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花信風  作者: つま先カラス
第五章 慶応三年
62/84

第56話 拝啓、薩摩より

『 高杉晋作様


 一筆啓上申し上げます。

 寒さがいっそう身に染みる季節になりましたが、いかがお過ごしでしょうか。

 私は今、薩摩沖に停泊している丙寅丸の船室で、分厚い綿入れにくるまりながらこれを書いています。

 薩摩は南国だからきっと暖かいだろうと思っていたのに、ちっともそんなことはなくて、外ではちらちら雪まで降っています。同じ薩摩の領内でも、もっと南に行けば暖かいそうですが、城下町のあるこの辺りは長州と比べてあまり気温差は感じられません。

 馬関を出てから、半月余りが経ちました。航海中も薩摩に来てからも、色んな事があって、たくさん報告することがあるんですけど――、まずは一番重要なことから。きっと後で木戸さんから詳細な報せが届くと思いますけど、私からも取り急ぎお伝えしますね。

 薩摩の島津久光公との会見は恙なく終わったそうです。その後の重臣の方たちとの会見では、やっぱり例の合同商社の話が出たらしくて、断りを入れた木戸さんとの間であわや激しい議論になりそうなところを、家老の桂久武様のとりなしで、何とかその場は収まったそうです。

 国交断絶、なんて最悪な事態は避けられたので、とりあえずは一安心です。私個人としては多少薩摩に思う所はありますけど、幕府と渡り合っていくためには欠かせない盟約相手ですからね。

 さて、一番重要な報告が済んだところで、ここからは馬関を出てからのことを、順を追ってお話ししますね。

 ご存知の通り、丙寅丸が馬関を出発したのが十一月十五日の朝。

 初めての外海、しかも長距離航海ということで、無事に薩摩まで行けるか、実はちょっと不安でした。実際、荒波に船が大きく流されたりして、大変だったんですよ。冬の最中、凍えそうなほど冷たい風や海水の飛沫に晒される中での甲板作業は思った以上に骨身に堪えて、体調を崩す人も出て……。私もちょっと熱を出してしまったんですけど、今はもう元気です。

 途中で寄港した長崎では、幕府の艦隊に囲まれて、ひやりとする場面もありました。

 ここで捕まるわけにはいかないと、幕艦に一発大砲をお見舞いして、そのあと全速力で逃げよう、なんて過激な案も出たんですが――これって絶対、どこかの艦長の度重なる無茶な命令に船員たちが慣れちゃったせいですよね――、丙寅丸が薩摩の旗を掲げていたおかげか、結局、幕艦が攻撃してくることはなくて、何事もなくやり過ごすことが出来ました。

 そうそう、長崎には偶然、イギリスのキングという提督が来ていて、『次に馬関に寄港した時に、長州の藩主様と会見したい』という申し出があったそうです。木戸さんが長州に戻ったら、きっとその是非について会議に諮ることになると思います。長州にはまだまだ根強い攘夷派がいるから難しいかもしれませんが、実現するといいなあ。

 さて、薩摩へは十一月二十六日の昼頃に着きました。

 沖合に姿を現した私たちを、薩摩は礼砲をもって迎えてくれました。

 その日のうちに下船した木戸さんたち使節一行とは別に、私や田中さんたち乗組員は、船に残って整備点検や清掃作業。ようやく私が下船できたのは、木戸さんに遅れること三日。冬晴れの午後のことでした。

 朝から港で水や食料の積み込み作業をして、昼食を取った後、田中さんと一緒に町へ出たんです。……といっても、単なる物見遊山じゃなくて、足りなくなった薬の調達と、木戸さんの宿を訪ねて今後の予定を確認する任務も兼ねて、だったんですけど。

 長州の中に薩摩を快く思っていない人がいるように、薩摩の中にも長州を敵視している人がいます。だから、無用な波風を立てないためにも、むやみに出歩かないで欲しいと薩摩側から釘を刺されていたんです。本当はあちこち自由に見て回りたかったんですけど、こればかりはしょうがないですね。

 薩摩のお城は、天守がなくて、本丸と二の丸が並んでいるだけの単純な造りのものでした。最初に甲板の上から見た時は、どれがお城なのか分からなくて、『あれがそうだ』と言われて心底驚いた覚えがあります。後から聞いた話では、背後にある山が天然の要害となっているようですね。

 お城の周りには大小の武家屋敷がびっしりと並んでいます。こういうところは萩や他の城下町と同じですね。城から北へ行った海岸沿いには、たくさんの洋館が立ち並ぶ区画があります。前の藩主・島津斉彬様が主導して造らせた工場群(紡績やガラス・鋳物・製材・製薬工場など)で、木戸さんたち使節一行は、薩摩の人に案内してもらったそうです。……私も見学したかったなあ。

 話を戻して。私たちが向かったのは、お城の南東にある石灯籠通りというところです。海岸のすぐそばに、名前の由来である大きな石灯籠が一基、置かれていて、そこから内陸に向かって真っすぐに広い道が伸びています。城下でも有数のにぎやかな通りだそうで、確かに、たくさんの商店が通りの両脇に所狭しと軒を連ねていて壮観でした。

 薩摩はやはり日本の南端の国だけあって、樟脳とか黒砂糖とか豚肉とか、他所ではあまり見かけない珍しいものがたくさん置いてあります。大勢の買い物客や商人たちに交じって、私も田中さんもついあれこれ見入ってしまいました。

 問題が起きたのはその後です。

 薬種問屋で目的の熱冷ましの薬を買って、それから木戸さんが泊まっている宿へ向かったんですが……その途中、なんと迷子になってしまったんです!

 道を聞こうにも、土地の人の言葉は訛りが強くて、言ってることがさっぱり分かりません。ほとほと困り果てていたら、彦丸という親切な武家の男の子が声をかけてくれて  』


                  *


 そこまで書いたところで、がちゃりと船室の扉が開く音がした。

「やあ、草月さん。進みゆうかえ」

 筆を持つ手を止めて顔を上げると、田中が入り口からひょっこり顔を覗かせていた。

 艦長以外は、個室などという上等なものはないから、船員たちは夜になると大部屋にすし詰め状態で雑魚寝である。ただ、昼を過ぎたばかりの今の時間帯は、草月ほか、非番の船員たちが数人、昼寝したり読書したりおしゃべりに興じたり、思い思いの姿でくつろいでいるだけである。

「すみません、まだ書き終わってなくて……。もしかして、もう町へ下りる時間ですか」

「ちゃうちゃう。ちっくと仕事の手が空いたんで、様子を見に来ただけじゃき。気にせんと、ゆっくり書いとうせ」

 船員たちの間をひょいひょいとすり抜けながら近づいて来た田中は、興味津々に草月の手元を覗き込んだ。長々と書き連ねられた文章を見て、

「こりゃあ、なかなかの大作じゃなあ」

「あれもこれも伝えたい、って欲張ってたら、思った以上に長くなっちゃって……。今、ちょうど一昨日、町で迷子になった時のことを書いていたところです」

「ああ、俺たちが初めて町に下りた日か。あの日は、まっこと大変じゃったなあ」

 にやにやと楽し気な笑みを浮かべて、田中も記憶をたどるように視線を宙に向けた。


                 *


 それは、草月たちが無事に木戸の宿にたどり着き、話を終えて丙寅丸へと戻ってから一刻余り。冬の柔らかな西日が丙寅丸の船体をほんのり朱く照らし始めていたころだった。

 薩摩の武士が二人、突如、草月と田中を訪ねてやって来た。いずれも面識のない人物である。年は若く、共に二十二・三歳ほど。甲板上は吐息さえ凍り付くような寒さだというのに、薄い羽織を一枚ひっかけただけで、まるで堪えた様子もない。

 二人はそれぞれ岩見、鵜飼と名乗った。

 何の用かとこちらが尋ねる暇もなく、岩見と名乗った方がいきなり猛烈な勢いでまくしたて始めた。

 一切手加減なしの早口の薩摩弁だ。全くただの一語も聞き取れない。

 もはや異言語の洪水である。

「ま、待ってください。もうちょっとゆっくり……」

 混乱する頭で何とか落ち着かせようとしていると、見かねた鵜飼が何か短く言葉を発した。途端、岩見がぴたりと口をつぐむ。代わって、鵜飼が話し始めた。訛りがきついのは同じだが、慎重に言葉を選んでゆっくりとしゃべってくれているので、何とか理解できる。

 鵜飼によると、昼間、道に迷った草月たちを案内してくれた少年――彦丸が、行方知れずになっているらしい。

「家ん者には、山へ薬草を取りに行っちゆて出たげな。じゃっどん、それきり家に戻っちょらず、剣術ん稽古ん時間になってん姿を見せん。もしや山で事故にあったかと、今、仲間が捜索しちょっが、一向に見つからん。そしたや、おはんらと一緒におっんを見ちょっちゅう情報が入った。おはんら長州者が薩摩を恨んで、ないかしたんじゃらせんか?」

「まさか、とんでもない! 宿の場所が分からなくて困っていた時に、彦丸くんが、お困りですか、って声をかけてくれたんです。事情を説明したら、自分と行く方向が同じだからって、わざわざ宿まで連れて行ってくれて――」

 まだ十歳にもならないくらいの、前髪の残る少年だった。訛りが少ないのは父親の江戸住まいが長かった影響らしく、はきはきとした受け答えに利発さが感じられた。

(あの子が、行方知れず?)

「――待て、そん宿はどけあっど?」

 鵜飼が素早く尋ねてくる。

 草月が町名を告げると、鵜飼はいかつい顔をゆがめた。

「そこはおいたちがいつも鍛錬んために登っちょっ山とは反対方向じゃ」

「え?」

「一体どげんこっじゃ」

 岩見も苛立たし気に足を踏み鳴らした。

「ないか特別な薬草を探して、いつもとはちごっ山へ行っ必要があったんか?」

「じゃっどん、あん辺ん山でしか採れん薬草など、聞いたこっがなか」

 薩摩の二人が難しい顔で考え込んだ時、突如、田中がばしんと腿を叩いた。

「なあ、その子が嘘を言うたゆうことは考えられんかえ」

「仲間をうそひぃごろ呼ばわりすっか! 幼かてえど、彦丸はそげん卑劣な男じゃなか!」

 たちまち岩見と鵜飼の体から怒気が発せられる。田中は慌てて、

「いやいや、そういう意味で言うたわけではないちや。話をしたんはほんの短い間だけじゃけんど、彦丸が誠実な人柄やゆうことは俺たちにもよう分かっちゅう。俺が言いたいんは、そういう性格の御仁やったら、俺たちが遠慮せんように、わざと行く方向が同じじゃち言うたかもしれん、ゆうことじゃ」

「そっか! ありえますね。確かに、『自分の目的地とは方向が真逆だけど、心配だから宿まで一緒に行きます』なんて言われても、申し訳ないからって、私たち、きっと断っていたでしょうから」

 草月と田中は顔を見合わせて深く頷き合った。いきり立っていた薩摩の二人も、田中の推測に一理あると思ったのか、怒りの矛を収めて、むう、と唸った。

「もしかしたら、彦丸くん、いつもの山に行くのは時間が足りないと諦めて、宿の近くにある適当な山に登ったのかもしれません。それで迷子になったのでは」

「……あり得っな」

「お二方、疑うたことは謝罪すっ。邪魔をしたな。こいで失礼すっ」

「え、ちょっと待ってください! 彦丸くんには道案内してもらった恩義があります。私たちも一緒に探させてください」

 草月は踵を返した武士の前に素早く回り込んだ。

 田中をはじめ、やりとりを遠巻きに見守っていた船員たちも、次々に助太刀を申し出る。

 だが、鵜飼らはそれを頑なに拒んだ。

「こいはおいたち郷中仲間ん問題じゃ。お気持ちだけあいがたっもろうちょく」

「子供がこの冬の最中に山で遭難してるかもしれないんですよ。それも、私たちを助けてくれたせいで! 放っておけません」

「草月さんの言う通りぜよ! それに、おまんらの仲間は、いつもの山を捜索中ながじゃろう。別の山の捜索に回す人手は足りんはずじゃ」

 一瞬、ためらうそぶりを見せた鵜飼だったが、決断は素早かった。

「……では、おはんら二人だけ助太刀を願う」


                   *


 空は一気に夜の帳を下ろし始めている。

 草月たちは、ほとんど走るように急ぎ足で山道の入り口までやってきた。ぜえぜえと草月が荒い息を整えていると、地面を子細に調べていた鵜飼がおもむろに立ち上がった。

「新しか足跡があっ。大きさからして子供んもんじゃ」

 どうやら当たりらしい。

 道ともいえないような獣道を、銘々が手にした弱い提灯の明かりを頼りに登っていく。

「彦丸――!」

「どこじゃー、彦丸」

「彦丸くーん」

「いっなら返事しやんせ!」

 短い冬の日が沈んで薄闇が広がると共に、気温が急激に下がっていく。

 提灯を持つ手がかじかんで、うっかり取り落としそうになる。慌ててしっかりと握りしめ直した時、草履の裏で何か柔らかいものを踏んだ。

(これって……)

 拾い上げると、小豆ほどの大きさの、黒っぽい実だ。

 明かりに近づけてまじまじと観察した草月は、何かを察したように、さっと左右に提灯を動かした。右手にある背の高い木の向こうに、同じ黒い実がびっしりと生った木が群生している。近寄って周辺の地面に明かりを近づけてみると、明らかに踏み荒らされた痕がある。

「あの、ちょっとこれ見てください! 彦丸くんの足跡かもしれません」

 田中たちが集まってくる間に、草月はさらに奥へと分け入って行く。 

 前方にばかり夢中になるあまり、足元の注意がおろそかになっていた。無造作に踏み出した足が空を切る。

 まずい、と思った時にはすでに遅く、背中から勢いよく崖を滑り落ちていた。どしん、としたたかに尻を打ち付け、痛みにうめきながら立ち上がる。

 こんなになっても離さなかった提灯の火は、幸いにも消えていなかった。

 落ちてきた斜面を上の方まで照らしてみたが、かなりの急斜面だ。とても登れそうにない。

「……まったく、これじゃ、まるきり木乃伊取りが木乃伊になるってやつじゃない」

 迂闊な自分を張り飛ばしてやりたい。

「おーい、草月さーん、無事かえー!」

「大丈夫です! どうにかそっちの道に戻れないか、探してみます」

 見上げると、先ほど草月がいた場所から、田中が心配そうな顔をのぞかせていた。同じように叫び返して、今度こそ慎重にぐるりと周りを照らす。

 何も言わないけれど、薩摩藩士たちはさぞかし苛立っているに違いない。申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら、濃い闇に目を凝らす。

 提灯の鈍い光が太い胴回りの巨木を照らし出した時、草月の口から「あっ!」と短い叫び声が漏れた。

「どういたが!?」

「いました! 彦丸くんです」

「何!?」

 木の根元部分が大きなうろになっており、その中に彦丸が器用に体を丸めて潜り込んでいた。

「彦丸くん!? 大丈夫? しっかりして」

 意識のない体をゆすって呼び掛ける。

「退きたもんせ」

 地響きを立てて豪快に崖を駆け下りてきた鵜飼が、彦丸の状態を素早く確認する。

「脈はあっどん、足首が腫れちょっし、体も冷え切っちょっ。はよ戻って温めんな」

 手ぬぐいで手早く患部を固定し、軽々とその背に担ぐ。仲間に知らせるために岩見を走らせ、草月と鵜飼はいささか手間取ったものの、何とか田中と合流して急ぎ山を下り始めた。状況からみて、おそらく彦丸も草月と同じようにあの崖から落ちたものと思われた。足をくじいて動けなくなり、手近にあった木のうろに入って寒さをしのいでいたのだろう。

「ん……」

「気が付っとか?」

 鵜飼の体温に体が温められたせいか、彦丸がぼんやりと目を覚ました。心持ち、鵜飼の歩みが穏やかになる。

「鵜飼さん。それに、あなた方は……。確か、旅のお方」

「長州の田中さあと唯野さあじゃ。わいが行方知れずと知って、探すんを手伝うてくださったんじゃ」

「そうだったのですか……。申し訳ありません。私の失態でご迷惑をおかけしてしまって」

「何水臭いこと言うゆう。おまんはただ俺たちに親切にしてくれただけじゃろう。ほんで俺たちは、その借りを返しに来ただけちや」

「そうそう。だから気にする必要なんてないよ。……あ、そうだ、彦丸くんの大事なものは、私がちゃんと預かってるから心配しないで」

 草月は懐から、中身がいっぱい詰まった巾着を取り出して彦丸の前で掲げて見せた。彦丸はうろの中で、その巾着を大切そうに抱えて眠っていたのだ。

「ごめん、勝手に中を見ちゃったんだけど……。中に入ってるのって、ネズミモチの実、だよね? 煎じて飲むと、滋養強壮の効果があるっていう」

「そうです。最近疲れがちの母に、飲ませてあげたくて」

「そうだったんだ……」

「ですが、こんなことになり、逆に心配をかけることに」

「おはんの無事な姿を見せちゃれば、きっと母御もすぐ元気になっじゃろう」

「はい……」

 鵜飼の力強い言葉に、彦丸はようやく強張った頬を緩め、はにかみながら頷いたのだった。


            *


「……それで、昨日はお礼にって、鵜飼さんがわざわざ家へ食事に招いてくれたんですよね。元気になった彦丸くんにも会えたし、楽しかったですね」

「珍しい食べ物もぎょうさんあったしなあ! 当たり前のように味噌汁に鶏肉やら豚肉やらが入っちゅうんにはたまげたぜよ。あの『とんこつ』とかいう豚肉の味噌煮はこじゃんと美味かった。あれで酒が進んで進んで……」

「軽く二升はいったんじゃないですか? あれだけ飲んで二日酔いにならないなんて、私には全く信じられませんよ。料理といえば、私はつけあげが美味しかったですね。作り方を教えてもらったから、長州へ戻ったら自分でも作ってみようかな」

「お、ええのう! その時はぜひ俺も呼んでつかあさい」

 ひとしきり食べ物談義で盛り上がってから、田中がふと思い出したように、

「そうゆうたら、草月さんはあのネズミモチに薬効があると知っちょったがかえ? あの木を見つけてすぐに、彦丸が近くにおると確信したようじゃけんど」

「……ええ、まあ」

 草月の脳裏に、いつも皮肉気な笑みを浮かべていた、口の悪い医者の顔が浮かんだ。

「……前に、ある人に教えてもらったことがあるんです」

「そうか」

 言葉少なに答えた草月の様子に何かを察してか、田中はそれ以上は尋ねなかった。

「長居してしもうたな。俺はそろそろ仕事に戻るぜよ」

「はい。あと半刻もあれば、書き終わると思うので」

 田中を見送って、再び書きかけの手紙の続きに取りかかった。苦心しながら一連の出来事をできるだけ分かりやすくまとめて、最後にこう結んだ。


                      *


 ――少しの間でしたが、鵜飼さんたちと身近に接してみて、薩摩の同じ郷中の仲間は、ものすごく結束が強いんだってひしひしと感じました。

 毎日、一緒に学問や鍛錬に励んでいるからでしょうね。

 実際に現地に来て、見て、聞いて、触れて……。直接人と関わって、初めて分かるものがたくさんあって、私にとっても実りある旅になりました。

 あの時叱ってくれたこと、本当に感謝しています。

 木戸さんの話だと、薩摩にはまだあと二・三日は滞在することになるので、馬関に戻るのは十二月の半ばくらいになりそうです。

 帰る時にはきっと、今よりたくさんの面白い土産話が増えていると思いますから、どうぞお楽しみに。

 また会える日が待ち遠しいです。

 それでは、長くなったのでこの辺で。

 くれぐれもお体、大切に。



    慶応二年 十二月一日   草月拝   』


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