらいかなんて、比べることなんか出来ないよ。高杉さんを好きな人は、みんな、高杉さんに元気になって欲しいって、ただそれだけ……って、ヤダ、言ってる私の方が涙出てきちゃった。ああもう私、そんなに泣き虫じゃなかったはずなのにな……。きっと雨のせいだ。雨がうつったってことにしてね」
「……ほんま、うちの顔もえらい大雨や……」
二人の頬を滑り落ちる大粒の雨は、しばらく止む気配をみせなかった。
*
萩から、高杉の両親や妻の雅、息子の梅之進がそろって馬関にやって来たのは、三月半ばを過ぎた頃だった。
それまで一心に高杉の看病に当たっていたおうのは静かに身を引き、再び白石邸に世話になることになった。
草月は毎日のように白石邸へ寄っては、おうのも交えて伊藤や田中たちから高杉の様子を聞いた。今日は良くしゃべったとか、冗談を言って笑ったとか、新しい漢詩を作ったとか、少しだけど食べ物を口にしたとか、そんな些細なことに一喜一憂する日々が続いた。
そうしたある日。
木戸と井上が来ていると聞いて、草月は早々に応接掛の仕事を終わらせると、綿を取って軽くなった袷の着物の袖をひるがえし、夕焼け色に染まり始めた町を白石邸へと走った。部屋には二人のほかに、伊藤と田中の姿もあった。失礼しますと声をかけ、おうのとともに座に加わる。
「高杉さんにはもう会われたんですか」
「ああ。こちらへ着いてすぐにな。……あいつ、私の顔を見るなり、幕府や諸藩の最新情報を教えろ、ときた。まったく、体が弱っても、気力だけは衰えていないな」
ふっと笑った木戸だったが、すぐにその表情は苦しげなものへと変わる。
「……しかし、だからこそ、己の体がままならないことが相当悔しいのだろう」
どうして自分だけがと、木戸に苛立ちをぶつけてくることもあったのだと言う。他の者の前では決して見せなかった姿だ。昔から高杉を知る、兄貴分のような木戸にだけは、弱さを見せられたのかもしれない。
高杉の心情を思いやって、一座の者の顔には、沈痛な面持ちが浮かんだ。
「何度も繰り返し言われたよ。薩摩や土佐に後れを取るな。必ずや幕府を追い詰め、長州の正義を明らかにし、西洋列強に負けない強い日本を作ってくれ、と」
「そう、ですか……」
「つい長々と話し込んでしまってな。あまり長居しても体に障る。続きは明日にしてわしらは帰ろうとしたんじゃが……。あいつ、どうしても馴染みの料亭に行くと言って聞かん」
井上がもどかしげに頭を掻きむしった。
「仕方なく駕籠を呼んだんじゃが、途中で高杉の気分が悪くなって、結局引き返した」
「あいつは芸者遊びが何より好きだからな……。できることなら、その望み、叶えてやりたかったんだが」
木戸の言葉にも悔しさが滲む。俯いて聞いていた草月が、急に何かを思い立った表情で顔を上げた。
「高杉さんが行けないのなら、お座敷の方を持って来られないでしょうか」
「……何?」
「どういうことじゃ」
「林さんの本邸の一室をお借りして、そこを臨時のお座敷にするんです。金屏風を設えて、料亭から仕出しのお料理を頼んで、芸者さんを呼んで――。もちろん、お医者様や高杉さんのご家族のお許しが出れば、ですけど」
「相変わらず、突拍子もないことを思いつく奴じゃな、お前は」
井上が半眼で草月をねめつけた。その唇がゆっくりと弧を描く。
「……じゃがまあ、悪くない」
「そう来なくっちゃ、聞多! やろうぜお座敷! いいですよね、木戸さん? 調度品の調達や芸者の手配は俺に任せて!」
伊藤が言えば、田中もやる気満々で身を乗り出す。
「力仕事じゃったら、俺の出番ぜよ!」
「どうせやるなら、白石さんや龍馬さんたちも招待して、にぎやかにいきたいですね。三味線は大福さんにお願いするとして、他に芸者さんを五、六人くらい……」
「え? うちもそのお座敷に出るんどすか?」
「もちろん! 大福さんが来てくれたら、高杉さん、絶対に喜ぶよ。大福さんと離れて、きっと寂しいって思ってるはずだもの。大福さんだって、高杉さんに会いたいでしょう?」
「……せやけど、うちなんかが出しゃばって、旦はんの奥様やご家族が気い悪うされんやろか」
「う……ん、それは……。高杉さんに喜んでもらうためだって言えば、お許しくださらないかな……」
「説得は私が引き受けよう。御典医にも、宴の間は隣室で待機してもらえるよう手配する。だから君たちは芸にだけ集中しなさい」
ありがとうございます、と下げた草月の頭が、壊れたからくり人形のように途中でカクリ、と止まった。
「『君たち』?」
「無論、君も踊りで参加するんだろう」
「いえ、私は――」
「おいお前、自分で言い出しておいて、自分だけ何もしないつもりではないじゃろうな」
「まさか! 荷物運びでも何でもやりますよ。でも、私はあくまで裏方です。高杉さんに会うつもりはありません。そう約束しましたから」
きっぱり言い切る。
草月を除く五人は何か言いたげに顔を見合わせたが、それ以上そのことについては触れなかった。計画の詳細を詰め、もろもろの準備を鑑みて、宴の開催日は三日後と決まった。
一二三屋に戻った草月は、自室の文机の横に置いてある手文庫の底から、二つ折りになった台紙を取り出した。そっと開くと、中から一枚の肖像写真が現れる。
ちょうど一年前の春、長崎に行った時に高杉と一緒に撮ったものだ。写真の中の高杉は、かつての生き生きとした姿のまま、時が止まっている。
高杉がこの姿を覚えておいて欲しいと願うのなら、その願いを叶えるまで。……もう草月が高杉のために出来ることは、いくらもないのだから。
自分に言い聞かせるように、何度もそう心の中でつぶやく。
廊下の床板のきしむ音がして、障子越しに、おさんの控えめな声がかかった。
「草月さん? 今いいかしら。伊藤様がいらしてるんだけど」




