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花信風  作者: つま先カラス
第四章 四境戦争
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     朱に染まる・後

 布団の上に横たわって固く目を閉じた高杉の胸が、呼吸に合わせてゆっくりと上下している。

 (いきてる)

 ただそれだけのことが、まるで奇跡のように感じられた。

 眠る高杉の顔は、乏しい蝋燭の明かりでもはっきりと分かるほど血の気がなかった。

 枕元に座った草月は、どんな些細な変化も見逃すまいと、もうずっと身じろぎ一つせずに高杉の様子を見守り続けていた。

 あの襲撃の後。

 偶然通りかかった奇兵隊士たちにより、高杉は直ちに福聚寺へと運び込まれた。

 すぐさま軍医の診察を受ける高杉の、そばにいると言って聞かない草月を無理やり引きはがして別室へ連れ出したのは、急を聞いて駆け付けた田中顕助だった。

「落ち着け、草月さん。高杉先生ならきっと大丈夫じゃ」

「大丈夫、って――。どうしてそんな落ちついてられるんですか!? 血を吐いて倒れたんですよ!? 尋常じゃない。何か大変な病気なのかも……。早く原因を突き止めて治療しないと!」

「いや、高杉先生は――」

 言いかけた田中は、はっとして口をつぐんだ。いや、何でもない、とすぐに取り繕ったが、草月は一瞬のそれを見逃さなかった。両手で田中の腕を掴んで追いすがる。

「田中さん、何か知ってるんですか!? だったら教えてください! 一体、何の病気なんですか? きっとすぐ良くなるんですよね? ……ねえ、どうして黙るんですか。答えてくださいよ、田中さん!」

 田中は草月の視線から逃げるように顔を背けた。

「……とにかくその怪我の手当てをせんと。血が出ゆうぜよ」

「こんなのどうってことありません。それより、本当のこと教えてください。教えてくれるまで、この手は離しませんから!」

「……」

 血走った目をした草月の必死な様子に、田中はついに根負けしたように言葉を絞り出した。

「労咳じゃ……。高杉先生は労咳ながじゃ……」

「ろう、がい……」

 たった四文字のその言葉を、草月はまるで壊れた器械のようにただ繰り返した。

 田中を掴んでいた手が、力を失ってだらりと下がる。

 何だっけ、なんだっけ、ろうがい、ろうがい……

 知っているはずなのに、頭が理解することを全力で拒んでいる。

 ろうがい、ろうがい、労咳……。

 肺病。

 喀血。

 不治の病。

 不吉な言葉が次々浮かんでは消えていく。

「まさか、そんな……、何かの間違いですよ。田中さん、嘘ついてるんでしょう。高杉さんが、労咳、なんて、そんなわけ……」

「草月さん……」

 否定して欲しくて。冗談だと笑って欲しくて。けれど、田中の悲痛な表情が、何よりもそれが真実だと語っていた。

(……そうだ、言われてみれば、確かに最近の高杉さんの様子はおかしかった)

 長崎で社中を訪ねた時、草月と同じように息を切らしていた高杉。あの時から、すでに体力が落ち始めていたのだろう。丙寅丸の甲板上で、床几に座って指揮を執っていたのだってそうだ。船員たちに余裕のあるところを見せる演出なんかじゃなくて、立っているのが辛かったから。体に触れた時、熱いと感じたのも、酒で火照っていたのではなく、本当に熱があったから。この半年ほど、たびたび体調を崩して寝込んでいたのも、ただの疲労なんかじゃなく――。

 もっと早く気付いていたら。

 もっといっぱい休んでもらっていたら。

 そうしたら、こんなに病状が進行することはなかったかもしれないのに……!

「いつから……。いつからなんですか……。田中さんは、ずっと知ってたんですか」

「草月さん、それは――」

 肩に置かれた田中の手を、草月は撥ねつけるように振り払った。堪えきれなかった涙がぽろりとこぼれる。

「みんな知ってたんですか!? 知らなかったのは、私だけなんですか!? どうして――。どうして教えてくれなかったんですか! 知ってたら、きっと――」

「草月さんにだけは絶対に言うなと、高杉先生から厳命されちょったがじゃ」

「私には? それってどういうことですか? 私が誰彼構わず言いふらすとでも思ったってことですか? それとも、今みたいに取り乱して使い物にならなくなるから!?」

 田中はゆるゆると首を振った。

「先生の真意は俺には分からん。答えは、高杉先生に直接聞いとうせ」


                      *


「……早く目を覚ましてくださいよ、高杉さん。じゃなきゃ、私、何も聞けないじゃないですか」

 高杉の顔を見つめながら、ぽつりと呟く。

 まるでその言葉が届いたように、高杉のまぶたが一瞬、ぴくりと動いた。

「高杉さん!?」

 思わず床板に手をついて身を乗り出す。息をつめ、瞬きもせずに見つめる中、ぎゅっと眉間にしわが寄り、やがて頑固に閉じられていた瞳がうっすらと開いた。ぼんやりと焦点の定まらない目で虚空を見つめていた視線が草月に移り、ゆっくりと焦点を結ぶ。

「……草月……?」

「良かった……。気が付いたんですね」

「ここは……」

「奇兵隊の本陣……、福聚寺の一室です。気分はどうですか」

 泣き笑いのような顔で微笑む草月を見て、意識を失う直前のことを思い出したのか、はっとしたように身じろぎする。

 まだ寝てないと、と制する草月を無視して起き上がり、がしっと草月の両肩を掴む。

「草月、おのし、怪我は」

「私は平気です。何ともありません」

「嘘を言うな! 斬られて血が出ちょったじゃろう!」

「はい。でも、本当に大したことないんですよ。斬られたっていっても、爪でひっかいた程度の浅い傷ですから。きちんと手当てしてもらいましたし、ほら、動かしても問題ないでしょう?」

 元の着物は切り裂かれた上に血で汚れてしまったので、今は奇兵隊士の隊服を借りて着ていた。少しごわつく黒い筒袖をぶんぶんと上下に振って見せると、高杉はようやくほっとしたように表情を緩めた。そのまま手を草月の背に回し、傷に障らぬように、壊れ物を扱うように、そっと抱き寄せる。


「良かった――」


「おのしが死ぬかと思った」


 熱い吐息とともに、切なげな言葉が降ってくる。

「大丈夫、生きてます。私も、高杉さんも、ちゃんと、生きてます。だいじょうぶ。だいじょうぶ……」

 草月は高杉の肩に頤を乗せ、その暖かな腕の中に身体を預けて目を閉じた。

 だいじょうぶ。

 自分に言い聞かせるようにそう繰り返しながら、幼子をあやすように、その背をそっと優しく撫で続けた。


                        *


「……それで、あの刺客共はどうなった」

 やがて体を離した高杉は、静かに訊ねた。

「……亡くなりました。二人とも」

「そうか」

 感情を殺したような草月の声音に事態を察したのだろう。高杉は伏し目がちにすまん、と言った。

「……どうして高杉さんが謝るんですか」

「おのしに人を殺めさせてしまった」

 草月は緩く首を振った。

「それなら、もう何人も殺めています。直接手を下さなかっただけで。敵を撃つための弾薬を運んだのも私。大砲を載せた軍艦に甲板員として乗り込んだのも私です。全部、私が、自分で望んでしたことです。高杉さんが気にすることじゃありません」

 敵だった。殺さなければ、殺されていた。それでも、草月があの男の顔を忘れることは一生ないだろう。

「――さっきまで、田中さんや奇兵隊の人たちが、今すぐにも小倉軍へ殴り込みに行こうって騒いで大変だったんですよ。山県さんがどうにか宥めてくれて今は大人しいですけど。あ、本陣の周りは奇兵隊ががっちり固めてくれてますから、安心してください。……そうだ、喉乾いてませんか? 今、お水淹れますね」

「……僕の病のこと、聞いたんじゃろう」

 水差しから湯呑に水を注いでいた草月の手が一瞬止まった。不自然な間が空いて、それから、極力何でもないようなふりをして答えた。

「……はい」

「まったく、ふがいない」

 高杉は自嘲するように片手で顔を覆った。

「こんな形で知られることになるとはな」

「今日のことがなかったら、ずっと言わないつもりだったんですか」

「……そうじゃ」

「どうして」

 冷静になろうと思うのに、言葉はどうしても詰問口調になる。

「どうして、私にだけ教えてくれなかったんですか。私、そんなに頼りないですか。病気のこと、受け止められないように見えましたか」

「違う!」

「じゃあ――」

「惚れた女に弱いところを見せられるか」

「え」

 目を真ん丸にした草月から、高杉は気まずげに目を逸らした。

「言えば、おのしはきっと心配して、自分のことのように苦しむじゃろう。僕にも格好つけたい相手はいる」

「ば、馬鹿じゃないですか!? 格好悪いところなんて、今までさんざん見てきましたよ。ぐでんぐでんに酔っぱらったとことか、何もかも思い通りにいかないって散々愚痴言ってたとことか……。今更じゃないですか。それに、他の女の人はどうか知りませんけど、少なくとも私は、そうやって格好つけられるより、心配させてもらえるほうがずっとずっと嬉しいんです」

「男の矜持という奴じゃ、それくらい察しろ」

「なにそれ、全然わかりません」

 こんな時だというのに、喧嘩のような押し問答になってしまった。自分たちはいつもこうだ。高杉も同じことを考えたのか、目が合うと、まるで鏡に映したように二人同時に苦笑が漏れた。

「……おしゃべりが過ぎましたね。まだ朝には間がありますから、休んでください。私はずっとここにいますから」

「ああ」

 やはり無理をしていたのだろう。素直に寝床に横になった高杉は、目と閉じるとすぐに寝息を立て始めた。

 先ほどよりは幾分か赤みの差した穏やかな寝顔を、草月は朝が来るまでただ祈るように見つめていた。


 高杉が戦線を離脱し、本格的な療養生活に入ったのはそれから間もなくのことである。


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