第48話 開戦の号砲
嵐のような一夜が明けて。
その日は雲一つない晴天になった。昨日と同じはずの長閑な田園風景が、朝露にきらめき、草月の目にはまるで世界が丸ごと変わったかのように一段と美しく見えた。
澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んで、草月は高杉と共に、まだ少し残る強い風に髪や着物を盛大になびかせながら、ぬかるんだ道を馬関へと戻った。
問題の蒸気船は、紛糾の末に購入が決定していた。決定打となったのは、幕府からの通達である。
広島に出向いている藩主名代に、老中小笠原長行が長州処分案を公示し、請書の提出期限を五月二十九日としたのだ。それまでに請書が提出されない場合は、六月五日を期して征長軍を差し向ける、との最後通牒だった。
高杉はさっそく蒸気船の操縦に詳しい長州藩士・久保松太郎を招聘し、蒸気船――オテントウサマ号改め丙寅丸(元の名前の方が可愛かったのに、とは草月の談)――の試運転に乗り出した。高杉の独断に怒った海軍局がろくな人員を寄こさず、人手が足りないということで、草月と田中も志願して乗り込んだ。田中は機関部で窯炊きの手伝い、草月は甲板部で操帆の手伝いだ。
船上には、帆柱や船縁など、いたるところに、何十、何百という数の縄が複雑に絡まり、余った端は甲板上に蛇のようにのたうっていた。素人目には、ただ無秩序な縄の集合体にしか見えないが、それぞれにきちんと役割がある。帆を張るための縄、帆桁を動かすための縄、帆柱を支えるための縄――。それら全てを正確に把握し、船員同士が息を合わせて縄を引くことで、帆を自在に操ることが出来るのだ。海軍局の士官に指示されるまま、草月は水夫に混じってあちらこちらと縄を引き、帆を操った。かつて神戸の海軍塾で模型を使った訓練に参加させてもらったことがあるとはいえ、実際に船でやるのは初めてで、揺れる甲板の上で素早く任意の縄を手繰って動かすのは想像以上に難しかった。
丙寅丸は馬関の西に位置する六連島の沖合まで来て、錨を下ろした。草月はようやく緊張から解放され、ふうと息をついた。固い縄をひたすら握っていた手の平は、擦傷で赤くなっている。ひりひりする痛みを紛らわせるようにぐるりと頭を回すと、右舷側の大砲のそばに高杉の姿を見つけた。試射の準備をしているのだろう。熱心に話し込んでいる相手は山田市之允だ。御楯隊の軍監として三田尻に駐屯していた山田を、大砲掛として急遽呼び寄せたのである。
やがて山田の号令で、次々と砲弾が発射され始めた。
鼓膜を震わす轟音と激しい船体の揺れ。草月はとっさに手近な縄に掴まって体を支えた。
(――すごい)
勢いよく飛び出した砲弾は、遥か先の海へ盛大な水柱を立てて着弾していく。
その結果に満足そうに頷いた高杉は、二言三言、山田と言葉を交わした後、船を馬関へ戻すよう、船員に指示を出した。
*
豆粒ほどだった馬関の家々が、だんだんに大きくなって、一軒一軒の輪郭まではっきりと見て取れるようになってきた。
寄せ集めの船員たちによる危なっかしい操船にも関わらず、幸いにも丙寅丸は座礁することなく、蒸気機関が突如停止するという問題に見舞われることもなく、無事に馬関沖に到着した。畳帆作業を終えて甲板の清掃を済ませた後も、草月はしばらく甲板に留まり、山田と話し込んでいた。
「――でも本当びっくりしたよ。まさか山田くんがいるなんて思わなかったから」
「俺じゃって驚いた。高杉さんは、お前が乗っちょるなんて一言も言ってくれんかったけえ」
「どうせ、その方が面白いから、とか思ったんだろうね。まったく」
ふふっと笑った草月は船べりに両肘を付き、組んだ手の上に頤を乗せた。そのまま顔を山田の方へ向け、
「それにしても、随分久しぶりだよね、山田くんに会うの。最後に会ったのが、確か……、私が薩摩のことで三田尻の御楯隊の屯所を訪ねた時だから……、去年の七月以来?」
「そんなになるか。忙しくしちょったけえ、ついこの間のようにも思えるけど。薩摩といえば、お前は木戸さんについて京へ行っちょったんじゃろう? 弥二に聞いたけど、道中でも何かと厄介ごとに首を突っ込んじょったそうじゃな。盗賊の一味相手に大立ち回りを繰り広げたとか、悪徳商人を懲らしめたとか、色々言っちょったぞ」
「べ、別に好き好んで関わったわけじゃないよ! むしろ厄介ごとの方からやって来るっていうか。それに、そんな暴れてないから! もう、品川さん、話を大袈裟に盛り過ぎなんだから」
その品川は、現在、薩摩と長州の連絡係として京の薩摩藩邸に単身潜伏中である。つい先だっても、薩摩が正式に出兵を拒否したと伝えてきたばかりだ。
ぶつぶつと文句を並べていた草月だったが、それより、と話を変えた。
「山田くんはこの後どうするの? このまま船に大砲掛として残るの?」
「いや、御楯隊の隊務もあるけえ、明日には三田尻に戻るつもりじゃ。上からの命令があれば、また乗り込むことになるかもしれんけど」
「そっか」
「お前の方はどうなんじゃ」
「出来ればこのまま甲板掛として残りたいかな。私は直接戦闘に加わることはできないけど、兵糧運びでも何でも、どんな形でもいいから、戦に関することで力になりたいって思ってたから」
「いつものことながら勇ましいな」
「私に限ったことじゃないよ。私が居候させてもらってる先の娘さんなんか、すごいよ。『公方様だか誰だか知らないけど、うちや皆の土地に攻め込んで来るようなら容赦しないわ! 石つぶてでも何でも投げつけて、追い払ってやるんだから!』って言って、息巻いてる」
山田は何とも言えない微妙な表情で草月を見た。
「それは……、多分にお前の影響を受けちょるんじゃないか?」
「え!? そんなことは――、ない、と思うんだけど」
外国人のサトウやベアトを前にしても、最初から物怖じした様子はなかったし。いや、最近、銃を撃ちたいから教えてくれとしきりに頼んでくるのは明らかに草月の影響だろうか……。
「いやいや、笑えないよ、それ。嫁入り前の女の子なのに」
「まあ、今度の戦の意義は、徹底して長州全域に周知しちょるし、民の士気が高いのは結構なことじゃ。戦になれば、近隣の農村から荷運びの軍夫を駆り出すことになる。いくら兵の士気が高くても、軍夫が逃亡して兵糧や弾薬が前線に届かなければ兵は戦えんけえ」
「やっぱり隊士の人たちは、早く戦を始めたくてたまらない、って感じなの?」
「そういう意見が強い。ただ、あんなことがあった後じゃけえな……」
「あ――。ごめん。今の、相当に考え無しな発言だったよね」
山田は黙って首を振った。気にしていない、という意味だろう。
四月半ばのことである。
一部暴走した諸隊の隊士が倉敷の代官所を襲撃するという事態が起きたのだ。
長州藩首脳部の方針は、決してこちらからは攻撃を仕掛けない、ということで一致していた。あくまで、『幕府が攻撃してきたため止む無く応戦した』という体裁をとることが重要だったのだ。
木戸は直ちに備前藩に手紙を書いて遺憾の意を伝え、暴走した隊士四十八人を捕らえて斬首に処した。
「あれで、諸隊の綱紀は見違えるように引き締まった。……ただ、今月に入ってから、目に見えて敵兵の数が増えてきちょる。気が逸る隊士の気持ちも分からんでもない」
「六月五日の期限まで、もう十日もないもんね。ずるずると引き伸ばして来たから、もうこのまま戦は起こらないんじゃないかって、心のどこかで期待してた部分もあったんだけど……」
「戦は嫌か」
「そりゃ嫌だよ。自分が死ぬのも怖いし、また誰かが死ぬのも怖い。でも、実際に幕府が攻めて来てる以上、そんな甘えたこと言ってられないし」
クヮア、と鳴いたカラスが草月たちの真上を飛び去って行った。空はいつの間にか、黄昏色を帯びてきている。
「急に将軍様の気が変わって、戦は止める、長州への処罰もなし、朝敵認定も天子様に掛け合って取り消してくれる、ってなったらいいのにね」
山田はぷっと吹き出した。
「それは随分と都合のええ話じゃなあ」
「全然信じてないでしょ。分からないよ? 世の中、時に突拍子もないことが起きるんだから」
なにせ、時代を超える、というおよそあり得ない経験を実際にしてしまった身だ。妙に自信たっぷりな草月の様子を興味深そうに見やりつつ、山田はふるふると首を振った。
「あいにく俺は、起こるか分からん奇跡より、いかに現実の敵を味方の損失を最小限に抑えて打ち破るかの方に関心があるもんでな」
「さすがは村田先生に西洋兵術を学んだ軍師殿。お見それしました」
草月がおどけて頭を下げると、
「お、なんじゃ珍しい。市が草月をやり込めちょるのか?」
からかうような声が後ろからかかった。二人そろって振り向くと、甲板に開いた昇降口から、高杉が出て来るところだった。その後から、煤で全身を真っ黒に汚した田中が続く。
「久保さんとのお話はもうええんですか」
「ああ。蒸気機関は何も問題ない。大して速力が出んのは少々痛いが、小さいがゆえに小回りも効く。上手く使えば十分、戦に有用じゃ」
高杉はそばの黒い煙突を満足げにぽんぽんと叩いた後、にやりと笑って、
「よーし、これから新地に繰り出すぞ。航海の成功を祝して宴会じゃ!」
*
その時は突如訪れた。
幕府が攻撃の期日と定めた六月五日を過ぎること三日の六月八日未明。
長州の東端に近接して浮かぶ大島の南岸で、雷のような轟音が響き渡った。幕軍の蒸気船が、村へ向けて砲撃を開始したのだ。
戦とはまるで無縁の、のどかな漁村である。住民らはたちまち大混乱に陥った。
続いて松山藩の歩兵百五十人が商船に分乗して南東の村に上陸し、三百を超える民家を焼き払った。
さらに夕刻には、幕府海軍が有する最新鋭の巨大軍艦・富士山丸を始め、翔鶴丸、旭日丸、八雲丸が北岸の久賀村を砲撃。数十発の砲弾を撃ち込んで、日が沈む頃になってようやく引き上げた。
この大島攻撃の報は、すぐさま山口の藩庁政事堂へ送られた。大島から山口まで、三十里を超える長い道のりを最短最速で駆け抜け、伝令が藩庁へとたどり着いたのは、十日の暮れ六つのこと。木戸ら政府員は直ちに集まり対応を協議。満場一致で出た結論は、
――即時、応戦。
支藩の長府藩、清末藩、徳山藩、そして岩国藩へ急使が送られ、また、大島の幕軍へ対抗するため、各所に細かな命令が飛んだ。
洪武隊、南奇兵隊へは、大島への応援命令。
大島に近い上関の代官には、応援部隊を送ることを伝え、また、大島の地理や海程に詳しい者を探しておくよう指示。
そして――
馬関から三田尻に回航していた丙寅丸にも、大島への応援命令が下った。




