第50話 おなごふたり
丙寅丸は三田尻を経て、十四日の夜遅くに馬関へと帰還した。下船を許された草月は、およそ半月ぶりに一二三屋の敷居を跨いだ。風呂に入って髪や体に染みついた汗と海水を念入りに洗い流し、布団の上にほんの少しのつもりで横になると、もう体は鉛のように重くて指の一本も動かせなかった。
(いけない……。まだちゃんと髪乾かしてないのに)
抵抗する意思に反して、意識はすぐさま深い眠りの淵に落ちていった……。
*
泥のように眠り込んで、目が覚めた時にはとうに日は昇っていた。まだ休息を求める体を無理やり引きずり起こし、寝ぼけまなこをこすりこすり階下へ降りていくと、台所から顔を出したおさんが「おはよう、草月さん」と明るい声で迎えてくれた。
「おはよー、おさんちゃん。随分寝ちゃったみたい」
「戦が始まって大変だったんでしょ? 無理もないわ。そうだ、お腹空いてない? かぼちゃの煮物と豆腐のお味噌汁があるわよ。あと茄子のお漬物も」
「ありがとう、頂くよ。忙しいのに、煩わせちゃってごめんね」
「なに水臭いこと言ってるの! うちも兄さんも、草月さんのこと、もう家族みたいに思ってるんだから。気にしないでどんどん甘えて! 今日はゆっくりできるんでしょ?」
「うん。丸一日お休みもらったから。あ、でも、幕軍の動きが気になるから、後で白石さんのところに顔を出すつもり」
わざわざ温め直してくれた食事を有難く腹に入れた草月は、溜まっていた洗濯物を片端から洗いにかかった。空はくっきりと良く晴れて、強烈な日差しが燦燦と降り注いでいる。この分ならすぐに乾くだろう。
竿にずらりと並べて干した洗濯物を満足げに眺めていると、店表の方から、にぎやかな声が届いた。そろそろ昼時、混み合う時間帯だ。おさんたちを手伝うため、草月は手早く洗濯板とかごを片付けて店に顔を出した。途端、顔見知りの常連客たちから、長の無沙汰を突っ込む声が一斉に飛んでくる。それらを笑って軽くあしらいつつ、せっせと給仕に励む。目下、客たちの話題の的になっているのは、やはり幕府との戦のことだ。大島での開戦は、すでに士民の知るところになっている。
「なあ草月さん。敵はここにも攻めてくるんじゃろう。実はわしら、近隣の者で自警団を作って周辺の巡回を始めたんじゃ。お侍様たちにばかり任せちょらんで、わしらも自分たちでできることをしようって皆で話し合ってな」
「それは心強いですねえ。でも、本当に危なくなったら、すぐに逃げてくださいね。特にこの辺は、敵に真っ先に狙われる場所なんですから。おさんちゃんや一太郎さんにもそう言ってるんですけど、聞いてくれなくて」
少し離れたところで食器を片付けているおさんにちらりと視線を向けると、おさんは真っ平ごめんとばかりに歯をむき出して見せた。
「草月さんたちが戦ってるのに、うちらばっかり安全なところでのうのうとしてられないわよ!」
「おっ、良く言った! さすがは『一二三屋』の看板娘!」
おさんの啖呵に、周りからやんやの歓声が起こる。
その騒ぎに、一太郎が、何事かと奥の炊事場から顔を出す。困惑顔の一太郎も巻き込んで、幕軍撃退の気炎が上がる。
(……どうか、この平穏が破られませんように)
皆と一緒に笑い合いながら、草月は切に願うのだった。
*
昼の忙しさが一段落したところで、草月は白石邸へ行くため店を出た。いつもは潮待ちの船などがびっしりと隙間なく停泊している眼前の海岸は、今は船影もまばらで群青の海が良く見通せた。砲撃がない時は通行して良い、と言われてもやはり二の足を踏むのか、馬関を通る船数は和船、外国船ともに激減していたからだ。
物流が滞れば、物価が高くなる。
京は大丈夫だろうか。ただでさえ、物価高にあえいでいたのに、この上さらに上がるようなことになれば……。
長州を守りたい。でもそうすることで、無関係の人たちに迷惑をかけてしまう。
一二三屋を出た時の明るい気分は、たちまち腹に重石を呑んだような憂鬱な気分へと取って代わられた。
「……あれ?」
やるせなさをため息と共に呑み込んで通り過ぎようとして、草月は思わず声を上げた。
外国から購入した蒸気船である丙寅丸、癸亥丸。そして長州製の木造船である丙辰丸、庚申丸。沖に並んで停泊する大小の軍艦に交じり、見覚えのある大きな蒸気船がこちらに舷側を見せている。薩摩にあるはずの乙丑丸だ。戦が始まれば長州へ渡す約束だったが、いつこちらへ着いたのだろう。今朝? それよりもっと前?
昨夜はどうだっただろうかと思い返してみたが、暗かったうえ、疲労の極みで他のことに気を配る余裕もなかったため、まるで覚えていない。
(まあ、白石さんのところに行けば分かるか)
現時点で、幕軍が兵を集結させているのは全部で四箇所。緒戦となった大島口。広島藩との境であり、幕府軍主力が置かれた芸州口。津和野藩との境である石州口。そして、馬関海峡を挟んだ対岸の小倉口だ。当初の幕府の計画では、萩にも兵を向ける予定だったが、萩攻め担当であった薩摩藩が出兵を拒否したため、萩の攻め口は消滅した。萩は海上の戦闘が必須となる。おかげで長州は数少ない軍艦を萩へ回す必要がなくなり、小倉口へと全海軍力を傾注することが出来た。
小倉口を担当する陸兵は、奇兵隊を初め、報告隊、正名隊、盤石隊など。奇兵隊総督の山内梅三郎が総指揮官を務め、高杉が参謀としてその補佐に当たる。
そして、その小倉口攻略の作戦本部となっているのが白石邸だった。
草月が訪いを入れた時、ちょうど入れ違いに帰ろうとしていた田中と行き会った。田中によると、昨日の昼に坂本ら社中の者たちが乙丑丸を率いて馬関へ到着し、今は奇兵隊の山県狂介や高杉らと小倉攻撃の軍略を練っているところらしい。
「じゃあ、邪魔しちゃ悪いですね。……そうだ、あれから大島の戦いがどうなったか、聞いてませんか。他の場所が開戦したかどうかっていう情報は――」
「いや、今のところは何の報告も入って来ちょらん。もしかしたら、今、俺たちが話しゆうこの最中にも、どこかで激しい戦いを繰り広げゆうんかもしれんけんど」
「そうですか……」
共に丙寅丸に乗っていた山田は、三田尻で下船して山口の藩庁へ大島の戦況を報告しに行った。その後は御楯隊に戻ると聞いている。御楯隊は、草月の古巣である遊撃隊と同じ芸州口を任されている。井上も、石州口方面で幕軍と対峙しているはずだ。伊藤は、直接には戦闘に加わらず、外国との応接や各方面との連絡役として方々を駆け回っている。
「大島が開戦した以上、いずれここでも戦が始まるのは間違いないぜよ」
「そうですね……。できれば、敵を馬関に近づけずに、小倉藩領内に押し留めたいですけど……」
玄関口で二人が立ち話をしている間にも、女中やら下男やら、諸隊の者たちやら、雑多な人々が前の廊下をせわしなく通り過ぎていく。その中で、やけにのんびりとした歩みのその人物が目に留まった。
「あ」
草月の声に振り向いた人物――おうのは、目を見開いて「あらまあ」と言った。いつものおっとりした口調のせいで、あまり驚いたように見えないのはご愛敬である。
「草月はん」
「大福さん! どうしてここに?」
「へえ、戦のあいだ、ここで世話になれて旦はんが」
「あ……、そうだったんだ」
それきり、会話が途切れる。
何か言わなきゃ。
そう思うのに、言葉が出てこない。
おうのは軽く小首をかしげて何事か考える風だったが、やがて、ちょっと二人で話せるやろか、と草月を屋敷奥の一室へと誘った。
おうのの部屋として用意されたというその座敷は、緑の美しい内庭に面し、表の喧騒とは無縁の静かで落ち着いた空間だった。
家人の淹れてくれた茶を飲み終えるまでの間、二人とも無言だった。衣擦れの音がやけに大きく聞こえた。やがておうのはゆっくりと居住まいを正すと、深々と頭を下げた。
「草月はん、旦はんのこと、くれぐれもよろしゅうお頼申します」
「あ……、う、うん。任せて。絶対に死なせたりしない。大丈夫、高杉さんは簡単に敵にやられるような人じゃないよ。万が一、敵陣に突っ込んで行くようなことがあっても、必ず私もついて行って守るから」
「それだけやおへん」
「え?」
おうのはじっと草月を見つめた。煮込んだ黒豆のような、つやのある黒い瞳。まるで、こちらの心の奥底まで見透かすような――。
(……もしかして、気付いてる? 私の気持ちに)
「あの、大福さん、私はそんな――」
「どうぞ自分の気持ちに嘘だけはつかんといておくれやす。それは旦はんにも、旦はんの奥様にも、うちに対しても失礼や」
「っ、……ごめん」
「責めてるんやおへん。旦はんは、うちのこと、ほんまに大事にしてくれてはる。せやけど、旦はんには他にも、大事なお人がいてはるのはなんとのう気付いとった。……それが誰かゆうことも」
「……」
「うちな、ほんまは、草月はんのこと、妬んでた。好きな時に旦はんのとこへ行けて、旦はんと同じもん見れて、旦はんの助けになれて……。うちに出来るんは、ただ旦はんの帰りを待つことだけ……。一緒に重荷を背負うことは出来ひん。それどころか、どんな重荷を背負てるのかさえ、ほんまにはうちには分かれへん。……堪忍え、草月はん」
鼻の奥がつんとした。草月は、ううん、と大きく首を振った。
「私は……、私こそ、ずっと大福さんのこと羨ましかったよ。初めて会った時だって……。この人が高杉さんの好きになった人なんだって思ったら、すごく辛かった。でも、一緒にいるとほっこりして……。きっと、高杉さんが仕事のこととか嫌なこととか、何もかも忘れて甘えられる人なんだろうなって。……なんだか私たち、お互いに相手のこと羨ましがってたんだね」
「ほんまに」
互いに苦笑混じりの小さな笑いが零れた。おうのがそっと手を伸ばし、草月の手の上に自らの手のひらを重ねた。
「なあ草月はん。改めて言います。どうぞ、旦はんのこと、よろしゅうお頼申します」
「……」
(大福さん、どれだけ悩んだんだろう。苦しんだんだろう……。私は何も言えなくて、顔を合わせないように避けてたのに)
「ごめん、はなしえ、草月はん」
「……うん、ありがとう」
「草月はんも、絶対に死んだらあきまへんえ。うちら二人とも、旦はんのこと大事に思てるおなご同士なんやさかい」
「うん」
草月は、重ねられたおうののふっくらした温かい手をぎゅっと握った。
「大福さんもね。馬関が戦場にならないとも限らないから。大福さんが危ないってなったら、きっと高杉さん、どんなに無謀でも、自分で助けに行くって言うよ。少ない手勢を率いて、得意の不意打ち攻撃!」
「まあ」
「ね? ありそうでしょ?」
「そうどすなあ。旦はんは、どこ飛んで行くか分からん鉄砲玉みたいなとこがあるよって」
「それ、言い得て妙だね。そういえば、似たような話を聞いたなあ。確か、松下村塾の仲間にもね――」
*
楽し気な笑い声が部屋の中から聞こえてくる。軍議を終え、草月を呼びにおうのの部屋を訪れた高杉と坂本は、笑い合う二人の頬に涙の跡を認めてぎょっとした。どうしていいか分からず、わたわたと狼狽した男二人は、やがてそれに気付いた草月に明るく笑われることになるのだった。




