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花信風  作者: つま先カラス
第五章 慶応三年
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第58話 別離

 慶応三年の春はいつになく穏やかに幕を明けた。

 正月には長らく諸隊の一員として家を空けていた二郎丸が里帰りして、久しぶりに三兄妹が顔をそろえることになった。新年のあいさつに訪れた東行庵では、居合わせた田中や伊藤、お梅、そしておうのと一緒に双六遊びに興じた。伊藤とお梅は昨年の暮れに祝言を挙げたばかりで、見ているこちらが照れてしまうほどの仲睦まじさであったが、意外にもお梅は勝負強さを発揮し、連戦連勝。負けず嫌いの高杉は自分が一番になるまでやめないと言ってきかず、結局七回も勝負する羽目になった。

 巷では孝明天皇の崩御が明らかになり、三度目の長州征伐の噂も流れてくるなど不穏の種はいくらもあった。それでもたとえ一時でも、こうしてただ皆で笑い合える時間が、草月には何よりかけがえのないものに感じられた。

 小倉藩との和議は、幾度もの決裂の危機を乗り越え、一月二十三日に無事、成立した。草月はそれを機に丙寅丸を降り、外国応接掛の仕事に復帰した。以前と同様に通詞や雑用をして働く傍ら、諸外国の動きを探る任務もあり、なかなかに忙しい。

 二月も半ばを過ぎ、暖かな陽気の日が増えてくると、殺風景だった道端にはレンゲやスミレ、ナズナといった色とりどりの野の花が華やかに彩りを添え始めた。ひらりひらりと舞う極彩色の蝶たちが、道行く草月のそばに戯れに飛んできては離れていく。可憐なその様子に頬を緩ませつつ東行庵へ向かうと、高杉は一人、文机に向かって一心に竹の絵を描いているところだった。

 迷いなく筆が動き、見る間に竹の幹が、葉が、巧みな濃淡で生き生きと描写されていく。

 ふとその筆が止まった。顎に手をやり、何事か思案していたと思うや、高杉はたっぷりと水を含ませた薄墨の筆をさっと走らせた。とたん、白い余白が夜空へと変わり、竹の後ろにほわりと白い月が浮かび上がる。

 わ、と草月の口から思わず感嘆の声が漏れる。そんな草月に、高杉はまんざらでもなさそうな顔を向け、

「気に入ったなら、持って帰ってええぞ」

「いいんですか?」

「ああ」

 落款印を押して無造作に差し出されたそれを、草月はまるで仙人から授けられた貴重な秘術の書であるかのように両手でそうっと受け取った。

「きれいですね……。春の朧月夜みたい」

 嬉しそうに顔をほころばせていた草月は、ひょっと顔を上げて、

「あれ? そういえば、大福さんは?」

 いつもにこにこと出迎えてくれる福々しい姿が見当たらない。

「あいつは出ちょる。昔世話になったという置屋の女将に、人手が足らんと駆り出されてな。今日は遅くなるそうじゃ」

「そうなんですか……。蒸したての美味しそうな酒饅頭を見かけたから、一緒に食べようと思って買ってきたんですけど」

 手の中の包みは、まだほんのりと温かい。

「大福さんの分は残しておいて、私たちで先に食べちゃいましょうか。今、お茶淹れますね」

 庭を望む縁側に並んで腰かけ、小皿に取り分けた饅頭をさっそく口に運ぶ。

「ん、おいしい」

 しっとりとした皮の風味と、甘さを抑えた餡の味が絶妙に調和している。

「なかなかいけるな」

「ね?」

 見上げる空は青く澄み渡り、太陽の光が惜しみなく降り注ぐ。庭土には萌黄色の下草が生え、モンシロチョウがひらひらと舞っている。

「春ですねえ」

「春じゃなあ」

 この状況でこの会話は、なんだかおじいちゃんとおばあちゃんみたいだ、と草月はちょっとおかしくなる。

「何をこそこそ笑っちょる」

「いえ別に」

 空とぼけてお茶を飲んだ。

 高杉はそんな草月を横目でちらりと見やり、ふーん、と疑わし気な声を上げたが、それ以上は追及してこなかった。

 番いらしい二羽のメジロがじゃれ合うように飛んできて、梅の木にちょこんと止まった。わずかに一輪だけのこった花にくちばしを入れて、蜜をついばんでいる。

 さわさわと微かな風が木々の葉を揺らす。

 沈丁花だろうか。

 どこからか、さわやかな甘い花の香りがただよってくる。

 時折、思い出したようにぽつりぽつりと言葉を交わすだけで、庵の中にはゆったりと静かな時間が流れていた。

 適度に腹が満たされたことと、ぽかぽか陽気も相まって、だんだんと瞼が重くなってくる。

「眠そうじゃな。応接掛の仕事はそんなに忙しいのか?」

「いえ、仕事が忙しいのもそうなんですけど……」

 草月は慌ててしゃんと背筋を伸ばした。

「昨夜、遅くまで一太郎さんと西洋料理のメニューを考えてたんですよ。応接掛で会ったアメリカの貿易会社の方が、今度お店に来てくれることになってて……。料理を気に入ってもらえたら、バターやチーズを、安く卸してくれるって話なんです」

「ほお。それはまたとないチャンスじゃな」

「そうなんです。クセのある食材だから、好き嫌いは分かれるところだと思いますけど、それでも今よりずっと色んな種類の西洋料理を日本の人たちに紹介できるようになるし、外国のお客さんももっと来てくれるかもしれないでしょう? だから気合が入っちゃって。一二三屋が、日本人と外国人が交流できる場所になったらいいね、って一太郎さんやおさんちゃんとも良く話してるんです。桜の時期には、外国の人も誘って一緒にお花見をしようって計画も立ててるんですよ」

 『草莽攘夷』の道はまだまだ継続中ですからね、と微笑んでみせる。高杉は、そうか、と感慨深げに応じた後、ふいに何か悪戯を思いついたような意味深な笑みを浮かべる。怪訝な顔をする草月に向かって、ぽんぽんと己の腿を叩いてみせた。

「?」

「眠いんじゃろう? 膝枕してやる」

「へっ?」

 思い切り草月の声が裏返った。

「いや、でも……」

「頑張っちょるおのしにご褒美じゃ」

「ご褒美って……。普通、こういうの、逆じゃないですか?」

「僕は前にしてもらったしな。二度は言わんぞ?」

「……じゃあ、お言葉に甘えて」

 失礼します……。

 横になり、おずおずと頭を高杉の膝に乗せる。

 視線の位置が低くなって、急に庭が広くなったように感じられる。

 高杉の手が下りてきて、草月の頭を優しく撫でてくれる。その手の感触が思いのほか心地よくて、強張っていた体から徐々に力が抜けていく。目を閉じた覚えもないままに、いつしか意識はまどろみの中に落ちていた。


                     *


 少しかすれ気味の抑揚のある声が、何かの旋律を奏でている。

「ん……」

「すまん、起こしたか?」

「いえ……」

 この状況を思い出すのに、瞬き数回分を要した。

「私、寝ちゃってました?」

「気持ちよさそうにな」

「すみません」

 すぐ退きます、と体を起こそうとするのを、高杉の手がやんわりと止めた。

「いいから、もう少し横になっちょけ。特別サービスじゃ」

「……じゃあ、サービスついでに、さっきの歌、もう一回歌ってもらえませんか」

「うん?」

「何か歌ってたでしょう? ちゃんと聞けなかったから、もう一回」

 わがままを言うと、高杉はしょうがないなあ、というふうに目を細めた。それから、ついと視線を上げ、ゆっくりと息を吸った。


 ~三千世界の烏を殺し ぬしと朝寝がしてみたい


「……子守歌にしてはずいぶんと艶っぽい歌ですね」

「そうじゃな」

 ふふふ、と声を潜めて笑い合う。

「ねえ高杉さん」

「うん?」

「私はね、高杉さんと会えるなら、たとえどんなに離れてても、三千世界でも、時間でも空間でも、この世でもあの世でも、何でも飛び越えて、きっと会いに行きますよ」

「おのしならやり遂げそうじゃな」

 くっくっと楽し気に笑う様子が、体の振動を通して伝わってくる。

 草月は手を伸ばし、高杉の手にそっと己の手を重ねた。

 痩せて骨ばった手。

 死に至る病だと分かっていても、高杉だけは大丈夫なんじゃないかと、心のどこかで思っていた。いつか快方に向かうのではないか、と。

 でも現実はそんなことはなくて。

 確実に病は高杉の体を蝕んでいて。

 自分の体温を移すように高杉の手を包み込み、祈るように額に当てて目を閉じた。

(……ねえ、お願い。私をこの時代に寄越した力がどこかにあるなら。二度と元の時代に帰れなくていい、私の命と引き換えでもかまわない。高杉さんを助けて――……!)

 どれくらいそうしていただろう。

 ゆっくりと目蓋を開く。

 何も起こらない。

 何も変わらない。

 神々しい光が差すことも、突風が吹くことも、空間が歪むことも、何もない。

 目の前には、たださっきまでと同じ景色があるだけだ。

(……そうだよね。そんな都合のいいこと、起こるはずないよね)

 分かっていた。

 それでも、そんな奇跡にすがりたくなるほどに、高杉は草月にとって何にも代えがたい存在だった。

「……草月」

 ぎゅっ、と。

 草月の行動の意味を分かっているかのように、高杉が握り返す手に力を込めた。

「はい」

「……おのしに話がある」

 さわ、と風が二人の間を吹き抜けた。


                        *


 日の暮れかかった亀山八幡宮の広い境内には参拝客もまばらで、濃い闇に沈む木々の陰影は少し不気味なほどだった。

 だだだっと長い石段を一気に駆け上がった伊藤は、海に向かってぽつんと佇む人影に向かい、草月、と呼んで駆け寄った。

「やっぱり! 今、白石の屋敷に寄って来たところなんだけど、たまたまこっちを見上げたら、お前に良く似た奴が見えたからさ。何してるんだ、こんな時間に。夜はまだまだ冷えるってのに、風邪ひく、ぞ……」

 ぽんぽんと投げかけられていた伊藤の言葉は、草月の顔を見た瞬間、急速に尻すぼみになった。

 草月は泣いていた。声もなく、ただ独りで。

「……伊藤さん」

 零れ落ちる涙を拭いもせずに、草月は濡れた頬をゆがめて微笑んだ。

「……私、高杉さんに、もう来るなって言われちゃった」

「は……、……ええ?」

「『もう、ここには来るな』って。だから私、『分かりました』って答えたんです。『分かりました』。それで終わり。……もう、会えない。会えないんです」

 言葉を紡ぐ間にも、大粒の涙が次々とあふれては、新たに頬を濡らしていく。

「会えないって……、お前、何言ってるんだよ! そんなの、『嫌だ』って言えば良かったじゃないか! 今会っておかなきゃ……、本当に、もう、二度と会えなくなるかもしれないんだぞ!」

「分かってます! 嫌っていうほど分かってる。でも、高杉さんがどんな気持ちで私にそう言ったのか……。高杉さんが、弱っていく自分を私に見せたくなくてそう言ったのも分かったから。だから聞き分けのいいふりして頷いた。だけどやっぱり辛くて、苦しくて……。返事をした瞬間から後悔してる。ホントはもっと一緒にいたい。話をしたい。声が聞きたい。会えないなんて嫌だ。もっと、もっと――」

 草月、って呼んで欲しい。手を握って欲しい。髪をなでて欲しい。私の大好きな、あの不敵な笑みで大丈夫って言って欲しい。

 『来るな』なんて、どうしてそんなこと言うの。まるでもう助からないってあきらめてるみたいじゃない。いつだって、どんな窮地だって、大どんでん返しの奇跡を起こしてきたじゃない。

 ひくっと、こらえきれない嗚咽がもれる。

「……それで、こんなところで一人泣いてたってのかよ。そんなふうに、自分の気持ち、押し殺して」

 伊藤は自分の羽織を脱いで、草月の冷え切った肩を包み込むようにかけてやった。あきらめたように嘆息する。

「馬鹿だよ、お前も、高杉さんも。どっちも意地っ張りで格好つけで、本当、似た者同士なんだからな……」




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