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花信風  作者: つま先カラス
第四章 四境戦争
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第54話 朱に染まる・前

 ――朱い。

 意志を持つ生き物のように高くうねり燃え上がる炎で、真昼の小倉城下の空がまるで夕焼けのように朱く染まっている。

 二里も離れたこの大里まで届くはずもないのに、炎の熱にちりちりと肌が焼かれる錯覚を覚えて、草月は無意識に腕を交差させ自分の体を抱いた。その隣で、高杉が独り言のように呟く。

「自ら城に火を放ったか。じゃが、なぜ――」

 その問いに答えを持つ者は、その場には誰もいなかった。


                 *


 小倉城下へ進軍すべく、長州軍が総攻撃に出たのは七月二十七日未明のことだった。

 萩から回航された大砲で増強した彦島砲台が対岸に一斉砲撃を仕掛け、長州海軍擁する軍艦全五隻が、あるいは大里の沿岸に碇を下ろして、またあるいは敵味方の間を縦横に動き回って砲撃を加える。そして、陸路からは奇兵隊・報告隊・正名隊・盤石隊ら陸軍先鋒隊。白木崎より上陸した彼らは、幕府軍艦富士山丸・回天丸・飛龍丸の強力な艦砲射撃に悩まされながらも破竹の進軍を続け、ついには小倉城下の喉元・赤坂の地まで迫った。

 赤坂の地を守るのは肥後藩軍。

 肥後藩軍は旧式の軍制ながらも最新の大砲を有しており、高地に陣を置き、その地の利を生かして高所から大砲を撃ちかけた。小さな野戦砲しか持たなかった長州陸軍は、砲撃準備に取り掛かる間もなく敵の大砲によってたちまち隊列を崩され、止む無く山の木々に紛れて小銃を撃ちながらじわじわと進軍せざるを得なくなった。渡海した中軍がたびたび援軍を繰り出すも、容易に攻め落とすことは叶わず、やがて暮れ七つの鐘が鳴るころ、疲労困憊した長州軍の撤退で終了した。

 この赤坂の戦いは、即死者十八人、負傷者百人を超える犠牲を出し、小倉口の戦の中で最も激しい戦となった。その戦闘の凄まじさは、仲間の遺体を持ち帰る余裕すらなかったことにもよく表れている。

 手痛い敗北となった一戦だったが、長州軍は戦意を失うことなく、すぐさま次の手を打った。

 翌日、大里に数百の兵を上陸させ、街道や山のあちこちに台場を築き、防備を固めたのだ。さらには夜に町中で篝火を焚き、敵への威圧をかけた。

 幕軍に異変が起きたのは月の替わった八月一日のことだった。

 小倉沖に停泊していた富士山丸が忽然と姿を消し、そして、昼過ぎに突如、小倉城が燃え上がったのだ。

 直に確かめるべく大里に上陸した高杉の供をして、草月も大里へと降り立った。これまでずいぶん長く小倉藩と戦ってきたけれど、実際に小倉藩領の地を踏むのはこれが初めてだった。

 美しかったであろう大里の町は長州兵が火をつけたことで無残な廃墟と化していた。辛うじて延焼を逃れた寺社に長州の陣を置き、今も町のあちこちに長州兵の姿が散見される。

 遠くに燃える小倉城を臨みながら、草月もまた、なぜ、と胸中で疑問がこだましていた。

 自ら火を放つほどに、小倉藩軍は危機に瀕してはいなかったはずだ。先日の戦だって、長州は押し負けて、結局、小倉城下まで攻め入ることは出来なかったのだから。何か、城を捨てなければならないほどの緊急事態が生じた、ということだろうか。

 ちら、と高杉の表情を窺った草月は、その顔色の悪さに眉をひそめた。

 軍議や諸役人たちとの会談に、諸国から訪れる使者や志士との応接――。ろくに寝る間もない多忙さに体調を崩したのはついこの間のことだ。

「高杉さん、大丈夫ですか? まだ本調子じゃないんでしょう。ここでこうしていてもしょうがないですし、ひとまず馬関に戻りませんか」

 一瞬、拒否するようなそぶりを見せた高杉だったが、じっと己を見つめる草月の真剣なまなざしに、あきらめたように頷いた。


                    *


 だんだんと様子が分かってきたのは数日が経ってのことだった。

 消えた富士山丸には、幕軍総督・小笠原長行が乗船しており、戦線を放棄して逃げたこと。それに続いて、肥後兵・久留米兵・柳川兵ら諸藩軍も次々と撤退していったこと。

 そして、そうした一連の背景には、将軍・徳川家茂の急死があった。

 病死だという。今度の長州征伐に対する心労も多分にあったのだろう。

 かつて京で見た、雨に濡れそぼった家茂の姿が思い出された。諸大名の頂点に君臨する将軍だといっても、まだあどけなさの残るほんの少年だった。

 かわいそうに、と思うより先に、長州にとっては僥倖だった、と喜んだ自分に嫌気がさした。これでもう戦は終わりになる、なんて。

 けれど、事態はそう一筋縄ではいかなかった。

 孤立無援となり、自ら城を焼いた小倉藩軍だったが、城から南に七里ほど行ったところにある香春という地に陣を構え、長州との徹底抗戦の姿勢を見せたのだ。

 両者どちらも退かず、激しい一進一退の攻防が続いた。

 戦いの舞台は陸上へと移り、草月自身は丙寅丸で兵や兵糧の運搬をするだけで、これまでのような命がけの海戦とは無縁になった。それでも、疲労困憊、満身創痍で戻ってくる兵たちを見るにつけ、その戦いの激しさが察せられ、気持ちが沈んだ。

 激戦が続いていた芸州口は、八月九日に幕府軍が撤退したことにより長州軍勝利で終わっていた。最後まで決着がついていないのはここ、小倉口だけだ。

 幕軍総督も去り、他の諸藩も撤兵した今、これ以上、小倉藩と戦う理由はないと思うのだが、小倉藩としては自国を蹂躙され、城や城下町に火をつけざるを得なかった悔しさがあるのだろう。

 小倉口で泥沼の戦いを繰り広げる一方で、幕府は止戦に向けて動き出した。芸州藩の仲介で、幕府・長州双方の使者が宮島で会談することになったのは、九月の初めのことである。

 長州側の使者は井上聞多、広沢兵助、太田市之進、川瀬安四郎ら。対する幕府側の使者は、勝麟太郎ただ一人。海軍操練所が反幕府的だとお咎めを受け、長らく蟄居の身であった勝だが、今年の五月に突如海軍奉行に復職していた。

「今頃、井上さんたちは勝先生と話し合いをしてる頃でしょうか……」

 頬を撫でる風は冷たいと感じるほどで、長かった日も気づけば随分と短くなった。一面にうろこ雲の浮かぶ空は早くも淡い橙色へと色を変え始めている。高杉に付いて朝から城下の巡察をしていた草月は、遥か遠くの宮島に思いを馳せてわずかに目を細めた。

 小倉城は本丸を中心に、周辺の川を巧みに利用して、幾重にも堀を巡らせ、さらにその周りを侍屋敷、町屋が取り囲む総構えの造りである。

 小倉城炎上からひと月。小倉藩軍がいなくなった城下町は、一時期、強盗や略奪、詐欺などの横行する無法地帯と化していたが、長州軍が城下に入り、町の警邏や施政に当たったことで、徐々に落ち着きを取り戻してきていた。

 家を失った者たちへの炊き出しや、怪我人や病人の治療にも積極的に取り組んできたことで、当初予想されていた住民からの反発は思ったより少なかった。

 こうして通りを歩いている今も、住民に交じって町の再建に取り組む長州兵の姿が散見される。

「聞多のことじゃ、心配はいらん。怒りっぽいところはあるが、あれで交渉事は得意じゃけえの。僕は、勝という御仁には会ったことはないが、おのしの見立てでは信用できる人物なんじゃろう?」

「はい。勝先生は幕府側の方ですけど、海軍塾の例を見て分かるように、広い視野をお持ちの方です。ろくに素性の知れない私にもとても良くしてくださって……。きっと、長州と幕府の関係を良い方向へ持っていくようにしてくれると思います」

「そうか」

「もしかしたら、肝心の話し合いはあっという間に済んじゃって、あとはお酒片手に熱くこの国の未来のことを語り合ってたりするかもしれませんね」

「ありそうじゃな」

 冗談めかした草月の言葉に、高杉も笑って頷いた。

 今日は長州へは戻らず、小倉に置かれた奇兵隊の本陣に泊まることになっている。日の暮れる前に着こうと、二人は町を後にした。本陣のある広寿山福聚寺までは、ここから東へ一里足らずといったところだ。

 町の外には、人気のない細いあぜ道の左右に見渡す限り田んぼが広がっていた。重そうに稲穂を垂れた田もあれば、無残に荒らされたり焼けてしまったりしている田もある。複雑な表情でそれらを見やる草月に気付いて、高杉が「収穫できるのは良くて五割といったところじゃな」と言った。

「足りない分は長州のほうで補うしかないか。……とはいっても、長州にもそれほど余裕があるわけではないが」

「そうですね……。この前の台風でやられた稲も多かったみたいですから」

 草月は、『一二三屋』に来るお客さんから聞いた話なんですけど、と断ってから、

「幸い、残った稲の生育はまずまず順調のようです。ただ、軍夫の動員が長引いて農村の働き手が減ってますから、収穫の時には動員人数を減らすとか、軍から応援を出してもらうとかしてもらえると、きっと助かると思います」

「そうか。一度きちんと調査して正確な数字を出す必要があるな。後で木戸さんに諮ってみよう。軍から人手を出すとなると、奇兵隊にも話を通しておいたほうがいいな」

「あ、それなら、小倉側の資料もあった方がいいですよね? 私、役所に戻って、書類を持ってきます。村ごとの作付け面積とか、これまでの収穫実数とか、あと、ざっとですけど、今期の収穫見込みも出ているはずですから」

「今から戻るのか? じき暗くなるぞ」

「急げば平気ですよ。高杉さんは先に行っててください。すぐに追いつきますから」

 言うなり元来た道を駆け戻る。

 目当ての書類を手に役所を飛び出し、小走りで町を突っ切る。武家地と町人地を仕切る木戸を抜けてまもなくの頃――、

「――なに、高杉晋作が!?」

(……え?)

 突如、馴染みのある名前が耳に飛び込んで来て急停止をかけた。この辺りは、武家地からの延焼で燃えた民家も多く、まだ片付けられずに放置されている真っ黒な柱の燃え殻が点々と残っていた。声がしたのは、辛うじて焼け残った民家の中からだ。

 その激しい語調に、ただ事でないと直感した草月は、息を殺して民家に近づき、聞き耳を立てた。

「しっ! 声が大きい!」

「すまん。しかし確かなのか? 高杉が奇兵隊の陣へ向かったちいうのは」

「長州の役人が話しとるのをこの耳で確と聞いた。しかも、ろくな供も連れていないらしい。長州軍の動向を探るためにここまで来たが、まさかこれほどの好機に恵まれるとは。これは天運ぞ。高杉を殺せば、長州軍は一気に崩れる。近道を使って先回りし、奴を待伏せよう」

「よし」

 中から人の気配が去るのを待って、草月は口を塞いでいた両手をそろそろと離した。どっ、どっ、どっ、と心臓が体を突き破る勢いで脈打っている。

(今の人たち、小倉軍の残党……!? まさか、城下へ侵入していたなんて。早く……、早く高杉さんに知らせないと、高杉さんが危ない……!)

 だが、走りだそうとした草月の目の前に、ぬっと人影が差した。

「おっと、どこに行きよる?」

「きさん、長州の者やろ。我らの話を聞かれたとあっては、黙って行かせるわけにはいかん」

 草月は猛烈に自分のうかつさを呪った。彼らはとうに草月の気配に気づいていて、立ち去った振りをして戻って来たに違いない。

 刀の鯉口を切った男を、もう一方の男が止めた。

「待て。ここで殺して騒ぎになってはまずい」

「そうだな。しばらくここで大人しくしていてもらおう。目が覚める頃には全て終わっている」

 ――逃げなきゃ。

 だが身をひるがえした瞬間、首の後ろに強い衝撃を受けた。

 うめき声と共に草月はその場にどさ、と倒れた。

「待っ……て……」

 急速に意識が遠のいていく。霞みゆく視界の中で、遠ざかる男たちの背中に必死で手を伸ばす。

(駄目だ、だめ……。ここで気を失ってしまったら、高杉さんが、高杉さんが……)

 いやだ。それだけは。

 それだけは、絶対に……!

 大きく息を吸い込み、目の前にあった自分の腕に、思い切り噛みついた。

(――!) 

 痛みに一瞬、意識が覚醒する。細い細い意識の糸を逃すまいとぐっとたぐり寄せて、ふらつく足で立ち上がった。

(いかなきゃ。早く)


                  *


 早く、早く。一秒でも早く。

(お願い、無事でいて――!)

 もつれそうになる足を懸命に動かし、あぜ道を駆ける。やがて田園地帯を抜け、木々の生い茂る街道へ入った。日の傾きかけた今は、奥を見通せないほどに薄暗い。

 目を凝らした視線の先に、切望していた人の姿が見えた。大きな松の幹に凭れ、手持無沙汰に落ち葉を手の中で弄んでいる。

「高杉さん!」

 良かった、無事だ。

 どっと安堵の息が漏れる。草月の姿を認めた高杉が、体を起こして無造作にこちらへ近づいて来た。

「どこで道草くっちょったんじゃ。待ちくたびれたぞ」

「すぐにここを離れてください! ここは危険です。さっき町で大変な話を聞いて――」

 言いかけた時、高杉の背後に立つ木々の間から、きらりと銀の光が反射した。

「高杉さん後ろ! 刺客が――!」

「――!?」

 ギンッ!

 刀と刀が噛み合う耳障りな音。

 刺客の刃を、高杉が抜刀ざま間一髪受け止めたのだ。

 横合いから斬りかかろうとするもう一人の刺客の右腕に、草月は夢中でむしゃぶりついた。

「きさん、さっきの――! ええい、離さぬか!」

「離すもんですか!」

 刃が当たりそうにあるのも構わず、刀を奪い取ろうと力を込める。

「高杉さんは殺させない!」

「ええい、邪魔だ! そんなに死にたいのなら、きさんから殺してやる」

 刺客は半ば投げ飛ばすように草月を強引に振り払うと、態勢を整える間も与えず、銀の刃を閃かせた。

 それを紙一重でかわせたのは、運か、それとも経験か。

 草月の胴を斜めに深く薙ぐはずの必殺の一太刀は、草月が咄嗟に体を捻ったことで、わずかに胸の上の柔らかい皮膚を薄く切り裂くに留まった。胸に巻いた晒が切れて、覗いた白い肌に赤い血の筋が走る。

「――な、きさん……、女げな!?」

 二の太刀を振るうことも忘れて固まる男の顔面に、草月が渾身の力を込めた短筒の銃身がめり込んだ。うまい具合に目に当たったのか、男が目元を押さえて後ずさる。

「刀を捨てて! でないと撃ちます!」 

 脅しでない証拠に、がちゃりと短筒の撃鉄を起こす。銃口を男から逸らさぬまま、草月は素早く視線を高杉の方へと走らせた。

 その時だった。

 鍔迫り合いをしていた刀をはじいて距離を取った高杉が、突如、体をくの字に折って咳き込みだしたのだ。

 まるで体の内に複数の火種があって、それが次々と爆発しているかのよう。尋常な苦しみようではない。

「高杉さん!?」

 草月は対峙していた刺客を放り出し、一目散に高杉のもとへ駆け寄った。草月の目に飛び込んで来たのは、鮮やかな赤。

 口元を押さえていた高杉の手のひらが、鮮血に染まっている。

「くそっ、こんな時に……!」

 高杉は立っていられず、刀に寄り掛かるようにして片膝をついた。

「……病持ちか。だが、好機! 覚悟!」

 高杉とやり合っていた方の刺客が、刀を上段に構えて地を蹴った。


 ――高杉が殺される!


 そう思った瞬間、草月の視界がかっと朱に染まった。

 頭の中は沸騰しているように熱いのに、意識は自分でも驚くほど冷静だった。

 何かに導かれるかのように両手が動いて、短筒を胸の前で構える。銃口が刺客の心の臓を正面に捉えるや――ためらうことなく引き金を引いた。

 大きな破裂音と共に高速で発射された弾丸は、狙い違わず刺客の胸へと吸い込まれるように飛び込んでいった。刺客は刀を構えた姿のまま胸から血を噴き、驚愕の表情を張り付けたまま前のめりにどうと倒れた。

 一連のことは、わずか数秒にも満たない一瞬の出来事だっただろう。だが草月には、まるで時間が止まったかのようにひどくゆっくりと感じられた。

 男の最期を見届けぬまま、草月はすぐさま高杉に向き直り、両肩を抱いて体を支えた。

「高杉さん! しっかりしてください、高杉さん!」

 辛うじて意識を保っているが、喉からひゅうひゅうと嫌な音を立てて、今にも昏倒しそうだ。

「待っててください、今すぐに人を呼んできますから――」

 言いかけた時、

「――草月!」

 高杉が鋭い声で警告を発した。

 はっとして振り向いたすぐ目の前に、片眼から血を流した男が、憤怒の形相で刀を振りかぶっていた。

 ――避けられない。

 草月は、とっさに高杉をかばうようにその体に覆いかぶさった。

 痛みに備えてぎゅっと目をつぶる。

 だが、いつまでたっても、恐れていた痛みが来ない。

(……?)

 おそるおそる目を開けて振り返ると、高杉の突き出した刀の切っ先が、刺客の脇腹を貫いていた。苦悶の表情を浮かべて、男が地に斃れ伏す。

「はは……、顕助に感謝せんとな。これほど長い刀でなかったら、届いちょらん……かっ、た……」

 高杉の手から刀が滑り落ち、気力を使い果たしたかのように意識を失った。ずん、と重みを増した高杉の体が草月にもたれかかる。

「高杉さん!? ねえ、うそ――。お願い、返事してください」

(いやだ、そんな)


「高杉さん――!!」





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