第47話 遣らずの雨
十日余りに及ぶ修業を終えて、馬関へと戻ってきた草月は、応接掛の仕事に復帰する傍ら、大賀と共に試験的なパン作りに着手した。
場所は馬関東部の山の中腹にある陶工の小屋。まずは、草月が生地の作り方を実演して見せることから始めた。大賀がパン職人として雇い入れた若者二人は、初めこそ苦戦していたものの、草月よりよほど飲み込みが早く、すぐにコツを掴んで数日のうちに上質な生地を作り上げるようになった。
難題は、火加減の調整だった。オーブンと焼き物用の窯では、焼き加減がまるで違う。十分に予熱を加えてみたり、焼き時間を変えてみたりと試行錯誤を重ね、徐々に成功率が上がっていった。量産できるようにさらに精度を高めていけば、十分、兵糧として使えるだろう。名前は、『パン』では一般に馴染みが薄いということで、急に備える餅、と書いて『備急餅』とした。
大賀は、備急餅の本格的な生産に向けて、製造拠点を山口に移すことを決めた。各方面に兵糧を送る物流拠点としての立地や、製造元となる窯元が市街近くにある点などで、馬関より山口の方が優れているからだ。
草月の出番もここまでである。
役目を果たせたことにほっと息をつく暇もなく、再び幕府との間で動きがあった。
今月初め、幕府は『二十一日までに藩主(代理でも可)を出頭させなければ、征討の軍を進める』と通達してきていたのだが、長州側は、期日ぎりぎりの二十日になってようやく藩主代理として宍戸備後助らを遣わした。ひとまず開戦は回避されたが、幕府は、今度は、木戸・高杉・太田市之進ら長州藩上層部の藩士引き渡しを求めてきた。これに対する長州の回答は、『全員、死亡あるいは行方不明』。
あからさまに幕府を虚仮にした答えである。
幕府は次にどう出るか。
皆が幕府の動きを固唾を呑んで見守る中、突如、長州の旗を掲げた小型蒸気船が馬関の港に姿を現した。鉄製の黒々とした船体が、波を反射してきらきらと光っている。
長州は今現在、薩摩名義で購入した乙丑丸――現在は薩摩にある――を含めて四隻の大型船を有しているが、この船はそのどれとも違う。
騒然となる役人たちの前に、堂々と船から姿を見せたのは高杉だった。開戦が近いと知り、洋行を断念した高杉は、グラバーに諮って独断で蒸気船を購入してきたのだ。
船名はオテントウサマ号。全長約十二丈、幅約二間四尺、鉄張製の蒸気内車である。甲板中央から黒い煙突が突き出し、その前後には高い二本の帆柱がそびえ立つ。左右の舷には大砲が二門ずつ据え付けられていた。
その額、約四万両。
藩庁は怒り狂った。確かに、多数の大型蒸気船を有する幕府海軍とやり合うには、長州の海軍力は貧弱である。だが、それにしても乱暴すぎる。この高杉の独断を認める否か。議論は紛糾した。
そんな混乱が起きているとはつゆ知らず、草月は一人、萩にいた。
*
長らく長州藩の城下町として栄えた萩は、北を海に、東西を川に挟まれた、島のような独特の地形をしている。北西端の山の上に座す指月城を中心に武家屋敷が広がり、川へ近付くにしたがって、町屋・寺社などが混在していく。
複雑に道の入り組んだ町を横切り、東の川にかかる橋を渡って『島』を後にすると、その先は、遠くに連なる山々を背景として、見渡す限りの田園地帯である。田に植えられた青々とした苗が風になびいて、さながら緑の絨毯のようだった。生憎の曇り空なのが惜しい。青空ならば、もっと緑が生えてさぞかし綺麗だっただろうに。
草月は、腰に下げた竹筒の水をこくりと一口飲んで、額に浮いた汗を拭った。菅笠を被り、柳行李を背負った旅姿である。
外国からの問い合わせが落ち着きをみせ、幕府との開戦もほぼ決定的となったことで、応接掛の役人たちは交代で四、五日休みを取り、実家に帰ることを許された。帰る家を持たない草月は、最初、休みを返上しようかと考えていたのだが、一つ、行きたいところがあると思い至った。
高杉や久坂たちが学んだ場所――、萩郊外にある松下村塾だ。
ちょうど、木戸の好意で、山口に作られた備急餅製造所の視察に同行させてもらうことになっていたので、それに合わせて休みを取った。山口から萩へはおよそ十里。萩から馬関までは二十里余り。草月の足では多少強行軍になるが、なんとか五日の間に行って帰って来られる。
ぼうぼうと草の生えた畦道を進んで行くと、左手に、垣根に囲まれた大きな屋敷が見えてきた。
(ここが、そうなのかな)
広い敷地の一画に、簡素な造りのこじんまりとした建物がある。垣根越しに覗き込みながら、逸る気持ちを抑えるように胸に手を置いて深呼吸していると、
「当家に何かご用かな」
唐突に背後から声がかかった。びくりとして振り向いた先に、穏やかな風貌の中年の武士が立っていた。不審人物だと思われたのかもしれない。草月は慌てて被っていた笠を取ると、深く腰を折った。
「突然押しかけて申し訳ありません。馬関の外国応接掛で働いております、唯野草月と申します」
高杉や伊藤から松下村塾のことを聞いて来たのだと説明すると、ああ、と武士は何度も小刻みに頷いてみせた。
「高杉たちの存じよりか。いかにも、これが松下村塾じゃ。わしは寅次郎の兄で、杉梅太郎と申す。中に入ってご覧になるか」
「よろしいんですか?」
「もう何年も使っていないゆえ、大したものは残っておらぬが、それでもよければ」
願ってもない申し出だ。武士について、庭の門をくぐった。
戸口を入ってすぐの十畳ほどの部屋は塾生たちの控部屋、右手の八畳の小さな一室が講義部屋だと説明がある。定期的に掃除しているのだろう。中は埃一つなく、空気も澄んでいる。講義部屋には文机がコの字型に並んで置かれたままになっていた。今しも門下生が駆け込んできそうな気がする。
(ここで、十代の高杉さんや久坂さんや伊藤さんたちが勉強してたんだ……。みんなの、はじまりの場所)
草月の感慨を察したのか、杉は「わしはこれで失礼しよう」と言った。
「唯野殿には、お好きなだけいてもらって構わぬ。出る時は、戸だけ閉めておいてくだされ」
去っていく杉に重ねて礼を言い、一人になった草月は、そっと机の前に座った。表面の細かな疵跡をゆっくりと指で辿る。
かつて高杉たちがいた場所に自分がいる。それが何とも不思議な感覚だった。
開けた障子戸の隙間から心地よい涼風が吹き抜けていく。旅の疲れも相まって、いつの間にか、うとうとしていた。
気が付くと誰かが草月の隣に座って、ぼんやりと外を眺めていた。
「高杉さん……?」
夢でも見てるのかな。
半分寝ぼけた頭で、その横顔に呼び掛ける。
高杉はゆっくりと草月の方を向いて、それから至上の宝物を見つけたように、至極嬉しそうに微笑んだ。
(わ……)
やっぱりまだ夢を見ているのかもしれない。そうでなければ、高杉がここにいて、こんな顔をして草月を見るはずがない。きっと今頃は、イギリス行きの船の上で――。
(ああ、重症だな、私。でも夢でもいいや。高杉さんにこんなふうに笑いかけてもらえるなら)
胸のずっとずっと奥深く、隠してきた愛おしい気持ちが溢れてくる。
(大好きですよ、高杉さん)
ふふふ、と心のままに笑みを返して、再び目を閉じる。
ふに、と頬をつねられた。
「え?」
――痛い。
思いのほか、はっきりした痛みだった。
(夢、じゃ……ない?)
ぱっちりと目を開ける。
「え? 高杉さん? 本物?」
「いつまで寝ぼけちょるつもりじゃ。いい加減起きろ」
先ほどまでの優しい笑みはどこへやら、見慣れた不機嫌顔の高杉である。
「……やっぱり、夢だったのかな……」
「何のことじゃ? それより、どうしておのしがここにいる」
「あ……、ええと、休みをもらって、松下村塾を見に――」
「違う。どうして一人で来たのかと聞いちょるんじゃ。約束したじゃろう。僕が案内してやると。忘れたのか?」
「ああ――」
もちろん覚えている。確か去年の夏頃だ。それが頭をよぎらなかったわけではないが――
「だけど、高杉さんは洋行するって言ってたじゃないですか。長崎で別れた時が今生の別れだと覚悟してたし、この機会を逃したら、二度と来れないと思って……。そうだ、高杉さんこそ、洋行はどうしたんですか? 私てっきり今頃――」
「やめた」
高杉は端的に言い捨てた。
「やめた、って――」
「長州の存亡がかかった戦が近いというのに、洋行などしちょる場合ではないじゃろう」
草月の疑問を封じるように、高杉は長崎から戻ったいきさつを手短に説明した。
「……」
草月は容易に言葉を返せなかった。
勝手に蒸気船を買ってきてしまうところは、相変わらずの独断専行だけど、高杉がどれほど洋行したがっていたのか、草月は良く知っている。それを諦めることは、きっと断腸の思いだっただろう。破天荒なところはあれど、決して長州を見捨てることはしない。やはりこの人は根っこのところは忠実な毛利家の臣なのだ。
「それで、その船……オテントウサマ号でしたっけ、それは、ちゃんと長州で買ってもらえることになったんですか」
「知らん。結論が出る前にこっちへ来たけえ」
「え、買ってきた当の本人が、説明も何も放り出して来たんですか!?」
「今僕が出て行ったところで、火に油を注ぐだけじゃ。それに、おのしとの約束もあったしな」
草月が村塾へ行くつもりだと井上から聞いて、急いで追いかけてきたらしい。
「……」
草月はさりげなく口元に手を当てて、横を向いた。
呆れるか怒るかする場面なのに。……どうしよう。すごく嬉しい。
高杉は、こつんと机に腕を乗せ、頬杖をついた。
「こうしちょると、思い出すな。夜中にこっそり家を抜け出して、ここへ来た。あの頃は、ここが世界の中心で、自分たちでこの国を変えられると信じて疑わんかった」
わずかに眇められたその目は、今ではなく遠い過去を見つめているようだった。
久坂、有吉、寺島、入江、吉田……。
かつて机を並べて熱く志を語り合った仲間の多くは、若くしてこの世を去った。
湿っぽくなった雰囲気を変えるように、軽く頭を振った高杉は、悪戯っぽい笑みを浮かべて草月の顔を覗き込んだ。
「それで? 実際に松下村塾に来た感想は?」
「そうですね……。一言で言うと、感慨深い、でしょうか。正直、想像してたよりずっと小さな建物で、中も狭くて驚きましたけど……。ここで高杉さんたちが勉強してたんだなあって思うと、すごく、特別な場所に思えます。同じ場所に今、自分がこうして居られることがなんだか不思議な気がして」
「そうか」
「高杉さんは、いつもどの席に座ってたんですか?」
「特には決まっちょらんかったが、そうじゃな、あの辺が多かったかのう」
高杉は入口と対角の一画を指した。
「久坂は大体その向かいで――、俊輔と弥二はよく並んで座っちょったな。教本を一緒に使って……。ああそうじゃ、そこの壁の傷は、久坂と取っ組み合いの喧嘩をした時についたものじゃ。議論が白熱してな」
高杉は、草月を案内してぐるりと塾を見て回った。松陰が思索にふけるのに使っていたという屋根裏部屋や、塾生らで控部屋を増築した時にこっそり書いたという梁の落書き、畑仕事をしながら松陰が講義をしたという庭の一画……。
高杉の説明に草月は目を輝かせて聞き入り、高杉もまた懐かしい思い出を噛み締め、案内を楽しんでいるようだった。二人は、最後に杉に挨拶をして屋敷を辞した。
高杉は松陰の墓参りをして帰ると言う。ならば邪魔をしては悪いだろう。草月が案内の礼を言って別れようとすると、「待て」と引き留められた。
「せっかくじゃ、おのしも来い。先生に紹介してやる」
*
松陰の墓は、松下村塾から東に少し行ったところの小高い丘の上にあるとのことだった。いつの間にか西へ大きく傾いた日が、厚みを増した薄灰色の雲の後ろから弱い光を放っていた。先に立って歩きながら、高杉は思い出したように草月に訊ねた。
「ところで、山口のほうはどうじゃった? 備急餅の製造は順調なのか?」
「あ……、はい。もうばっちり。大きな窯をいくつも構えて。火加減の調整が一番難しいんですけど、もうそれをほぼ完璧に制御してました。職人さんの数も倍に増やして、注文があればいつでも作って発送できる態勢も整っています」
工場は、藩庁にほど近い小郡の山中にある窯元を利用して造られていた。小郡の役所――小郡宰判――が諸経費の全てを賄う官製の工場となっており、小郡代官が責任者として製造・販売・流通を一括管理していた。
そんなことをつらつら話しているうちに、前方に墓所が見えてきた。萩の町が一望できる、静かで落ち着いた場所である。
『松陰二十一回猛士墓』と刻まれた墓碑の前には、高杉や久坂ら門人や松陰の妹たちが名入りで寄進した水盤と花立が置かれている。
途中、花売りから買った花を供えた高杉は、まるで松陰本人が目の前にいるように自然に話しかけた。
「先生、ご無沙汰しております。今日は面白い奴を連れて来ました。草月です」
「初めまして」
紹介を受け、高杉に倣って頭を下げる。ちょっと面白がるふうの高杉の言葉が続く。
「こんな成りをしちょるけど、れっきとしたおなごなんですよ。先生は子女の教育にも熱心じゃったけど、まさか男に交じって時勢を論じたり、あまつさえ戦に参加するようなおなごがいるとはさすがに驚くでしょう――」
「松陰先生、先生のお弟子さんたちは、みんな、立派にその志を受け継いでいます。私も、高杉さんたちに感化されて、たくさんのことを学びました。今、長州は大変な時ですけど、きっと大丈夫です。幕府なんかに負けません。どうか見ていてください」
草月は手を合わせて目を閉じた。
やがて顔を上げると、
「私、向こうで待ってますね。松陰先生と二人でゆっくり話したいこともおありでしょうから」
少し離れた木陰で待っていると、しばらくして高杉が足早にやって来た。
「もういいんですか」
「ああ。言うべきことは言ってきた。それより、急いで町へ戻るぞ。雲行きが怪しくなってきた。雨になりそうじゃ」
言ったそばから、ぽつり、と雨粒が頬に落ちた。小さな雨粒は、瞬く間に大粒の雨となって激しく降り注ぎ、周りの景色の輪郭をぼかしていく。
「こっちじゃ!」
高杉が草月の手を引き、手近にあった草庵の軒下へと駆け込んだ。ほんのわずかな距離にもかかわらず、髪も着物もぐっしょりと濡れて肌に張り付いていた。それでも笠を被っていた分、草月の方は幾らかましである。高杉は髪に付いた雫を無造作に指で払い、着物の布地をぎゅっと絞って水気を切ると、がたごとと戸をこじ開け始めた。
「た、高杉さん! 何してるんですか、人の家に無断で! 怒られますよ!」
「問題ない。ここは僕の家じゃ」
「え?」
不可解な発言をした高杉は、勝手知ったる様子で中に入り、座敷の隅に置かれた箪笥の引き出しから小綺麗な着物を引っ張り出した。
「着替えはあるか? ないならこれを着ろ」
幸い、背中の行李に入れていた替えの着物はそれほど濡れていなかった。草月が枕屏風の裏でこそこそと着替えている間に、高杉はさっさと着替えをすませて火を熾しにかかっていた。薄暗い室内に、ぽっと明るい火が灯る。
八畳一間の小さなこの庵は、かつて高杉が出家すると言って剃髪し、隠遁していた時のものだという。元々は空き家で、今にも朽ち果てる寸前のような状態だったのを、松陰の生家の近くにあるのが気に入って、手を入れて自らの庵にしたそうだ。
日が落ちて、気温は急激に下がって行った。暖を取るように身を寄せ合いながら、山口で土産にもらった備急餅を分け合って食べる。
「まさに『急に備える』食べ物ですね」
「戦で使うより先にここで役立つことになるとはな」
などと他愛ない話をしながら雨が止むのを待つ。ぽつりぽつりと続いていた会話がふいに途切れて、狭い庵に沈黙が落ちた。
聞こえるのは、獣の唸り声のような風と、叩きつける激しい雨の音だけ。身じろぎした拍子に、肩が触れ合った。
体温の感じられる距離に、高杉がいる。そのことを急に意識してしまって、草月は落ち着かなくなった。今まで、部屋に二人きりのことなど何度もあったというのに、なぜだろう。
こっそりと高杉の様子を窺うと、草月の煩悶などまるで気付かぬように、じっと何かを考えている風だった。
(……私ばっかり意識して、馬鹿みたい)
たちまち気分が沈んでいく。
(当然だよね。高杉さんにとって、私は女じゃなくて『同志』だもの。まるきり私の一人芝居……。女として見てもらえなくても、同志だと思ってもらえるだけで十分。そう思ってたのに、どうして、こんなに苦しいんだろう)
一度は、二度と会えないと思い切った。だからこそ、思いがけない再会に、気持ちが大きく揺れ動いている。
草月は想いを振り切るように立ち上がり、明かり取りの小さな格子窓から外を見やった。
「……しばらく止みそうにありませんね」
止むどころか、ますます強くなる一方だ。
「なんだか……」
「ん?」
「……なんだか、松陰先生が、帰るなって言ってるみたい」
「遣らずの雨、か……」
高杉はふっと自嘲気味に笑った。
「まったく、あの人は……。自分の色恋にはまるで興味がないくせに、人のことになるとあれこれと世話を焼くんじゃけえの」
「……?」
背後で、静かに高杉が立ち上がる気配がした。
草月が振り向くのと、俯いていた高杉がゆっくりと顔を上げるのは同時だった。二人の視線が小さな庵の中で交わる。
いつになく熱をはらんだ高杉のその強い眼差しに絡めとられたように、目を逸らせない。
どくん、と心臓が音を立てる。
雨音が、遠くなった気がした。




