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花信風  作者: つま先カラス
第四章 四境戦争
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第49話 初陣、丙寅丸

 激しく水しぶきを撒き散らしながら、丙寅丸は十二日正午に大島の東、遠崎沖に到着した。

 船には、海軍総督兼丙寅丸艦長を任じられた高杉と、機関長の久保、機関員の田中、大砲掛の山田、そして甲板員の草月ら、およそ二十人が乗船していた。

 高杉と山田が代表して船を降り、すでに役所に集まっていた上関代官や大島代官らと軍議を開いた。

 彼らによると、大島へは十一日にも幕軍が執拗な攻撃を仕掛けていた。大島には長州藩の正規軍を置いておらず、守備に当たっていたのは大島代官の指揮する農兵わずか四百人ばかり。海上からの絶え間ない砲撃とそれに乗じた歩兵千三百人の攻撃にほとんどなすすべもなく、夜には対岸の遠先まで撤退してきた。

「無念じゃ……! あ奴ら、村人らの逃げ去った民家に押し入って略奪のし放題。挙句に村を焼き払うなど……!」

 大島代官は悔し涙を流して吠えた。責任を取ると言って、今にも切腹しかねない様子である。ろくな抗戦もせずに撤退したと憤っていた高杉も、さすがに口をつぐんだ。代わって山田が、

「今日は、幕軍に目立った動きはないんですか?」

「今のところ、大島で新たに戦闘があったという報告は受けちょらん。おそらく兵の増援を待っちょるんじゃろう。兵力が整い次第、大島を足掛かりに、本格的にこちらへ攻め込んでくるものと推測される」

 ふむ、と高杉は腕を組んだ。

「幕府の富士山丸の姿が見えんと言ったな?」

「ん? ああ。昨日の戦闘に参加した後、松山藩兵を乗せた和船を護衛して大島の東へ向かったようじゃ」

「なら好機じゃ」

 高杉はにやりと笑った。

「この隙に、幕府海軍を叩く。――市、すぐに船に戻って、出航の準備をさせておけ。今夜出る」

「今夜!? まさか、船で夜襲をかけるつもりか?」

 色めき立ったのは、命じられた山田本人でなく、代官たちの方だった。

「ありえぬ! 夜中の海戦など、日本はおろか、たとえ異国であっても聞いた例がない」

「例がないけえ有効なんじゃ。敵も、まさか夜襲されるとは夢にも思っちょらんじゃろう。別に殲滅する必要はない。十発ほど弾を撃ち込んでやって、幕軍の奴らに長州海軍が神出鬼没じゃということを印象付けられればそれでいい。緒戦の内にそうしておけば、以後、奴らも警戒して、うかつに軍艦を近付けて来んようになるじゃろう。丙寅丸は小型ゆえに喫水が浅いけえ、座礁の危険性も少ない」

 両代官はむうう、と額にしわを寄せて考え込んだ。

 無謀だ。だが確かに、成功すれば成果は大きい。

「……いいじゃろう。全面的に協力する。大島の海域に詳しい漁師を呼び寄せちょるけえ、その者を連れて行け」


                   *


 夜明けにはまだ遠い、明け八ツ半頃。月は西の空に沈み、辺りは幾重にも墨を塗り重ねたような暗闇である。夜の闇に溶け込んだような丙寅丸は、幕府軍艦が停泊している久賀沖を目指して、一路進んでいた。

 山田から高杉の作戦を聞かされた乗組員は、初めこそ驚いていたものの、すぐに「やってやろうぜ」とやる気を見せた。皆、幕軍の乱暴狼藉の話を聞いて、腹に据えかねていたのである。

 かくして、前代未聞の海上夜襲作戦が始まった。

 風は少し強めの向かい風。敵に気付かれないよう、明かりは必要最小限に止めていた。加えて、暗礁や浅瀬を裂けて慎重に進む必要があるため、どうしても船足は遅くなる。草月ら甲板の水夫たちは、舳先に取り付けた三角形の縦帆を巧みに動かして船の航行を助けた。

 もうどのくらいまで来ただろうか。草月のこめかみをじっとりと汗が伝う。縄を掴む手が微かに震えていた。ほんの少し海路を誤れば即座礁するという恐れと緊張感が、全身を支配していた。体感としてはかなりの時間が経ったように思えるが、まだ夜が明ける気配がないところを見ると、せいぜい半刻ほど、といったところか。

 風向きは今のところ安定している。このまま変わらなければ、帰りは追い風に乗って素早く帰って来られるのだが……。

 草月は額に張り付いた後れ毛を煩わし気に指で払った。波しぶきのせいだろう、わずかにべたついた感触が指に残った。黒々とした底の見えない海を見つめていると、低い蒸気機関の音がまるで龍の唸り声のように思えてくる。今にも海の中から、鉄をも噛み砕きそうな強い顎で襲い掛かって来るような――

「草月」

 だしぬけに、耳元で声がした。

 ひぇゃ、と間抜けな悲鳴が漏れる。咄嗟に身構えた草月の目の前に、面食らった顔の高杉がいた。

「高杉さん!? 驚かさないでくださいよ!」

「驚いたのはこっちじゃ。僕は普通に話しかけただけじゃぞ」

「真っ暗だから近くに来られても分からないんですよ。ああ驚いた。軍艦と戦う前に、心臓が止まるかと思いましたよ」

「なんじゃ、怖いのか?」

「怖くないって言えたら、格好ついたんでしょうけど……。めちゃくちゃ怖いです」

 正直に答えると、高杉は、はは! と笑った。

「それでええ。臆病者はすぐ死ぬが、蛮勇を恃む者もまた生き残れん。おのしくらいに怖がっちょるくらいでちょうどええ」

「それって褒めてるんですか」

「大いに褒めちょるぞ」

「そうは思えないですけど。……そうだ、今どの辺りでしょう」

「遠崎から二里ほど来たところじゃ。そろそろ着いてもいい頃じゃが――」

 暗闇を見透かすように高杉が目を細めた時、帆柱の上にある檣楼で見張りについていた水夫が、双眼鏡から目を離して高杉を呼んだ。

「高杉艦長! 見えました! 幕府艦隊です! 左舷前方、距離およそ五丁!」

「いたか! よし、速度を落とせ。気付かれんよう、慎重に近づけ」

 にわかに船員たちの動きが慌ただしくなった。

 やがて草月の目にも、暗闇に点々と浮かぶ橙色の筋が見えてきた。幕府艦隊が舷側に吊るした角灯の明かりだ。二隻ずつ二列に並んだ軍艦の間に、丙寅丸はそっとその小さな船体を滑り込ませた。光量を抑えた蝋燭の乏しい明かりでは、ぼんやりとその陰影を掴むくらいしかできないが、大きい。いずれも丙寅丸の二倍はありそうだ。

 だがその巨体は岩のように静まりかえり、蒸気機関が動いている様子はない。

「間抜けめ、完全に油断して蒸気の火を落としちょるな」

 不敵に笑った高杉は、手にした鉄扇を掲げて高らかに砲撃の命を下した。

「あそこで呑気に高いびきをかいちょる間抜けどもの度肝を抜いてやれ!」

 山田の指揮で、丙寅丸の砲門がいっせいに火を噴いた。角灯の明かりを目印に、まずは手前の二隻。さらに進んで奥の二隻。発射と着弾の衝撃で、丙寅丸の船体は左右に激しく揺れた。

 だが、敵からの応砲はない。やはり夜襲を仕掛けられるなど、夢にも思っていなかったのだろう。ここからは窺い知れないが、おそらく今頃、敵艦内は蜂の巣をつついたような騒ぎに違いない。

 合計七、八発も撃ち込むと、長居は無用とばかりに、高杉はすぐに船首を返させた。いつの間にか空の濃い闇は存在感を薄め、代わりに鮮やかな青へとその座を譲り始めている。夜明けが近い。明るくなれば不利だ。

 丙寅丸は横帆に追い風を受けて一気に離脱を図る。遠崎を過ぎた辺りで、ようやく蒸気機関が温まったらしい二隻の軍艦が追いかけて来た。さすがに火力では敵わない。あっという間に差を詰められ、こちらへ向けて次々に大砲が放たれる。

「――来るぞ!」

 誰かが叫んだ。

 草月は咄嗟に掴んだ縄を抱き込むようにしてしゃがみこんだ。ぎゅっとつぶった瞼の裏に、最悪な想像が駆け巡る。

 がつんと激しい揺れが船を襲った。ふわりと体が浮きそうになるのを、必死に甲板に爪を立てて堪える。隣にいた体格のいい水夫が、見かねて草月の体を太い腕で押さえてくれた。

「しっかり踏ん張っちょけ! 海に落ちたら終いじゃぞ!」

「はい!」

 ありがとうございます、と言いかけた声は、盛大な水しぶきによってかき消された。塩辛い。咳き込む草月の隣で、水夫は薄暗闇に目を凝らした。

「どうなったんじゃ? 弾が全部、頭の上を飛んで行ったぞ」

「え!?」

 砲弾は着弾していた。――丙寅丸の、遥か前方の海に。

「っ、そうか!」

 山田が叫ぶ。

「船体の大きさが違い過ぎて、幕艦の砲弾の軌道上に丙寅丸が入らないんじゃ!」

「なるほどな。――裏を返せば、こっちからは当たるということじゃ。市、とにかく撃ちまくれ!」

 山田に命じた高杉は、続いて海に詳しい案内役の漁師を呼び寄せ、

「岩礁のある場所は分かるな!? 出来るだけそれに近づけて進ませろ!」

「な、何を言われるんですか! いくらこの船の喫水が浅いとは言っても、危険過ぎます!」

「このままただ逃げちょってもいずれ追いつかれる。大砲の弾は当たらんでも、至近距離から銃で撃たれれば確実に死ぬぞ。いいからやれ! お前もいいな?」

 と、これは舵を握った操舵手へ。

 海軍局から派遣された背の高い操舵手は、ふんと盛大に鼻を鳴らした。

「高杉、わしは前からお前が気に食わん。じゃが、同じ船に乗った以上は一蓮托生じゃ。その賭け、乗ってやる! 無事に戻ったら、酒をおごれよ、艦長!」

 ぐうぅーっと舵を切り、船は危険な岩礁地帯へと踏み込んだ。

 時折、ガガガガガ、と岩に船底が擦れる嫌な音がする。ほんの少しでも深くぶつかろうものなら、たちまち船は座礁してしまうだろう。

 誰もが息を詰めて見守る中、高杉は一人、甲板に置いた床几に座って悠然と構えていた。

 幕艦の船足が目に見えて遅くなる。追手が二の足を踏んでいるうちに無事に岩礁地帯を抜けた丙寅丸は、一気に速度を上げた。負け惜しみのように一発砲弾を放ってきたのを最後に、幕府の艦影は完全に見えなくなった。

 船上に、歓喜の叫び声が満ちる。

「見たか! これが長州海軍の実力じゃ!」

「図体ばかり大きいだけの木偶の坊が!」

「幕府の狗め、今頃、臍を噛んで悔しがっちょるじゃろう。いい気味じゃ」

 抱き合って勝利を喜ぶ船員たちの足元へ、眩しい光が差した。

 夜が、明けたのだ。

 輝く曙光が、船体を、甲板を、人を、帆を黄金色に染め上げていく。

 誰からともなく黙り込んで、声もなくその光景を見つめていた。

 立ち上がった高杉の持つ鉄扇に光が反射して、きらりと光った。

 じっと見つめる草月の視線に気付いたかのように、高杉がおもむろに振り返った。草月を見て、どうだ、と言わんばかりに口角を上げる。

(――やりましたね!)

 声には出さずに口を動かし、草月は満面の笑みと共に拳をぐっと前に突き出した。


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