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花信風  作者: つま先カラス
第五章 慶応三年
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第57話 キング来訪・前

 無事に薩摩行きの大任を果たし、丙寅丸が馬関沖へとその小さな船体を滑り込ませたのは、梅のつぼみも膨らみ始めた十二月十四日のことだった。

 草月は諸々の仕事を大急ぎで片付けて、船を降りたその足で高杉を訪ねた。

 気まずい感じで別れて以来だったので、会いに行くのには少しだけ勇気が要ったけれど、ひとたび顔を見れば嬉しさの方が勝って、わだかまりなどなかったのように、たちまち話が弾んだ。

 行き帰りの船旅のこと、薩摩で見聞きしたこと。草月不在中に起きた長州内の出来事。幕府や朝廷の動き。夜遅くなっても話が尽きず、引き留める高杉に翌日また来ると約束してようやく家路についた。

 小倉藩との止戦交渉は大詰めを迎えており、時折、兵や物資を載せて馬関と小倉を往復する以外はこれといった任務もなく、帰関後の草月は久しぶりにのんびりとした日々を過ごしていた。

 高杉の見舞いに行くのはもちろんのこと、読みかけのまま気になっていた読本を丸一日かけて読破したり、おさんやお梅と旅芝居の一座の興行を見に行ったり、一太郎と一緒に年の市へ正月用品の買い出しに出かけたり……。

 だがそれも長くは続かなかった。年の瀬も押し迫った二十八日の朝、丙寅丸に三田尻への出航命令が下ったのだ。


                     *


「ふうん、イギリス艦隊を案内して三田尻へ、か」

「そうなんです!」

 港からここまで駆け通しで知らせに来たという草月の息は上がり、頬は色付いた紅葉のように真っ赤に染まっていた。興奮気味に開かれた瞳に、障子窓から入る柔らかな光が当たって明るい焦げ茶色にきらめいている。勢い込んで頷いた拍子に、頭の後ろでまとめた長い髪が肩を滑り降りて、胸元でひょんと揺れた。

 布団の上に胡坐をかいて漢書を読んでいた高杉は、その様子にわずか目を細め、書物をついと脇に置いた。そうして、自分の膝の上にゆるゆると頬杖をつくと、草月の顔を覗き込むようにして言った。

「ずいぶん、嬉しそうじゃな?」

「だって、御両殿様とイギリスの提督との、記念すべき初会談ですよ? それに少しでも関われるなんて、思ってもみませんでしたから」

 揶揄うような高杉の調子に、言い返しながらもやはり恥ずかしくなったのか、草月は知らず前のめりになっていた体勢を正してきちんと座り直した。

「三田尻にいれば、会談の様子もすぐに伝わってくるでしょうし、運が良ければ、キング提督の姿を見られるかもしれません。……本当は、三田尻じゃなくて、イギリス側の希望通り、馬関で会談してくれたらもっと良かったんですけど。勝手知ったる馬関なら野次馬しやすいですから」

 イギリスのキング提督が藩主との会見を望んでいることは、帰国してすぐに木戸から藩政府へと伝えられていた。藩政府は協議の末、イギリスと誼を通じる好機と捉えてそれを是とし、藩主敬親の承認も得た。以降、入念に下準備を進めていたところ、昨日の昼過ぎ、ついにキング提督率いる四隻の軍艦が馬関へ寄港したのだ。会談場所を三田尻へ変更して欲しいとの長州の要望に、キングは快く了承の意を返した。

「まあ、藩内には未だに根強い攘夷派がいるけえの。馬関は他藩の目にも触れやすいし、それを考えれば三田尻への変更は妥当な判断じゃろう。……ところで、浮かれちょるところに水を差すようで悪いが、草月」

 高杉は急に声を潜め、内密の話をするように、ちょいちょいと手招きした。草月も表情を引き締めて顔を近づける。

「はい」

「そのキングを案内してすぐ、丙寅丸は馬関へとんぼ返り、なんてことにならんといいな」

「……」

 ぽかんと口を開けた草月は、次の瞬間、「あああ」と叫んで頭を抱えた。

「その可能性を考えてなかった!」

「まあ、今は小倉の方も変わった動きはないし、そうそう急いで戻る必要性はないじゃろうが」

「だったら最初から言わないでくださいよ! って、もう行かなきゃ」

「気を付けてな。面白い土産話を期待しちょるぞ」

 楽し気な笑い声を背に、草月は慌ただしく庵を辞したのだった。


                         *


 冬枯れの木々の枝をしならせて寒風が吹きつける。息を吸い込むたび、キンと冷えた空気が体の中まで冷やしていく。

 田中と並んで三田尻の町を歩きながら、草月は首に巻いた布を口元まで引き上げた。太陽を求めて見上げた空は、何種類もの灰色を重ねたような分厚い雲に覆われている。

 丙寅丸が三田尻に着いたのは昼を少し回った頃だった。沖合に碇を下ろしたイギリス艦隊と離れ、丙寅丸はさらに奥へと進んで大小の和船が並ぶ三田尻港近くの内海に停泊した。馬関にとんぼ返りになるのでは、という一抹の不安は杞憂に終わり、次の指示があるまで丙寅丸はここで待機となった。

「イギリスとの会談か。一体どんな風なんじゃろうなあ。ちっくとだけでも覗かせてもらうわけにはいかんかのう」

「それなんですよね。馬関にいたならいっそ諦めがつきますけど、こんなに近くにいたら、かえって欲が出ちゃいますよ。こっそり船を抜け出して、見に行けないかなあ……」

 布越しにくぐもった声で答えた草月はそこでくすりと笑って、

「なーんて、私たちは蚊帳の外だからこうして気楽に言ってられますけど、当事者の木戸さんたちは、今頃きっと大変でしょうね」

 二人は海軍局への使いを命じられた帰りだった。船の当番を免除されたのをいいことに、すぐには帰船せず、わざと遠回りしてぶらぶらと町を散策していた。草月にはさして馴染みがない三田尻の町だが、意外にも田中にとっては土地勘のある、懐かしい場所だという。

 その理由は、海軍局から西に少し歩いたところに建つ『招賢閣』にある。かつて京を追われた七卿の滞在場所として、また彼らを慕って集まった各地の脱藩浪士たちの根城として整備された建物で、土佐を脱藩した田中が真っ先に目指したのもそこだったのだ。残念ながら京の敗戦後はもう誰も受け入れておらず、今は閑散とした寂しい雰囲気の中にぽつんとその荒れた姿を晒すのみとなってしまっていた。

「あん頃は血気盛んな奴らがぎょうさんおって、夜を徹して激論を戦わせたもんじゃ。花街も近いき、時には皆で連れ立って出かけたりしてのう」

「へえ、江戸の藩邸にある有備館みたいな感じでしょうか。……あと、最後の情報は余計です」

「おっと、すまんすまん」

 からからと笑った田中は、ふと遠目に見える人影に目を留めた。

「……ん? 噂をすれば、ありゃあ、木戸さんと井上さんでないかえ」

「え? ……あ、本当だ」

 海軍局へ続く川の河口付近に小さな神社があり、その敷地内に高さ二丈を超える巨大な灯篭型の石燈台が据えられている。そのそばに木戸と井上が立って、難しい顔をして海の方を睨んでいた。

 視線をたどると、水兵らしき男性を乗せた小舟が、日の傾き始めた沖へ向かって進んでいくところだった。

「今の、キング提督の使いの方ですか? 何かあったんですか?」

「ああ、君たちか」

 駆け寄った草月たちを見て、木戸が組んでいた腕を解いた。

「明日の会談について、細かい打ち合わせをしていたところだ。だが、少々やっかいなことになってな」

「イギリス側の参加者が思った以上に多かったんじゃ」

 苛立ちを隠そうともせず、今にも地団太を踏みそうな勢いで井上が口を挟んだ。

「こちらの想定では多くとも四・五人と踏んじょったんじゃが、今聞いたら、キングを含めて十人だと言いおる」

「しかも、殿のご臨席を強く求めてきた。殿はこれまで外国人と接したことがない。万が一何か間違いがあっては困るから、体調不良を理由に断ったんだが、先方が難色を示してな。藩庁に打診してみるが、おそらくはおいで頂くことになるだろう」

「じゃあ、最終的な人数は……」

 長州側は藩主敬親、世子広封、岩国藩主・吉川経幹、木戸、柏村数馬、そして通訳の井上と遠藤謹助の七人。イギリス側がキング提督以下士官十人。

「十七人ですか……。多いですね」

「こちらであらかじめ準備していたのは十二人分だ。追加の食材はすぐに用意できるが、問題は椅子とテーブル、それにナイフやフォーク、スプーンだ。手に入りそうな当ては二、三あるが、数が揃うかどうか心もとない」

「椅子やったら、丙寅丸の艦長室に置いてあるやつが使えやせんですろうか? ちっくと年季が入っちゅうけんど、革張りの良いもんですき。……もっと早う分かっちょったら、馬関から色々持って来れたんですけんど」

「そうですね。応接掛の役所には椅子が三脚置いてあるし、伊藤さんに頼めば、テーブルや食器なんかも、きっとまたすぐに揃えてもらえたのに」

 木戸ははっと目を見開いた。

「そうか、君は以前、俊輔と一緒にイギリスのサトウをもてなしたのだったな。その時使ったテーブルというのは、どのくらいの大きさだ?」

「ええっと……。大人が三人ずつ、向かい合ってゆったり座れるくらいです。椅子や食器も、同じ外国通の商人から借りたって聞きました」

「十分だ。――田中君、艦長に言って、すぐに丙寅丸を出してくれ。今挙げたものを、あるだけ持って来て欲しい。会談は明日の正午の予定だから、遅くとも巳の刻までには準備を終わらせておきたい。それに間に合うよう、戻って来られるか」

「勿論ですき! 任せてつかあさい」

「頼む。……ああ草月、君は残ってくれ」

 田中と共に駆け出そうとした草月を木戸が引き留めた。

「君には、会見準備の手伝いを頼みたい」


                    *


 床の間と違い棚のある二十一畳の大広間には、すでに緋毛氈が敷かれ、その上にテーブルと椅子が運び込まれていた。この日のために職人に造らせたものらしく、繊細な彫刻が施された美しい仕上がりの逸品だ。

 三田尻有数の豪商・貞永隼太の屋敷である。石燈台から南に四半刻ほど歩いた海への突き当りに位置し、その広大な敷地内には、美しく整えられた庭園と数寄屋造りの屋敷が調和良く配置されている。今回、イギリスとの会談場所として、藩政府が臨時に接収したのだ。

「……テーブルに飾る花は、出来るだけ種類を織り交ぜて、華やかな感じでお願いします。ただ、香りが強いものは避けてください。せっかくのお料理の邪魔になってしまいますから。あと、座った時に顔が隠れてしまわないように、高さは抑えめに……。数は――そうですね、ここと、ここと……あと、そこにも一つ……。明日、追加のテーブルが届く予定なので、その分と合わせて六つ……、いえ、念のため七つ、用意してもらえますか?」

 テーブルセッティングを任された草月が、貞永邸の女中たちに慣れない指示を出している横で、木戸や井上、遠藤らが集まって、当日の流れについて入念な打ち合わせを行っていた。席順や客人の出迎えの仕方、料理を出す時機……。

 給仕を担当する女中たちには、生まれて初めてのテーブル形式の給仕に戸惑わぬよう、特に念入りに手順の説明があった。客人が増えたことで給仕の手が足りず、急遽草月も加わることになった。最初は皆の動きがばらばらで、うっかりぶつかりそうになることもしばしばだったが、何度も動きを確認するうちに、お互いの邪魔をせずに給仕するやり方を見つけていった。

 それにしても、間近で会談を見たいとは思っていたが、まさかこんな形で叶うことになろうとは……。

 てんやわんやのうちに夜は更けていき、草月はそのまま屋敷の一室に床を延べてもらって倒れこむように眠りについた。



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