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花信風  作者: つま先カラス
第五章 慶応三年
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     キング来訪・後

 迎えた会談当日の朝。

 貞永邸では、昨日に引き続き、大急ぎで会見準備が進められていた。広い邸内を、必死な形相の藩士や女中らがせわしなく行き交う。空は徐々に明るさを増していき、刷毛でさっと刷いたような薄い雲を透かして金色の太陽が家々の屋根の上から顔を覗かせ始めた。

 床の間に飾る生け花や装花などの進捗状況や使用する食器類などを逐一確認しながら、そわそわと広間の中を歩き回っていた草月は懐から懐中時計を取り出し、かちゃりと蓋を開けて時間を確かめた。さっきからもう何度同じ動作を繰り返したことだろう。

 時計の針は九時二十分を指している。

 昼までに万端準備を整えておくためには、そろそろ追加の調度品が届いていないといけないのだが……。

「草月さん!」

 昨日今日ですっかり顔なじみになった若い女中が、息せき切って広間に駆け込んで来た。

「た、たった今、荷が到着したようでございます。庭を回って、こちらへお運び入れくださるとのこと――」

「ありがとう!」

 食い気味に応えて草月は庭に面した障子を開け放って濡れ縁へ飛び出した。老松の節くれだった枝の向こうに、田中たち丙寅丸の乗員の姿が見えた。銘々に椅子やテーブルなどを抱えながら、踏み石に足を取られないよう、慎重に歩を進めている。

「田中さん!」

「おう草月さん! 持って来たぜよ! お待ちかねの長テーブルに、椅子五脚! 食器類もあるだけ借りて来たきに。さあ、どこに置いたらええ? 指示してつかあさい」

「ありがとうございます! テーブルは、今置いてあるやつの隣に並べて置いてください。椅子はこっちに二つ、向かいに三つお願いします」

「承知した。おまんら、聞いた通りじゃ。いっちょやるぜよ!」

「応!」

 丙寅丸の屈強な船員たちが、重そうな家具を軽々と室内に運び入れていく。

 もう少し右、ちょっと行きすぎ、戻して……、うん、そうそう、その位置……。

 多少もたつきながらも配置を完了させる。

 食器類は皿やナイフなど一式が揃って六客組。船旅の影響で恐れていた傷やひび割れもなく、きれいだ。木戸が用意していた食器類とは多少形が違って、卓上の統一感がなくなるが、致し方あるまい。

「他に何か手伝えることはあるかえ?」

「えーと、じゃあ、これからテーブルクロスをかけるので、その間に奥の井戸で手を洗ってきてもらえますか? 女中さんと一緒に、食器を並べるのを手伝って欲しいんです」

「よしきた!」

 あっという間に戻って来た田中らに、「中央にお皿、ワイングラスは右奥、お皿の左にフォーク、右には内側からナイフ、スプーンの順番でお願いします」と一例を示して伝え、草月自身は装花の飾りつけにとりかかる。田中はさっそく女中に交じって皿を並べながら、感心したように言った。

「それにしたち草月さん、まっこと異国のことに詳しいんやにゃあ。俺にはどれも馴染みのないもんばっかりじゃき、『ふぉーく』やら『ないふ』やら言われても、さっぱり分からんけんど」

「私の持ってる知識なんて、ほんの少しですよ。こういう食器の並べ方だとか、細かいところはイギリスに留学してた遠藤さんていう方に教えてもらいました」

 今だって、間に合うかどうか、ちゃんとやれるかどうかって、心臓ばくばくしっぱなしですしね。

 やけくそ気味に笑ってみせると、田中もにっと笑い返して、

「やっちゃろうやないか。俺たちの手で、キングもたまげるくらい、完璧な西洋式会食を!」


                 *


 藩士、奉公人らが一丸となって奔走したおかげで、十一時半には全ての準備がつつがなく整った。

 屋敷は廊下の隅から柱の一本、障子の桟に至るまでぴかぴかに磨き上げられ、広い庭も枯葉一枚なく綺麗に掃き清められた。

 台所では、料亭から呼んだ料理人たちが存分に腕を振るっており、鍋いっぱいに作られた吸い物からは出汁のいい香りが漂っていた。重箱には蓮根、筍のほか、鮑、車海老や鮎、蒲鉾、はんぺんなどの豊富な魚料理が彩り豊かに詰められている。まな板の上に乗せられた鯛や鶏肉、うさぎ肉は、すでに下ごしらえを済ませて、後は食事開始に合わせて仕上げを残すのみだ。

 やがて、迎えに行っていた井上に導かれて、キング一行が屋敷の表門へと姿を現した。キングは濃紺の軍服に身を包み、両頬にたっぷりとした髭を蓄えた偉丈夫であった。出迎えた世子広封や吉川、木戸らと挨拶を交わし、饗応の席に着く。外国の習慣を尊重して、全員が履物を履いたままだ。

 広間の床の間には雪景色の掛け軸と、紅白梅の生け花。

 並べて置かれた二組のテーブルの上には、清潔な純白のテーブルクロス。それぞれの席の前には、皿、ナイフ・フォーク・スプーン・ワイングラス、それに箸がきちんと並べて置かれている。卓上に彩を添えているのは、色とりどりの装花だ。薄紅色をした早咲きの木瓜や南天の実、松の葉が華やかに、しかし食事の邪魔にならないように、品よく活けられている。

 場を和ますような軽いおしゃべりの後、食事開始となった。

 髪を結い直し、女物の揃いのお仕着せに身を包んだ草月が、緊張で胃がよじれそうになりながら、女中と共に給仕に加わる。

 藩主敬親の乗る駕籠が供の宍戸備後助と共に貞永邸へ到着したのは、食事が始まって半刻ばかり経った頃だった。酒宴の場はいよいよ盛り上がり、草月の緊張もそれに比例して高まる一方で、粗相のないよう給仕することにいっぱいいっぱい。列席者の顔を見ることはおろか、日本語と英語が交互に飛び交う会話の断片さえ聞き取る余裕もないほどだった。

 幸い、大きな混乱もなく、最後のデザートに至るまで和やかなうちに会食は終わった。その後二階の楼閣で景色を楽しみながら歓談して、日の傾く前にキング一行は丁重な礼と共に自艦へと引き上げた。

 緊張から解放された草月や女中たちは、やり切ったという充足感と言おうか、体は疲れているけれど気持ちだけはやたらと元気いっぱいで、興奮気味に今日のことをおしゃべりしながら、部屋の後片付けをしていた。見送りを終えた木戸が顔を出したのは、田中たちが調度品一式を運び出して、掃除もひと段落した頃だった。

「色々と無茶をさせてすまなかったな。だが、おかげで助かった。調度品が揃わぬ時は、最悪、戸板で作った即席のテーブルと椅子代わりの踏み台で乗り切ることも考えていたんだが……。今思うと、さすがにあの席でそれはなかったな」

 言いながらきまり悪げに首筋をかく。

 草月は踏み台に座って居心地悪げに食事をする藩士たちの姿をうっかり想像してしまって、そのあまりの滑稽さに噴き出しそうになった。

「……お役に立てたのなら何よりです」

 無理に笑いをこらえたせいで、変な声になった。木戸は別に笑っても構わんぞ、と言いながら、自分もつられたように乾いた笑みをこぼした。

「木戸さんたちは、明日はもう山口へ戻られるんですか?」

「いや、実はそのことで頼みたいことがあって来たんだ。キング提督が、今日の礼にと御両殿様を自分の艦へ招待してくれてな。その送迎に、丙寅丸を使いたい。先方には明日の朝十一時ごろに行くと返事をしてあるから、それまでに船の準備を整えておいて欲しい。疲れているところすまないが、頼めるか?」

「あ、はい。船に乗られるのは、御両殿様の他に、どなたが?」

「吉川様と宍戸、柏村、それに私と聞多の計七人だ」

「朝十一時に、七人ですね。分かりました。艦長に伝えて、すぐに準備します」


                    *


 英国旗艦、プリンセス・ロイヤル号。

 純白の船体に、天高く突き出した三本の高い帆柱。舷側にぐるりと並べられた総計七十三もの砲門。総排水量は三千トンを誇る。小倉口の戦いで、長州があれほど煮え湯を飲まされた幕府最強の軍艦・富士山丸ですら千トンであることを思えば、どれほどこの英艦が規格外の大きさか分かろうというものだ。さながら動く要塞である。

 約束の十一時きっかりに藩主一行を送り届けた丙寅丸は、いったん三田尻港へ戻り、夕刻になって再び迎えのため船を出した。

 黄昏の気配と共にぐんと気温が下がり、甲板上には肌を突き刺すような冷たい風が吹きつけていた。英国艦から丙寅丸へと乗り込んだ藩主父子は、しかし船室には入らず、沈みゆく夕日を見つめながら、傍らの木戸や艦長らと楽し気に語らっていた。金糸で彩られたきらびやかな着物が、風を受けて重たげにはたはたと揺れている。

(藩主様も世子様もお元気そうだな)

 操帆用の太い綱越しにその様子を垣間見つつ、草月はそう独りごちる。二人の姿を見るのは、二年前の御前会議以来だ。当然ながら一介の船員に過ぎない草月が藩主父子に近づけるわけもなく、話の内容までは聞こえてこない。それでも、丙寅丸に藩主父子をお乗せしたと高杉に伝えたら、きっと高杉は喜ぶだろうと草月はこっそりと頬をゆるませた。

「なんじゃ、独りでにやにやと気色の悪い」

「……井上さん!?」

 突如、横合いから聞こえた辛辣な声に慌てて口元を引き締めて振り向いた。冷ややかな表情を浮かべた井上が、短い髪を風に遊ばせながらこちらにやって来るところだった。

「いつから見てたんですか。人の顔こっそり覗き見るなんて、悪趣味ですよ」

 ばつの悪さを隠すように強い口調で言い返す。

「それに、良いんですか、藩主様たちのお側についてなくて」

「木戸さんたちがついちょる。少しくらい抜けても問題ない」

「うわー……、堂々さぼりですか」

「これでも通詞として大任を果たしてきたんじゃ。少しは労え」

「はいはい、ご苦労様でした。……とは言っても、昨日の会談と違って、今日はあくまで昨日のお礼でしょう? そんなに肩ひじ張らない場だったんじゃないんですか」

「別に昨日も、政治的な話はしちょらんぞ。あくまで両国の親交を深めるのが目的じゃったからな。……じゃがまあ、接待する側の立場でなかった分、気が楽じゃったのは確かじゃな。キングも惜しげもなく艦内を案内してくれたから、御両殿様もことのほかお喜びのようじゃった。こちらが希望しちょった大砲射撃の見学もさせてもらえたしな。ほかにも記念撮影やら弦楽器の演奏やら……。おお、そうじゃ、昼食も絶品じゃったぞ」

 井上は思い出したように舌なめずりした。

「熱々のマトンのシチューに、肉の旨味たっぷりのローストビーフ、滑らかな舌触りのチキンパテ……」

「うわあ……。いいですね、こっちはいつも通り冷えたおにぎりと焼いた小魚と大根のお漬物だったっていうのに。というか、今言ったの全部お肉料理じゃないですか」

「白いんげんを野菜と一緒に煮込んだやつもあったぞ。極めつけのデザートは葡萄のプディングに林檎のコンポート……」

「あああ、もういいです。聞いてるだけで口の中が涎でいっぱいになってきた」

 脱力して持っていた綱に寄り掛かり、じろりと横目で井上を睨んだ。

「それで、何しに来たんですか。私が絶対にお目にかかれないような豪華な料理の話をして、いじめるためですか」

「わしがそんなに暇に見えるか」

 井上はふん、と馬鹿にしたように鼻を鳴らしたが、すぐにふっと真面目な表情になると、わずかに草月に顔を近づけ、声を潜めて尋ねた。

「高杉の容体はどうなんじゃ。貞永の屋敷ではゆっくり聞ける時間がなかったからな……。お前のことじゃ、暇さえあれば見舞いに行っちょるんじゃろう」

「悪くはない、ですよ」

 一拍置いてから、草月は言葉を返した。

「相変わらず、幕府や薩摩の動きとか、京の情勢とか、色々気にかけて、お見舞いに来た人たちと始終議論してますし。体調が悪くて一日床に就いている日もありますけど、気分のいい時は、大福さん――おうのさんと一緒に散歩に出かけたり、招魂場へお参りに行ったり、料亭で遊んだりもしてるみたいです。詩作も続けてるし。そうそう、最近は竹の絵を描くのに凝ってて……。それがびっくりするくらい上手で、玄人はだしな腕前なんですよ!」

「そうか」

「井上さんも、お忙しいのは分かってますけど、一度、時間作って来てください。高杉さん、きっと喜びますよ。そうだ、もしお時間取れるなら、明日、一緒に丙寅丸で馬関に――」

「いや、残念じゃがそれは出来ん。上方の様子を探るために、遠藤と一緒にキングの船に乗せてもらって兵庫へ行くことになっちょるからな。それに、道中、きっちりキングに長州の立場を説くつもりじゃ」

「長州の立場って……。幕府を見限って、朝廷を中心とした新しい政治体制を作る、というやつですか」

「幕府と正面切って戦ってしまった以上、長州には今更幕府に頭を下げるという選択肢はないからな。外国勢に幕府に肩入れされては困る。幕府とやり合うには、強大な軍事力を誇る薩摩の協力も必要不可欠じゃ」

「でも、薩摩は征長に反対したとはいえ、まだ反幕府を鮮明に表明したわけじゃありませんよね。幕府にも長州にもよしみを通じておいて、状況に応じて有利な方につこうという感じ」

「ああ。これまで以上に薩摩の動向を注視する必要がある。京にいる弥二からの情報によると、どうも有力諸侯を京へ呼び寄せて話し合いの場を設けようとするふしがあるらしいぞ。幕府も、今月初めに徳川慶喜が将軍の座についてからは軍制改革にも手を付けておるし、混乱していた朝廷も徐々に落ち着きを取り戻してきているようじゃ。どちらもまったく油断がならん。長州も次の一手を慎重に見極めんと」

「大政奉還策も、選択肢の一つですか? 福井藩の松平春嶽様が、建白書を提出したって聞きましたけど」

「耳が早いな」

 井上は驚いたようだった。草月はふふん、と胸を張った。

「高杉さんの言葉を借りれば、『私を一介の甲板員と侮るなよ』、ってところですかね」

「どうせ情報源はあの坂本という男じゃろう」

「……そうですけど! もう、いちいち揚げ足取らないでくださいよ!」

「ふん。やっと調子が出てきたな」

「え?」

「一昨日、石燈台のところで会った時から変じゃと思っちょった。ことさら普段通りに振舞っちょったが、無理が見え見えじゃ。まったくしらじらしい。どうせ高杉のことで必要以上に気を揉んじょるんじゃろうが、そんな辛気臭い顔で見舞いに来られたらあいつもしんどいぞ」

「……はい」

「おい、言ったそばからそれか。いいからいつも通り生意気な口を聞いていろ。お前がそれではこっちまで調子が狂うわ」

「……」

 あはは。

 草月の唇から、気の抜けたような笑い声が漏れた。

「何か井上さんが優しい。ぶきみだー。明日は雪でも降るんじゃないですか。いやいや、拳くらいありそうな大粒の雹かも」

「言ってろ」

「ふふ」

 目尻に滲んだ涙を拭うのを、井上は見て見ぬふりをしてくれた。

「ありがとうございます、井上さん。確かに、自分でも気づかないうちに、気を張ってたかも。……ちょっと、楽になりました」

「そうか」

「はい」

 気が付くともう三田尻が間近に迫っていた。

「速度を落とせ、接岸する!」

 艦長の下知に従い、乗組員たちがきびきびと動き出す。藩主の元へと戻っていく井上の背中にこっそり頭を下げて、草月もまた己の仕事へと向き直った。

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