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花信風  作者: つま先カラス
第四章 四境戦争
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第53話 小倉口激戦

 緒戦からしばらくは大人しかった幕府軍だが、月末にかけて、目に見えて動きが活発になってきた。

 幕府海軍が有する最大最強の軍艦・富士山丸が小倉沖へと姿を現したのを皮切りに、馬関へ向けて散発的に砲弾を放つなどの挑発行為が目立つ。さらには幕府がアメリカから購入した蒸気船・回天が近く長崎から回航されてくるという噂があり、長州軍は、幕府海軍が完全に陣容を整える前に叩く必要に迫られた。

「――では、陸軍先方隊が門司より上陸し、陸側と海側の二手に分かれて大里へと進軍する、ということで決まりじゃな」

 一の宮にある奇兵隊の陣屋では、高杉及び山内、山県ら諸隊幹部、海軍幹部が集まって、軍議を開いていた。大里は、彦島の向かい、門司から南西におよそ一里半ほど行った沿岸に位置する。敵本陣の置かれた小倉を落とすためには、是が非でも押さえておきたい極めて重要な軍事拠点である。だが、それ故に幕軍の守りも相応であると思われた。

「幕府海軍への備えはどうする? とにかく富士山丸だけでも封じておかぬことには、肝心の陸軍の上陸もままならんぞ」

「正直、今の長州の軍備では苦しい。萩から回してもらうことになった大砲は未だ届いておらんし、乙丑丸と癸亥丸は先の戦の損傷で今は動かせん」

 憂い顔の諸将へ、心配いらん、とさらりと言ってのけたのは高杉だった。にやりと不敵な笑みを浮かべ、

「それに関しては僕に奇策がある」


                        *


 月が替わり、七月三日。

 薄紙をはがすように、漆黒の空が次第に鮮やかな藍色へと色を変えつつある頃。

 幕艦・富士山丸は、小倉沖に碇を下ろして静かに佇んでいた。

 先の夜襲の苦い経験から、舷灯はつけておらず、その巨大な船体はまだ周囲の闇に溶けている。船の存在を主張しているのは、艦内で鳴らす時刻を告げる鐘の音だけだ。

 おおぉん、と鐘の余韻が消える間際、それをかき消すように、突如、無粋な砲撃音が辺りに鳴り響いた。

 一発、二発、三発。

 衝撃で船体がゆらりと揺れる。

 ――敵襲だ! 早く明かりを! 被害状況は!? 迎撃の用意を! 肝心の敵艦はどこだ? いない? いないはずがあるか、よく探せ!

 船内の騒乱を嘲笑うかのように、小舟が三挺、富士山丸の巨体から密かに離れていく。舟の上を半ば占領するように置かれている黒い塊は、小型の大砲だ。

 船員が気付いた時にはすでに遅く、小舟は速い潮流に乗ってあっという間に遠ざかっていった。

 ――やってくれる!

 船員たちは歯噛みせんばかりに吐き捨てた。

 あんな木の葉のごとき小舟に、この富士山丸がしてやられるとは……!

 ともかく、一刻も早く損傷の具合を確認しなければ。

 だが、それより早く、彦島に据えられた長州軍の砲台が大里へ向けていっせいに火を噴いた。


                          *


「先手の奴ら、上手くやったようじゃな」

 船首に立った高杉が、大砲の鳴り響く大里沖を見据えて、満足げに独りごちた。

 次は奇兵隊らが門司へ渡航する手はずになっている。頃合いを見計らい、高杉は艦隊へ号令をかけた。

「僕らも行くぞ! 敵艦隊を足止めし、陸軍の大里進軍を援護する!」

 朝焼けに染まる空の下を、丙寅丸は庚申丸・丙辰丸を曳いて馬関を出港した。潮流は進行方向と真逆の西から東。船はそれをもろともせずに、最大馬力でぐいぐいと強引に進んでいく。

 昨日は夜になってもいっこうに気温が下がらず、吸い込んだ空気は窒息しそうなほどに熱をはらんでいた。抑えきれない不安が、胸の奥からじわじわと染み出してくる。弱気な感情を振り払うように、草月はひたすら目の前の操帆作業に集中した。

 やがて――

「前方に敵艦を確認! 先頭は富士山丸。続いて順道丸、翔鶴丸です! こちらに近づいて来ている模様!」

「ふん。富士山丸は動けるか」

 高杉はゆらりと床几から立ち上がった。

「迎撃用意! 敵艦全てをこっちに引き付ける。進軍する長州陸軍の元へは一発たりとも撃たせるな!」

 ぎぎぃー、と船体を軋ませながら、船は迎撃態勢を取る。

 互いに近づくに従い、富士山丸の威容が否が応にも目に入ってくる。

(大きい――)

 小型の丙寅丸と比べて、一回りどころか、二回りも三回りも違う。砲門は片舷に六つずつ、計十二門。中央の煙突からどす黒い蒸気を上げながら、凄まじい速さで向かってくる。もし、あの巨体に捨て身でぶつかってこられたら、こちらはひとたまりもないだろう。

 思えば、これまでの海戦はほとんど夜の奇襲ばかりだった。明るい空の下、互いの姿がはっきりと見える形で対峙するのは初めてだ。

 畏怖の念にかられ、我知らず、縄を持つ手が震えた。船上に、張り詰めた空気が漂うのを肌で感じる。

「随分と図体の大きな船じゃのう。あれでは当てろと言わんばかりじゃ」

 揶揄うような高杉の言葉が、その場の空気を一変させた。死地にいるとはとても見えない、堂々と自信に満ちた姿。

「幕府はどうやら、長州の砲撃訓練に虎の子の船を貸してくれるらしいぞ。ここはその心意気に応えて、存分に弾を撃ち込んでやれ!」

「応!」

 どっと笑いが起こり、たちまち意気を取り戻した船員たちが、きびきびと戦闘配置につく。

(ああ、やっぱりすごい、この人は)

 草月はぎゅっと両の手を握りしめた。もう震えてはいない。体の底から熱い闘志が湧いてくる。

(絶対に、勝って、生きて戻る)

 手首の組紐に触れて改めてそう誓うと、目前に迫る敵を眦に力を込めて睨みつけた。


                        *


 大里沖の海に、絶え間なく敵味方の砲弾の雨が降り注ぐ。

 あまりに長時間、砲撃の轟音にさらされているせいで、頭がおかしくなりそうだ。

 次々に吐き出される煙突の煙と大砲の煙とで、視界はすこぶる悪い。海上ではあちらこちらで水柱が上がり、その度に船は大きく左右に揺れた。ばしゃん、と跳ねた海水が盛大に甲板を濡らす。砲弾を入れていた空の木箱が、船体の揺れに従って右へ左へ甲板を滑っていく。

 皆、目の前の敵を相手にするのに手いっぱいで、大里を目指して進軍しているはずの長州陸軍がどうなっているのか、それを窺う余裕も全くない。

 と、機関に不具合でも起きたのか、急に順道丸が後退していく。代わって前へ出た翔鶴丸が、庚申丸に狙いを絞って襲い掛かった。庚申丸は必至で逃れようとしているが、蒸気船と帆船では速度に違いがあり過ぎる。これではろくに時を待たずして撃沈されてしまうだろう。すぐさま高杉が指示を出した。

「面舵一杯! この船で庚申丸を曳いて東へ逃がす! 全速力じゃ! ありったけの石炭をくべるよう機関部へ伝えろ」

 だが、そうはさせじと富士山丸が丙寅丸に追いすがる。次々に発射される大砲の着水の衝撃で、船体が定まらない。彦島に据えた砲台も、ここまでは射程圏外だ。互いに激しい砲撃の応酬になった。丙辰丸が援護に来て、どうにか庚申丸を離脱させることに成功する。

 このぎりぎりの状況下で高杉が繰り出した次なる一手は、富士山丸への近接攻撃命令。

 軍艦の規模・造り、大砲の数で圧倒的に劣る長州勢が勝つには、丙寅丸の機動力を生かして敵艦の懐へ飛び込み、間近から砲撃を仕掛けて致命的な打撃を与えるしかない。だがそれは、自爆行為と紙一重の極めて危険な賭けだった。

 それでも、船員たちは誰一人反対することなく、半ば狂気じみた表情で請け合った。帆を操る草月の手にも力が入る。

 その時。

 ――びゅ、と頬に風圧を感じた。

 本能的に、肌が恐怖で粟立つ。

 これまでとは桁違いの轟音が間近に聞こえる。次の瞬間には、凄まじい衝撃で甲板に叩きつけられていた。

(――!?)

 何だ、何が起こった!?

 打ち付けた背中に激しい痛みが襲う。肺が圧迫されて息ができない。視界を覆う黒煙の中に木っ端みじんになった木片がばらばらと舞っている。

 腕をつかまれ、引っ張り起された。目の前で、誰かが叫んでいる。その口がぱくぱくと動いているのに、なぜか音にならない。

 声だけではない。あれほど響いていた砲撃音も、水しぶきの音も、号令も、怒号も、何も聞こえない。まるで水の中にいる時のように、耳の奥が鈍く詰まっている感覚。

「――聞こえない!」

 叫んだはずの自分の声さえ分からない。

 周りには、折り重なるように人が倒れていた。先ほどまで草月の立っていたすぐそばの船べりが大きくえぐれていて、そこに弾が命中したのだとようやく理解する。

 半ば呆然として立ちすくんでいると、左手の甲を生ぬるいものが伝った。無意識に袴に擦り付けようとして、その手が赤く染まっているのに気付いた。血だ。左腕に、大小の木片がいくつも突き刺さっていた。今更のように、じくじくと痛みが襲ってくる。

 気が付くと、草月は他の怪我人たちと一緒に船内の医務室にいた。待機していた医者が片端から手当てを施していく。手当てといっても、傷口を洗い、包帯を巻くだけの簡単なものだ。手当ての済んだ者から、次々と持ち場へ戻って行く。

 ――私も、戻らなきゃ。

 草月はふらつく足で立ち上がった。

 耳ももう聞こえる。頭もしゃんとしている。腕だって痛いけどちゃんと動く。

(大丈夫、やれる)

 景気づけに、腰に下げた兵糧袋から備急餅を一つ摘んで口に放り込んだ。不味い。海水ですっかりふやけて何とも名状しがたい味になっていた。吐き出しそうになるのを無理やり飲み下し、激しい揺れの中を甲板へ向かって急ぐ。階段の手前で、反対方向から走って来た田中とばったり出くわした。田中の顔面からも、もろ肌脱ぎにしてあらわになった上半身からも、滝のような汗がしたたり落ちている。

「草月さん! ちょうど良かったぜよ。さっき、げにごっつい衝撃がきたけんど、ありゃあ、船に弾が当たったんかえ――って、どういたが、その腕は! 血が出ゆうぞ、怪我したんか!」

「ちょっと切っただけです。大したことありません。砲弾が後ろの船べりに当たったんですけど、少しかすった程度です。重傷者もいません。それより田中さんこそ大丈夫ですか? 汗だくじゃないですか」

「はは、ボイラー室は灼熱地獄じゃき。しょうがないちや」

「あの、これ良かったら」

 草月は腰に下げていた竹筒を突き出した。

「少し口をつけただけだから、まだ残ってるはずです。こまめに水分を取らないと倒れてしまいますよ」

 田中はありがたい、と言って受け取り、ごくごくと喉を鳴らして一気に飲み干した。

「ふう、生き返ったちや。ほいたら俺はまた釜焚きに戻るぜよ」

「あ、田中さん!」

 背を向ける田中を呼び止めた。じっとその目を見つめて一言、

「ご武運を!」

「……おまんもな、草月さん!」

 にかりと笑って、今度こそ田中は走り去って行った。

 甲板に戻った草月を高杉が一瞥して、「無事か」と短く問うた。

「平気です。問題ありません」

「ふうん。さすがのおのしも、肝を潰して戻って来んかと思っちょったが――」

 声音にわずかに揶揄うような色がある。

「違ったようじゃな」

「怖さもマックス振り切ると逆に闘志が湧いてくるみたいです。今、私、ものすっごく燃えてますよ。あのでっかい奴に、目にもの見せてやりましょう!」

 少し、いや半分近くは虚勢も混じっていたが、たとえ虚勢だろうと、口に出して言っていればそのうち気持ちも追いつくというものだ。

「上等!」

 は! と破顔して、高杉は「おい、おのしら!」と声を張り上げた。

「何がなんでも生き延びろ! 生きて帰った暁には、美味い酒をたらふく飲ませてやるぞ!」

 おおおお、と船体を震わせるほどの歓声が沸く。命知らずの船員たちにより、船は砲弾の雨をかいくぐり、敵の懐めがけて突き進んでいく。

「――待て、様子がおかしい」

 突如、富士山丸からの砲撃が止まった。そのまま、後方へ退いていく。

 もしや、弾切れか? それとも、機関の故障か?

 富士山丸を追うように、翔鶴丸も西へと遠ざかる。

「どうします、艦長? 追撃しますか」

「いや、深追いは禁物じゃ。こちらも消耗が激しい。敵の動向を注視しつつ、交代で休憩をとれ」


                      *


 その後、敵艦が戻ってくることはなかった。

 海軍が激しい砲撃戦を繰り広げている頃、門司から上陸した長州陸軍もまた、小倉藩軍とあちこちで干戈を交えていた。海岸沿いに進軍していた一手は、三方向から一気に大里へと突入。小倉藩軍は砲台に拠って、野戦砲や小銃で巧みに応戦し、し烈な戦闘を展開するも、ついには支えきれずに砲台を捨てて退却した。長州藩軍は、大里の人家を焼き払い、しばしの休息をとった。やがて後詰部隊や、内陸の搦手から進軍してきた部隊も合流してくる。

 丙寅丸と丙辰丸は、疲弊した部隊から順に船に乗せ、馬関まで引き上げさせた。

 全ての陸兵の帰還が完了したのを見届け、丙寅丸・庚申丸・丙辰丸の三艦がようやくその傷だらけの船体を馬関の港に落ち着けたのは、日が中天を大きく過ぎた暮れ七つの頃である。



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