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花信風  作者: つま先カラス
第四章 四境戦争
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第46話 長崎、デート日和

 外国との貿易が制限されていた江戸時代において、長らく日本で唯一の外国との窓口だった長崎。安政五年に結ばれた通商条約により、改めて国際的に解放されると、一気に多くの外国船が入港するようになった。ざっくりと切り込みを入れたような細長い長崎湾の最奥に、海岸を埋め立てるなどして造られた居留地には、木造・石造・レンガ造など様々な洋風建築が建ち並び、開港地ならではの異国情緒を漂わせている。

 そうした居留地の中の一つ。南山手の、海を見下ろせる小高い丘の上に建つ洋館が、グラバーの邸宅だった。半円形の瓦屋根と美しいアーチ型の玄関ポーチが目を引く和洋折衷の木造平屋建で、広い庭には種々の花が咲き乱れ、さらには大きな松の木が存在感たっぷりに枝葉を伸ばしている。

 安政六年の開港直後から長崎に入ったグラバーは、この時、三十歳手前の働き盛り。日本語も堪能で、武器・弾薬の販売を行う傍ら、海外留学を志す者たちの支援もしていた。パン作りを習いたいという草月の希望に快く応じて、屋敷の料理人であるミセス・ドーソンを先生としてつけてくれた。

 作り方はいたって簡単だ。

 小麦粉、水、卵、砂糖、酵母を混ぜ合わせ、良くこねて丸い形にまとめたら、暖かい場所で一晩寝かせる。次の日、それを麺棒で薄く引き伸ばし、縦一寸ほどの長方形に裁断していく。表面にフォークで穴を開けたら、オーブンに入れて焼く。この時、一度焼いた後、再び低温でじっくり焼くのがコツだ。そうすることで水分が飛んで固くなり、長期保存がきくようになるのだ。

 しかし。

 ただそれだけのことが、なかなか上手く出来ない。

 ドーソンがやればたちまち綺麗に丸くまとまる生地が、草月がやるとべたべたと手に付くばかりで一向にまとまらず、麺棒を使って生地を伸ばす工程でも、微妙に左右の力の入れ具合が違うのか、所々で厚かったり薄かったり、均一の厚さになってくれない。

「もっと腰入れて! 体全体を使うんだよ! ああ、そんなやみくもに指でこねるんじゃない。手の平の付け根のところを使って、手前から奥へこすりつけるようにこねていくんだ。麺棒は生地が中心にくるように置いて!」

 さんざんにしごかれながらようやくオーブンに入れるところまで漕ぎつけても、上手く膨らまなかったり、焼き過ぎて焦がしてしまったり、反対に焼き時間が足りずに生焼けになってしまったりと失敗続きだった。

 一日でも早く作れるようになって、長州に帰らないといけないのに。

 焦るあまりに、かえって失敗が多くなる。それで余計に焦ってしまうという悪循環。

 落ち込む草月を見かねて、高杉が気晴らしに外へ出ないかと誘った。

 当初、長崎から薩摩へと渡る予定でいた高杉と伊藤だったが、薩摩藩邸の用人から、「京とは違い、長州人が薩摩へ入るのは時期尚早だ」と言われ、やむなく藩主からの親書と土産を用人に託して自分たちは長崎に留まっていた。

 社交場でもあるグラバー邸には、毎日来客が引きも切らない。

 長州人の長崎滞在が禁止されている今は、万一を考えて、三人は廊下の天井に作られた隠し部屋に匿われていた。

 この日、ドーソンは月に一度の休みの日で、従って草月のパン修行も休みであった。ちなみに伊藤は、昨夜遊郭に行ったきりまだ帰っていない。

「……そりゃあ、ドーソンさんがいないのに勝手に台所を使うわけにいきませんけど、だからって、無理を言って藩費で遊学させてもらっている身で、遊びに出かけるなんて……」

「相変わらず妙なところで生真面目じゃのう。そう根を詰めちょっても物事ははかどらんぞ。息抜きも立派な仕事の内じゃ」

 高杉はそう言うと、しぶる草月の腕をむんずと掴んで強引に外へと連れ出した。


                        *


 高台から見下ろす海は朝日を浴びて群青にきらめき、通りにはそれぞれに意匠を凝らした洋館が建ち並ぶ。大小三つの塔が目を引く荘厳な教会を見やれば、なぜか正面に『天主堂』と日本語で書かれた看板がかかっていて、そのちぐはぐさがいかにも居留地らしい。

 長崎に着いてからこちら、ほとんど台所にこもりきりだったせいで、これまでじっくり町を散策したことはなく、いつしか草月は後ろめたさも忘れて、その独特の魅力に惹き込まれていた。唯一の心配は奉行所の役人に見つかることだったが、高杉は「いざとなれば薩摩藩士だと言えばいい」と呑気なものである。

 あちらこちらと目移りしていた草月が、とある店の前で足を止めた。ガラス張りのショーケースの中に、フリルのドレスを着た愛らしい人形が飾られている。高杉も一緒に中を覗き込んで、

「雑貨屋のようじゃな。入ってみるか」

「はい」

 わくわくしながらドアを開けると、カラン、と軽やかなベルの音が鳴った。

 薄暗い店内に、雑多な商品が所狭しと並んでいる。

 最初に見た人形の他にも、子供向けの木製のおもちゃ、地球儀、双眼鏡、皿やスプーン、小物入れ、真鍮の手鏡、羽ペンにインク壺、便箋、そして――。

「あ、これ、オルゴールですね」

 草月は手の平に乗るくらいの小さな木箱を取り上げた。

「オルゴール?」

「あれ、高杉さん、ご存じないですか? 中にからくりが仕掛けてあって、音が鳴るように出来てるんですよ。ほら」

 ちょび髭の店主に断ってぜんまいを巻くと、ほっこり優しい音色が小箱から流れた。

「ほう、日本のからくり人形みたいなものか。西洋にはまだまだ僕の知らん面白いものがあるんじゃなあ」

 高杉はすっかり興味を惹かれたようで、手に取ってしげしげと眺めている。

 店主にさりげなく値段を聞けば、笑顔でとんでもない額が返って来た。ちょっと欲しいなと思ったのだが、とても手が出ない。

 代わりに繊細な花模様が織り込まれたレースのリボンを買った。おさんとお梅へのお土産だ。髪飾りにしてもいいし、小物に縫い付けてもいい。二人とも裁縫が得意で可愛いもの好きだから、きっと喜んでもらえるだろう。

 店を出た二人は坂道を下り、やがて長崎港の方へと出た。高杉は目的地があるようで、川沿いの道を内陸の方へと迷うことなく進んでいく。珍しいアーチ型の石造りの橋を通り過ぎ、やがてたどり着いたのは、川のすぐそばに建つ白いナマコ壁の建物だった。看板には――

「『上野撮影局』?」

 不思議そうに読み上げる草月の隣で、高杉がにやりと笑って言った。

「ここは日本人がやっちょる写真屋でな。せっかく長崎に来ちょるんじゃ。記念に撮っておかん手はないじゃろう?」

「え、写真を撮ってもらえるんですか! 撮りたいです! 是非!」

 たちまち草月は目を輝かせる。だが、中に入り値段を聞いて、愕然とした。

 一枚で二分もする。ざっと見積もっても、『一二三屋』の定食を五十回は食べられる計算だ。不測の事態に備えて、路銀は多めに持って来ているが、それでも草月にとっては目の玉の飛び出るような大金である。

 草月の躊躇を察したか、

「金ならちゃんと持っちょるぞ」

「持ってるって、それ藩のお金でしょう! こんなプライベートなことに使えませんよ!」

「心配せんでも、僕のポケットマネーじゃ。それに、二人一緒に撮って焼き増しすれば、一人ずつ撮るより安く済むぞ」

 それでも草月の懐には痛かったが、それよりも、写真という魅力の方がはるかに勝った。

「分かりました。それでお願いします」

 撮影局の主人、上野彦馬が自ら撮影してくれることになり、二人は促されるまま庭へと出た。庭、と言っても、草木も何もないただの更地で、周りをナマコ壁がぐるりと囲っているだけの殺風景なところである。上野は部下に命じて、そこへ芝居で使うような大道具を次々と運び込ませた。木の床板に、装飾のある白壁、重厚な二脚の椅子。あっという間に、洋室を模した撮影舞台が出来上がった。

 並んで椅子に腰かける。あるいは向かい合うように。または、一人が座って、もう一人は後ろに立つ。

 色々な姿勢を試した挙句、二人並んで座る形で落ち着いた。

 高杉は、田中に取り換えてもらったお気に入りの大刀を目立つように片手で持って得意げだ。一方の草月は、しきりに袴の裾を整えたり、衿元を整えたりと落ち着かない。

「高杉さん高杉さん、私、髪の毛変じゃないですか? どこか飛び跳ねたりしてません?」

「どこもおかしくないぞ。さっきから何をそんなに気にしちょる」

「だって写真はこの先何十年もずーっと残るんですよ。変な格好で写りたくないじゃありませんか」

「今ちゃんとしちょっても、写しちょる最中に突風が吹いたらしまいじゃぞ」

「不吉なこと言わないでください! そんなことになったら、高杉さんだって、髪の毛爆発した状態で残るんですからね」

「おや、それ、いいですね」

「え?」

 カメラの準備をしていた上野が、いつの間にか顔を上げてこちらを見ていた。

「いいって、あの、爆発が?」

「ああ、振り向かないでください。そのまま、そのまま。先ほどのように、お二人、自然に会話する感じで」

 言われてまた高杉に向き直ったが、改めて見つめ合うと何だか気恥ずかしい。

「では撮りますよ。六十数える間、決してお動きになりませんよう。……ひい、ふう、みい……」

 幸い、突風に見舞われることなく、撮影は無事に終了した。現像には四半刻ほどかかるそうだ。

「お待ちになる間、奥の部屋をお使いください。もちろん、一度お出になって、後から取りに来られるのでも構いませんよ」

「どうします?」

「そうじゃな、じっと待つのも退屈じゃし……。ああ、そういえば、坂本君の社中が確かこの近くにあるはずじゃぞ」

 撮影局から南におよそ五丁ほどのところにある、山間の廃窯施設を借りて暮らしているらしい。そこに立ち寄ることに決めて、山道を登り始めた二人だったが、すぐさま行程が一筋縄ではいかないことを思い知らされた。急な斜面にでたらめに建てられた家々の間を縫うように細い小道が走り、それがまるで迷路のように複雑に入り組んでいる。通り抜けられると思えば行き止まりだったり、東へ進んでいるはずがいつの間にか西へ向かっていたり。

 途中、何度も人に道を尋ねながら、ようやくそれらしき場所へたどり着いた時には、二人して汗だくで息を切らしていた。

 息を整え、白い土蔵を含んだ三棟の建物へ近づいていくと、中から、がやがやとにぎやかな人の声が聞こえてくる。

 こんにちは、と戸口から声をかけると、中の一人が草月に気付いて大声を上げた。

「おおお! 誰かと思うたら未咲さんでないかえ!」

「なに、未咲さんじゃと!? 未咲さんがどういてこがなところに!」

「久しぶりじゃのう! 元気にしよったがか?」

「そっちの異人みたいな頭の御仁はどなたじゃ?」

 どやどやとやってきた男たちに、たちまち二人してもみくちゃにされてしまった。

 通されたのは、奥にある十畳ほどの部屋。縁側からは、庭に植えられた松の木越しに長崎の町や海が一望できる。

 弁当代わりに持って来ていた試作品の乾パンを皆で分け合いながら、互いの近況などを話しているうちに、あっという間に時間は過ぎた。

 名残を惜しみながらも別れを告げ、また大変な苦労をしながら撮影局に戻ると、上野が満足の行く仕事をした職人の顔で二人を出迎えた。

「わあ……」

 出来上がった写真をみて、草月の口から思わず感嘆の溜息がもれた。

 写真の中には、いつもの偉そうな態度の高杉と、ちょっと緊張気味の草月の姿がきれいに収まっていた。ぎこちないながらも互いに目を見交わしている様からは、今にもおしゃべりの声が聞こえてきそうだ。

(……どうしよう。ものすごく嬉しい)

 顔がにやけていないだろうか。無理にも真面目な顔を取り繕おうとしていると、高杉に「何を変な顔しちょるんじゃ」と不審がられた。

 皺にならないよう、もらった台紙に丁寧に挟んで、繊細な飴細工を扱うように、そうっと懐にしまった。

「連れてきてくれてありがとうございました、高杉さん。一生の宝物にします!」

「大げさじゃのう」

 高杉は苦笑する。

 グラバーの屋敷へ帰る途中、甘い香りにつられてカステラを買った。店先の床几に座って一口かじると、しっとりふんわりした触感と優しい甘さが口いっぱいに広がった。

 目の前の港には大型の蒸気船や大小の帆船など多数の船が行き来し、扇形の出島も見える。草月の足元を、かぎしっぽの白猫がゆったりとした足取りで歩いて行った。

(町をぶらぶらして、買い物して、記念写真撮って、海を見て、美味しいもの食べて……。なんだか、これって――)

「デート、みたい……?」

「でえと?」

「い、いえ、何でもありません! ただ、奥方様にも、こんな風に馬関を案内して差しあげたら喜ばれたのに、と思って!」

 口をついて出たのは、想いとは裏腹の言葉だった。途端に高杉の眉間にしわが寄る。

「なんで急に雅のことが出てくるんじゃ」

(奥さんのこと、マサ、って呼んでるんだ)

 自分で振っておきながら、ぎゅうっと胸が苦しくなる。これは嫉妬だ。でも止まらなかった。

「別に、深い意味はないですけど。馬関では、芸者遊びにお連れしたって伊藤さんから聞きましたよ。普通、女の人は、そういうの、喜ばないでしょうに」

「僕が自分の妻をどこに連れて行こうが、おのしには関係ないじゃろう」

「ええそうですね、関係ないですね。これっぽっちも! 全く!」

 聞きたくない。これ以上、高杉の口から、雅のことを。

 草月は両手で顔を覆った。

「……すみません。焼きもちです」

「焼きもち……?」

 高杉の声に不思議そうな響きが混じる。

(しまった! つい)

「あ、あの、今のは――」

「……ああ、僕が家族に会えることか? おのしはずっと、家族と離れて暮らしちょるけえの」

「……」

 とんでもなく斜め上の勘違いをされてしまった。

 良かったのか、悪かったのか。

 でもどこかほっとした気持ちもあった。

「僕や俊輔は、たとえ家族と離れて暮らしちょっても、いつでも手紙のやり取りが出来るけど、おのしはそうもいかんものな」

「……」

 知り合ってからずいぶん経つけれど、草月の家族や故郷について、高杉や伊藤から聞かれたことはほとんどない。草月が言いづらいのを察して、深くは詮索せずにいてくれた。

「そうですね……。確かに、今は遠いところにいます。私が江戸へ来たのは事故みたいなもので、自分でもどうしてそうなったのか、良く分からないんです。もちろん家族に会いたいし、今頃どうしてるだろうって時々考えます。心配かけてるだろうな、とか。せめて元気だと伝えられたらいいんですけど」

「今でも、帰りたいか?」

「……帰りたくない、と言ったらうそになります。でも、今は、長州のことが大事です。長州が今の危機を脱して、もう大丈夫ってなったら、その時に改めて考えます」

「そうか」

「……高杉さんは、イギリスに、行くんですか」

 高杉はゆっくりと草月を見た。吊り気味の目が、驚いたように大きく見開かれている。

「やっぱり」

 草月はちょっと笑った。

「薩摩行が中止になってもずっと長崎に留まってるから、なんとなく、そんな気がしてました。……夢ですもんね、高杉さんの」

「……近々、俊輔を渡航費用の工面に馬関へやるつもりじゃ。この機を逃したら、次があるかどうか分らんけえな」

 傾き始めた日が、高杉の顔を朱金に染めていた。

 そうなったら、おそらく、長崎で別れる時が今生の別れになるのだろう。

 数年先、高杉がイギリスから戻ってきても、きっと草月はここにはいない。

 坂本と中岡の暗殺を阻止することが出来るかどうかは分からない。猫の屏風を見つけても、元の時代に帰れるのかどうかさえ。

 ただ、なんとなく、その先もこの時代にいる自分を想像できないでいた。



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