第51話 小倉口開戦
六月十四日。高田藩・彦根藩軍が岩国藩領を砲撃し、芸州口開戦。
六月十六日。専守防衛を捨てた長州藩軍が浜田藩・福山藩軍へ先制攻撃をかけ、石州口開戦。
そして残る最後の一つ、小倉口では――
六月十七日、明け八ツ刻。
空には、少し欠けた月がわずかに西の端に引っかかっているばかり。激しい流れの馬関海峡を、夜陰に乗じて密かに航行する複数の影があった。小倉へと進撃する長州艦隊である。先頭を行くのは、丙辰丸を縄でつないで曳航する旗艦・丙寅丸。そのすぐ後ろを癸亥丸。そして、それに並走するように、庚申丸を曳航した乙丑丸が進んでいく。
小倉攻撃の軍略を練るにあたり、高杉は前もって地元の漁師を使い、敵の陣営や地形など対岸の様子を探らせていた。十六日の昼過ぎ、その中の一人が非常に重要な情報を持ち帰ってきた。
幕軍が、二日後の六月十八日に長州を攻める予定だというのだ。
「それならこっちは十七日に攻撃するまでじゃ!」
即断即決。急遽、先制の夜襲が決定した。
一の宮(馬関から北に約四里余り)に布陣している奇兵隊へと出撃命令が出され、草月もまた高杉や田中らと共に再び船上の人となった。乗り込むのはもちろん、丙寅丸だ。試運転の時はまだまだ何が何だか分からなかった無数の縄の役割も、今はどれを引けばどこがどう動くのか、きちんと把握できるようになっていた。指示に従ってきびきびと動く草月の頬に、潮の香りを含んだ生ぬるい風が吹き過ぎて行く。荒い潮流に、船体は前後左右に大きく揺れた。一際大きな波が来て、草月は大きくたたらを踏んだ。転びそうになった身体を、後ろから伸びた腕がしっかりと支えてくれた。
「気を付けろ。丙辰丸をつないじょるせいで、いつもより安定が悪い」
高杉だ。今日は鉄扇ではなく、例の田中から譲り受けた大刀を杖代わりに手にしている。礼を言いつつ、身体を起こした草月の口から、ふいに言葉が滑り出た。
「――高杉さん、具合でも悪いんですか?」
「は? 何じゃ、いきなり」
高杉は面食らったようだった。だが、面食らったのは草月も同じだ。自分でも、なぜそんなことを口走ったのか分からない。ただ、微かな違和感を覚えたのだ。
「いえ……。ただ、なんとなく、身体が熱いような気がして……」
もごもごと言葉を濁していると、
「――ああ、それは酒のせいじゃろう」
「え、お酒?」
「軍議の後、正一郎たちと別れの酒を酌み交わしちょったんじゃが、いささか過ごしてな」
「大事な戦の前に、飲み過ぎる司令官がどこにいるんですか!」
「そういうおのしも、『一二三屋』で盛大に送別の宴をやったんじゃないのか」
「いいえ、特別なことは何も。一太郎さんもおさんちゃんも、『草月さんは必ず無事に帰って来るから、ことさら特別なことをして送り出すようなことはしない』って。だから私も、いつも通り『行ってきます』と言って出て来ました」
「そうか」
高杉の目がほんの少し柔らかく細められた。
「いい奴らに恵まれたな」
「はい、そう思います」
心から草月は同意した。
高杉はふいと首を巡らせ、暗闇を透かすように左舷後方に目を凝らし、ちゃんとついて来ちょるな、と言った。乙丑丸と癸亥丸のことだ。
乙丑丸は、「ついでに戦見物でもして行け」との高杉の誘いに坂本が嬉々として応じたため、そのまま社中が操縦している。
(……『ついで』で戦に誘う方も誘う方だけど、応じる方も大概どうかしてる)
その時のやり取りを思い出すと緊張もいささかほぐれて、草月はこっそり苦笑を漏らした。
出発からわずか四半刻ほどで、小倉藩領の対岸が近づいて来た。西の門司浦へと向かう乙丑丸組と別れ、丙寅丸ら三隻は東の田野浦へと向かう。
海岸沿いに据え付けられた小倉軍の大砲が、多数のかがり火に照らされて、不気味な影を揺らめかせている。さらには、幕軍が渡航用に用意した小舟数百艘が海岸を埋め尽くさんばかりに並んでいる様子が確認できた。その向こうの平地には、おびただしい民家が密集している。
船は徐々に速度を落とすと、荒い潮流に流されないよう碇を下ろした。
自然と乗組員の視線が、船首にすっくと立つ高杉へと集まる。たっぷりと溜めをとってから、高杉は高々と掲げた右手を、対岸の砲台へ向けて振り下ろした。
「――撃て!」
小倉口、開戦である。
*
夜のしじまをねじ伏せるが如く、関門海峡に重低音の轟音が鳴り響く。
丙寅丸に続いて、癸亥丸、丙辰丸からも次々と大砲が発射され、小倉側も、すぐさま沿岸や山上の砲台に据え付けた大砲で応戦する。激しい砲撃の応酬は、まるで空がバリバリと割れて落ちてきたかと錯覚するほどの凄まじさである。
草月の乗る丙寅丸周辺の海のそこここにも敵の砲弾が着弾し、高い水柱が立ち昇る。細かな水しぶきが視界を覆う。
きれいな放物線を描いて、船からほんの数間ほどのところに敵の砲弾が着弾した。帆柱の先まで届きそうな高い水柱が上がり、船体は振り子のように大きく揺れた。
草月は手近な縄を腕に巻き付け、必死でしがみついて体を支えながら、今にも胃の中がでんぐり返りそうだった。
坂本たちは無事だろうか、と思いを致す余裕もない。
どれだけ経ったのか、時間の感覚も分からなくなってきた頃、ようやく東の空に日が昇り始めた。
眩しさに目を細めた草月は、海上にあるものを認めて叫んだ。
「高杉さん! 後ろ!」
「――来たか」
振り向き、草月の言わんとすることを察した高杉は、にやり、と口角を上げた。
「碇を上げろ! ぎりぎりまで田野浦へ接近する!」
唸りを上げて丙寅丸の船体が動き出す。半死状態だった草月も、耳鳴りと吐き気を堪えながら必死で操帆作業に加わった。
――ドォン!
一際激しい衝撃が船を襲う。
「左舷前方被弾! 損害軽微!」
「構わん、突っ込め!」
浅瀬ぎりぎりまで近づいた丙寅丸の背後から、船体に隠れていた数十艘の小舟がいっせいに姿を現した。乗っているのは、奇兵隊第一・六銃隊。報告隊一小隊。長州陸軍先鋒隊である。兵たちは、長州艦隊の援護射撃を受けて、ぐいぐいと浜へ漕ぎ寄せて行く。
(……あの時、みたいだ)
その様子を甲板の上から見下ろしながら、草月はごくりと唾を呑んだ。
田野浦へ上陸するや素早く散開し、それぞれ物陰に隠れて狙撃を開始する。そうした長州陸軍の動きは、二年前、外国の連合艦隊が馬関を襲撃した時の、統率された水兵の動きを彷彿とさせた。
あの時とは、立場がまるで真逆だけれども。
突如現れた長州陸軍に、沿岸を守っていた小倉藩の銃隊は大混乱に陥った。それでも果敢に応戦していたが、門司より上陸した長州陸軍別動隊が、背後から田野浦の幕軍本陣を衝いたことで、小倉藩軍はたまらず算を乱して退却し始めた。勢いに乗った長州軍は山上の砲台を奪い取り、ついには本陣を占拠することに成功した。
あれほど休みなく響いていた砲撃音はいつの間にか聞こえなくなっていた。静けさを取り戻した馬関海峡に、長州軍の勝鬨の声が響き渡った。
*
小倉藩軍の残した野戦砲や弾薬を残らず分捕り、丙寅丸ら三隻は、いったん馬関へ引き上げた。時刻はとうに昼を回っていた。
おさんや一太郎を始め、有志の地元民が炊き出しをしてくれて、草月たちはありがたく食事にありついた。木陰に座って涼をとりながら、こぶし大ほどの大きなおにぎりを口いっぱいに頬張る。具のない素朴な塩むすび。操帆のために縄を引き続けて擦り切れた手のひらに塩が滲みてたまらなく痛んだけれど、これまで食べたどんなおにぎりよりも美味しかった。
頭上では蝉がわんわんと鳴き声を上げている。大砲の大音量にさらされた草月の耳には、それすら可愛い子守歌だ。
草月たちが休んでいる間にも、奇兵隊の別部隊が次々と小倉へ向けて渡海していた。戦況はどうなっているのだろう。あのままこちらが押しているのだろうか。それとも、幕軍が盛り返しているのだろうか。
必ず勝って、と祈りを込めて対岸を見つめる。沖合では、帰還した軍艦の周りを多数の小舟が取り囲み、被害状況の確認を行っていた。
丙寅丸も丙辰丸も船体に十発を超える弾丸の痕があったが、損害は軽微で、航行に問題はない。
癸亥丸は実に約三十発もの砲弾を受けていた。幸い、敵の大砲が口径の小さな曲射砲だったことで、決定的な船の損傷には至っていなかった。ただ、人的被害は大きかった。二人が死亡、七人が重軽傷を負った。
陸兵を乗せた小舟と入れ違いに、乙丑丸と庚申丸が馬関港へ滑り込んできた。
「龍馬さん! 皆さんも!」
降りて来た坂本ら社中の面々を目ざとく見つけて、草月は一目散に駆け寄った。それぞれ大なり小なりかすり傷を負っているようだが、命にかかわるような重傷はなさそうだ。
「良かった、無事だったんですね! なかなか戻って来ないから、心配したんですよ」
「このとおり、わしら全員、絶好調じゃ! おまんのほうも、無事生き延びたようじゃな」
「おかげさまで。あ、右手にあるそこの民家を救護所として使ってますから、怪我してる人はそちらへ行って手当てしてもらってください。炊き出しのおにぎりもありますよ」
「飯があるがか! それはありがたかー!」
「さっきから腹の虫がぐうぐう鳴って止まらんき」
結局、手当ては後回しにして全員でおにぎりにありつくことになった。
「ほいで? 参謀殿はどこに行ったがじゃ?」
「高杉さんなら、白石さんのところの作戦本部で、今後について会議中です。陸軍の上陸作戦は上手くいっているようですけど、私たち海軍もまた小倉へ攻め込んで行くのかどうかは、指示待ちの状態ですね。船の損害も軽くはないですし……。そうだ、龍馬さんたちの受け持った門司浦の戦はどうだったんですか」
「いやあ、げにまっこと面白い体験じゃったぜよ!」
両の手におにぎりを持って嬉しそうにぱくついていた坂本は、最後の一口まであっという間に平らげて、指に付いた米粒もきれいに舐めとると、よくぞ聞いてくれたとばかりに興奮気味に話し始めた。
「わしらの乗った乙丑丸は、門司浦の前を、こう、ぐるりと二度ほど回って沿岸の砲台を砲撃したがじゃ。けんど、途中で縄が蒸気輪に巻き付いて、どうにもこうにも動かんようになってしもてなあ。慌てて碇を下ろしたんじゃけんど、荒い潮には勝てんで、敵のすぐ側まで流されてしもうた。さすがにわしらも、あの時は死を覚悟したぜよ」
「ええ!? そ、それで、どうしたんですか」
「おお、ほれがじゃ、敵の艦隊は巌流島の近くをうろうろしゆうばっかりで、ちいとも向かって来ん。わしらは、彦島の砲台が援護してくれゆう間に縄を片して、ようよう動けるようになって帰って来たぜよ」
「……それは、なんとも……、危機一髪でしたね」
聞くだに肝が冷える心地がする草月とは対照的に、坂本はそんな死線を潜り抜けて来たとは思えないほど、あっけらかんとして、むしろ楽しそうだ。と、そこへ、急ぎ足で歩いて来る高杉が目に留まった。
「高杉さん! 今、そっちへ行こうと思いよったところぜよ」
「坂本くんか。すまんが、今は急いじょる」
ちらりと坂本へ視線を投げた高杉は、しかし足を止めることなく言った。隣の草月へ向かい、
「ついて来い。もう一度、丙寅丸を出す」
「あ……、はい」
草月は慌てて立ち上がり、小走りで高杉の後に続く。坂本もちゃっかり着いて来た。
「また、田野浦へ攻撃を仕掛けるんですか?」
「いや、今度は門司浦の方じゃ。上陸した兵を回収する」
回収? といぶかし気な声を上げたのは坂本だった。
「何でじゃ? 田野浦も門司も長州が制圧したんじゃろう。このまま勢いに乗って攻めるが上策ではないかえ」
「今、小倉藩領にいる長州の兵力は三百。確かに緒戦ではこっちが勝っちょるが、門司の背後の大里には肥後藩兵千六百が控えちょる。さらにその後ろの長浜には久留米兵五百もいる。その数に攻めかかって来られては、とても防ぎきれん」
それに幕府艦隊の動きも気になる、と高杉は言った。
「広島沖に停泊しちょる幕府の主力艦隊が出張ってきて、大里沖の艦隊と挟み撃ちにされたら、三百の兵は帰還もままならずに孤立する。業腹じゃが、慎重の上にも慎重を期して進撃するしかない。坂本くん達は、そこの山の上にでも登って、ゆっくり見物でもしちょってくれ」
邪険にするような言い方だったが、坂本は気にした様子もなく、分かった分かったと笑いながら社中の仲間の所へ戻って行った。
坂本を見送り、改めて海の方へと向き直る。上陸した陸軍の兵士たちは無事だろうか。目を凝らした草月は、次の瞬間、ぎょっとして目を見開いた。
対岸の田野浦の辺りに、火の手が上がっている。初めはほんの小指の先ほどだった火は、瞬く間に沿岸一帯に燃え広がった。
「あれは!?」
「幕軍が用意しちょった渡航用の小舟に、諸隊が火をつけたんじゃろう。周辺の民家にも」
「そんな……」
絶句して立ちすくんだ草月に、高杉が無表情に問うた。
「どうした? 酷いと詰るか?」
何か言おうとして、何も言えずに両のこぶしを握り締めた。
小倉に住む人たちに恨みがあったわけじゃない。
ただ、自分や大切な友人たちの住む馬関の町を戦場にしたくなかっただけ。だからこそ、こちらから小倉へ攻め込んだ。
そして、攻めた以上は、徹底的に拠点を潰さなければ、再び陣を張った小倉藩軍に、今度は長州が負けてしまうかもしれないのだ。
酷いとも、止めろとも、言えなかった。
自分たちの町や人を守りたいと思う気持ちは、きっと小倉の人たちも変わらないのに。
「……戦なんて、嫌なだけですね」
絞り出すように、ただそれだけを言った。
「気が進まんのなら、来なくていいぞ」
「いいえ、行きます。長州の皆を守ると決めたのは私自身ですから」
「そうか」
そう呟く高杉の声には、やはり何の感情もうかがえなかった。




