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花信風  作者: つま先カラス
第五章 慶応三年
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第55話 五言絶句

 宮島で開かれた井上ら長州代表と幕府の勝麟太郎との会見では、『長州は撤退する幕軍を追撃しない』ということで話が付いた。間もなく征長軍の解兵命令が出され、諸藩軍は順次撤退し始めた。

 幕府との戦は事実上の長州勝利で終わったとはいえ、長州が『朝敵』であることは未だ変わらず、状況が良くなったわけでは決してない。

 幕府は徳川慶喜を中心に、着々と兵制改革に力を注いでいる。

 このまま何もせずに手をこまねいていては、幕府が再び力をつけて、今度こそ対抗できなくなってしまうだろう。

 ここにきて、反幕府勢力が変革へ向けて大きく動き出した。

 京における朝廷工作の一翼を担ったのは、公家の岩倉具視である。かつて公武合体派として尊王攘夷派から激しい非難を浴び、朝廷を追われて長らく蟄居中の身であった岩倉だが、昨年秋頃より薩摩の西郷や大久保と密儀を重ね、幕府に替わる新しい政治体制を作るべく策を巡らせていた。

 長州と薩摩の関係もまた、着実に緊密さを増している。

 七月から八月にかけて、薩摩はかねての盟約通り、京へ千を超える兵を送り込み、幕軍を威圧。さらにはその軍事力を背景に、征長軍の解散を朝廷にしきりに働きかけるなど、実を見せた。

 十月初旬には、薩摩藩士・五代才助が馬関を訪れ、木戸や久保松太郎、広沢兵助ら長州藩首脳部と会談。

 友好の気が熟したと見たか、薩摩藩が正式な使者を長州へ寄越したのは、十月二十二日のことだった。薩摩修好使・黒田嘉右衛門の一行は、山口で長州藩主毛利敬親との会見に臨み、返礼の使者として木戸の薩摩行きが決定した。

 藩士同士の草の根外交から、ついには藩主肝入りの公的外交へと大きく関係が発展したのである。

 目まぐるしく変わる政局の中で、草月は相変わらず丙寅丸の甲板員として、馬関と小倉を往復する日々を送っていた。解兵令が出されてもなお、小倉藩との戦いは未だに続いていたからだ。十月に入り、長州軍が激戦のすえ小倉軍の本陣近くまで進軍したことにより、ようやく小倉藩に休戦への動きが出始めた。熊本藩・薩摩藩を仲介者として、何度か話し合いの場が持たれたが、両者の意見が紛糾して、交渉は遅々として進んでいなかった。

 日々の仕事に追われる中、それでも草月は、馬関に戻った時のわずかな時間を見つけては、高杉の見舞いに訪れることは欠かさなかった。

 戦線を退いた後、高杉は招魂場のすぐそばに小さな庵を構えて『東行庵』と名付け、おうのと共に移り住んでいた。病状は一進一退を繰り返し、調子の良い時は招魂場にある松陰の墓前に参ったり、はたまた花街で遊んだり、同志たちと酒を酌み交わしたりなどしていたが、体調が優れず一日臥せっているという日もままあった。それでも気力だけは決して衰えず、周りが驚くほど精力的だった。つい先だっても、九州逃亡中に世話になったという尼僧――野村望東尼――が窮地にあると知り、人をやって助け出し、馬関へと連れてきたばかりだ。

(今日は高杉さん、具合はどうかな)

 二日ぶりに小倉から馬関に戻って来た草月は、船を降りたその足で高杉の庵へと向かっていた。せかせかと踏み出した足が、地面に落ちた枯葉を踏んでカサリと音を立てた。

 鉄板の上で焼かれているような強烈な暑さが鳴りを潜め、ようやく風が涼しくなってきたと思っていたら、いつの間にか蝉の大合唱は鈴虫たちの繊細な鳴き声に替わり、青々と生い茂っていた木々の葉も赤や黄へと色を変えていた。

 庵の戸を潜り、表口へは向かわずに庭の方へと回る。鮮やかに色付いた紅葉の隙間から、西日がきらりきらりと差し込んでいた。

「こんにちはー」

「よう、草月。来たか」

 縁側から声をかけると、少し開いた障子戸の隙間から、布団の上で身を起こしていた高杉がひらりと手を上げた。その隣で、おうのが「おいでやす」と目尻を下げて微笑む。

「お邪魔します。珍しいですね、今日はお客さん誰もいらっしゃらないんですか?」

 沓脱石に足をかけ、遠慮なく部屋に上がりながら草月が言った。部屋には高杉とおうのの二人だけ。いつもは入れ替わり立ち替わり、誰かしら来ているのに。

「さっきまでうるさいくらいに大勢いたんじゃがな。ちょうど帰って退屈しちょったところじゃ。時間があるなら、夕飯でも食ってゆっくりしていけ」

 そう勧める高杉の顔色は悪くない。咳き込む様子もなく、体調は良さそうだ。久しぶりにゆっくり話せそうだと嬉しくなる。

「それじゃあ、お言葉に甘えて」

「ほな今、お茶お出ししますよって」

「あ、私も手伝うよ」

「おおきに」

 立ち上がったおうのについて廊下を渡り、土間に下りる。

 並んで茶器の用意をしながら、草月はためらいがちに口を開いた。

「……ねえ、大福さん。しょっちゅうお見舞いに来てる私が言うのもおかしいけど……。毎日何人ものお客さんの相手してたら、高杉さん、ゆっくり養生できなくて、病気に障ったりしないのかな」

「最初はうちもそう思たんどすけど……。旦はんは独りで静かに養生するより、周りが騒がしい方が楽しゅうて気分も良いみたいどす。うちにはお国の難しいことはよう分かりまへんけど、今は長州にとって大事な時なんどすやろ? そないな時に、病気やゆうて独りにされたら、なんや取り残された思うて辛い思うんどす」

「そっか」

 洗濯物を片付けるというおうのと別れ、湯呑とお茶請けの栗ようかんを持って戻る。それを待ちかねたように、高杉は小倉の様子を聞かせろとせがんだ。

「城下も周辺の農村も、今のところは比較的落ち着いています。小さな騒ぎくらいはたまに起きてるようですけど、前みたいに一揆に発展しそうなほど深刻なものはないので、その点は安心していいと思います。小倉軍との戦闘も、今のところは起きていません。肝心の止戦交渉は、残念ながらいっこうに進展してないみたいですけど……」

「まあ、これだけこじれたんじゃ。一筋縄ではいかんじゃろうな。……ところで、薩摩行きの船足に、丙寅丸を使うという話が出ちょるそうじゃな」

「耳が早いですね。私も昨日知らされたばかりなのに」

「僕を病人と侮るなよ。たとえ寝ていても情報はすぐに入ってくる」

 当初は、五代才助が乗って来た蒸気船・開聞丸に乗せてもらう予定だったのだが、当の船が兵庫に行ったきり戻って来ないため、急遽、丙寅丸に白羽の矢が立ったのだ。

 ふふんと得意げに鼻をひくつかせた高杉とは反対に、草月はどこか浮かない顔だ。

「どうかしたか」

「……五代って人が、薩長の合同商社を作ろうって提案したことはご存知ですか?」

「ああ。馬関海峡を封鎖して、大坂への物資の流通を薩長で独占するとかいう話じゃろう」

「長州は、ほんとにそんな話、受けるのかなと思って……。確かに、実現すれば長州や薩摩には莫大な利益になるのかもしれませんけど、大坂は……。ただでさえ、今の大坂や京は物価が上がって大変なんですよ? なのに、これ以上無理を通したら、京坂の人は暮らしが成り立たなくなります」

「大丈夫じゃ。殿は、藩貿易の難しさを良く知っておられる。僕も……、手痛い失敗をした」

 高杉は痛みをこらえるように奥歯を噛み締めた。

 頭人として木戸と高杉が運営を任されていた越荷方の役人・大塚正蔵が急死したのは、まだ高杉の記憶に新しい。

 藩の貿易も行う越荷方では、藩費で購入した砂糖が捌けず大量の在庫を抱えてしまった上、丙寅丸の購入代金・約四万両の支払いを命じられて、厳しい資金繰りを余儀なくされていた。決算月の九月になっても金を工面できず、進退窮まった大塚は、その責めを一身に負って自害して果てたのである。本来なら大塚を助けるべき立場であった高杉も木戸も、用掛を任じられていた井上も、政務に戦にと忙しく、全てを大塚に任せきりで、彼らの誰一人として大塚の苦衷に気付かなかった。

「……殿は木戸さんに、薩摩の提案には決して乗ってはならぬと厳命されたそうじゃ。たとえそれで、薩摩との関係が壊れても構わんと」

 草月は目を見開いた。

「そこまで――」

「そうじゃ。それほどまでに殿のご意志は固い。じゃけえ、そのことは心配せんでええ」

 はい、と頷いた草月の表情がまだ晴れない。

「何じゃ、まだ気になることがあるのか」

「……実は、少し迷ってるんです。もし正式に丙寅丸での薩摩行きが決まったら、乗船を辞退しようかって……」

「辞退? なぜじゃ」

「だって、もし薩摩へ行くことになったら、少なくとも半月は戻って来られないでしょう。下手したら、ひと月か、それ以上――。だから……」

「おのし、まさかその間に僕がくたばると思って、行くのを躊躇しちょるのか」

「そんなことは思ってません! でも、少しでも長くそばにいたい、一緒にいたいって……。それではいけませんか?」

「そんなこと僕は頼んじょらん!」

 激しく畳を叩きつけた拍子に、枕元に積んでいた本がばたばたと崩れ落ちた。

「病を得たとはいえ、気力までは衰えちょらんぞ。たとえ僕自身は動けんでも、代わりに動いてくれる奴らがいるけえ、僕はこうして安心して養生していられるんじゃ。おのしはいつからそんな腑抜けになった。それでも僕の認めた長州の志士か。僕の知っちょる草月なら、嬉々として行くはずじゃぞ。直に敵情を知るいい機会だと言ってな」

「……」

 激昂する高杉の顔をまともに見られず、俯いた。

 今の草月は高杉に合わす顔も、返す言葉さえ持たなかった。


                    *


 夕食も食べず逃げるように高杉のもとを去って、十日余りが過ぎた。あれ以来、一度も高杉の庵には行っていない。丙寅丸の薩摩行きが正式に決定し、しばらくその準備にかかりきりになっていたからだ。いや、正確には、それを言い訳にして行かなかったのだ。これまでの草月なら、どんなに忙しくても、どうにかして時間をひねり出して、たとえほんの二言三言、言葉を交わせるだけであっても、会いに行っていただろう。それをしなかったのは、会って何を言えばいいのか分からなかったからだ。高杉に言われたことに対する答えが、ずっと出せないでいた。

 高杉に会うふんぎりがつかないまま、出航予定日まで二日を切った。

 丙寅丸には薪や石炭、水、食料などが山と積み込まれ、蒸気機関をはじめとした船の整備点検もすっかり終わり、後は出航を待つのみとなっていた。

 目の回るような忙しさがひと段落して、久しぶりの非番をもぎ取った草月は、一二三屋で昼食を済ませた後、一人招魂場を訪れていた。暦はまた一つ月を替えて十一月。海に面した地形のせいか、ほとんど雪の降らない馬関だが、海を渡る風は凍り付くほどの冷気をはらんで町へ吹き寄せる。等しく並んだ石碑の周りを囲む木々は、すっかり葉が落ちて枝ばかりになっており、遮るもののない寒風が、無言で佇む草月の体に容赦なく吹き付けてくる。

「あんまりずっとそうしてたら風邪ひくぞ」

 ふいに後ろからかかった声に、緩慢な動作で振り向いた。石段を上がったところの開けた場所に、良く知った顔があった。

「伊藤さん……」

「よ! なんか久しぶりな感じだよな。前はよく高杉さんのとこで会ってたけど」

「そうですね。最近、少し立て込んでましたから。ほら、薩摩行きの準備が色々大変で……」

「それ、ただの言い訳だろ。聞いたぞ、高杉さんと大喧嘩したんだって?」

「……高杉さんから聞いたんですか?」

「おうのから聞いたんだ。高杉さんは何も言ってない。それどころか、お前の名前出すだけでとんでもなく不機嫌になるから、おっかなくてさ。とても話を聞ける雰囲気じゃないよ」

 隣に並んだ伊藤は外国人のように肩をすくめてみせた。

「まあ、原因は何となく察しはつくけど。それで? お前も薩摩へ行くことにしたんだろ? このまま高杉さんには会わずに行くつもり?」

「それは……」

 風に吹き寄せらせた落ち葉が、石碑の一つに当たってかさかさと音を立てた。草月はかがんでそれを拾うと、手の中でくるりと一回転させてから、そっと指を離した。落ち葉はふわりと風に乗って、青い顔料を水で薄めたような淡い水色の空へと舞い上がる。しばらくそれを目で追っていた草月は、やがて落ち葉が針の先ほどに小さくなり見えなくなると、ゆっくりと口を開いた。

「……私ね、高杉さんのことが好きなんです。高杉さんのそばにいられるなら、長州のことも、この国のことも、何もかも全部投げ出して良いって思ってしまうくらいに。……伊藤さんは、きっともう、とっくに気付いてましたよね」

 静かに語られる草月の言葉はごく自然で、そこには照れも恥じらいもなかった。

「でも、それじゃ駄目なんですよね。それじゃ、高杉さんのそばにいられない。……私、高杉さんの病気のこと知ってから、そのことで頭がいっぱいになって、自分のやるべきこと、見失ってました。私がやらなきゃいけないのは、ただ高杉さんの心配することじゃなくて……。高杉さんや久坂さんや、伊藤さんたちから学んだこと――自分の目で見て、考えて、行動する――、ですよね?」

 草月の真っすぐなまなざしが、伊藤を捉えた。

「私は、高杉さんの同志として、長州の志士として、高杉さんに誇れる自分でありたい。だから、長州のために、少しでも自分の出来ることをする。きっとそれが、高杉さんが少しでも安心して療養に集中できることにもつながるから」

 いつか家に帰る、その時まで。

 それがいつかはまだ分からないけれど。

 それまで、後悔のないように生きよう。

「今日は高杉さんにそれを伝えようと思って来たんです。でも、やっぱり顔を見たら決心が鈍りそうだから、会わずにこのまま帰ります。木戸さんたちを無事に薩摩へ送り届けて、自分自身の目でしっかり薩摩を見て、聞いて、学んで、そして皆で無事に戻ってきます。そうしたら、今度こそ胸を張って会いに行きます。『唯野草月』は、長州の志士として、立派に務めを果たしてきました、って」

「そっか」

 伊藤はどこか眩しそうに草月を見た。

 二人そろって石段を下りていくと、一番下の段で退屈そうに頬杖をついて座っていた四、五歳くらいの少年がぴょんと跳ねるように立ち上がった。面食らう草月に向かって、ぐいと二つ折りの紙を突き出してくる。

「なあ、あんたが『草月』さんじゃろ?」

「そうだけど……、どうして私の名前を知ってるの?」

「さっき、髪の短い変なお侍に頼まれたんじゃ。『これを草月という奴に渡してくれ。馬の尻尾みたいな髪をしちょるけえ、下りてきたらすぐ分かる』って」

「え」

 ぽかんと口を開けた草月の手に押し付けるように紙を握らせ、少年は「じゃあ、確かに渡したけえ」と言って、再び跳ねるように駆けていった。

 草月は慌てて周りを見渡すが、心に浮かんだ人物の姿はどこにも見えない。

(高杉さんが招魂場に来てたの? なら……、まさか、さっきの話、聞かれてた……?)

 呆然とする草月の手元を興味津々に覗き込んで、伊藤が促した。

「何を渡されたんだ?」

 言われて手の中の紙に目を落とす。

 開くと、いかにも急いで書きつけたといった風の勢いある筆痕で、数行の漢文が並んでいた。漢詩であろう。

 

 心浄大瀛水


 志高不二峰


 請看天地際


 赫々奮英鋒


「……読もうか?」

 真剣な表情でじっと見つめたまま微動だにしない草月をちら、と見て、伊藤が申し出る。

「……いいえ。自分で読みます。高杉さんが私に書いてくれたものだから、ちゃんと自分で読みたいんです」

「そうか、分かった。どうしても分からなかったら言えよ。取っ掛かりを教えるくらいならいいだろ」

「ありがとうございます」

 伊藤と別れた草月は、一二三屋の二階にある自室に戻り、改めてじっくりと漢詩を読み直した。

 漢詩に関してはほとんど知識がない上、見たこともない難しい漢字や言葉が使われていて、正直、どう読み下せばいいのか良く分からない。

 それでも、何となく字面から、頑張れと言ってくれているのは分かる。


(きっと皆そろって無事に帰ってくるから、高杉さんも元気でいてください。そして、この漢詩の意味、ちゃんと教えてくださいね)




≪読み下し≫

 心は(きよ)し大(えい)(大海)の水

 志は高し不二峰

 請う天地の際を看て

 (かく々英鋒を奮え




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